影の子より

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 第六章:再会

 二話

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 リンジーは珍しく、暖炉の火を焚いて待っていた。
 彼女の表情に深刻さを見て取り、ジャンは荷を下ろすと、すぐに居間へ入った。
「……また届いたわ」
 そう言ってテーブルに出したのは、二枚の書類だ。力強く押された印が、国府からの通達であることを示している。
 数年前に終戦を迎えたこの国は、戦争孤児や、捕虜の子どもたちを多く抱えていた。しかし、一人一人出自を記録する余裕など、当時の役人にはなかった。
 その結果、最近になって問題が発生した。戸籍のない者たちの扱いである。犯罪を犯しても法で裁けない例や、大人になって婚姻ができない例が、各所で報告されたのだ。国府はようやく、無戸籍の人間の調査に乗り出した。
「戸籍がないまま育てるには、限界がありそうね」
「……そのうち、取り締まりも、強化されるだろうからな」
 ジャンは椅子に座り、卓上に肘を置いた。
 リンジーは年老いており、夫を亡くした後、独りで住み続けていた。まだ夫が生きていた頃、周辺の土地で、夫婦で牧場を経営していた。そのため、町から遠く離れたこの場所に、家を構えたのだ。
 以前は、身寄りのない未亡人の元へ、届くはずのなかった内容の通達も、こうして投函されるようになった。
 ジャンが移り住むようになった頃から、特に念入りだ。
「私は気にしないのよ、後は死を待つだけだもの。でも、は……」
「いや。これ以上、荷は背負わせられない」
「……どうするつもり?」
「一度、ガラハンに戻る」
 苦渋の決断だった。
 叶うならば、このまま定住を望みたい。しかし、への戸籍申請が、すんなり通るとは思えない。下手すれば、捕虜の二世だと疑われるだろう。匿っているリンジーにも、嫌疑が掛けられる。
「何にしても、まずは新しい名が要る。あの子に与えたのは、ガラハン向こうではからな」
「じゃあ、公都に行くべきね。あなたは大丈夫?」
「手は考えるさ。幼いうちなら、出生の届を忘れられた子、でごまかしが利くだろう。ただ……俺が関係することで、厄介なことになるが」
 やっと辿り着いた、安息の地。それが数年で離れることになるとは、誰が予期できただろう。
 リンジーがキッチンに立つ。火を止め、二つのカップにホットミルクを注いだ。それをテーブルに運んだ。自分と、ジャンの前にも一つ。
 湯気の上る様を眺め、ジャンは深い息を吐いた。
 進む先に、何が見えるのか。
 選んだ道は果たして、正しいのか。
 ──考えたところで、答えなど得られない。全てが判るのは、行動を起こした後だ。
「あの子を連れて、ここを出る。……もう帰れないだろう」
「いつ?」
「早ければいい」
 言ってしまってから、顔を上げられなかった。世話になった恩人に、哀しい思いをさせていることは、重々承知だ。視線を手元に縫い付けたまま、次の言葉を考える。いたたまれず、ホットミルクに手を伸ばした。静かにすすると、甘い温もりに、心が少し解けていく。
 雨はいつの間にか、上がっていた。
 カップを置いたジャンの手を、リンジーは優しく包んだ。
「あなたの決めた覚悟だもの。……そりゃあ、とても寂しいけれど」
「俺は……」
「迷いがあるなら、棄てて置いていきなさい。私のことは気にしないで」
「俺は、あなたに受けた恩も、返せていない」
 彼女は農園の労働者と同様、ジャンたちを受け入れた、数少ない人間の一人だ。
「ばかね。返して欲しい恩なら、最初から売らないわ」
 歳相応のしわを刻み、微笑む。
「……亡き夫あの人の、口癖だったのよ」
 ジャンは彼女の眼差しに、遠い記憶にしか残らない、母親の面影を感じた。微かな安心感と、切ないほどの懐かしさ。
「ありがとう。……本当にすまない」
「ふふ。お別れの日は、ごちそうにしましょうね」
 空になったカップを重ね、リンジーはキッチンへ消えた。
 残されたジャンは、作業着を脱ぎ、楽な格好になる。身体は疲労を訴えるが、解決しなければならない問題は、未だ山積みだ。
 大きく動くとなると、どのような行程を組むか、もだが、どこまでするかが重要だ。金を積めば、絶対な安全は確保できる。今後を考えると手痛いが、リスク回避には勝らない。海路で行くか、陸路を通るか──それは目的地である、ガラハンの情勢を知ってから、決めるのがよいだろう。
 まずは、農園の仕事や、彼らとのつながりを精算しなければ。
 ジャンは徐に席を立つと、奥の寝室へと続くドアを開けた。
 真っ暗な中に、就寝灯だけがぼんやりと浮かぶ。耳を澄ますとやっと、小さな寝息が聞こえた。
 窓の側のベッドに近付いた。ひざまずき、柔らかく沈んだシーツの先に、ゆっくりと手をやる。──指が温かい何かに触れた。
 穏やかに眠るのは、幼い子どもだった。
 一定のリズムの呼吸と、合わせて上下する肩に、生命を実感できる。ジャンは彼の頬を撫で、ほっと息を吐いた。そして、音を立てないよう離れ、湯浴みへと向かった。
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