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辺境伯領の真実
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(2022.03.27改稿)
二月後、領地受け取りの使者が現れた。やって来たのは前回と同じ使者だった。本来は後任の貴族が直接来る予定だったのだが、山道で往生して遅れているという。下級貴族のこの男は今回は護衛として同行しており、事情説明のために先行してきたのだ。
屋敷の前庭で出迎えた辺境伯は、前回とは別人のようだった。厚手の布地で作られたシャツとトラウザースに年代物の革の胸当てと籠手、ブーツを付け、旅用のマントを羽織っていた。帽子の代わりだろうか、尼僧のように頭から顎の下まで布を巻き、露出している肌は顔のみ。腰には反った長剣を佩いている。働きの場(戦場)を求めて旅をする、流しの傭兵のような出で立ちだ。しかも、辺境伯はただ剣士の恰好をしているだけではなく、装束は着慣れているのがわかる。傭兵隊の歴戦の女指揮官と言われても、まったく違和感が無かった。
使者は内心で(うぅむ)と唸っていた。前回見たときは物静かな貴婦人にしか見えなかったが、女性ながらも辺境伯の名を継ぐだけの力量は持っているということだろうか。
気になったのはそれだけではない。脇には大きな背嚢が置かれているが、供回りは誰もいない。それどころか、家臣らしき者は誰一人見送りにすら出てきていない。
使者は訝し気に声をかけた。
「お一人なのですか?」
「えぇ」
「いや、しかし…」
「この地を任されて以来、私はずっと一人でしたので」
そう言いながら、促され領地引渡の書面を渡した。辺境伯は一読してサラサラとサインをして使者に返した。
サインを確認し、部下に書類を引渡した使者に、辺境伯は一振りの剣を差し出した。
「これは?」
「綬爵の際に、陛下よりこの地の指揮権の証として賜りました。これもお返しいたします」
ぎょっとして剣を受け取る。確かに、鞘と柄頭に王家の紋章が刻まれている。
使者は益々判らなくなった。
辺境伯は侯爵と同格の高位貴族であり、有事には独自に軍を起こし戦闘する指揮権を委ねられている。だが、この領地には指揮すべき兵など一人も居ない。何故こんな最果ての小さな領地に辺境伯が任じられ、更に王家の剣を授与されているのだ?北の王国は山脈を越えてまでこの王国を攻めるような野心を見せたことは一度も無い。いったい辺境伯は、たった一人で何から王国を守っていたというのだ。
砦のような、聖堂のような石造りの屋敷には、確かに人の気配がない。屋敷の下の段々畑では、相変わらず無表情な農民が黙々と働いている。誰も領主の交代に興味が無いようだった。
「失礼ですが、ご家族もいらっしゃないので?」
「えぇ、一人もおりません」
「……先日来た時には、執事とおぼしき男がおりましたが……」
「あぁ、彼は屋敷の管理人です。どちらかと言えば、私がこの屋敷に間借りしていたようなものでして、別に私の雇人などでは無いのです」
「はぁ?」
この屋敷が借家?辺境伯が借家住まい?
