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オマケ 3
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「停めろ!」
主の命で、御者が慌てて手綱を引く。馬がいななき、馬車は急停車した。
人通りの少ない、郊外の道で良かった…。そう思いながら不満げな馬を必死で宥める御者を横目に、箱馬車から降りた男…若い貴族は、道端に蹲るボロ布の塊のようなものをじっと見た。
異臭が漂うが、それは死臭や腐臭ではない。長い事身体を清めていない人間の匂いだった。
かすかに、薄汚れた手が動く。それは小さな人間だった。
貴族は、所用で三日前もこの道を通った。その時に道端に蹲るボロ布には気づいていたが、死体だと思っていた。三日後、同じ場所に同じように蹲るのが生きた人間に見えて車を停めさせたのだ。そしてそれは見間違いでは無かった。子供…それもどう見ても10歳に満たない小さな子が蹲っていた。こんな小さな子供が三日も生きていたなど信じられない。
「そなたは何をしているのだ?」
「…何もしていないよ」
返事は期待せず声をかけたが、意外にもはっきりと、しかも皮肉交じりの答えを聞いて、貴族は苦笑した。
「聞き方が悪かったな。どうして何もしないのだ?そのままそこで動かずにいれば、やがて飢えて死ぬだろう。それでよいのか?」
「良かないけど、しようが無い。このまま死ぬならそれまでだよ」
「しようが無いとは?」
「あたしは戦うことしかできないけど、このナリじゃ雇ってくれる傭兵隊なんて無かったよ。そのうちに金も食い物も無くなって、腹が減って動けなくなった。だから仕方ない」
「戦う?そなたがか?」
「あたしはこれだからね」
そういって頭に巻いた布を持ち上げて見せた。額に小さな角が生えている。小さな子供にしか見えないが、この子は鬼人だ。こんな姿でも只人の大人と変わらない力がある。
「鬼人か!。なるほど…こんな所で行き倒れてまだ生きているのはそういう事か」
驚いた貴族だが、頭では冷静に算盤を弾く。これは思わぬ拾い物かもしれない。鬼人を雇える機会など滅多に無いのだ。まだ子供だが、野獣も出る郊外の林で普通の子供が行き倒れていたら、一晩も経たずに食い殺されているはずだ。この子には、少なくとも三日飲まず食わずでも耐える生命力、獲物を狙う野獣を退ける力がある。先ほどからのやり取りの限りは、知恵もしっかりしているようだ。どうにかして手駒にする事はできないだろうか。
「親はいないのか?」
「傭兵隊長と副長やってて戦死しちまった。あたしじゃ隊長は無理だし、皆は只人で隊長に頼り切りだったから、残った金を配って解散した」
「物乞いでもなんでもやって生きる気は無かったのか?」
「あたしは傭兵だよ。物乞いで生きるのは死んでるのと変わらないよ」
「なら、私に雇われる気はないか?私は、ここでお前を死なすのは惜しいと思っているのだがな」
「ちゃんと仕事をさせてくれるなら受けるよ。戦う仕事じゃなきゃだめだよ」
「ははははははは、気に入ったぞ」
貴族は思わず声を上げて笑ってしまった。
この娘…『あたし』と言ってるから女児なのだろう…は小さくとも生粋の傭兵だ。こんななりでも、ただ養ってもらうだけの関係は許せないらしい。
こうして行き倒れた鬼人の少女は、とある王国貴族=男爵に拾われる事になった。
爵位は低いが、派閥内の汚れ仕事も平然とこなす事で一定の地位を得ていた男爵にとって、鬼人の少女は使い勝手のいい道具だった。
見た目は小さな女の子だから、警戒される事が少ない。入り込める場所も多い。だが見た目と裏腹に、思考も力も技も只人の大人並みだ。10歳程度の子供にしか見えないが、鬼人の寿命は只人より長く、只人で言えば既に成人に達する年齢を生きていた。そして、成長が遅いからその見た目の優位を、かなり長い期間使う事ができる。
