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第三章
36、ラグベル侯爵とレイモン伯爵
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『ジェローム・ラグベル侯爵』……艶のある黒髪の片側オールバック。小麦肌で服の上からでも分かるガッチリ体型の彼は、愛情深く三十代前半ながら渋みもあって魅力的な人だった。
彼の七歳の娘アナスタシアは話に聞いていたとおりの人見知りで、俺を見るなりナタリーのスカートの後ろに隠れてしまった。
長い黒髪をナタリーに編み込んでもらって喜ぶ姿は愛らしく、彼女が姪っ子になるのかと思うと早くも叔父バカになりそうだ。
「楽しそうですね」
「ん? 顔に出てた?」
ラフなシャツ姿の湯上がりオーティスにドキッとする。三人掛けソファでくつろいでいた俺は、「隣に座って」の合図に横の座面をポンポンと軽く叩いた。
ここはラグベル侯爵邸の客室。侯爵の厚意に甘えて、俺たちは一晩お世話になることにしたのだ。
「俺はセガール兄上やオーティスに楽しい思い出を作ってもらったから、今度は俺がアナスタシアに楽しい思い出をプレゼントできたらいいなって。女の子って何が喜ぶんだろう」
「心がこもっていれば、どんなことでも嬉しいものです」
「うん、そうだな」
オーティスの柔らかな眼差しに魅了されてとろんとなる。半乾きの髪ってなんでこんなに色っぽく見えるんだろう。
「フィル様……ラグベル侯爵とレイモン伯爵に繋がりがあるとは思いませんでしたね」
「ああ、そうだな――」
悩ましい話題だ。
夕食の後、俺たちはラグベル侯爵と少し話をした。
五年前――ラグベル侯爵が最愛の妻を亡くしたのは二十代半ば。娘のアナスタシアが二歳の時だった。失意のどん底にいた彼は、突然レイモン伯爵から「侯爵領で採れる鉱石のことで取引がしたい」と話を持ちかけられたのである。
外国と伝手のある伯爵は、侯爵家と取引のない他国を繋ぐ橋渡しがしたいとそれはそれは熱心だった。
その時点でラグベル侯爵家の事業は十分に安定していたのだが、自分が不慮の事故や病気で早死にした場合。一人残される娘に少しでも多くの財産、そして供給元を残してやりたいという親心からよく知りもしないレイモン伯爵の提案を受け入れてしまったのである。
当初のやり取りでは、レイモン伯爵の要求は仲介手数料のみのはずだった。しかし契約内容はいつの間にかまったく違うものへとすり替わり、ラグベル侯爵は伯爵に成功報酬として破格の値で鉱山を買い取られてしまったのだ。
しかもその事実に気付いたのは全てのやり取りが終了した数日後。レイモン伯爵が新たな鉱員たちを引き連れて突然鉱山にやってきた時だった。
伯爵が「ここは私の山だ!」と契約書を突き出してラグベル侯爵のもとで働く鉱員たちを追い出すと、当然彼らは説明を求めて侯爵邸に乗り込んだ。そこで初めて異変に気付いたラグベル侯爵は慌てて契約書を読み直し愕然としたのである。
『鉱山の一部とは何だ?』
恐ろしいことに侯爵の頭の中には当初の契約通りレイモン伯爵に仲介手数料を払った記憶しかない。取引を結んだ国の名を確認するも聞き覚えがなく、資料を見ればそれは利益が見込めないほど小さな島国。運送費を考えるとこちらが赤字になってしまうではないか。
血の気が引き指先が冷たくなっていく。伯爵との商談に同席していた自分の側近を呼びつけだが、側近も「話し合いを重ね、共に契約書の確認も行いました。侯爵はレイモン伯爵に手数料を支払いましたし、そんなはずはありません」と同様に青褪めた。
その後すぐにレイモン伯爵へ抗議を行ったのだが、伯爵は彼らに薄く笑い返すと、取引の場にラグベル侯爵一人でなかったからこそ、その正当性を主張したのである。