「屋敷も農地も彼が全て管理していますので、何もする必要はありません。ただ、その分彼に払う報酬には御苦労されるかもしれませんね。お気をつけて」
「あっ、まだお聞きしたいことが……」
辺境伯は、背嚢を背負うと困惑する使者に背を向け、振り返りもせず山道を登って行った。山を越え北の隣王国に入るつもりらしい。下山するとばかり思っていた使者は、引き留めようとして果たせなかった。この地を引き継ぐ貴族が向かっていると先触れがあったのだ。使者は困惑した表情で、辺境伯の去った山道と石造りの館を見た。何もかもが判らないことばかりだった。
日が傾いた頃、僅かな平地で火を焚き野営の準備していた辺境伯は、山道を登って来た王国の兵に囲まれた。後ろで、いかにも王国貴族という派手な服装の男が息を切らせている。自分の後任の貴族かその名代だろうと辺境伯はアタリを付けた。態々追って来た理由に心当たりはあるが、もうそんな事はどうでも良かった。(軟弱貴族かと思ったが、この高山に自力で登って来たのだから大したものだ…)等と、益体も無い事を考えている。何しろ、もう自分はこの国とは何の縁も無いはずなのだ。
「辺境伯、いったいどういうことなのです、説明していただきたい」
厳しい顔をした使者の男が言った。よほど慌てているのか、主旨の判らない言葉になっている。辺境伯は苦笑した。
「どうと言われましても、いったい何をお聞きになりたいのです?」
「あの執事は、魔族ではありませんか、あの男一人のために、二桁に上る兵が、死ぬか深手を負わされたのですぞ、なぜそれを黙っていたのです。あなたは一体あそこで何をなさっていたのです!?」
辺境伯は、何を今更と言わんばかりに肩をすくめた。
「私は、王により辺境伯と征北将軍に任じられ、王国を脅かす魔族と戦っておりました。今、王によりその任を解かれた。それだけのことです。私の素性も、彼が魔族であることも、全て報告してあります。あなたが知らなかっただけで、私が黙っていた訳ではありません」
使者は後ろの貴族をを振り返って見た。
貴族は慌てて首を振る。この男も何も知らないらしい。
「あなたが戦っていたのは、あの執事の男だといういうのですか?」
「えぇ。あの魔族は変わり者で、人の命を刈り取ることには興味が無く、ただ戦い…試合と言っても良いですね…を楽しみたいのです。その辺の魔力を吸って生きているので、人を喰う必要は無いと言っていましたよ。かなりの使い手ですが、勝てないまでも、楽しませることができれば次の機会をくれますし、屋敷と農地は彼と眷属、畑に居た農民ですが…維持してくれます。良い戦いができれば褒美に魔法の石をくれることもありますよ」
「ならば、即刻屋敷に戻り、あの男を抑えていただきたい」
「はっきりとお断りいたします。私は既に辺境伯ではありませんので」
「魔族の男は、『自分を満足させる戦いができないのならば帰る。その後は屋敷の奥の門から次の魔族が湧いてくる、そいつは人を食うヤツかもしれない。』そう言っていました。それを放っておくつもりですか」
「そのことも報告してあります。その上で私は役目を解かれたのですよ?今更あそこに縛り付けられるつもりはありませんよ」
「王命に逆らうおつもりか」
「王命とは、私の任を解き、あの地を直轄地とすることではありませんか。それに、私に命じることができるのは、賢王その人のみです。それ以外の命に従うつもりはありません」
使者は、辺境伯の言うことが理解できない。
賢王とは、この地に辺境伯を封じた二代前の王の諡号だ。既に崩御して久しい。しかも賢王の命のみ聞くと言いながら、王命には従って領地も爵位も放棄しているではないか。
「ではなぜ、領地没収の命に従ったのです」
「見捨てて良いと賢王がおっしゃったからですよ」
「なんですと?」
「使者殿、もうここまでだ。その女には是が非でも屋敷に戻ってもらわねばならん、力づくでもな」