男爵は彼女との短い会話から、彼女を雇うには何を重んじれば良いかは判っていた。それを守れば、鬼人はストイックなまでに仕事に熱心だった。
鬼人は結局、傭兵として雇われる事はなかった。家臣になった訳でもない。鬼人の立場は食客であり、路頭に迷った鬼人の子供を保護した…というタテマエである。だから契約金も給金も出ない、衣食住の面倒を見て貰っているだけだ。敢えて言うなら居候である。それは万が一の事態を想定してのことであった。鬼人の与えられた仕事は、かなり後ろ暗い物だった。正式な雇用関係にしないことで万が一鬼人がヘマをして捕まっても、言い訳できる余地を残しているのだ。つまりは、「当局は一切関知しないからそのつもりで」というヤツである。
だから、タテマエ上は『保護された子供』であるのに、実際の鬼人の暮らしと言えば、下働きの子供以下とも言える。小さな女の子の姿というのは、油断を誘う武器になるが、同時に酷く目立つ記号でもある。事件の近辺で子供の影が目撃された時、男爵の屋敷に鬼人の子供が保護されている等という事が明らかになっていれば、両者を結び付けるのは容易である。屋敷に鬼人の子が居る事は絶対に秘密にしなければならない。鬼人は離れや地下で暮らし屋敷内で姿を見せることは無かった。存在を秘し影になって働く。そして、もし捕まったら『秘密裡に保護されていた鬼人の子供が屋敷を抜け出して悪さをしていた』として切り捨てられる。
要するに鬼人は『暗部』となったのである。
子供の姿でも鬼人の思考はもう傭兵のそれである。自分が道具扱いされている事は十分に承知していた。しかし、鬼人の傭兵の精神は只人とはだいぶ違っていた。『使い捨ての道具』扱いする雇い主は論外だが、『貴重な道具』として扱ってくれるなら文句は無い。仕事でどこにでも違和感なく紛れ込めるようにと、貴族から平民まで、只人の世界の常識、知識、風習などを教えてくれた。その知識だけでも十分な報酬だと思っている。そして、男爵は鬼人を一人の傭兵隊長として扱ってくれる。仕事前にはきちんと説明をするし、ぞんざいな口の効き方も一切咎めだてしなかった。自分に一定の敬意を払ってくれていると感じたから、鬼人は契約は無くとも傭兵として雇われたつもりで仕事に精を出したのだった。
十数年の月日が経ち、青年だった男爵も壮年貴族になっていた。王都では王の後継者争いが水面下で進行しているとかで、男爵も自派閥のために裏働きを続けている。だが、只人の成人女性の姿にまで成長した鬼人は、以前のような搦手の仕事…子供の姿を活かした仕事はできなくなっていた。「女の武器」を使えば仕事を続けられたかもしれない。だが、成長した鬼人は口が悪く、目つきはもっと悪い。おまけに態度は更に悪くて、しなを作るマネさえできなかった。「女の武器」の手ほどきの為に呼ばれたベテラン娼婦も匙を投げ、その方面の仕事は無理だと判った。
その頃、王国では魔族の跳梁が始まり、あちこちから村が壊滅したなどという物騒なニュースが流れてくるようになったから、男爵はそちらの対応にも追われて更に多忙になっていた。鬼人の仕事は、確実に届けなければならない密書の使者や護衛など、表の仕事が専らになった。鬼人は角を隠し、只人の女剣士として働いている。以前のような搦手の仕事はできなくなったが、成長した鬼人は正攻法の剣も頭抜けた強さだったし、女剣士だから妻の護衛にも好都合だ。男爵夫人は礼儀を身に着けようとしない鬼人にあまりいい顔をした事は無かったが、仕事ぶりに文句を付けた事は無かった。
