影の子より

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 第六章:再会

 一話

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 正午を過ぎると天候は一変し、海の方から流れてきた雲が、一帯に雨を降らせた。雨脚は徐々に強くなり、風と共に農園を荒らす。恵みの雨──とはいかないようだ。
 広大な土地はその年、小麦農園として使われていた。やや赤みがかった黄土色の穂は、水を弾きながら、小さな嵐に晒された。収穫の時期を迎え、重く垂れた穂先が、波打つように曲がっている。艶のある麦が、一斉に揺られる姿には、不思議と美しさを覚えてしまう。
 それは、手塩に掛けて育てたからこその、美化された感覚だろうか。
 ──それとも、忘れようとしている過去を、懐かしむからだろうか。
「おおい、そろそろ引き揚げるぞ」
 農具庫から現れた小太りの男が、手を振りながら叫ぶ。
 ぼんやりとしていた若い男は、はっと我に還った。無意識に足を止め、前の景色を眺めていたのだ。
 仕事を終えた労働者たちが、ぞろぞろと小太りの男の周りに集まってくる。
 男はクランツという名で、三十代後半であり、彼らのリーダーを任されている。リーダーと言っても賃金は変わらず、誰もが渋る役ではあるが、彼は進んで引き受けた。みんなが嫌なら、自分でいい、と。そのような男だ。
 予定は変え、収穫作業は明日行うこととなった。
「まあ、この雨が明日も続くようなら、さらに延期だな」
 クランツはそう告げた。こればかりは、天候に左右されても仕方がない。
 朝のうちに農園主が訪れたのは、幸運だった。目安として数日前に、麦を一部刈り取っていたからだ。彼らは出来具合を確認し、満足して帰っていった。売り物になりそうだ、ということだ。
 作業の確認が済むと、多くはすぐに小屋を出ていった。彼らはこのまま、町へ飲みに向かう。日課である。
 残されたのはクランツと、背の高い初老の男、ガイ。そして小屋の外で、滴る水を拭っていた若い男。
、どこか具合が悪いのか?」
 クランツが問う。
 若い男──ジャンは顔を上げ、手を止めた。そして、ふっと笑った。
「いや。少し、気を抜いただけだ」
「そうか……なら、いい。だが、ここのところ君、働き過ぎだ」
 手拭いを絞ると、染み込んだ雨が流れ落ちる。農業用機械はシートで覆って運んだため、濡れずに済んだが、人々には降り注いだ。
 ずっしりと重い上着を脱ぎ、ジャンは屋内へ戻る。
「手慣れているようだから、俺たちにとっては、ありがたいけど。……昔、畑をしたことがあるのか?」
 返答に詰まり、視線を宙にさまよわせる。しかし、ちょうどいい言葉は見付からず、彼は苦笑した。
 すると、その様子を眺めていたガイが、口を挟んだ。
「やめておけ、クランツ。ずかずかと、踏み込むもんじゃあねえぞ」
 指摘されたクランツは、慌てて腕を振る。
「ジャン、違うんだ。変に探ろうとか、そうじゃなくて、ただちょっとの興味というか。すまない」
「構わないさ。……気を遣わせて悪いな」
 ジャンは穏やかな顔で、そう答えた。二人に向けた、申し訳なさから出た謝罪だった。
 大規模農園で働く者たちの多くが、安い労働力を買われた人間だった。雇い主の下で、力仕事で稼いでいた。育てる作物は、麦や米、豆類など。気候によっては穀類の他に、茶葉や野菜の場合もある。そして、収穫された物は全て、国外へと引き取られていく。先にあるのは、この土地をの国。
 そう──この地域は、植民地だった。
 特に彼らのような労働者は、立場が低い。
 クランツは貧しい村の出で、家族を養うために、出稼ぎに来ている。姉が不治の病を患っており、どこへ働きに出ても、偏見の目が付いて回った。
 ガイは元軍人で、終戦後に戦犯扱いを受け、長年服役していた。出所後はまともな働き口などなく、ここへ落ち着いたという。
 後ろめたさを感じている点では、彼らはみんな同じだ。過去の出来事や生い立ちを、いくら隠していても、それをネタに、貶めようとする者はいない。
 ──しかし、ジャンのは、隠し通すことができなかった。
「辛気くさい顔、しやがってよ。喫うか、ほら」
 猛省するクランツを横目に、ガイは煙草を突き出した。唇は既に、火の点いた一本を咥えている。
 その光景もにおいも、別段珍しいことではない。しかしジャンは、ふと旧い記憶を重ねた。導かれるように手を伸ばし、よれた煙草をもらう。火が点くと、味わったことのない感覚が押し寄せた。
 ガイの吐く煙に、もう一つの煙が交差する。
 直後、ジャンは勢いよくむせた。首元に手を当て、気管に入った煙を、どうにか吐き出そうと咳き込む。
 ガイは愉快げに笑った。
「おい、無理するなよ、ジャン」
「待て待て、下に捨てるな。土が付いちゃ、もったいねえ」
 クランツは、ジャンの指先から煙草を抜き取る。
 踏んで火を消す前に、ガイは慌てて止めた。嗜好品に掛かる金も安くはなく、彼にとっては貴重な一本だ。いつも、フィルターぎりぎりまで味わう。少しのからかいのために、その一本を与えたことを、多少後悔した。
 クランツから水を受け取り、ジャンは口に含む。そして小屋から半身だけを出し、ぬかるんだ地に吐き捨てた。わずかだが、気分はよくなった。
「俺はよ……金を貯めたら、西へ渡るんだ。そこには、向こうが見えないほど広い、葉煙草の農園があるんだぜ」
 ガイが語っていた。
 彼らの住む国は、東西で特色が大きく変わる。西地域へ行けば、もっと豊かな生活ができると、労働者たちは信じていた。
「だから、六十でも七十でも働くぞ。今のままじゃあ、死んでも死にきれんからな」
「不健康な生活を続けたら、西へ渡る前にくたばるぞ」
 クランツは嫌味を放った。
 しかしガイは、気にする素振りを見せず、身支度を始める。長居すれば、本降りの嵐を迎えそうだ。
 ジャンも二人に合わせ、疲れて重い腰を上げた。
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