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終章 影の子へ
一話
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「ああ、縫ったさ。あいつ今度は、ぱっくり斬られてきやがった──…」
ギニーは両手を広げ、大げさにため息を吐き出した。自然と歩調が速まり、踏み締める砂地の音が荒々しい。帰還した仲間を受け入れて早々、仕事が増えた所為で、虫の居所が悪いのだ。
銃創の消えないまま、ジャックスは再び、腹部に深い傷を受けていた。ただ、きれいにまっすぐ刺されたことで、内臓を損傷することなく、皮膚が裂けただけで済んだ。麻酔のない縫合手術にも耐え、ようやく熱が引いて三日が経ったところだ。
──しかし、それで終わることはなく。
「おまけに、娼婦連れ込んだって? あの野郎、安静って言葉を知らねえのか」
「……おんなじゃないが」
半分正解で、半分違う。同様に、治療を施されたブロイエンは、速足でギニーの後を追った。
ゲルの入口をくぐると、殺風景な空間が広がっていた。
ベッドの上に、半身を起こしたジャックス。ゆっくりと味わうように、煙草の煙をくゆらせる。二人の姿を見留め、人差し指を唇の前に立てた。
彼の奥には、黒猫の背が見えた。シーツに身体を横たえ、寝息に合わせて、その肩が静かに上下する。
どちらも、毛布を引き寄せてはいたが、裸であることに変わりはない。
「断捨離が進んだな」
呆れて言葉を失うギニーの隣で、ブロイエンは平然と言った。
立つ鳥、跡を濁さず。ジャックスがこの地を去ることは、既に周知の事実となっている。
話を振られた当の本人は、意地悪に口元を歪め、二人に向かって煙を吹く。
「ああ。……誰かさんが、いろいろ売っ払ってくれたお蔭で、なんも残ってねえよ」
「対価をもらっただけだ。開腹手術に、どれだけの医療費が掛かるか、分かってねえだろ?」
「今回は、閉じる手術だろうがよ」
「ああ? 前のも含めて、だろうが。文句言うなら、また掻っ捌くぞ。考えなしに暴れやがって」
成長しないやり取りに、ブロイエンの喉がくっと鳴る。
ジャックスは、短くなった煙草を指に挟み、ベッド下に置いた灰皿に押し付けた。身体を傾ける際に、痛みが走ったのか、わずかに眉をひそめる。しかしすぐに、真顔をつくり、ヘッドボードに背を預けた。片肘をその上に置き、視線を二人に戻す。
「……イェリはどうした」
「夜明け前に、拠点を発った。見送りはいらない、と」
唯一、別れに立ち会ったブロイエンが、問いに答える。彼はそこで、嘘を吐いた。
見送りはいらない──ではなかった。実際には、ジャックスには会わない──だ。
イェリが今後、どう生きようとしているのか、知る由もない。彼は自ら、ノーディスとの決別を選んだのだ。ジャックスの治療が済むまで、律儀にも出立を待ち、報告を受けると静かに消えた。それが答えだった。もう二度と会うことはない、と──砂漠の向こうへ去っていった。
全てを賭けた、戦争の終焉。その後は、驚くほど呆気ない。
「ユーレンとハサイは、明日の朝だと言ってたぜ」
「ああ……それは聞いた。新天地は、共和国らしいな」
今頃、荷造りで忙しいだろう。
「ユーレンは、成人まで、面倒を見る気だ」
「いいんじゃねえの」
「あいつらまるで、血のつながった母子だったからな」
「依存の度が過ぎれば、壊れる。ユーレンは、それを分かってる。独りよりはいいだろ。あいつは長いこと、ハサイを通して、自分のガキを見てたからな……」
ギニーの情報を受け、ジャックスは珍しく、まともに会話を交わした。
政治家を志していたユーレンが、猟兵団に身を置くこととなったきっかけは、北への復讐だ。かつて、倒国の疑いを掛けられ、家族もろとも捕らえられた。追っ手から逃れる中で、生まれたばかりの子は、生命を堕とした。夫は、牢獄で死を遂げたとされているが──彼女は、事実を知ってしまったのだ。バークシー城内の闘技場で、北軍の兵士によって、嬲り殺しにされたこと。憂さ晴らしの道具に、使われたということを。
