邪神〜忘れられぬ君に〜

新川はじめ

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第二章

雷鳴山⑥  その名を呼ぶために

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「カイリー!!」

 両手を思いっきり広げた半泣きの時之介ときのすけが飛びついてきた。その拍子に、少し起こしたカイリの体は再び地面に倒れてしまった。

「二人とも急に倒れるから怖かったじゃん!! 目が覚めて本当に良かったぁ……」

 カイリが目覚めてホッとしたのか、時之介の目からボロボロと涙が溢れ出した。

(――そうだった!!)

 頭を回転させて意識を失う前を思い出す。先ほど飛びつかれたせいで解かれてしまった小花こはるの右手をもう一度繋いでみたが、彼女の意識はまだ深いところにあるようで、力の入らない腕はだらりと伸びきっている。

 カイリは、頭の痛みとふわふわと揺れる感覚が抜けきらないまま、無理矢理体を起こして小花の顔を覗き込んだ。呼吸と脈を確認して、青白くなった頬を軽く指先で叩いて声をかけてみる。


「どうしようカイリ! 小花、全然反応しないよ……」

(これ以上は危険か……)

 カイリは青火を思って眉を顰めたが、祓除ふつじょの体制をとった。


「――あっ、カイリ待って! 今、小花の瞼が少し動いた!」

 時之介は急いでカイリの袖を引っ張る。

 小花の顔を注視すると、わずかだが確かに瞼が震えている。きっと意識を取り戻しつつある証拠だ。

「小花! 小花!」

 カイリと時之介が名前を呼び続けると、小花の瞼が薄く閉じたり開いたりを繰り返して、ようやく開かれた。

「…………」

「小花、良かった!」
「大丈夫か!? 俺たちがわかるか?」

 仰向けに寝そべる小花は、長い眠りから覚めたように、ぼーっとただ真上を見続けている。
 まるで視界から二人の存在が消えてしまったかのように、こちらの呼びかけに反応しない。

「――!?」   
 無反応だった小花は突如何かを思い出したように起き上がると、おぼつかない足取りで歩きだした。

 山の木々を抜け、月明かりの下。視線の先にいるのは、岩場の上で依然と空を見上げる雷神。

『会いたい』と一途に彼を想い続けた。

 その彼を目の前に、大きく見開いた赤眼が輝やく。

 三百年間の想いをすべて込めて、もう二度と口にすることが叶わぬと諦めていた愛しいその名を呼んだ――


「雷神………様……」


 今ここにいるのは『小花』ではなく、彼女の体を借りた『真珠まじゅ』。

 三百年の時を越えて、ついに願いが叶った瞬間だった。

 時間をかけて振り向いた雷神は、ただならぬ表情で焼きつけるように真珠を見ている。もう彼が心を持たない人形のようでないことは、誰の目から見ても明らかだった。


「お前……」

「雷神様は……もう私を忘れてしまいましたか?」

 真珠は目をつむって首を振った。

「今でも私を覚えているはずです。忘れてなんかいない……だって……雷神様が付けているのは、私の首飾りじゃないですか」


 ――『赤い水晶の首飾り』

 赤眼の村で子供が生まれると、水晶に両親と村の術師の血を一滴ずつ垂らして作られる『命を繋ぐ』願いが込められたお守り。

 生涯の伴侶に渡す『あなたを愛している』という証の首飾り。

 こちらを向いた雷神の胸元で、月明かりを浴びた首飾りがキラリと光った。

 真珠の目から、涙がせきを切ったように流れ出す。声を押し殺して肩を震わせながら、溢れる涙を何度も何度も手で拭う。


「真珠――」

 真珠からひと時も目を離さなかった雷神の口がかすかに動き、こぼれ落ちるようにその名を呼んだ。


「初めて……初めて名前を呼んでくださいましたね」

 大粒の涙が頬を伝う。おそらく真珠という人間が存在した中で、一番美しく眩しい笑顔を見せたことだろう。

「必ず帰るという約束を守れなくてごめんなさい。どうしても雷神様に会いたくて、私の魂は妖になってしまったようです。……でも、これでやっと私の願いが叶いました。あとは、この少女に浄化してもらってこの世から消えます……雷神様、今度こそ本当に『さよなら』です」


 押し黙って、ただ揺れる瞳で真珠を映していた雷神が俯いて小さく呟いた。


「……消える? どこに……」


 岩場から立ち上がり、ふわりと地面に下り立つ。真珠に向かって手を差し伸べた。


「真珠。こっちに来い」

 その手に導かれるように、小花の体からスッと青火が抜け出した。まだ意識のない小花の体は体の支えを失って、糸の切れた操り人形のようにその場に崩れ落ちる。

 すぐ近くで見守っていたカイリが素早く抱き止めると、「んっ……」と小さな声を出して、ようやく小花は目を覚ました。

 一方、小花の体を抜け出た小さな青火の真珠は、今の姿を雷神に見られることへの羞恥心からか、炎を小さくさせて震え戸惑いながら差し伸べられた雷神の手のひらへと進んでいく。