『取引に如何わしいところがあったのなら、いくらでも訂正、拒否できたはずではないですか?』と。時すでに遅し……レイモン伯爵と交わした契約は取り消すことができなかった。
この話を聞いて「なぜそんなことになる?」と疑問しか浮かんでこないが、これは実際に起きたことなのだ。その後ラグベル侯爵は、時折あった頭の霞むような感覚が一層酷くなったという。
おかしくなっていくラグベル侯爵を呼び覚ましたのは他でもない愛娘のアナスタシアで、まだ二歳の彼女は泣き喚きながら小さな両手で何度も何度も彼の顔をペチペチと叩いたそうだ。霧が引いていくように徐々に徐々に頭の中の靄が消えてゆき、なんとか正気を取り戻すことができたという。
『――あの当時、私は妻を亡くした悲しみで頭がおかしくなっていたんだ……本当に情けないことをした。ただ、レイモン伯爵はこの数年で巨万の富を手にしたようだが、決して彼の交渉術が長けているというわけではないのです。彼はとても怪しい男だ。フィル様もできる限り彼との接触を避けてください』
初めて王都でレイモン伯爵と会った時、ランデルも彼について良い噂を聞かないと言っていた。俺とレイモン伯爵の婚約もきっと不正なやり取りで決められたものに違いない――。
「オーティス……俺はあいつと結婚しない。絶対に婚約を解消する」
「一方的に結ばれた婚約です。こういう時は『解消』ではなく、こちらから一方的に叩きつけてやる『破棄』が正しいです。貴方の伴侶は私と決まっていますから、他の者は婚約者になれません」
ああ、オーティスの俺を見る目が好きだ。触れたくて思わず手を伸ばしたくなる。オーティスの上に跨って首に腕を回した。
「ねぇ、ナタリーと侯爵のキスを見て何を思った?」
「私は……フィル様とキスがしたい。そう思いました」
「俺も一緒。それにさ、レイモン伯爵との婚約をどう解消しようかと考えるほど、頭ん中が伯爵の顔で埋まっていくんだよね」
煽り発動。
「許せませんね」
見事に着火。
「だろ? そんなの悔しいじゃん。だから、オーティスとのキスでとろんとろんに溶かされて、脳内を綺麗にしなきゃ」
今夜は侯爵邸だしキスまでにとどめておかなくちゃいけない。でも、それがまた良いスパイスになるのかもね。
彼の七歳の娘アナスタシアは話に聞いていたとおりの人見知りで、俺を見るなりナタリーのスカートの後ろに隠れてしまった。
長い黒髪をナタリーに編み込んでもらって喜ぶ姿は愛らしく、彼女が姪っ子になるのかと思うと早くも叔父バカになりそうだ。
「楽しそうですね」
「ん? 顔に出てた?」
ラフなシャツ姿の湯上がりオーティスにドキッとする。三人掛けソファでくつろいでいた俺は、「隣に座って」の合図に横の座面をポンポンと軽く叩いた。
ここはラグベル侯爵邸の客室。侯爵の厚意に甘えて、俺たちは一晩お世話になることにしたのだ。
「俺はセガール兄上やオーティスに楽しい思い出を作ってもらったから、今度は俺がアナスタシアに楽しい思い出をプレゼントできたらいいなって。女の子って何が喜ぶんだろう」
「心がこもっていれば、どんなことでも嬉しいものです」
「うん、そうだな」
オーティスの柔らかな眼差しに魅了されてとろんとなる。半乾きの髪ってなんでこんなに色っぽく見えるんだろう。
「フィル様……ラグベル侯爵とレイモン伯爵に繋がりがあるとは思いませんでしたね」
「ああ、そうだな――」
悩ましい話題だ。
夕食の後、俺たちはラグベル侯爵と少し話をした。
五年前――ラグベル侯爵が最愛の妻を亡くしたのは二十代半ば。娘のアナスタシアが二歳の時だった。失意のどん底にいた彼は、突然レイモン伯爵から「侯爵領で採れる鉱石のことで取引がしたい」と話を持ちかけられたのである。
外国と伝手のある伯爵は、侯爵家と取引のない他国を繋ぐ橋渡しがしたいとそれはそれは熱心だった。
その時点でラグベル侯爵家の事業は十分に安定していたのだが、自分が不慮の事故や病気で早死にした場合。一人残される娘に少しでも多くの財産、そして供給元を残してやりたいという親心からよく知りもしないレイモン伯爵の提案を受け入れてしまったのである。
