影の子より

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 第十章 狼の子たち

 二話

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「……少し、休まれてはいかがですか」
 ソファに深く身体を預けていたローガス少佐に、兵士が声を掛けた。
 静かな夜だ。屯所はしばらく前に人払いを済ませ、何者かの気配はない──彼らのいる空間を除いて。
 ここでは談話室と呼ばれる、簡素だが落ち着いた部屋で、二人は待っていた。
「疲れているように見えるか?」
 ローガス少佐が問い返す。
 正しい返答が見付からず、兵士は困惑の表情を浮かべる。沈黙の間を埋めるために、何気なく発した一言だった。
「逆だよ、興奮して疼いてる……何年振りだろうな」
 眼鏡の奥で、ローガス少佐は笑った。兵士には一度も目を向けず、ひたすら宙を眺めている。
 気を抜くと、自身が北ガラハン軍の少佐であることを、忘れかけてしまう。昇進するにつれそれほど、本職に関しては、退屈になっていった。しかしこうして、北へ西へと駆り出されるのは、秘密裏に負わされた任務のためだ。
 何年振りか。答えなど、分かっている。──八年だ。
「少佐、ご無理はならさず……」
「お前も、な」
「はい?」
「勘が当たるんだよな、最近。おそらく今夜、誰か一人は死ぬ」
 風の動きの変化を感じ、ローガス少佐は立ち上がった。
「それが私か、お前か……か、それとも」
 見計らったかのように、ドアのノック音が響く。
 兵士がすばやくドアに近付き、壁に身体を付けた状態で、ノブを少し回した。薄く開いた隙間から、案内役の兵卒と視線がぶつかった。
「……お連れしました」
 相手を談話室に通す、という大役を与えられた兵卒は、わずかの間に、尋常ではないほどの汗を掻いていた。一歩間違えれば殺されかねない、激しく緊張のする役回りだった。それほど、今夜の客は慎重に扱う必要があった。
 兵士はうなずき、三人の人物を室内へ招く。そして、兵卒の肩に手をやって落ち着かせ、彼を下がらせた。
 異様な空気が、その場を包む──
 ノーディス頭領、ジャックス。そして、もう二人。
 一人は、最初から無表情でいる、がたいのよい大男。
 その隣には、目元と口元だけ穴の空いた布袋を被り、拘束衣に身動きを封じられた人間。
 ローガス少佐は、ジャックスの正面に対峙した。
 互いに出方を窺い、誰が口火を切るのか、試しているかのようだ。少なくとも、今すぐ拳で殴り合うような、そのような殺気は感じられない。
 ──唐突に沈黙を破り、ローガス少佐が鼻で息を吐いた。
「一人で乗り込んでくると、思ってたんだが……」
 その瞳は、ジャックスの斜め後方に立つ人物に向く。
「そのまま返すぜ」
 ジャックスは目を細めた。
「公平だろ。そっちも同じだ」
「こちらは二人だ」
「さっきのガキ入れたら、三人だろうがよ。それに……」
 言いながら、拘束衣の人物の頭に手をやり、勢いよく布袋を剥ぎ取った。
 グレハン少尉だった。
「これで、逆になっちまった」
 なぜかジャックスは得意気だ。にっと口角を上げ、相手を挑発する。
 呑み込まれてはいけない──ローガス少佐は、そう自身に言い聞かせる。捕らわれの身となった、実の弟を目の当たりにしても。
 グレハン。彼の表情は、苦痛に歪んでいるのか、それとも諦めているのか。
 ──幸か不幸か、ローガス少佐の眼では、それが読み取れない。
「脅しのつもりか?」
「別に。話したじゃねえか、取引だって」
「こちらも、答えたはずだ。我々は、反政府勢力レジスタンスの取引に応じる気はない」
「でも、こうしてオレたちを招いた。分かってんだろ? 最初はなから、政府相手に吹っ掛けちゃあいねえよ」
 ジャックスは、まっすぐに相手を見据えた。
一対一さしの取引さ……あんたとオレの」
「どこまでも、ノーディスらしいな」
 今度は、ローガス少佐が微笑む。
 武力でぶつかるのではなく、水面下での接触を選んだジャックス。捕虜を見せしめに始末することも、彼らにはできたはずだ。しかしそれをしない。生かしたまま連れてきた。
「そりゃ、どうも」
「……だが、残念だ。私は軍人で、北ガラハン軍の一人なんだ、ジャックス」
 ここでケリをつけるか。
 屯所から一定の距離を離して、包囲網を張っている。腕の立つ敵が相手では、数ではなく質。中隊でも精鋭を集め、彼らは息を殺して構えている。
 合図を出せば、すぐに制圧に動く。ローガス少佐の手が静かに滑り、ホルダーから拳銃を抜いた。
「そうか」
 言うや否や──ジャックスは、グレハン少尉を前に突き飛ばす。同時に視線は、こちらへ銃口を向ける兵士を捉えた。
 二発、銃声が響く。
 間一髪、身を屈めたジャックスの頭上を、銃弾が掠めた。
「違う、こいつらを撃つな……ッ」
 思わず射撃に入った兵士を、ローガス少佐がたしなめる。その声は、わずかな焦りを含んでいる。合図は別だ。想定外の行動があると、全ての計画が狂う。──しかし、隣にいる兵士を抑えようと伸ばした手が、びくりと宙で制止した。
 反射的に抱き止めたグレハン少尉に、確実ながあるのだ。

 震える手で、その身体に触れ直す。そこにあるはずの、彼の右腕──

「貴様──…」
 ローガス少佐は、我を忘れて咆哮を上げた。身体中の血液が頭に上り、怒りが沸点を超えるのを感じた。拳銃の安全装置は既に解除しており、迷うことなく引金を引いた。発砲した兵士を咎めたことは、彼の頭の中からすっかり抜け去っていた。
 ──手応えは、確かにあった。
 が、ジャックスは瞬時に間合いを詰め、ローガス少佐の懐に入る。
 その手元に短刀を見止め、ローガス少佐は、グレハン少尉を払い退ける。近距離戦では、銃撃は間に合わなかった。構えようとした彼の下腹部に、激痛が刺さった。
「少佐──…」
 悲鳴のような声が、耳に入った。小さく咳込んだ勢いで、唇から血が噴き出す。やはり刺されたのだ。
 ──…何、やってる。もう一人だ──
 そう指示を出そうとした脳は、意外にも落ち着いていた。仲間の心配より、敵の動向から目を逸らすな──と。しかしそれは、自身にも言えたことだ。
「……一つ、だぜ。話は弟に聞け」
 短刀をつば近くまで押し込み、ジャックスは囁いた。
「それと、ユーレンは返してもらう。ありがとな」
「ばかめ……逃げられると、思うか……?」
「は……オレたちが、丸腰で乗り込んだとでも、思ってんのかよ」
 力を失くしたローガス少佐が、床に崩れ落ちる。
 ジャックスは彼の拳銃を奪い、窓に向けて全弾を放った。厚い窓だが、ガラスは粉々に割れる。
 何をする気だ、と──口を開く余裕は残っていない。呆然と眺めるローガス少佐の眼に、気絶させられた兵士と、傍に立つ大男が映った。
 大男──ブロイエンが、外へ三つの手榴弾を投げる。轟音と地響きが起こる中、彼は手際よく、さらに火炎瓶を追加した。
 炎に包まれる屯所。夜闇は一気に、煌々と紅く染まっていく。
 ジャックスが最後に、何か言葉を投げたようだったが、意識の薄れるローガス少佐には聞き取れなかった。
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