 指先に触れた瞬間、青火はピタッと動きを止めた。初めて触る雷神の手。一度雷神を見上げるような素振りを見せてから、もぞもぞと手のひらに収まった。

 小さな小さな青火。

 雷神はとても愛おしそうにその炎を見つめ、もう片方の手で頭をなでるようにそっと触れた。すると、驚くべきことに、青火は半透明のほのかに光る人の姿へと形を変えた。

 柔らかなクセのある長い髪が、ふわっと揺れる。

 雷神は真珠を引き寄せると、優しく包み込むように抱きしめた。


「ずっとここにいればいい……お前に会いたかった」

 それは三百年待ち焦がれた言葉。

「私も……雷神様に……会いたかったっ……ずっと、ずっと会いたかった……!!」

 真珠は子供のように声を上げて、雷神の胸の中で涙した――。



 ◇◇◇

 思う存分泣き晴らした真珠は、気持ちが落ち着くと、ここに来るに至った経緯を雷神に説明し始めた。

 白蛇が大蛇として復活して、泰土たいとの町で小花が浄化したこと。大蛇と小花が同化しかけたことで、大蛇の一部となっていた真珠と小花の間に繋がりができたこと。

 そして、悪夢という形になってしまったが、真珠の必死の呼びかけに応じてカイリたちが廃村まで辿り着き、命懸けで真珠を雷神の結界の中に入れてくれたこと。

 奇跡を起こした一連の流れを、真珠は興奮しながら雷神に伝え、雷神は愛おしそうに彼女を見つめたまま頷き耳を傾けていた。


「みんな!!」
 話を終えた真珠が、カイリたちを呼んだ。

「小花、カイリ、時之介、本当にありがとう!! 小花、悪夢を見せ続けてごめんね。きっと、今日からはぐっすり眠れるはずだから」

 妖である真珠は小花たちと抱き合うことはできないため、朗らかな笑みを交わし合った。


「真珠をここまで連れてきてくれたこと、感謝する」

 カイリたちは、雷神の言葉にとんでもないと首を横に振る。真珠はそんな彼らの様子を笑顔で見ていたが、「あっ」と声を漏らした。

「雷神様、さっきはよくも追い返しましたね! 私がどれだけ悲しかったか……」

 横目でじろりと睨む。
「悪かった。俺には青火の違いなどわからん。それに人間の言うことは信じられない」

 カイリと小花は真珠の記憶をふと思い出した。

「でも、この人たちは信じられますよね」
「ああ」

 真珠は「ふふっ」と微笑んだ。



 再び岩場に戻った雷神と真珠は、あれからずっと二人の世界に入って夜中になった今も幸せそうに笑顔を咲かせて話し込んでいる。

 カイリは雷神たちの様子に表情を和らげると、すぐそばで頭を寄せ合って眠る小花と時之介に目を向けた。二人とも、今夜はすべての力を使い果たして疲れただろう。明日の移動は黒狐こっこだろうなとクスリと笑った。

 周りは静まり返っていて、今日の出来事が嘘のように穏やかである。そして、静寂は人にいろいろなことを考えさせるものだ。

 カイリは、当主に相応しい人とはどんな志を持つ者のことを言うのか。また、なんのために自分が術師を続けているのかを改めて考えてみた。

 術師の家門に生まれた彼は、当然のように術師の道を歩んできた。

 幼い頃から厳しい修行に耐えてきたのは、憧れである父に褒められたい、父のような一流の祓除師ふつじょしになりたいという思いがあったからだ。

 決して万人を救いたいという正義感からではない。ましてや知りもしない他人のために命をかけて戦うなど、意味がわからなかった。

 それに加えて、『父の死』はいくら一流の祓除師だと賞賛されようが、愛する妻を残して死んでしまったら何もならならないじゃないかとカイリに思わせた。

(きっと、当主に相応しい人は、自分とは真逆の考えをもっているんだろうな……)


 しかし、今夜黒狐こっこが最後の成長を遂げた時、カイリの考えに変化が起きた。

 命をかけて小花と時之介を守りたい、必ず守らなければと心の底から思った。自分にとって大切な人を守るために強くなりたいと強く願ったのだ。

 今ここにいる小花、時之介のほかにも、目を覚ましてくれた母。

 共に三堂みどうを守り続けてくれる知盛とももり、キョウ、ひびき

 出会ってすぐに手を差し伸べてくれた清流せいりゅう

 カイリを信じて、誰よりも大事に思う小花を託してくれたしゅう

 皆、カイリにとってかけがえのない人たち。


 数年前。十三歳だったカイリが、父に見捨てられたと思ったあの日。

 涙と鼻水でぐちゃぐちゃになりながら、泰土たいとの町を駆け抜けた時に浮かんだ疑問。

『苦しい思いをするのはなんのため?』
『誰のために命をかけて戦うの?』


 あの時の答えはきっと――


『大切な人を守るため』


 そばに居続けてくれる彼らを守るために、カイリは初めて自らの意思で術師でいようと思った。


 そして、一つの悩みが解決すれば、また一つ、新たな悩みが湧き上がる。

 カイリは、今宵妖から出てきた琥珀を取り出してため息をついた。この問題について考えようとしても、カイリの疲労も極限までたまっていてうまく頭が回らない。

 それに、考えられない理由は疲労のせいだけではなかった。小花の記憶の中で聞こえた彼女の声が、何度も頭の中を巡ってカイリの心を乱すからだ。

 琥珀を握った右手を地面に下ろして、すやすやと眠る小花に目をやる。彼女の声は雑音の中でハッキリと言った。


「カイリが好き」と――。
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