影の子より

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 第十章 狼の子たち

 一話

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 シファ──…
 まどろみの中で、無意識に名を呼ぶ。きっと、怖い夢を見たのだ。すると決まって、胸がぎゅっと縮んでしまい、寒い日のように身体が震える。だから必死になって、無我夢中で、名を呼び続けた。
 シファ。
「おいで」
 ほっとする温もりが、小さな身体を包んだ。
「いい子ね……怖くないわ」
 少年を抱くのは、ふわりとした柔らかい存在だ。見上げようとしたが、顔は靄が掛かったように判らず、心地よさだけが伝わった。抵抗はせず、空気のようなその存在に、ただ抱き締められた。
 ──人は自ずと、何かに救われようとするもの。
 だからシファも、救いを求めていたに違いない。
 記憶に残る彼女は、聖母のような微笑みを携えていた。しかし徐々に、その瞳は虚ろに曇っていった。名を呼んでも振り向かず、返答もない日が続いた。手を握っても、握り返す力のない日もあった。居室を離れ、しばらく戻ってこないことが増えた。
 声を失くした。
 笑顔を失くした。
 生気が消えた。
 壊れてしまったのは、いつからだろうか。──幼い自身には、それに気付いても、どうする術もなかった。
 しかし、周囲の人間は違う。誰かが手を差し伸べていれば、救えた一人だったかもしれない。

 憎かった──
 そこにいたはずの、大人たちが。
 運命の全てをひっくり返した、の存在が。

 元凶である、グレンテが。


「ジャックス」
 大きな影が差した。ブロイエンだった。
 ジャックスは、眠っていたわけではない。目元を覆っていた腕をずらし、相手を黙って見上げる。ベッドに横たわり、何もしない時間を過ごしていた。
「……いつだ」
「連中は、今夜どうか、と言ってきた」
 交渉は済んだらしい。
 元より、ノーディス側が持ち掛けたものだ。北ガラハン軍が、それに乗ってきた。──むしろ、乗らざるを得なかったのだろう。
 それは相手が、ローガス少佐だからだ。
 ジャックスは身体を起こし、薄手のシャツを拾った。寝癖のように髪が乱れていたが、自分では分からず、そのまま放っておく。
 改めて屋内に目をやると、肘置きの欠けた椅子はまだ転がっており、からどれほど経ったのか、すぐには考えられなかった。
 片付ける気力などない。
 変わったことといえば、ジュノーの姿が消えただけだ。
 ──彼の視線を追い、ブロイエンが口を開く。
「別居に移したぞ」
「ああ。……オレが、頼んだっけか」
 ジャックスは、気のない返事を投げた。
「ハサイは寝込んでいる」
 続く言葉に、ふっと笑みが零れた。
 ハサイはたまたま居合わせた立場で、とばっちりを受けたのだ。寝込むのも無理はない、となぜか納得できた。
「とんだ災難だったな……」
「あまり、あいつを巻き込むなよ」
「巻き込むつもりなんか、さらさらねえよ。連れてきたのはお前で、先に煽ったのは黒猫だぜ」
 言い終えてからジャックスは、掛けてあったコートに袖を通す。冷えた身体に温もりが戻ったが、まだ肌寒い。
 彼の返答を受け、ブロイエンは眉をしかめる。
「あのガキも同じだ。…どうする気だ?」
「なんだよ、お前、説教臭くなってんな」
 冷めたため息を吐き、これで話は終わりだとばかりに、その足でゲルを出た。
 彼の後に、ブロイエンも続く。
 とうとう冬はやって来た。一帯が砂漠であることに変わりはないが、忙しなく動く人間の様相も、周りの環境も以前とは異なる。この地で厳冬を迎えるには、並大抵の備えでは済まない。予期せぬ事態に巻き込まれながらも、彼らは身に付けた生きる知恵を発揮し、日々を過ごしていた。
 足早に砂地を進むジャックスに、少し声を押さえたブロイエンが追及する。
「ジャックス、黒猫のガキのことだぞ」
「何もしねえよ、他の子どもと一緒に放り込んどけよ」
「じゃあなぜ、ここへ連れてきた?」
「ああ? じゃあお前は、あそこへ置いていけってのか。婆さんも親父もいねえ家で、まともに暮らせると思ってんのか?」
 ブロイエンは思わず、歩を止めた。
 苛立ちを露わにしたジャックスは、ぶつぶつと悪態を吐きながら、馬舎を目指して急ぐ。打ち切りたかった話が続き、責められ、機嫌は最悪の状態にあった。
 呆気に取られていたブロイエンだが、すぐに小走りで追いつき、彼の斜め後方に着いた。
 ヤオ──いや、今はヨナと名乗っているが──その幼い少年は、拠点ここへ来てからも、よく食べてよく眠った。しきりに父の行方を聞きたがっていたが、逃亡する素振りも騒ぐ様子もない。おそらく、何も知らないからだろう。
 それが今は、ちょうどいい。
 ブロイエンは、ジャックスの判断の意図を読み、それ以上話題には挙げなかった。
 陽の堕ちかけた刻。二人はこれから、北ガラハン軍の小隊との、交渉の場へと赴く。その鍵は、後から後援部隊が連れてくる人間だ。
 切り出し方によっては、揉めるかもしれないと、ジャックスは踏んでいた。
 嫌な予感は多くの場合、当たってしまう。久々に見た、過去の記憶の夢が──その予感を余計に、象徴的にしていた。
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