喫茶つむぎの見えないけど見えてる日常

石井はっ花

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ライラック

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小さな庭に、その木はあった。

毎年可憐な花を咲かせていたけれど、近年は花がつかなくなっていた。

「ねえ、母さん。庭のライラック咲かなくなっちゃったね」

「そうねぇ、恵美。あんたが生まれたときにもらってきたから、もう枯れちゃったのかしら」

恵美と呼ばれた女性は、母の方を振り返った。

「え?そうなの?」

「そうよぉ。あなた4月生まれでしょ。その年のライラック祭りで苗木もらってきたんだもの。あんた、今いくつだっけ」

「もう、忘れないでよ。32よ」

「あらぁ。そんなに経つのねぇ」

「何よ。ババアだっていいたいの」

「そうじゃないわよ」

恵美の母は、仏壇に淹れたてのお茶をそっと置き、鈴を鳴らして手を合わせた。

仏壇には、まだ若い男性の写真が飾られていた。

「お父さん。ゆっくり飲んでくださいね」

恵美は、スプリングコートの袖を通すと、静かに玄関を出ていった。



「……ひよりさん。勉強の進み具合は、どうですか?」

久しぶりの土曜日のシフトに入ったひよりに、喫茶つむぎのマスター・山本つむぎは、そっと尋ねた。

ひよりは、少し疲れた顔をしたがすぐに笑顔になった。

「大丈夫です!」

そこに及川《おいかわ》 紗和《さわ》がランチプレートを食べる手を一旦止めて、言った。

「ひよりちゃんの大丈夫は、ちょっと当てにならないからなぁ。ちゃんと寝ないとせっかく覚えたことも全部流れるよー」

「ええっ!本当ですか!」

「まあ、本当っちゃ本当よ。人間は本当に睡眠大事よー」

ひよりは、苦しいような顔をして。

「ううう。今日は少し早めに、でも、ちゃんと寝ます」

「そうね。そうした方が良い」

そう言うと紗和は、にこりと笑った。

カラン。

ドアベルが来客を告げた。

「……いらっしゃいませ」

「いらっしゃいませ!」

そこに入ってきたのは、恵美だった。

恵美は、近頃よく通ってきてくれる常連の一人だ。

彼女は、淡い色のスプリングコートを脱ぎ、隣のカウンター席にかけるとゆっくりと座った。

「マスター。ブレンド一つお願いします」

「……かしこまりました」

マスターは瓶からコーヒー粉を取り出し、ネルドリップにセットした。

とぽとぽと、コーヒーの香りとゆっくりした時間が流れていく。

「ねえ。マスター。植物に詳しい人って、誰かいないかな」

マスターは首を傾げて、「……どうされました?」と聞いた。

「うちの庭のライラックが、なんだか一昨年くらいから咲かなくなっちゃったんだよね。背丈は伸びてるから、生きてはいるとは思うんだけど、咲かないの。お母さんの思い出の花だからみせてあげたいけど。どうかなって思って」

「……そうですね。あいにくですが、力には……」

「そっか。そうですよね。変なこと言って、すみません」

「……いいえ。逆にすみません」

マスターは、コーヒーカップに注いだコーヒーを、恵美の前にサーブした。

「……だけど、お父様でしょうか。よく似た男性の方が傍で少し寂しそうにしていらっしゃいます」

えっ、と呟いて恵美は後ろを振り返った。

振り返っても、もちろん誰もいない。

「またまた~。マスター。驚かさないでよ」

「……すみません。でも、その方から、一言。思い出を忘れないでくれ、と」

恵美は、一笑に付した。

「ごめんなさい。私、そういうの信じないの」

「……そうですね。ボクも昔はそう思っていましたから、それでいいと思います」

恵美は、複雑な顔をしながら、コーヒーを啜った。

どうしてか、いつもより苦いような味がした。



「ねえ、母さん。お父さんの思い出ってなんか、思い当たることある?例えば、ライラックのこととか」

「なによ。唐突ね。ライラックのことって何よ」

恵美の母は洗い物をしながら、聞いてきた。

「うーん。この前、知り合いにライラック咲かないんだよねって話してたんだけど、お父さんとの何か思い出があるんじゃないのって言われたんだよね。でも、思い当たらなくて」

恵美の母は、「なんだ、そんなこと」と言って笑った。

「本当に忘れちゃったの?あなた達、ずっと一緒に水やりとか肥料やりとかしてたじゃない。あとは、よく外のお家のライラックを見に散歩に行ったりとか。すごく仲良かったのよね」

恵美は首を傾げた。

「あれ?そうだったっけ」

そうよと、恵美の母がまた洗い物を続けながら言う。

「思春期だからとか、色々言ってたけど、あんたがお父さんを煙たがり始めて、どんどん口を聞かなくなって。お父さん、すごく寂しそうだったんだから」

「そうかな……」

「本当にそうよ。でも、あんたが大人になってからは、少し、話してくれるようになって。安心したのよ。でも、忘れちゃっていたのね……」

その時、恵美の記憶の中に大通公園の風景が蘇ってきた。

「ほんとに、子供の頃、大通公園でお父さんとライラック祭りのステージ見に行ったことあった……。なんで、お父さんのこと、ずっと嫌いだったんだろう……」

「そうね。あの人は、浮気もしないし、酒もタバコもギャンブルもしない、優良物件みたいな人だったのに。唯一大事なあんたにすごく嫌われて。それだけが本当に可哀想だった」

「もう、忘れてよ……。でも。今は、もう、嫌いじゃないのよ」

恵美は、静かに仏壇に向かった。

「お父さん。今まで思い出を忘れていてごめんなさい」

恵美は、静かに鈴を鳴らした。

ライラックの木が、静かに静かに芽吹いた。
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