後ろの貴族の男が苛ついた顔で前に出て来た。槍を持った兵がわらわらと辺境伯を囲む。
「あの男に歯が立たぬ貴方方が、力づくで私を従えると?冗談にしてもたちが悪いですわね」
辺境伯はゆっくりと立ち上がるとマントを外し、頭に巻いていた布を解いて脱ぎ去った。
その姿を見て、使者も、貴族も、兵たちも息を呑んで固まった。
辺境伯の結い上げられた髪の生え際。額に二本の短い角が生えていたのだ。
「ば、馬鹿な…鬼人…だと?」
貴族の声が擦れていた。
鬼人は一騎当千の戦闘力で知られた種族だが、今はほとんど姿を見せなくなり、既に伝説の存在になっている。だが、鬼人一人を抑えるには、只人の中隊以上が必要という言説は今に残っている。そして鬼人は只人よりも遥かに長命であるのだという。
「ま、まさか貴女が初代の……」
「先程、私の素性も報告してある…と申し上げましたよ。知らないは通じません」
言いながら太刀を抜く。
今までの彼女の言動が、全て腑に落ちた。この鬼人の女が、100年前にこの地に封じられた辺境伯その人だったのだ。
と、なれば、彼らは何も知らず、自ら王国の護りを追いやってしまったのだ。とんでもない大失態である。
「くそっ、殺せ」
錯乱したかのように貴族が叫んだ。
辺境伯領の没収は勅命である。賢王に封じられ100年の間王国を魔族から護っていた鬼人を、孫である今上が知らずに追い払ってしまったなどという話が広まれば、王の権威は失墜する。どうにかしてこの鬼人をの口を封じ、事実を隠蔽するしかない。魔族の事はその後だ。
囲んだ兵が一斉に突きかかった。辺境伯…鬼人は、突き出される鑓の間に身体を滑り込ませると、鑓を片手で掴み、そのまま力任せに引き寄せる。たたらを踏んだ兵は、片手で無造作に振られた太刀で上半身が胸甲ごと真っ二つになった。有り得ない光景に兵の動きが止まる。辺境伯は両手で太刀を握り直すと、凄まじい速さで振り回した。刃が煌めくたびに、肉も骨も、いや、鋼さえも。武器と言わず甲冑と言わず細切れになって飛び散る。
兵たちは、悲鳴を上げ青ざめた顔で鬼人から後ずさる、何人かはそのまま尻もちをついた。
「ヒュッ」
気合と共に兵たちの間から、剣を抜いた使者が前に出る。確かに恐るべき膂力だが、明らかに力まかせの剣だった。ならどうとでもやりようはある。神速と言える速度でフェイントを交えた剣が繰り出された。だが、鬼人の太刀はそのすべてを受け流した。そのまま使者の剣は絡みつくように鬼人の剣から離れない。剣がからめ取られると感じた使者は、強引に剣を引き後ろに下がった。絡んだ剣が離れ鋼が火花となって飛び散る。
使者は、驚愕した目で鬼人を見た。鬼人は口の端を僅かに上げていた。使者の背を嫌な汗が流れる。鬼人はわざと兵を雑に殺した。技を使うほども無い相手だからだ。使者に対しては、力だけでなく技も速度も自分が上だと示して見せた。
…自分ではこの鬼人は斬れない。それが今の一合だけで判った。
「どうした使者殿、ヤツを斬らぬのか」
「やめておきなさい。あなた達を生かしているのは、そこのそれを片付ける人手が要るだろうと思ったからにすぎませんよ?」
鬼人は周りに飛び散る兵の成れの果てを顎で示した。
そこまで言われても、使者は斬り掛かることができなかった。鬼人の言うことがハッタリなどではなく、事実だと身をもって知ったからだ。
誰も動かないのを見ると、辺境伯は手ぬぐいを取り出して太刀を拭い鞘に収めた。警戒を緩めることなくマントを身につけると、荷物を背負直す。
「今回は、貴方方は見逃しておきます。次に出会ったら皆殺します。私は何も話す気は無いから安心しなさい。……それと、使者殿なら少し頑張れば、あの魔族を満足させることができるんじゃないかしらね」
最後は意地悪そうに笑って去る辺境伯を、王国の兵達は呆然と見送るしか無かった。
