影の子より

STREET

文字の大きさ
43 / 78
 第八章:代償

 五話

しおりを挟む
 陽の出とともに起き、冷たい水で顔を洗う。
 馬舎に出向き、餌桶を満たす。馬の機嫌がよければ、撫でてやる。乾草を食べさせている間に、馬舎の掃除を済ませる。
 晴れていれば、ふらふらと散歩する。
 そして遅めの朝食を摂る。、食事は三人分だ。そして、食器を片付ける。キッチンは高いので、台に乗って水場を使う。
 最近の悩みは、二つ。
 一つは、リンジーの身体が弱くなったこと。以前と比べて、出歩かなくなった。寝込むことも増えた。
 もう一つは、働き手がいないこと。苦しいようだが、自分ではどうしようもできない。
「はあ……」
 ヤオは、保管庫の乾草の上に転がり、長いため息を吐いた。
 ジャンが一向に帰らない。農園の職を辞めたと聞いた。リンジーの話では、この地を去る準備をしていたようだが、何も知らされていない。
 あの日──あの晩、二人で遠い市場まで出掛けた。いつもより豪勢な夕食にするために、食材を多く買い、予定より大幅に遅くなった。しかし、帰宅するといるはずの彼は、まだ姿を見せなかった。そしてとうとう、帰ってくることはなかったのだ。
「捜したんだよ、ジャン」
 ぶつける相手のいない言葉は、宙に向かう。
 農園の仲間に伝えようと、リンジーに提案したのだが、だめだと断られてしまった。彼女の表情はやけに険しく、頑なだった。
 どこに行ってしまったのか。何をしているのか。
 視界がぼんやりと濡れ、ヤオは手の甲で目元を擦る。
 ──その時、餌を漁っていた二頭の馬が、小さく鼻息を鳴らし、同時に顔を上げた。
 びくりと肩を震わせ、身体を起こす。
 近付いてきた足音は、馬舎の入口で止まった。一つの背の高い影が、陽光を遮って立つ。
「へえ、聞いてねえな」
 影が口を開いた。
 しまった、とヤオは思った。知らない人間が、尋ねてくる際には、隠れていなければならない。しかし、間に合わなかった。
 固まる子どもとは対照に、ジャックスはにやりと笑った。
「あいつの気掛かりは、だったか……」
 知ったような口振りに、ヤオは目を見開く。
「ジ……ジャンを知ってるの?」
「ああ。……いや、オレが知ってんのは、ジュノーの方さ」
 本当の名。人前では決して呼ぶな、と釘を刺されていた、かつて使っていた名だ。
 警戒の解けたヤオは、慌てて乾草の山から下りた。
「本当に? ジュノーは無事? どこにいるの?」
 矢継ぎ早に飛ぶ問いに、ジャックスはしばらく黙った。転がるように寄ってきた、幼い相手を観察する。
 歳は、五歳より少し上くらいだろうか。濃茶色の混じった黒髪と、微かに陽に焼けてはいるが、明るく白い肌。何より──ジュノーと同じ、朱色の瞳。
 まさか、と頭を過ぎったが、ジャックスは冷静でいた。
「生きてる。ただ……今は動けねえ」
「けがしたの?」
「……まあ、そんなところさ」
 間が空いたが、自然に答える。
「で、お前、誰?」
 見下ろす視線に、ヤオは尻込みしそうになりながら、唾を呑む。怖い。──が、ジュノーの行方を得るには、ここで退いてはいけない。
 迷った末──
「僕は……
「ヨ──…」
 ジャックスの眉が歪み、その瞳孔に小さい相手を捉える。
 ヨナ。──…ヨナ。
 心の内だけで反芻し、記憶と調べ上げた情報を辿った。
 ジュノーには兄がいる。正確には、いた──だ。彼が三か四歳の頃に、南軍として戦争に駆り出され、生命を堕とした。その兄の名が、ヨナだった。
 ガラハン公国では、身内が鬼籍に入ると、その近しい人間が名を継ぐことが多い。特に、公都から離れた地域に住む人々は、出生や死亡の届をいつでも出せるわけではないため、取り敢えず名付けておくのだ。そして都を訪れた際に、もしくは半年に一度の国府による調査の際に、戸籍を更新させる。
 だからジュノーは、兄の名をに授けた。
 そして彼女が身代わりとして死に、今度は、この少年へと与えたのだ。
 しかし、罪人とされた人間の名は、簡単に継ぐことができるものではない。おそらく、少年──ヨナには戸籍がない。
 隠し通さなければならない理由。必死に守ろうとする理由。それが、そうだ。
「お前、ジュノーのせがれか?」
「似てるって、よく言われる。農園ここの人には、ね。でも違うよ。僕の父さんは、ジュノーの兄さんだもの。だから、似てるんだよ」
「……それ、誰が教えたんだ」
「ジュノーが言ってた。僕は、ヨナとレニーの子だって」
 兄ヨナが戦死したのは、二十年以上前のことだ。
 無垢な様子に、ジャックスはうすら笑いを浮かべた。感情を表にはしないが、身体の中の黒い何かが、血液に交じって心臓を行き来している──そのような感じがした。
 名以上に、ジュノーがひた隠しにしたかったことが、暴かれた。
「よおく分かった、ヨナ。オレたちと来い。叔父さんジュノーに会わせてやろう」
「本当に?」
「ああ。荷は置いていけよ」
「あ……でも、リンジーも連れていって。独りぼっちになっちゃう」
 ジャックスは馬舎を一歩出て、住居へと目をやった。
 ちょうど屋内から、イェリが現れた。二手に分かれ、中の様子を探っていたのだ。彼はジャックスの視線に気付き、浅く頷いて見せた。
「婆さんは寝てる。具合、悪いんだろ。寝かせといてやれよ」
 有無を言わせず、ジャックスはそう告げた。
 ヨナの表情が曇ったが、しぶしぶ首を縦に振る。
「時間がねえからな。行くぞ」
「あ、待って」
「……まだ何かあんのか」
「馬……しばらく、餌やれないんでしょ?」
 遠慮がちに答える様に、ジャックスは首を少し傾けた。短い間考えた後、イェリを呼ぶ。ヨナから距離を取り、小声で会話をした。
「子守は頼んだぜ」
「……お前はどうする気だ」
「馬のこと、どうにかしてから、な。それから、婆さんもだとよ。用が済んだら追い付く」
 イェリは腰に手をやり、これ見よがしに息を吐き出した。
しおりを挟む
感想 0