そんなある日、男爵の嫡男が鬼人に手を出そうとした。魔族の跳梁で屋敷に籠りがちの鬱屈した生活が続いたせいか、剣客然とした態度を崩さない鬼人を『征服』したくなったのだそうだ。鬼人が本気で抵抗したら、嫡男は瞬きする間に挽肉になっているだろう。だが鬼人は雇い主には逆らわない。要するに、本来歯牙にもかけないほど力の差があるのに、命令に逆らえずに蹂躙されるのに耐えなければなならい…そんな屈辱の表情を見ながら犯したかったのだ。愚かとしか言いようが無い。冷めた態度で命じられるまま淡々と衣服を脱ぐ鬼人に嫡男は逆に癇癪を起し、それが騒ぎとなって未遂に終わった。
事件を契機に、男爵は鬼人の扱いに困るようになった。愛憎は表裏一体である。恥をかかされた息子が一層鬼人に執着していると察したからだ。目つきが鋭すぎてあまり見目の良い女とはいえないが、年頃の娘というのはそれだけで魅力が何割か増しになるものだ。しかも命じられれば『仕事』として抱かれるだろう。稀な話だが、混血の子が生まれる可能性もあると聞いている。身内にする事はできない。使用人を孕ませるのとは訳が違う。今は一切不平を言わず命令に従う鬼人だが、我が子ができれば『欲』が生まれる可能性もある。だが、追い出すには裏の事情を知りすぎているし、殺すには強すぎた。
そんな時、彼らの派閥の領袖が魔族対策のために精鋭を集めているという話が届き、男爵は鬼人を譲る事を思いついた。派閥内なら一蓮托生、手元から離れても問題は無い。何より、鬼人の実力は十二分に証明されている。そして彼女は生まれついての傭兵だ。雇い主として義理を通せば応えてくれるだろう。
決心した男爵は鬼人を呼んで契約の終了を伝えた。
「今までの働きに不満は無いが、馬鹿息子の安全を考えると、そなたをここに置き続ける事は難しくなった」
「……そうか、残念だけど仕方ないか」
鬼人も嫡男や奥方の視線から、幾分居心地の悪さを感じていた所だった。
「新しい雇い主を紹介するが、そちらで働く気はあるか?」
「会ってみなきゃ判らないね」
「優秀な方だが…まぁ変り者ではあるな」
「変り者…ねぇ」
「ここより好待遇なのは間違いない。紹介状を書いてやるから、王都へ行ってくれるか」
「いいよ」
鬼人は即決した。
どの道、ここを出たら次の雇い主を探すしかない。なら、まずは紹介された相手に会ってみても良いだろう。
「長い間よく働いてくれた。ありがとう」
そう言って頭を下げると、男爵は手形を差し出す。かなりの金額が記載されている。未払いだった契約金のつもりだろう。鬼人は口角を上げた。拾った食客に正面から礼を言って頭を下げられる貴族というのも珍しい。謝意が演技か本気か、そんな事はどうでも良いのだ。こちらが何を求めているかを読み、即座に出せる。その事実だけで男爵は優秀な貴族と言える。そんな男が優秀と認めるなら、次の雇い主も期待できるだろう。
「こちらこそ世話になった。雇い主の秘密は墓まで持っていくよ」
「そうしてくれ」
何も言わなくても、鬼人は全てを察したようだった。円満に鬼人を雇い止めする事ができて、男爵は秘かに安堵の息を吐く。紹介状には余計な事は書いていないが、彼は鬼人が何をしていたかは知っている。雇うにしろ……始末するにしろ、手を打ってくれるだろう。後者なら大きな借りになってしまうが、なに借金も財産のうちだ。
翌日、男爵の屋敷から巡礼の尼僧が一人旅立った。尼僧は鬼人である。角を隠すために被り物は必要だったし、それなりに神殿の威光もあるから、女の一人旅でも襲われる確率が少しは下がる。男装する事も考えたが、男装した鬼人はそこそこ『いい男』になってしまう。いつもの仏頂面が、男の剣士だと魅力になってしまうらしい。面倒を避けるなら僧形の方が無難だと考え、仕事用の衣装の中から尼僧の装束を貰ったのだ。ボロが出ないように教義や祈りの作法はある程度頭に入れていたし、努力は必要だったが『慈愛に満ちた笑顔』の演技もできなくは無い。鬼人は長年の暗部働きのおかげで、いろいろと多芸になっていた。さすがに帯剣する訳にはいかなかったが、旅用の杖でも鬼人の力なら十分すぎる凶器になる。万が一襲われても、相手はもれなく神の御許に直行である。