暮れようとする夕日の下、兵たちは青い顔で同僚だった物の欠片を集めていた。
貴族の男はそれを忌々しい顔で見ている。全く予想外だった。魔法の武具や、山奥とは思えない穀物の収穫があればこそ、喜々として領地を受け取ったのだ。その代償が魔族と戦って満足させることなど想像すらできなかった。あの強力な魔族に拮抗する兵力など、こんな山奥で維持できる訳が無い。かといって一度領地を受け取ってしまった以上、王家に泣きついたら、いい笑いものである。
だが、ふと鬼人の最後の言葉を思い出した。確かに使者は下位貴族ながら勅使に選ばれるほどの剣の手練れだ。彼ならば…
「使者殿、あの魔族を…」
そこまで言ったところで、貴族の男は自分の首が宙を飛んでいることに気づいた。力なく膝から崩れた胴体を使者の剣が更に真っ二つにする。
作業していた兵が異変に気づいたが、悲鳴を上げる間もなく全員斬り殺した。
「…ったく、余計なこと言いやがって。要らねぇ殺しをする羽目になったじゃねぇか…」
悪態をつきながら、集められていた遺体を再度散らし、使者は夕暮れの山道を辺境伯の屋敷に駆け戻った。主が戻らず右往左往する兵に、『辺境伯の正体は鬼人だった。主と従った兵が皆殺しになった』と告げた。翌朝、バラバラになった主と同僚を発見して混乱する兵を後目に『報告のために一旦王都に戻る』と言い残して山を降りると、使者はそのまま逐電した。
(なにが『少し頑張れば』だよ…)鬼人の言う通り、自分が王国でも手練の剣士だという自負はあったが、命を削るような修練を積まねばとても鬼人には及ばない。魔族の執事は、その鬼人と互角以上の力量なのだ。そして、そこまでして魔族と戦ったとて、王国が報いてくれるとは到底思えなかった。下手をしたら『辺境伯に陞爵してやるから感謝して励め』と言われかねない。
使者には、100年も一人で魔族と戦い続けた鬼人が理解できなかった。(辺境伯だと?人身御供の間違いだろ)とさえ思っている。彼女の代わりに山奥で魔族の相手をし続けるなど真っ平御免だった。使者にとって剣の腕は楽に生きるための道具であり、終わりの無い戦いなど求めてはいないのだ。山奥に縛り付けられて生涯戦い続けるくらいなら、国を捨てた方がマシだ。
魔族の出現を抑えていたのも、山奥とは思えない作物の収穫も、魔法の武具も、魔族の執事を満足させればこそだった。当主を失った貴族家一家でどうこうできる話ではない。王国は魔族対策のために、大きな予算と兵力を投入し続ける羽目になる。
二月後、領地受け取りの使者が現れた。やって来たのは前回と同じ使者だった。本来は後任の貴族が直接来る予定だったのだが、山道で往生して遅れているという。下級貴族のこの男は今回は護衛として同行しており、事情説明のために先行してきたのだ。
屋敷の前庭で出迎えた辺境伯は、前回とは別人のようだった。厚手の布地で作られたシャツとトラウザースに年代物の革の胸当てと籠手、ブーツを付け、旅用のマントを羽織っていた。帽子の代わりだろうか、尼僧のように頭から顎の下まで布を巻き、露出している肌は顔のみ。腰には反った長剣を佩いている。働きの場(戦場)を求めて旅をする、流しの傭兵のような出で立ちだ。しかも、辺境伯はただ剣士の恰好をしているだけではなく、装束は着慣れているのがわかる。傭兵隊の歴戦の女指揮官と言われても、まったく違和感が無かった。
使者は内心で(うぅむ)と唸っていた。前回見たときは物静かな貴婦人にしか見えなかったが、女性ながらも辺境伯の名を継ぐだけの力量は持っているということだろうか。
気になったのはそれだけではない。脇には大きな背嚢が置かれているが、供回りは誰もいない。それどころか、家臣らしき者は誰一人見送りにすら出てきていない。
使者は訝し気に声をかけた。
「お一人なのですか?」
「えぇ」
「いや、しかし…」
