影の子より

STREET

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 第二章:南北に見た景色

 五話

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 重い石扉が、唸るように上がる。
 驚くジュノーの目前に、広場が開けた。
 黄土の砂地が一面に張られ、巨大な円状に設計されている。かつて闘技場として利用された空間が、地下にはあった。段になって置かれた客席は、所々が崩れており、廃れた様が伝わってくる。
 人目はないが、ジュノーは思わず、フードを目深く被り直した。
 そこへ、正面の石扉が同様に開いた。対峙したのはジャックスだった。
「壮観だろ? うん百年も前に造られたんだぜ」
 両手を広げ、心底楽しそうだ。
「仕掛けもまだ動く。観客がいねえのが残念だが、それを言うと贅沢だな」
 立ち尽くすジュノーに見せるように、ジャックスはゆっくりと刀を抜いた。コートを脱ぎ、脇に放り投げる。
 闘技場跡ここで、手合わせをしようというのだ。
 突然のことにもだが、抜刀をしたことが、ジュノーには信じられなかった。掠っただけでも傷になる。下手をすれば、殺し合いだ。
「準備はいいか? いくぞ」
 言うが早いか、ジャックスは地を蹴り、一瞬で間合いを詰めた。
 奇襲に反応し、ジュノーは咄嗟に鞘で防ぐ。衝撃は受け止めたが、続いて真横から脚が飛んでくる。間際で避け、距離を取った。
 ジャックスは刀を握り直し、身を屈めた敵に突き出す。そのまま空を斬り、砂に刺さる。
 互いの動きが止まり、二人は肩で息をした。
「さすが、隠密。伊達に、殺しの訓練は受けてねえなあ」
「違う。俺は」
 攻撃が続き、ジュノーは後方に跳ねた。
 影は、一方的な暗殺の仕方を身に付けていない。相手の襲撃にどう防衛するか、そしてどう逆襲するか。近戦は得意ではなく、得物はその多くが、遠距離用の射撃銃だ。
 だからジュノーは、ひたすらに防ぐしか手がなかった。壁に追い詰められそうになると、身を翻して方向を変えた。
 対してジャックスは、的確に守りの空きを攻める。暗殺者の眼だ。
 伸びた刃先が、ジュノーのフードを滑った。髪が数本、ぱっと宙に散る。振り下ろされた一撃を再度鞘で受け、今度はジュノーが反撃した。体重を支える膝を目がけ、爪先を蹴り上げた。
 ジャックスが体勢を崩す。──しかし次の瞬間、すくった砂を放った。
 ジュノーは慌てて退き、腕で顔を覆った。何か硬い破片のような物が、そこに当たった。落ちたのは、白い無数の骨だ。足元の砂には、骨の残骸が混じっていた。
 直後、ジャックスの手がジュノーの首を襲った。
 視界が回り、地に頭を打ち付ける。
「ここはな、昔、金持ちの道楽に使われてたんだよ」
 咳き込むジュノーに対し、冷えた表情でジャックスは口を開いた。
「金で買われた連中が、殺し合う。闘士と猛獣が狩り合う。そんな場所だ。敗れて使えなくなった奴らは、焼かれて骨になって、肥やしになる」
 気道は狭く、十分な酸素が送れない。ジュノーは落とした刀を探ったが、届かなかった。
「……それが、今はこのざまさ。世間から飽きられ、ただの墓場になっちまった」
 血と汗と、涙の染み付いた闘技場。無念の跡は、その姿さえ衰えてはいるが、こうして遺されているのだ。
 ジャックスは手を緩めた。代わりに、喉元へと刀刃を押し当てる。
「分かるか? 時代は変わる。昔は当たり前でも、今では旧い。国の上の連中も、気付いたんだろ。内に金を掛けるより、外に目を向けるべきだ、とな」
 一度息を吐いたその瞳が、少しだけ和らぐ。
「お前、国を棄てる気ある?」
「……どういう意味だ」
「んな度胸、ねえか。ただの駒だもんな。捕虜の価値もねえ。……ここで、ってやろうか」
「お前が?」
 問い掛けたジュノーは、相手の返事を待たず、首に添えられた刀を握った。
 その行動の意図が読めず、ジャックスは片眉を歪める。
 ジュノーは意を決したように、瞼をきつく閉じた。そして次には、刃先を横に滑らせた。皮膚に痛みが走り、火傷のように熱くなる。
 全て忘れようとした。
 国のことも、影たちのことも、自身のことも。
 無様に殺されるなら、自らの意思で死を選びたかった。その瞬間何を考えたのか、はっきりとは分からない。恐怖や焦りがあったのか、さえ。
 終わりは、呆気なくやって来るものだ。最後に脳裏に何が浮かんだか、記憶に留める余裕はない。
 ──しかし、ジャックスが身を引いたことで、それは未遂に終わった。
「何やってんだ」
 ジャックスは声を荒げた。
 解放されたジュノーは、刀を拾って立ち上がる。途中、身体が傾きかけ、脚に力を入れてバランスを取った。熱い液体が首筋を伝い、衣服の下に染みる。見えないが、傷から流れ出た血だろう。量からして、致命傷ではないはずだ。しかし痛い。
 このままみすみす、生きながらえるより。
 ジュノーは正面を見据え、笑おうとしたが、うまくできなかった。
「勝手に、決めるなよ。俺は……」
 言葉はつながらなかった。脳がぐらつき、膝から崩れ落ちる。張ろうとした虚勢は、薄れゆく意識の中に消えていった。
 最後見た景色に、相手がどのような顔をしていたか、思い出すことはできなかった。
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