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第八章:代償
五話
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陽の出とともに起き、冷たい水で顔を洗う。
馬舎に出向き、餌桶を満たす。馬の機嫌がよければ、撫でてやる。乾草を食べさせている間に、馬舎の掃除を済ませる。
晴れていれば、ふらふらと散歩する。
そして遅めの朝食を摂る。いつ帰ってきてもいいように、食事は三人分だ。そして、食器を片付ける。キッチンは高いので、台に乗って水場を使う。
最近の悩みは、二つ。
一つは、リンジーの身体が弱くなったこと。以前と比べて、出歩かなくなった。寝込むことも増えた。
もう一つは、働き手がいないこと。苦しいようだが、自分ではどうしようもできない。
「はあ……」
ヤオは、保管庫の乾草の上に転がり、長いため息を吐いた。
ジャンが一向に帰らない。農園の職を辞めたと聞いた。リンジーの話では、この地を去る準備をしていたようだが、何も知らされていない。
あの日──あの晩、二人で遠い市場まで出掛けた。いつもより豪勢な夕食にするために、食材を多く買い、予定より大幅に遅くなった。しかし、帰宅するといるはずの彼は、まだ姿を見せなかった。そしてとうとう、帰ってくることはなかったのだ。
「捜したんだよ、ジャン」
ぶつける相手のいない言葉は、宙に向かう。
農園の仲間に伝えようと、リンジーに提案したのだが、だめだと断られてしまった。彼女の表情はやけに険しく、頑なだった。
どこに行ってしまったのか。何をしているのか。
視界がぼんやりと濡れ、ヤオは手の甲で目元を擦る。
──その時、餌を漁っていた二頭の馬が、小さく鼻息を鳴らし、同時に顔を上げた。
びくりと肩を震わせ、身体を起こす。
近付いてきた足音は、馬舎の入口で止まった。一つの背の高い影が、陽光を遮って立つ。
「へえ、聞いてねえな」
影が口を開いた。
しまった、とヤオは思った。知らない人間が、わざわざ尋ねてくる際には、隠れていなければならない。しかし、間に合わなかった。
固まる子どもとは対照に、ジャックスはにやりと笑った。
「あいつの気掛かりは、これだったか……」
知ったような口振りに、ヤオは目を見開く。
「ジ……ジャンを知ってるの?」
「ああ。……いや、オレが知ってんのは、ジュノーの方さ」
本当の名。人前では決して呼ぶな、と釘を刺されていた、かつて使っていた名だ。
警戒の解けたヤオは、慌てて乾草の山から下りた。
「本当に? ジュノーは無事? どこにいるの?」
矢継ぎ早に飛ぶ問いに、ジャックスはしばらく黙った。転がるように寄ってきた、幼い相手を観察する。
歳は、五歳より少し上くらいだろうか。濃茶色の混じった黒髪と、微かに陽に焼けてはいるが、明るく白い肌。何より──ジュノーと同じ、朱色の瞳。
まさか、と頭を過ぎったが、ジャックスは冷静でいた。
「生きてる。ただ……今は動けねえ」
「けがしたの?」
「……まあ、そんなところさ」
間が空いたが、自然に答える。
「で、お前、誰?」
見下ろす視線に、ヤオは尻込みしそうになりながら、唾を呑む。怖い。──が、ジュノーの行方を得るには、ここで退いてはいけない。
迷った末──
「僕は……ヨナ」
「ヨ──…」
ジャックスの眉が歪み、その瞳孔に小さい相手を捉える。
ヨナ。──…ヨナ。
心の内だけで反芻し、記憶と調べ上げた情報を辿った。
ジュノーには兄がいる。正確には、いた──だ。彼が三か四歳の頃に、南軍として戦争に駆り出され、生命を堕とした。その兄の名が、ヨナだった。
ガラハン公国では、身内が鬼籍に入ると、その近しい人間が名を継ぐことが多い。特に、公都から離れた地域に住む人々は、出生や死亡の届をいつでも出せるわけではないため、取り敢えず名付けておくのだ。そして都を訪れた際に、もしくは半年に一度の国府による調査の際に、戸籍を更新させる。