ガラハン公国は、これから大きく変わるだろう。中枢は一掃され、改革が進んでいくはずだ。それから、南北の統一に向かうのか、白紙に戻るのか。
「……お前はいつだ?」
まっすぐに相手を見つめ、ブロイエンが尋ねる。
短い問いだったが、その意を正しく読み、ジャックスは少し考えて言葉を返す。
「四五日のうちだな。やること済ませて、きりのいいとこで出ていくさ」
「そいつも、ガキも一緒にか」
「ああ」
迷いのない返答に、ブロイエンは息を吐いた。
「分かった。後始末が必要なら、俺たちに言ってくれ」
邪魔したな、と言い置き、話を終えて立ち去る。
「いいか、安静にだ。意味分かんねえなら、辞書で調べろ」
ギニーは力を込めて、指先をジャックスに向けた。これ以上、余計な作業を与えられたくないのだ。患者の傷の具合を理解しているからこそ、的確な指示を出し、乱暴に入口を揺らして出ていった。
──…ノーディスの解体。
日々、ジャックスの頭を占めているのは、それ一つだけだった。
意外にも、順調に進んでいく。なぜなら、彼の周りの人間が、思うように働いてくれるから。独りでは負担の大きいことでも、数人がいれば楽に済む。
その役割を自ら担っているのが、先ほどの二人だ。──結局みんな、お人好しだった。
ふと、傍で眠るジュノーに目をやる。
無防備な背には、古傷が浮いている。そして首には、点々とした赤い跡。そこに手を這わせると、くすぐったいのか、小さな呻きが漏れた。まだ眠りの底に堕ちたまま、身体を仰向けに寝返りを打つ。落ち着く暇もなく、緊張ばかりの生活で、疲労が限界に来ていたのだろう。陽が昇っても、深く寝入っていた。
肉体は、ジャックスと差のない、男そのもの。
しかし、締まった褐色の肌に、無性に触れたい気分が募る。
ジャックスは身を捻り、ジュノーを跨ぐようにして、両膝を着いた。二人分の体重に、ベッドが軋んだ。
ギニーは両手を広げ、大げさにため息を吐き出した。自然と歩調が速まり、踏み締める砂地の音が荒々しい。帰還した仲間を受け入れて早々、仕事が増えた所為で、虫の居所が悪いのだ。
銃創の消えないまま、ジャックスは再び、腹部に深い傷を受けていた。ただ、きれいにまっすぐ刺されたことで、内臓を損傷することなく、皮膚が裂けただけで済んだ。麻酔のない縫合手術にも耐え、ようやく熱が引いて三日が経ったところだ。
──しかし、それで終わることはなく。
「おまけに、娼婦連れ込んだって? あの野郎、安静って言葉を知らねえのか」
「……おんなじゃないが」
半分正解で、半分違う。同様に、治療を施されたブロイエンは、速足でギニーの後を追った。
ゲルの入口をくぐると、殺風景な空間が広がっていた。
ベッドの上に、半身を起こしたジャックス。ゆっくりと味わうように、煙草の煙をくゆらせる。二人の姿を見留め、人差し指を唇の前に立てた。
彼の奥には、黒猫の背が見えた。シーツに身体を横たえ、寝息に合わせて、その肩が静かに上下する。
どちらも、毛布を引き寄せてはいたが、裸であることに変わりはない。
「断捨離が進んだな」
呆れて言葉を失うギニーの隣で、ブロイエンは平然と言った。
立つ鳥、跡を濁さず。ジャックスがこの地を去ることは、既に周知の事実となっている。
話を振られた当の本人は、意地悪に口元を歪め、二人に向かって煙を吹く。
「ああ。……誰かさんが、いろいろ売っ払ってくれたお蔭で、なんも残ってねえよ」
「対価をもらっただけだ。開腹手術に、どれだけの医療費が掛かるか、分かってねえだろ?」
「今回は、閉じる手術だろうがよ」
「ああ? 前のも含めて、だろうが。文句言うなら、また掻っ捌くぞ。考えなしに暴れやがって」
成長しないやり取りに、ブロイエンの喉がくっと鳴る。