「この地を任されて以来、私はずっと一人でしたので」
そう言いながら、促され領地引渡の書面を渡した。辺境伯は一読してサラサラとサインをして使者に返した。
サインを確認し、部下に書類を引渡した使者に、辺境伯は一振りの剣を差し出した。
「これは?」
「綬爵の際に、陛下よりこの地の指揮権の証として賜りました。これもお返しいたします」
ぎょっとして剣を受け取る。確かに、鞘と柄頭に王家の紋章が刻まれている。
使者は益々判らなくなった。
辺境伯は侯爵と同格の高位貴族であり、有事には独自に軍を起こし戦闘する指揮権を委ねられている。だが、この領地には指揮すべき兵など一人も居ない。何故こんな最果ての小さな領地に辺境伯が任じられ、更に王家の剣を授与されているのだ?北の王国は山脈を越えてまでこの王国を攻めるような野心を見せたことは一度も無い。いったい辺境伯は、たった一人で何から王国を守っていたというのだ。
砦のような、聖堂のような石造りの屋敷には、確かに人の気配がない。屋敷の下の段々畑では、相変わらず無表情な農民が黙々と働いている。誰も領主の交代に興味が無いようだった。
「失礼ですが、ご家族もいらっしゃないので?」
「えぇ、一人もおりません」
「……先日来た時には、執事とおぼしき男がおりましたが……」
「あぁ、彼は屋敷の管理人です。どちらかと言えば、私がこの屋敷に間借りしていたようなものでして、別に私の雇人などでは無いのです」
「はぁ?」
この屋敷が借家?辺境伯が借家住まい?
「屋敷も農地も彼が全て管理していますので、何もする必要はありません。ただ、その分彼に払う報酬には御苦労されるかもしれませんね。お気をつけて」
「あっ、まだお聞きしたいことが……」
辺境伯は、背嚢を背負うと困惑する使者に背を向け、振り返りもせず山道を登って行った。山を越え北の隣王国に入るつもりらしい。下山するとばかり思っていた使者は、引き留めようとして果たせなかった。この地を引き継ぐ貴族が向かっていると先触れがあったのだ。使者は困惑した表情で、辺境伯の去った山道と石造りの館を見た。何もかもが判らないことばかりだった。
日が傾いた頃、僅かな平地で火を焚き野営の準備していた辺境伯は、山道を登って来た王国の兵に囲まれた。後ろで、いかにも王国貴族という派手な服装の男が息を切らせている。自分の後任の貴族かその名代だろうと辺境伯はアタリを付けた。態々追って来た理由に心当たりはあるが、もうそんな事はどうでも良かった。(軟弱貴族かと思ったが、この高山に自力で登って来たのだから大したものだ…)等と、益体も無い事を考えている。何しろ、もう自分はこの国とは何の縁も無いはずなのだ。
「辺境伯、いったいどういうことなのです、説明していただきたい」
厳しい顔をした使者の男が言った。よほど慌てているのか、主旨の判らない言葉になっている。辺境伯は苦笑した。
「どうと言われましても、いったい何をお聞きになりたいのです?」
「あの執事は、魔族ではありませんか、あの男一人のために、二桁に上る兵が、死ぬか深手を負わされたのですぞ、なぜそれを黙っていたのです。あなたは一体あそこで何をなさっていたのです!?」
辺境伯は、何を今更と言わんばかりに肩をすくめた。
「私は、王により辺境伯と征北将軍に任じられ、王国を脅かす魔族と戦っておりました。今、王によりその任を解かれた。それだけのことです。私の素性も、彼が魔族であることも、全て報告してあります。あなたが知らなかっただけで、私が黙っていた訳ではありません」
使者は後ろの貴族をを振り返って見た。
貴族は慌てて首を振る。この男も何も知らないらしい。
「あなたが戦っていたのは、あの執事の男だといういうのですか?」
