金魚の記憶

ましら佳

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1.

30.アニス

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 結局、公太郎はその後、警察や消防や駆けつけた保険屋と話をする為に慌ただしく過ごし、その晩は桃の部屋に滞在した。

踏んだり蹴ったりとはこの事だと桃はさすがに気の毒になった。
有り合わせの材料でこしらえた寄せ鍋を前にして「とりあえず、今度、お祓いに行かない?」と言うと、彼もまた理系はずで神頼みや厄払いには懐疑的なタイプであったはずだが、天啓を受けたように頷いたのだから、相当参っていたのだろう。

そして、その夜、二人は10年以上の付き合いで初めて一線を越えた。

破局を受け入れられないとか、新機一転するつもりも何も、全てが全て破壊されようなショックな事件を経験して、もうここから新しく積み上げるしかないと公太郎は思い切ったようだ。

「・・・人生は、スクラップアンドビルトだな」
「ハム太郎が言うと、説得力がある・・・じゃあ、私はトライアンドエラーだな・・・」

桃はため息をついた。
実験が全然うまくいかない。

「10回でダメなら11回、100回でダメなら101回、ね」

やれやれ、と桃はベッドから体を起こした。
名残惜しそうに公太郎は一度桃の腕を引っ張ったが、桃が壁の時計を示すと、慌てて飛び起きた。

おにぎりと卵焼きを作り、自分は作りながら食べてしまうと、残りを適当に皿に盛った。

「ご飯置いておくね。後、サンドイッチ持って行ってね」

そう言って、冷蔵庫に入れてあったジップバック入りのサンドイッチを1つバッグにしまい、もう一つをテーブルに置いた。

「わかった」

公太郎がシャワーを済ませて、テーブルについたのと入れ違いに桃も浴室へと入った。
今お気に入りのグレープフルーツのボディーソープの匂い。
苦みかん臭い、と言いながらも、公太郎も愛用しているようだ。

「・・・なあ、それ、なんて書いてあんの?」

桃はシャワーを済ませて浴室を出ると、洗面所にいた公太郎が、桃から香るグレープフルーツの芳香に気づいて言った。
柑橘系のイラストが描いてあるやたら洒落た容器のボディソープ。
あまりにもリアルな果汁感で、最初はぽん酢でも被っているような気がして不安だったが、今は気に入っていた。

「ああ、ソルベ・オ・パンプルムース。フランス語でグレープフルーツのシャーベットね。ほら、フランス人のパティシエの友達がいるって言ったでしょ?会社でこういう部門も始めたんだって。送ってくれたの。グレープフルーツのシャーベットをイメージした商品らしいよ」
「ふーん、最近のお菓子屋さんは手広くやってんだなあ」

フランスらしく、素材をそのままズバリではなく、アニスの風味がブレンドされている、繊細で個性的な香りだった。

アニスはちょっと清涼感のあるやわらかなスパイシーな香りで、あまり日本人には馴染みがないかもしれないが、料理の他にお菓子にも使われていて、桃としては友人の彼女と共に子供時代を思い出す懐かしいものでもあった。

「クッキーとかにたまに入ってたりするんだけど」
「ふーん。この匂い、桃みたいな匂いするもんなあ」
「え?やだ?くさい?」
「違う、臭いとかではなくて。なんつうか・・・たまらなくなる匂い」

そのまま公太郎に捕まり、またベッドへ逆戻りとなった。

ベッドの上で、公太郎が時計をもう一度見た。

「あー、遅刻だな。まあいいや・・・午後から行くか」
「・・・不真面目」
「真面目です。有給なんかまだ10日も余ってるわ」
「休まないのと真面目なのは違うのよ」

桃は公太郎の上に乗ると、柔らかく脚を動かした。
公太郎が桃の腰を抱いた。

「・・・こら・・・桃・・・。・・・あー、いいわ・・・いや、ダメだわ・・・。これじゃ午後から行けるかどうか・・・」
「・・・午後から行かなきゃ最早休みでしょうが。ちゃんと仕事行って!」

桃が笑いながら、公太郎の首に手を回した。



 桃は余韻もそこそこに今度こそ遅刻する!と慌ててまたシャワーを浴びて部屋を飛び出して行った。
桃の体の甘さを味わって、公太郎はようやく再びベッドから起き上がった。

大人になったんだな、と改めて思う。
最初に引き合わされた頃は宇宙人だったのに。
学生時代、孫娘に普通の日本語を教えて欲しいとヴィゴに言われ、時給2000円、食事付きに惹かれてバイトを引き受けたのだけど。
いくら海外育ちと言ったって、ハーフ子役くらいの状態なんだろうと思っていたのが甘かった。
口を開けば、ちゃんぽんの言葉。
買いてみろと言えば、またしてもアルファベットや、見て覚えたらしき、ひらがなや片仮名、香港や台湾で使われている、明治時代みたいな繁体字《昔の漢字》が出てくる。