だからジュノーは、兄の名を影の少女に授けた。
そして彼女が身代わりとして死に、今度は、この少年へと与えたのだ。
しかし、罪人とされた人間の名は、簡単に継ぐことができるものではない。おそらく、少年──ヨナには戸籍がない。
隠し通さなければならない理由。必死に守ろうとする理由。それが、そうだ。
「お前、ジュノーの倅か?」
「似てるって、よく言われる。農園の人には、ね。でも違うよ。僕の父さんは、ジュノーの兄さんだもの。だから、似てるんだよ」
「……それ、誰が教えたんだ」
「ジュノーが言ってた。僕は、ヨナとレニーの子だって」
兄ヨナが戦死したのは、二十年以上前のことだ。
無垢な様子に、ジャックスはうすら笑いを浮かべた。感情を表にはしないが、身体の中の黒い何かが、血液に交じって心臓を行き来している──そのような感じがした。
名以上に、ジュノーがひた隠しにしたかったことが、暴かれた。
「よおく分かった、ヨナ。オレたちと来い。叔父さんに会わせてやろう」
「本当に?」
「ああ。荷は置いていけよ」
「あ……でも、リンジーも連れていって。独りぼっちになっちゃう」
ジャックスは馬舎を一歩出て、住居へと目をやった。
ちょうど屋内から、イェリが現れた。二手に分かれ、中の様子を探っていたのだ。彼はジャックスの視線に気付き、浅く頷いて見せた。
「婆さんは寝てる。具合、悪いんだろ。寝かせといてやれよ」
有無を言わせず、ジャックスはそう告げた。
ヨナの表情が曇ったが、しぶしぶ首を縦に振る。
「時間がねえからな。行くぞ」
「あ、待って」
「……まだ何かあんのか」
「馬……しばらく、餌やれないんでしょ?」
遠慮がちに答える様に、ジャックスは首を少し傾けた。短い間考えた後、イェリを呼ぶ。ヨナから距離を取り、小声で会話をした。
「子守は頼んだぜ」
「……お前はどうする気だ」
「馬のこと、どうにかしてから、な。それから、婆さんもだとよ。用が済んだら追い付く」
イェリは腰に手をやり、これ見よがしに息を吐き出した。
馬舎に出向き、餌桶を満たす。馬の機嫌がよければ、撫でてやる。乾草を食べさせている間に、馬舎の掃除を済ませる。
晴れていれば、ふらふらと散歩する。
そして遅めの朝食を摂る。いつ帰ってきてもいいように、食事は三人分だ。そして、食器を片付ける。キッチンは高いので、台に乗って水場を使う。
最近の悩みは、二つ。
一つは、リンジーの身体が弱くなったこと。以前と比べて、出歩かなくなった。寝込むことも増えた。
もう一つは、働き手がいないこと。苦しいようだが、自分ではどうしようもできない。
「はあ……」
ヤオは、保管庫の乾草の上に転がり、長いため息を吐いた。
ジャンが一向に帰らない。農園の職を辞めたと聞いた。リンジーの話では、この地を去る準備をしていたようだが、何も知らされていない。
あの日──あの晩、二人で遠い市場まで出掛けた。いつもより豪勢な夕食にするために、食材を多く買い、予定より大幅に遅くなった。しかし、帰宅するといるはずの彼は、まだ姿を見せなかった。そしてとうとう、帰ってくることはなかったのだ。
「捜したんだよ、ジャン」
ぶつける相手のいない言葉は、宙に向かう。
農園の仲間に伝えようと、リンジーに提案したのだが、だめだと断られてしまった。彼女の表情はやけに険しく、頑なだった。
どこに行ってしまったのか。何をしているのか。
視界がぼんやりと濡れ、ヤオは手の甲で目元を擦る。
──その時、餌を漁っていた二頭の馬が、小さく鼻息を鳴らし、同時に顔を上げた。
びくりと肩を震わせ、身体を起こす。
近付いてきた足音は、馬舎の入口で止まった。一つの背の高い影が、陽光を遮って立つ。
「へえ、聞いてねえな」
影が口を開いた。
しまった、とヤオは思った。知らない人間が、わざわざ尋ねてくる際には、隠れていなければならない。しかし、間に合わなかった。
固まる子どもとは対照に、ジャックスはにやりと笑った。