当初のやり取りでは、レイモン伯爵の要求は仲介手数料のみのはずだった。しかし契約内容はいつの間にかまったく違うものへとすり替わり、ラグベル侯爵は伯爵に成功報酬として破格の値で鉱山を買い取られてしまったのだ。
しかもその事実に気付いたのは全てのやり取りが終了した数日後。レイモン伯爵が新たな鉱員たちを引き連れて突然鉱山にやってきた時だった。
伯爵が「ここは私の山だ!」と契約書を突き出してラグベル侯爵のもとで働く鉱員たちを追い出すと、当然彼らは説明を求めて侯爵邸に乗り込んだ。そこで初めて異変に気付いたラグベル侯爵は慌てて契約書を読み直し愕然としたのである。
『鉱山の一部とは何だ?』
恐ろしいことに侯爵の頭の中には当初の契約通りレイモン伯爵に仲介手数料を払った記憶しかない。取引を結んだ国の名を確認するも聞き覚えがなく、資料を見ればそれは利益が見込めないほど小さな島国。運送費を考えるとこちらが赤字になってしまうではないか。
血の気が引き指先が冷たくなっていく。伯爵との商談に同席していた自分の側近を呼びつけだが、側近も「話し合いを重ね、共に契約書の確認も行いました。侯爵はレイモン伯爵に手数料を支払いましたし、そんなはずはありません」と同様に青褪めた。
その後すぐにレイモン伯爵へ抗議を行ったのだが、伯爵は彼らに薄く笑い返すと、取引の場にラグベル侯爵一人でなかったからこそ、その正当性を主張したのである。
『取引に如何わしいところがあったのなら、いくらでも訂正、拒否できたはずではないですか?』と。時すでに遅し……レイモン伯爵と交わした契約は取り消すことができなかった。
この話を聞いて「なぜそんなことになる?」と疑問しか浮かんでこないが、これは実際に起きたことなのだ。その後ラグベル侯爵は、時折あった頭の霞むような感覚が一層酷くなったという。
おかしくなっていくラグベル侯爵を呼び覚ましたのは他でもない愛娘のアナスタシアで、まだ二歳の彼女は泣き喚きながら小さな両手で何度も何度も彼の顔をペチペチと叩いたそうだ。霧が引いていくように徐々に徐々に頭の中の靄が消えてゆき、なんとか正気を取り戻すことができたという。
『――あの当時、私は妻を亡くした悲しみで頭がおかしくなっていたんだ……本当に情けないことをした。ただ、レイモン伯爵はこの数年で巨万の富を手にしたようだが、決して彼の交渉術が長けているというわけではないのです。彼はとても怪しい男だ。フィル様もできる限り彼との接触を避けてください』
初めて王都でレイモン伯爵と会った時、ランデルも彼について良い噂を聞かないと言っていた。俺とレイモン伯爵の婚約もきっと不正なやり取りで決められたものに違いない――。
「オーティス……俺はあいつと結婚しない。絶対に婚約を解消する」
「一方的に結ばれた婚約です。こういう時は『解消』ではなく、こちらから一方的に叩きつけてやる『破棄』が正しいです。貴方の伴侶は私と決まっていますから、他の者は婚約者になれません」
ああ、オーティスの俺を見る目が好きだ。触れたくて思わず手を伸ばしたくなる。オーティスの上に跨って首に腕を回した。
「ねぇ、ナタリーと侯爵のキスを見て何を思った?」
「私は……フィル様とキスがしたい。そう思いました」
「俺も一緒。それにさ、レイモン伯爵との婚約をどう解消しようかと考えるほど、頭ん中が伯爵の顔で埋まっていくんだよね」
煽り発動。
「許せませんね」
見事に着火。
「だろ? そんなの悔しいじゃん。だから、オーティスとのキスでとろんとろんに溶かされて、脳内を綺麗にしなきゃ」
今夜は侯爵邸だしキスまでにとどめておかなくちゃいけない。でも、それがまた良いスパイスになるのかもね。
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