「えぇ。あの魔族は変わり者で、人の命を刈り取ることには興味が無く、ただ戦い…試合と言っても良いですね…を楽しみたいのです。その辺の魔力を吸って生きているので、人を喰う必要は無いと言っていましたよ。かなりの使い手ですが、勝てないまでも、楽しませることができれば次の機会をくれますし、屋敷と農地は彼と眷属、畑に居た農民ですが…維持してくれます。良い戦いができれば褒美に魔法の石をくれることもありますよ」
「ならば、即刻屋敷に戻り、あの男を抑えていただきたい」
「はっきりとお断りいたします。私は既に辺境伯ではありませんので」
「魔族の男は、『自分を満足させる戦いができないのならば帰る。その後は屋敷の奥の門から次の魔族が湧いてくる、そいつは人を食うヤツかもしれない。』そう言っていました。それを放っておくつもりですか」
「そのことも報告してあります。その上で私は役目を解かれたのですよ?今更あそこに縛り付けられるつもりはありませんよ」
「王命に逆らうおつもりか」
「王命とは、私の任を解き、あの地を直轄地とすることではありませんか。それに、私に命じることができるのは、賢王その人のみです。それ以外の命に従うつもりはありません」
使者は、辺境伯の言うことが理解できない。
賢王とは、この地に辺境伯を封じた二代前の王の諡号だ。既に崩御して久しい。しかも賢王の命のみ聞くと言いながら、王命には従って領地も爵位も放棄しているではないか。
「ではなぜ、領地没収の命に従ったのです」
「見捨てて良いと賢王がおっしゃったからですよ」
「なんですと?」
「使者殿、もうここまでだ。その女には是が非でも屋敷に戻ってもらわねばならん、力づくでもな」
後ろの貴族の男が苛ついた顔で前に出て来た。槍を持った兵がわらわらと辺境伯を囲む。
「あの男に歯が立たぬ貴方方が、力づくで私を従えると?冗談にしてもたちが悪いですわね」
辺境伯はゆっくりと立ち上がるとマントを外し、頭に巻いていた布を解いて脱ぎ去った。
その姿を見て、使者も、貴族も、兵たちも息を呑んで固まった。
辺境伯の結い上げられた髪の生え際。額に二本の短い角が生えていたのだ。
「ば、馬鹿な…鬼人…だと?」
貴族の声が擦れていた。
鬼人は一騎当千の戦闘力で知られた種族だが、今はほとんど姿を見せなくなり、既に伝説の存在になっている。だが、鬼人一人を抑えるには、只人の中隊以上が必要という言説は今に残っている。そして鬼人は只人よりも遥かに長命であるのだという。
「ま、まさか貴女が初代の……」
「先程、私の素性も報告してある…と申し上げましたよ。知らないは通じません」
言いながら太刀を抜く。
今までの彼女の言動が、全て腑に落ちた。この鬼人の女が、100年前にこの地に封じられた辺境伯その人だったのだ。
と、なれば、彼らは何も知らず、自ら王国の護りを追いやってしまったのだ。とんでもない大失態である。
「くそっ、殺せ」
錯乱したかのように貴族が叫んだ。
辺境伯領の没収は勅命である。賢王に封じられ100年の間王国を魔族から護っていた鬼人を、孫である今上が知らずに追い払ってしまったなどという話が広まれば、王の権威は失墜する。どうにかしてこの鬼人をの口を封じ、事実を隠蔽するしかない。魔族の事はその後だ。
囲んだ兵が一斉に突きかかった。辺境伯…鬼人は、突き出される鑓の間に身体を滑り込ませると、鑓を片手で掴み、そのまま力任せに引き寄せる。たたらを踏んだ兵は、片手で無造作に振られた太刀で上半身が胸甲ごと真っ二つになった。有り得ない光景に兵の動きが止まる。辺境伯は両手で太刀を握り直すと、凄まじい速さで振り回した。刃が煌めくたびに、肉も骨も、いや、鋼さえも。武器と言わず甲冑と言わず細切れになって飛び散る。
兵たちは、悲鳴を上げ青ざめた顔で鬼人から後ずさる、何人かはそのまま尻もちをついた。
「ヒュッ」