・・・だいぶヤバい、と気付いて、とにかく繰り返して子供教育番組を見せ、日本に居ない時期は買い込んだドリルをやるように言い聞かせた。
自分と家族の名前を、平仮名、片仮名、漢字で書けるようにと指導していた時、自分の名前も教えろと言われて、書いてみせると、桃ははっとしていた。

「・・・コウタロウって、公太郎って書くの・・・?もしかして・・・ハム太郎なの・・・?」

お前は実は憧れのハムスターのキャラクターなのかと言われた時はどうしようかと思った。
それ以来、自分はハム太郎と呼ばれているわけだが。

とにかくその教育が生きて、数年もすれば、地元の学校に通えるくらいになったわけで。
そして、今や大学院生だ。
薔子そうこは社会に早く出ろという教育方針であったが、ヴィゴも自分も、それは桃に向いていないのでは、と思っていた。
コミニュケーション能力はあるし、気が回るし、仕事も覚えてしまえば身につくタイプ。

しかし、何というか、全くイメージ出来ない。
あいつ、何の仕事するの??
と不思議になる。

せっかく多言語話者マルチリンガルなんだから、たとえばCAさんとか、と薔子そうこは夢見るように言っていたが、桃が?!とつい吹き出してしまった。
女子校育ちだし、女の世界で育って来たけれど、男の社会でも、女の社会でも戦えるタイプではないだろう。
自分たちが桃に教えたのは、世の中を泳いで行く事だけ。

テーブルの上に、桃の指導教官でもある豊花ゆたか教授からの指摘事項、感想、疑問点が書き込まれたメモが積み重ねてあった。
桃が走り書きしたのだろう、愛用する黄色いリーガルパッドのメモ用紙に青いボールペンの字。
懐かしいな、と公太郎はメモをめくった。
自分がゼミ生だった時もそうだった。
教授は、優しいけれど出す課題が多いタイプ。
厳しいけれど課題が少ない、学生の才能や努力を引き出すタイプの桃の祖父とは逆だ。
確かに、桃は日々鍛えられているなあと実感する。

豊花ゆたかセンセイ、育てるタイプだからなあ。

ある程度以上ではないとついていけないヴィゴの門弟は、間口が広いが、その後、振り落とされた者も多い。
豊花ゆたかの場合、そもそも間口が狭いのだが、彼の課題についていけばなんとかある程度以上になれる。

桃に求められているのは、ある程度以上、そして、ヴィゴ同程度の能力だ。

だけど、あんなジイさん、2人もいたら大変じゃないか。
いや、いるか。

エンマ・オルソン。
性格は、母親である薔子そうこに似ているが、スキルはヴィゴで間違いない。
スウェーデン時代の同僚達からは「ボルボにトヨタやホンダの最新技術が載っかった」と言うのが彼女の評価らしい。
そんなのもう車じゃない。AI搭載戦車だろう。

年上の彼女に、二十歳そこそこから十年ほど夢中になって、付き合った期間は正味2年程。
けれど、そんなのは問題じゃない。
夢中だったんだから。

ここ数年、エンマに会えるのは、正月の数時間だけ。
けれど、それでも良かった。
これではお互いのためにならないからと言われても、それでいいと縋り付いていたのは自分。
だが、決定的な別れを切り出されて、ショックだったけれど、当然だよな、とも思う。

そして。今、その娘の桃と、こうなった。

下世話な言葉で言えば、いわゆる親子丼。
うわ、キッショ。
年頃の娘ならそう思う方が普通ではないだろうか。
けれど、桃は受け入れた。

突然、結婚するかもと聞いた時は驚いたけど。
またもいきなり、結婚無くなったと言われた時は妙に納得してしまった。

何があったのかは知らないけど。

相手はどこかのボンボンらしい。
何かされたのかと聞いたが「違う、私が相応ふさわしくなかっただけ、彼にも、皆にも迷惑かけちゃった」とだけ言っていた。
だから、それ以上、何があったのかを聞くつもりはないけれど。

いろいろ受け入れ過ぎ、なんだよなあ。

だから、自分と付き合う事になったわけだけど。
それでも、悪くないと、素直に思うのだ。

ベッドと自分の体からグレープフルーツとアニスの残り香がした。
そのアニスがなんなのかよく分からないけれど。
お前の匂いがする、たまらなくなる匂いがすると言われて、アニスは、日本で言う山椒の実とか?と答えたのだから、全く桃は色気のない事だ。
なんとなく惜しい気もしたが、シャワーをもう一度して行くかとベッドから出た。

冷蔵庫からサンドイッチを取り出してバッグに突っ込むと、軽やかな気分で部屋を出た。
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