「あいつの気掛かりは、これだったか……」
知ったような口振りに、ヤオは目を見開く。
「ジ……ジャンを知ってるの?」
「ああ。……いや、オレが知ってんのは、ジュノーの方さ」
本当の名。人前では決して呼ぶな、と釘を刺されていた、かつて使っていた名だ。
警戒の解けたヤオは、慌てて乾草の山から下りた。
「本当に? ジュノーは無事? どこにいるの?」
矢継ぎ早に飛ぶ問いに、ジャックスはしばらく黙った。転がるように寄ってきた、幼い相手を観察する。
歳は、五歳より少し上くらいだろうか。濃茶色の混じった黒髪と、微かに陽に焼けてはいるが、明るく白い肌。何より──ジュノーと同じ、朱色の瞳。
まさか、と頭を過ぎったが、ジャックスは冷静でいた。
「生きてる。ただ……今は動けねえ」
「けがしたの?」
「……まあ、そんなところさ」
間が空いたが、自然に答える。
「で、お前、誰?」
見下ろす視線に、ヤオは尻込みしそうになりながら、唾を呑む。怖い。──が、ジュノーの行方を得るには、ここで退いてはいけない。
迷った末──
「僕は……ヨナ」
「ヨ──…」
ジャックスの眉が歪み、その瞳孔に小さい相手を捉える。
ヨナ。──…ヨナ。
心の内だけで反芻し、記憶と調べ上げた情報を辿った。
ジュノーには兄がいる。正確には、いた──だ。彼が三か四歳の頃に、南軍として戦争に駆り出され、生命を堕とした。その兄の名が、ヨナだった。
ガラハン公国では、身内が鬼籍に入ると、その近しい人間が名を継ぐことが多い。特に、公都から離れた地域に住む人々は、出生や死亡の届をいつでも出せるわけではないため、取り敢えず名付けておくのだ。そして都を訪れた際に、もしくは半年に一度の国府による調査の際に、戸籍を更新させる。
だからジュノーは、兄の名を影の少女に授けた。
そして彼女が身代わりとして死に、今度は、この少年へと与えたのだ。
しかし、罪人とされた人間の名は、簡単に継ぐことができるものではない。おそらく、少年──ヨナには戸籍がない。
隠し通さなければならない理由。必死に守ろうとする理由。それが、そうだ。
「お前、ジュノーの倅か?」
「似てるって、よく言われる。農園の人には、ね。でも違うよ。僕の父さんは、ジュノーの兄さんだもの。だから、似てるんだよ」
「……それ、誰が教えたんだ」
「ジュノーが言ってた。僕は、ヨナとレニーの子だって」
兄ヨナが戦死したのは、二十年以上前のことだ。
無垢な様子に、ジャックスはうすら笑いを浮かべた。感情を表にはしないが、身体の中の黒い何かが、血液に交じって心臓を行き来している──そのような感じがした。
名以上に、ジュノーがひた隠しにしたかったことが、暴かれた。
「よおく分かった、ヨナ。オレたちと来い。叔父さんに会わせてやろう」
「本当に?」
「ああ。荷は置いていけよ」
「あ……でも、リンジーも連れていって。独りぼっちになっちゃう」
ジャックスは馬舎を一歩出て、住居へと目をやった。
ちょうど屋内から、イェリが現れた。二手に分かれ、中の様子を探っていたのだ。彼はジャックスの視線に気付き、浅く頷いて見せた。
「婆さんは寝てる。具合、悪いんだろ。寝かせといてやれよ」
有無を言わせず、ジャックスはそう告げた。
ヨナの表情が曇ったが、しぶしぶ首を縦に振る。
「時間がねえからな。行くぞ」
「あ、待って」
「……まだ何かあんのか」
「馬……しばらく、餌やれないんでしょ?」
遠慮がちに答える様に、ジャックスは首を少し傾けた。短い間考えた後、イェリを呼ぶ。ヨナから距離を取り、小声で会話をした。
「子守は頼んだぜ」
「……お前はどうする気だ」
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イェリは腰に手をやり、これ見よがしに息を吐き出した。
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