気合と共に兵たちの間から、剣を抜いた使者が前に出る。確かに恐るべき膂力だが、明らかに力まかせの剣だった。ならどうとでもやりようはある。神速と言える速度でフェイントを交えた剣が繰り出された。だが、鬼人の太刀はそのすべてを受け流した。そのまま使者の剣は絡みつくように鬼人の剣から離れない。剣がからめ取られると感じた使者は、強引に剣を引き後ろに下がった。絡んだ剣が離れ鋼が火花となって飛び散る。
使者は、驚愕した目で鬼人を見た。鬼人は口の端を僅かに上げていた。使者の背を嫌な汗が流れる。鬼人はわざと兵を雑に殺した。技を使うほども無い相手だからだ。使者に対しては、力だけでなく技も速度も自分が上だと示して見せた。
…自分ではこの鬼人は斬れない。それが今の一合だけで判った。
「どうした使者殿、ヤツを斬らぬのか」
「やめておきなさい。あなた達を生かしているのは、そこのそれを片付ける人手が要るだろうと思ったからにすぎませんよ?」
鬼人は周りに飛び散る兵の成れの果てを顎で示した。
そこまで言われても、使者は斬り掛かることができなかった。鬼人の言うことがハッタリなどではなく、事実だと身をもって知ったからだ。
誰も動かないのを見ると、辺境伯は手ぬぐいを取り出して太刀を拭い鞘に収めた。警戒を緩めることなくマントを身につけると、荷物を背負直す。
「今回は、貴方方は見逃しておきます。次に出会ったら皆殺します。私は何も話す気は無いから安心しなさい。……それと、使者殿なら少し頑張れば、あの魔族を満足させることができるんじゃないかしらね」
最後は意地悪そうに笑って去る辺境伯を、王国の兵達は呆然と見送るしか無かった。
暮れようとする夕日の下、兵たちは青い顔で同僚だった物の欠片を集めていた。
貴族の男はそれを忌々しい顔で見ている。全く予想外だった。魔法の武具や、山奥とは思えない穀物の収穫があればこそ、喜々として領地を受け取ったのだ。その代償が魔族と戦って満足させることなど想像すらできなかった。あの強力な魔族に拮抗する兵力など、こんな山奥で維持できる訳が無い。かといって一度領地を受け取ってしまった以上、王家に泣きついたら、いい笑いものである。
だが、ふと鬼人の最後の言葉を思い出した。確かに使者は下位貴族ながら勅使に選ばれるほどの剣の手練れだ。彼ならば…
「使者殿、あの魔族を…」
そこまで言ったところで、貴族の男は自分の首が宙を飛んでいることに気づいた。力なく膝から崩れた胴体を使者の剣が更に真っ二つにする。
作業していた兵が異変に気づいたが、悲鳴を上げる間もなく全員斬り殺した。
「…ったく、余計なこと言いやがって。要らねぇ殺しをする羽目になったじゃねぇか…」
悪態をつきながら、集められていた遺体を再度散らし、使者は夕暮れの山道を辺境伯の屋敷に駆け戻った。主が戻らず右往左往する兵に、『辺境伯の正体は鬼人だった。主と従った兵が皆殺しになった』と告げた。翌朝、バラバラになった主と同僚を発見して混乱する兵を後目に『報告のために一旦王都に戻る』と言い残して山を降りると、使者はそのまま逐電した。
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使者には、100年も一人で魔族と戦い続けた鬼人が理解できなかった。(辺境伯だと?人身御供の間違いだろ)とさえ思っている。彼女の代わりに山奥で魔族の相手をし続けるなど真っ平御免だった。使者にとって剣の腕は楽に生きるための道具であり、終わりの無い戦いなど求めてはいないのだ。山奥に縛り付けられて生涯戦い続けるくらいなら、国を捨てた方がマシだ。
魔族の出現を抑えていたのも、山奥とは思えない作物の収穫も、魔法の武具も、魔族の執事を満足させればこそだった。当主を失った貴族家一家でどうこうできる話ではない。王国は魔族対策のために、大きな予算と兵力を投入し続ける羽目になる。
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