ジャックスは、短くなった煙草を指に挟み、ベッド下に置いた灰皿に押し付けた。身体を傾ける際に、痛みが走ったのか、わずかに眉をひそめる。しかしすぐに、真顔をつくり、ヘッドボードに背を預けた。片肘をその上に置き、視線を二人に戻す。
「……イェリはどうした」
「夜明け前に、拠点を発った。見送りはいらない、と」
唯一、別れに立ち会ったブロイエンが、問いに答える。彼はそこで、嘘を吐いた。
見送りはいらない──ではなかった。実際には、ジャックスには会わない──だ。
イェリが今後、どう生きようとしているのか、知る由もない。彼は自ら、ノーディスとの決別を選んだのだ。ジャックスの治療が済むまで、律儀にも出立を待ち、報告を受けると静かに消えた。それが答えだった。もう二度と会うことはない、と──砂漠の向こうへ去っていった。
全てを賭けた、戦争の終焉。その後は、驚くほど呆気ない。
「ユーレンとハサイは、明日の朝だと言ってたぜ」
「ああ……それは聞いた。新天地は、共和国らしいな」
今頃、荷造りで忙しいだろう。
「ユーレンは、成人まで、面倒を見る気だ」
「いいんじゃねえの」
「あいつらまるで、血のつながった母子だったからな」
「依存の度が過ぎれば、壊れる。ユーレンは、それを分かってる。独りよりはいいだろ。あいつは長いこと、ハサイを通して、自分のガキを見てたからな……」
ギニーの情報を受け、ジャックスは珍しく、まともに会話を交わした。
政治家を志していたユーレンが、猟兵団に身を置くこととなったきっかけは、北への復讐だ。かつて、倒国の疑いを掛けられ、家族もろとも捕らえられた。追っ手から逃れる中で、生まれたばかりの子は、生命を堕とした。夫は、牢獄で死を遂げたとされているが──彼女は、事実を知ってしまったのだ。バークシー城内の闘技場で、北軍の兵士によって、嬲り殺しにされたこと。憂さ晴らしの道具に、使われたということを。
ガラハン公国は、これから大きく変わるだろう。中枢は一掃され、改革が進んでいくはずだ。それから、南北の統一に向かうのか、白紙に戻るのか。
「……お前はいつだ?」
まっすぐに相手を見つめ、ブロイエンが尋ねる。
短い問いだったが、その意を正しく読み、ジャックスは少し考えて言葉を返す。
「四五日のうちだな。やること済ませて、きりのいいとこで出ていくさ」
「そいつも、ガキも一緒にか」
「ああ」
迷いのない返答に、ブロイエンは息を吐いた。
「分かった。後始末が必要なら、俺たちに言ってくれ」
邪魔したな、と言い置き、話を終えて立ち去る。
「いいか、安静にだ。意味分かんねえなら、辞書で調べろ」
ギニーは力を込めて、指先をジャックスに向けた。これ以上、余計な作業を与えられたくないのだ。患者の傷の具合を理解しているからこそ、的確な指示を出し、乱暴に入口を揺らして出ていった。
──…ノーディスの解体。
日々、ジャックスの頭を占めているのは、それ一つだけだった。
意外にも、順調に進んでいく。なぜなら、彼の周りの人間が、思うように働いてくれるから。独りでは負担の大きいことでも、数人がいれば楽に済む。
その役割を自ら担っているのが、先ほどの二人だ。──結局みんな、お人好しだった。
ふと、傍で眠るジュノーに目をやる。
無防備な背には、古傷が浮いている。そして首には、点々とした赤い跡。そこに手を這わせると、くすぐったいのか、小さな呻きが漏れた。まだ眠りの底に堕ちたまま、身体を仰向けに寝返りを打つ。落ち着く暇もなく、緊張ばかりの生活で、疲労が限界に来ていたのだろう。陽が昇っても、深く寝入っていた。
肉体は、ジャックスと差のない、男そのもの。
しかし、締まった褐色の肌に、無性に触れたい気分が募る。
ジャックスは身を捻り、ジュノーを跨ぐようにして、両膝を着いた。二人分の体重に、ベッドが軋んだ。
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