あなたにおすすめの小説

吊るされた少年は惨めな絶頂を繰り返す

五月雨時雨
BL
ブログに掲載した短編です。

どうしよう私、弟にお腹を大きくさせられちゃった!~弟大好きお姉ちゃんの秘密の悩み~

さいとう みさき
恋愛
「ま、まさか!?」 あたし三鷹優美(みたかゆうみ)高校一年生。 弟の晴仁(はると)が大好きな普通のお姉ちゃん。 弟とは凄く仲が良いの! それはそれはものすごく‥‥‥ 「あん、晴仁いきなりそんなのお口に入らないよぉ~♡」 そんな関係のあたしたち。 でもある日トイレであたしはアレが来そうなのになかなか来ないのも気にもせずスカートのファスナーを上げると‥‥‥ 「うそっ! お腹が出て来てる!?」 お姉ちゃんの秘密の悩みです。

やっと退場できるはずだったβの悪役令息。ワンナイトしたらΩになりました。

毒島醜女
BL
目が覚めると、妻であるヒロインを虐げた挙句に彼女の運命の番である皇帝に断罪される最低最低なモラハラDV常習犯の悪役夫、イライ・ロザリンドに転生した。 そんな最期は絶対に避けたいイライはヒーローとヒロインの仲を結ばせつつ、ヒロインと円満に別れる為に策を練った。 彼の努力は実り、主人公たちは結ばれ、イライはお役御免となった。 「これでやっと安心して退場できる」 これまでの自分の努力を労うように酒場で飲んでいたイライは、いい薫りを漂わせる男と意気投合し、彼と一夜を共にしてしまう。 目が覚めると罪悪感に襲われ、すぐさま宿を去っていく。 「これじゃあ原作のイライと変わらないじゃん!」 その後体調不良を訴え、医師に診てもらうととんでもない事を言われたのだった。 「あなた……Ωになっていますよ」 「へ?」 そしてワンナイトをした男がまさかの国の英雄で、まさかまさか求愛し公開プロポーズまでして来て―― オメガバースの世界で運命に導かれる、強引な俺様α×頑張り屋な元悪役令息の元βのΩのラブストーリー。

ふたなり治験棟

ほたる
BL
ふたなりとして生を受けた柊は、16歳の年に国の義務により、ふたなり治験棟に入所する事になる。 男として育ってきた為、子供を孕み産むふたなりに成り下がりたくないと抗うが…?!

【完結】愛されたかった僕の人生

Kanade
BL
✯オメガバース 〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜 お見合いから一年半の交際を経て、結婚(番婚)をして3年。 今日も《夫》は帰らない。 《夫》には僕以外の『番』がいる。 ねぇ、どうしてなの? 一目惚れだって言ったじゃない。 愛してるって言ってくれたじゃないか。 ねぇ、僕はもう要らないの…? 独りで過ごす『発情期』は辛いよ…。

後宮の男妃

紅林
BL
碧凌帝国には年老いた名君がいた。 もう間もなくその命尽きると噂される宮殿で皇帝の寵愛を一身に受けていると噂される男妃のお話。

BL団地妻-恥じらい新妻、絶頂淫具の罠-

おととななな
BL
タイトル通りです。 楽しんでいただけたら幸いです。

殿下に婚約終了と言われたので城を出ようとしたら、何かおかしいんですが!?

krm
BL
「俺達の婚約は今日で終わりにする」 突然の婚約終了宣言。心がぐしゃぐしゃになった僕は、荷物を抱えて城を出る決意をした。 なのに、何故か殿下が追いかけてきて――いやいやいや、どういうこと!? 全力すれ違いラブコメファンタジーBL! 支部の企画投稿用に書いたショートショートです。前後編二話完結です。

処理中です...