王都で男爵に指示された貴族の屋敷に出向き、手紙を渡すと数日待たされる事になる。そうして連れて行かれたのが王城の端にある王子の私邸だというのは鬼人の想定外だった。
主の命で、御者が慌てて手綱を引く。馬がいななき、馬車は急停車した。
人通りの少ない、郊外の道で良かった…。そう思いながら不満げな馬を必死で宥める御者を横目に、箱馬車から降りた男…若い貴族は、道端に蹲るボロ布の塊のようなものをじっと見た。
異臭が漂うが、それは死臭や腐臭ではない。長い事身体を清めていない人間の匂いだった。
かすかに、薄汚れた手が動く。それは小さな人間だった。
貴族は、所用で三日前もこの道を通った。その時に道端に蹲るボロ布には気づいていたが、死体だと思っていた。三日後、同じ場所に同じように蹲るのが生きた人間に見えて車を停めさせたのだ。そしてそれは見間違いでは無かった。子供…それもどう見ても10歳に満たない小さな子が蹲っていた。こんな小さな子供が三日も生きていたなど信じられない。
「そなたは何をしているのだ?」
「…何もしていないよ」
返事は期待せず声をかけたが、意外にもはっきりと、しかも皮肉交じりの答えを聞いて、貴族は苦笑した。
「聞き方が悪かったな。どうして何もしないのだ?そのままそこで動かずにいれば、やがて飢えて死ぬだろう。それでよいのか?」
「良かないけど、しようが無い。このまま死ぬならそれまでだよ」
「しようが無いとは?」
「あたしは戦うことしかできないけど、このナリじゃ雇ってくれる傭兵隊なんて無かったよ。そのうちに金も食い物も無くなって、腹が減って動けなくなった。だから仕方ない」
「戦う?そなたがか?」
「あたしはこれだからね」
そういって頭に巻いた布を持ち上げて見せた。額に小さな角が生えている。小さな子供にしか見えないが、この子は鬼人だ。こんな姿でも只人の大人と変わらない力がある。
「鬼人か!。なるほど…こんな所で行き倒れてまだ生きているのはそういう事か」
驚いた貴族だが、頭では冷静に算盤を弾く。これは思わぬ拾い物かもしれない。鬼人を雇える機会など滅多に無いのだ。まだ子供だが、野獣も出る郊外の林で普通の子供が行き倒れていたら、一晩も経たずに食い殺されているはずだ。この子には、少なくとも三日飲まず食わずでも耐える生命力、獲物を狙う野獣を退ける力がある。先ほどからのやり取りの限りは、知恵もしっかりしているようだ。どうにかして手駒にする事はできないだろうか。
「親はいないのか?」
「傭兵隊長と副長やってて戦死しちまった。あたしじゃ隊長は無理だし、皆は只人で隊長に頼り切りだったから、残った金を配って解散した」
「物乞いでもなんでもやって生きる気は無かったのか?」
「あたしは傭兵だよ。物乞いで生きるのは死んでるのと変わらないよ」
「なら、私に雇われる気はないか?私は、ここでお前を死なすのは惜しいと思っているのだがな」
「ちゃんと仕事をさせてくれるなら受けるよ。戦う仕事じゃなきゃだめだよ」
「ははははははは、気に入ったぞ」
貴族は思わず声を上げて笑ってしまった。
この娘…『あたし』と言ってるから女児なのだろう…は小さくとも生粋の傭兵だ。こんななりでも、ただ養ってもらうだけの関係は許せないらしい。
こうして行き倒れた鬼人の少女は、とある王国貴族=男爵に拾われる事になった。
爵位は低いが、派閥内の汚れ仕事も平然とこなす事で一定の地位を得ていた男爵にとって、鬼人の少女は使い勝手のいい道具だった。
見た目は小さな女の子だから、警戒される事が少ない。入り込める場所も多い。だが見た目と裏腹に、思考も力も技も只人の大人並みだ。10歳程度の子供にしか見えないが、鬼人の寿命は只人より長く、只人で言えば既に成人に達する年齢を生きていた。そして、成長が遅いからその見た目の優位を、かなり長い期間使う事ができる。
