―海神様伝説―

あおい たまき

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九章 静香の日記

消えた希望

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 *め……前


 静香の心臓に動悸が走る。
「……なして」
 思わず、口にした静香は、禎子を振り返った。


「なして?おらを誰だと思ってんだ。海神の化身だ。わからねえはずがねえべ。ずっと、めからわかってた。わかってて泳がせてだんだ」
 禎子はそう告げて、静香を睨んだ。静香は、構わず部屋を飛び出す。約束の時間はうに過ぎていた。


「もう遅え、勇はいねえ、しず、こっちゃ戻れ」
 静香の後ろで禎子の奇声が聞こえたが、静香は最早、そんな言葉に耳を貸すほどの余裕がない。


 何をした。禎子は勇に何をした。勇の無事を祈り、ただ、ただ、走り続ける。血だらけの足が、床に触れる度、びたびたと濡れた音が響いた。木床には血の足跡がくっきりとついた。

 廊下を渡りきるのもわずらわしく、静香は庭から外へ飛び出した。外は雨だった。まるで静香の心を反映させたような天候だ。海の向こうの空は稲光すらうかがえる。


 血にまみれた身体を雨が洗い流す。赤いワンピースと化した服は、水と混じり合い静香の肌に吸い付いた。冬の雨は、凍てつくようだ。急速に体温を奪われ、静香の体はかたかたと震えた。


「い、勇さん……、勇さん、勇さんっ」
 雨音に掻き消されそうなほど弱々しい声で叫ぶ、愛しき勇の名。涙が滝のように流れる。足の先は鋭い石で切れ、足の裏は泥にまみれた。そして、静香は到着した……。勇との、約束の場所。



 真っ暗な闇が広がった。荒れた海の音だけが響いている。




 勇の姿は、どこにもなかった。




 ただ、よく見れば勇がいるはずのその場所には、風に飛ばぬよう石で押さえられた紙が置かれている。

 これまでの疲労からか、心の痛みからか。足運びもにぶく、それでも一歩一歩、吸い寄せられるように、地面に置かれた紙の元まで歩いていった。

 雨に濡れた紙は、今にもふやけて破けそうだ。ひとつ、ひとつ、丁寧に開けば、文字が書いてある。水に滲んではいるが、それはまさしく勇のそれだった。







 静香ちゃん、君は優しい子だから、君との結婚を望む私に言えなかったのでしょう。君の家の使いという人に全て教えてもらいました。

 小さな頃から決まった許嫁がいるのだね。私は自らの我欲の為に、君の心を乱してしまいました。君を思い悩ませてしまった事が何より辛く思います。

 聞けば許嫁は、旧家の跡取りだとか。何も持たない死に損ないの私の事等、早く忘れてそちらと一緒になりなさい。

 優しい君の事だから、私の事を気にするでしょうか。けれども私は大丈夫。元より独りきりで生きてきました。君との事は、とても幸せな夢であったと思います。この夢を抱き、私は行きます。

 君は何も気に病む必要はない、そちらさんに幸せにしてもらいなさい。良い人生を送る事を、切に願います。どうか、優しい君のままで。

津角勇





「違えよ……勇さん……」
 静香は、崩れるように膝をつく。許嫁も、旧家の跡取りも全て嘘だ。針ひとつ、刺してやれば、神経の細い勇は自ら瓦解し、静香の元を去る。全て、禎子の算段通りなのだろう。


「おらをひとりにしねえで……後生だよ、勇さんっ」
 静香のたったひとつの光は、雨と消えた。ただ、勇の残した手紙一通をひっしと抱き締める。冷たい雨に濡れながら、静香は必死に勇の温もりを探した。

「勇さん行かねえでけれ、迎えさ来てよぉ」
 静香はせきを切ったように泣いた。うわんうわんと声をあげて泣いた。
「おら、ここさいるよ……勇さん」
 その泣き声は、海鳴りより悲痛に響き、次第に強くなる雨音より、大きく辺りを揺るがせた。





 清三の遺体は不自然だったにも関わらず、自殺と言うことで何の滞りなく処理された。部落の駐在に金を握らせた禎子が、内々に処理させたのだ。

  禎子が心臓を病んで急死したのはそれから一週間後……さらに静香が禎子の後を継ぎ、正式な海神様の化身として祀られたのは、静香が幼なじみの清三と、愛する勇を失ってから、わずか二週間後のことだった。

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