金蘭大夜総会 GoldenOrchidClub

ましら佳

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7.薔薇の帰還

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 快晴の中、船は引き寄せられるように維多利亞港ヴィクトリアハーバーへと入りました。
私は黄緑色のワンピース。
襟と袖にフランスのレースが付いているお気に入り。
髪の毛はきれいに編んで、ママが同じ黄緑色のサテンのリボンを結んでくれました。
数時間前、夜を越えて朝になり、甲板に出た時空気が違うと感じました。
日本の空気は・・・あれはなんの匂いなんでしょう。
わかりますか?桜子ちゃん。
ああ!そう、そうですね。木の匂い、葉っぱの匂い。ちょっとだけ鉱物を感じるやわらかな水の匂い。雨の匂い。お日様の匂い。優しい匂い。
知ってますか。英語でペトリコールという言葉があります。
もとはギリシャ語らしいのだけど。
雨が降った後、大地から湧き上がるあの不思議な匂いを表す言葉で、石のエッセンスという意味だそうです。
すてきね。私は日本の匂いはこれだと思う。
あの時、風が変わった。
そう感じました。
南の風です。スコールの匂い。濃密な花の匂い。
辛いこともあるけれど、それでも抗い難い魅力的な人生の香り。
「ああ。私の可愛いお月さま!・・・香港の匂いがする!」
ママが思いっきり空気を吸いました。
まるで、魚があちこちの海洋を回遊して自分の生まれた海に戻ってきたかのような気分だと言いました。
「これはなんの匂いなの」
ママは笑いました。
「人生と、おカネの匂いよ!」
香港にたくさんあるのは、人間の暮らしとお金だもの。
ママは神戸で暮らしていたときは、お金持ちのお上品な奥様という感じ、ええ、本当に。
ご近所の方も学校の先生も教会の神父様もそう思っていたの。
だって、本当にそういう顔をして、そういう生活、所作をしていたから。
外出先では桜色やうぐいす色の淡い色のワンピース、日本の優しい季節の色のような繊細な色合わせの訪問着をいつも着ていたママが、今では光沢のある絹の向日葵ひまわり色の豪華なドレスを着ていました。
歩くたびに踵の高いぴかぴかの紫色のハイヒールがカンカンと嬉しげに鳴っていた。
ゲランの夜間飛行の香りがママを包んでいました。
「ママ、別の人みたいだわ」
「だって、ママは出戻り女優だもの。このくらいしなくっちゃ」
当然のようにママはそう言うと。
「お月さま、暁子にもらったショーメは?」
「高価で大切なものだもの。大事にしまってあるの」
縮緬の金魚の形の巾着にそっとしまってある。
なんてことでしょう、とママは大げさに嘆いた。
「ちゃんと指にはめておかなきゃ」
「落としたらどうするの?」
何言ってるのよ、とママはエスティローダーのマスカラでいつもの倍もある目を見開いた。
「本当に自分のものだったら、一時いっとき無くしたって戻ってくるのよ。暁子が言ってたわ!だからちゃんと指にはめていてちょうだい。とっても似合っていたもの」
ママはそう言うと、また風を思いっきり浴びました。
お日様色のドレスが風にひらひらと舞って、やっぱりママは熱帯魚だったんだな、と思いました。
維多利亞港ヴィクトリアハーバーはちょうどお昼。
こんなに人がいるのかと思うほどの人々が出迎えていました。
銅羅湾ゴーズウェイベイではジャーディン・マセソン社の午後砲ヌーン・ディ・ガンがドンと打ち上げられ、歓声が上がった。
神戸の出航の時はドラの音だったけれど、今度はラッパの音がしました。
ママはまるで舞台の観客にそうするようにデッキから香港の街並みをぐるりと見回しまた。
彼らが全員自分の出迎えであるかのように満足そうに口元に笑みを浮かべて。
港に降り立つと、私たち母子はいきなり数人の男性に取り囲まれました。
雷のようなフラッシュが焚かれて、早口の広東語や英語で何か質問攻めにされました。
ママは取り立てて驚く様子もなく、私の手を引いて「ええ、戻ってきましたの。皆様にまた舞台でお会いできるのを嬉しく思いますわ」
「香港は相変わらずワクワクしますわねえ。ええ、神戸はとても美しい街でした」
「この可愛いさんは私の娘ですの。私の小さなお月さまですわ」
なんて答えていた。
口々に「お帰りなさい!美しい薔薇の花」そう言われていたのが印象的でしたね。
美しい女性を花に例えて言う表現は多いですが、ママは若い頃から薔薇の花のようだと評されていたらしいの。
そう言われて、ママの目の色が変わったのが分かった。
花のように微笑む、と言うよりあれは、自分の縄張りに戻ってきた虎の目ですね。
その後は「それではごきげんよう。ごめんあそばせ」と気取って言うと、迎えに着ていた黒塗りのパッカードに向かいました。
私を先に車に押し込むと、自分もひまわり色の裾をなびかせて、ひらりと車に乗り込みました。車窓から、群衆に手を振って微笑む姿は、まさに女優でした。
私は何が起きたのかうまく飲み込めず、ただただ騒ぎにびっくり仰天して、静かにしっとりした革張りの椅子にもたれていました。
運転手のまだ少年のような男の子が楽しげに鼻歌を歌っていました。
助手席のスーツを着た青年がくるりと振り返りました。
端正な顔立ちの男性。
「おかえり。俺達の太陽!」
「ああ!大哥にいちゃん!会いたかったわ!」
そう言うと、ママは青年の首に抱きつきました。
「やあ、久しぶり。君も帰って来たね、私達のお月さま!」
彼はそう言うと、私くらいある大きな花束と、これまた大きなリボンのついたチョコレートの入った箱を渡したの。
「飲茶にするか?シャンパンを飲みに行くか?ああ、服も仕立てに行かなきゃ!暁子がフランスから生地をいくつか送ってきた。上等のリヨンレースにワイン色のタフタ!」
大哥はこれはやはり暁子が送って来たイタリア製の生地で仕立てたばかりのスーツなのだと自分のジャケットを見せた。
「あら、ステキ!太郎ちゃんも同じ生地のスーツ着てたわ。あっちはジャケット、ダブルだったけど」
俺も、もう一着ダブルでジャケット作るか、と大哥は少し考え込んだ。
「皆、待ってる、顔を見せに行かなきゃあ」
大哥は早口であれもこれもと提案して来た。
「いいわね!全部行く!やっと帰って来たんだもの!」
ママが上機嫌で手を叩いた。
「お月さま!これから楽しいこといっぱいよ!」
ママが私を抱きしめた。
それから私の目のくらむような少女時代が始まりました。
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