男爵は彼女との短い会話から、彼女を雇うには何を重んじれば良いかは判っていた。それを守れば、鬼人はストイックなまでに仕事に熱心だった。
鬼人は結局、傭兵として雇われる事はなかった。家臣になった訳でもない。鬼人の立場は食客であり、路頭に迷った鬼人の子供を保護した…というタテマエである。だから契約金も給金も出ない、衣食住の面倒を見て貰っているだけだ。敢えて言うなら居候である。それは万が一の事態を想定してのことであった。鬼人の与えられた仕事は、かなり後ろ暗い物だった。正式な雇用関係にしないことで万が一鬼人がヘマをして捕まっても、言い訳できる余地を残しているのだ。つまりは、「当局は一切関知しないからそのつもりで」というヤツである。
だから、タテマエ上は『保護された子供』であるのに、実際の鬼人の暮らしと言えば、下働きの子供以下とも言える。小さな女の子の姿というのは、油断を誘う武器になるが、同時に酷く目立つ記号でもある。事件の近辺で子供の影が目撃された時、男爵の屋敷に鬼人の子供が保護されている等という事が明らかになっていれば、両者を結び付けるのは容易である。屋敷に鬼人の子が居る事は絶対に秘密にしなければならない。鬼人は離れや地下で暮らし屋敷内で姿を見せることは無かった。存在を秘し影になって働く。そして、もし捕まったら『秘密裡に保護されていた鬼人の子供が屋敷を抜け出して悪さをしていた』として切り捨てられる。
要するに鬼人は『暗部』となったのである。
子供の姿でも鬼人の思考はもう傭兵のそれである。自分が道具扱いされている事は十分に承知していた。しかし、鬼人の傭兵の精神は只人とはだいぶ違っていた。『使い捨ての道具』扱いする雇い主は論外だが、『貴重な道具』として扱ってくれるなら文句は無い。仕事でどこにでも違和感なく紛れ込めるようにと、貴族から平民まで、只人の世界の常識、知識、風習などを教えてくれた。その知識だけでも十分な報酬だと思っている。そして、男爵は鬼人を一人の傭兵隊長として扱ってくれる。仕事前にはきちんと説明をするし、ぞんざいな口の効き方も一切咎めだてしなかった。自分に一定の敬意を払ってくれていると感じたから、鬼人は契約は無くとも傭兵として雇われたつもりで仕事に精を出したのだった。
十数年の月日が経ち、青年だった男爵も壮年貴族になっていた。王都では王の後継者争いが水面下で進行しているとかで、男爵も自派閥のために裏働きを続けている。だが、只人の成人女性の姿にまで成長した鬼人は、以前のような搦手の仕事…子供の姿を活かした仕事はできなくなっていた。「女の武器」を使えば仕事を続けられたかもしれない。だが、成長した鬼人は口が悪く、目つきはもっと悪い。おまけに態度は更に悪くて、しなを作るマネさえできなかった。「女の武器」の手ほどきの為に呼ばれたベテラン娼婦も匙を投げ、その方面の仕事は無理だと判った。
その頃、王国では魔族の跳梁が始まり、あちこちから村が壊滅したなどという物騒なニュースが流れてくるようになったから、男爵はそちらの対応にも追われて更に多忙になっていた。鬼人の仕事は、確実に届けなければならない密書の使者や護衛など、表の仕事が専らになった。鬼人は角を隠し、只人の女剣士として働いている。以前のような搦手の仕事はできなくなったが、成長した鬼人は正攻法の剣も頭抜けた強さだったし、女剣士だから妻の護衛にも好都合だ。男爵夫人は礼儀を身に着けようとしない鬼人にあまりいい顔をした事は無かったが、仕事ぶりに文句を付けた事は無かった。
そんなある日、男爵の嫡男が鬼人に手を出そうとした。魔族の跳梁で屋敷に籠りがちの鬱屈した生活が続いたせいか、剣客然とした態度を崩さない鬼人を『征服』したくなったのだそうだ。鬼人が本気で抵抗したら、嫡男は瞬きする間に挽肉になっているだろう。だが鬼人は雇い主には逆らわない。要するに、本来歯牙にもかけないほど力の差があるのに、命令に逆らえずに蹂躙されるのに耐えなければなならい…そんな屈辱の表情を見ながら犯したかったのだ。愚かとしか言いようが無い。冷めた態度で命じられるまま淡々と衣服を脱ぐ鬼人に嫡男は逆に癇癪を起し、それが騒ぎとなって未遂に終わった。
事件を契機に、男爵は鬼人の扱いに困るようになった。愛憎は表裏一体である。恥をかかされた息子が一層鬼人に執着していると察したからだ。目つきが鋭すぎてあまり見目の良い女とはいえないが、年頃の娘というのはそれだけで魅力が何割か増しになるものだ。しかも命じられれば『仕事』として抱かれるだろう。稀な話だが、混血の子が生まれる可能性もあると聞いている。身内にする事はできない。使用人を孕ませるのとは訳が違う。今は一切不平を言わず命令に従う鬼人だが、我が子ができれば『欲』が生まれる可能性もある。だが、追い出すには裏の事情を知りすぎているし、殺すには強すぎた。
そんな時、彼らの派閥の領袖が魔族対策のために精鋭を集めているという話が届き、男爵は鬼人を譲る事を思いついた。派閥内なら一蓮托生、手元から離れても問題は無い。何より、鬼人の実力は十二分に証明されている。そして彼女は生まれついての傭兵だ。雇い主として義理を通せば応えてくれるだろう。
決心した男爵は鬼人を呼んで契約の終了を伝えた。
「今までの働きに不満は無いが、馬鹿息子の安全を考えると、そなたをここに置き続ける事は難しくなった」
「……そうか、残念だけど仕方ないか」
鬼人も嫡男や奥方の視線から、幾分居心地の悪さを感じていた所だった。
「新しい雇い主を紹介するが、そちらで働く気はあるか?」
「会ってみなきゃ判らないね」
「優秀な方だが…まぁ変り者ではあるな」
「変り者…ねぇ」
「ここより好待遇なのは間違いない。紹介状を書いてやるから、王都へ行ってくれるか」
「いいよ」
鬼人は即決した。
どの道、ここを出たら次の雇い主を探すしかない。なら、まずは紹介された相手に会ってみても良いだろう。
「長い間よく働いてくれた。ありがとう」
そう言って頭を下げると、男爵は手形を差し出す。かなりの金額が記載されている。未払いだった契約金のつもりだろう。鬼人は口角を上げた。拾った食客に正面から礼を言って頭を下げられる貴族というのも珍しい。謝意が演技か本気か、そんな事はどうでも良いのだ。こちらが何を求めているかを読み、即座に出せる。その事実だけで男爵は優秀な貴族と言える。そんな男が優秀と認めるなら、次の雇い主も期待できるだろう。
「こちらこそ世話になった。雇い主の秘密は墓まで持っていくよ」
「そうしてくれ」
何も言わなくても、鬼人は全てを察したようだった。円満に鬼人を雇い止めする事ができて、男爵は秘かに安堵の息を吐く。紹介状には余計な事は書いていないが、彼は鬼人が何をしていたかは知っている。雇うにしろ……始末するにしろ、手を打ってくれるだろう。後者なら大きな借りになってしまうが、なに借金も財産のうちだ。
翌日、男爵の屋敷から巡礼の尼僧が一人旅立った。尼僧は鬼人である。角を隠すために被り物は必要だったし、それなりに神殿の威光もあるから、女の一人旅でも襲われる確率が少しは下がる。男装する事も考えたが、男装した鬼人はそこそこ『いい男』になってしまう。いつもの仏頂面が、男の剣士だと魅力になってしまうらしい。面倒を避けるなら僧形の方が無難だと考え、仕事用の衣装の中から尼僧の装束を貰ったのだ。ボロが出ないように教義や祈りの作法はある程度頭に入れていたし、努力は必要だったが『慈愛に満ちた笑顔』の演技もできなくは無い。鬼人は長年の暗部働きのおかげで、いろいろと多芸になっていた。さすがに帯剣する訳にはいかなかったが、旅用の杖でも鬼人の力なら十分すぎる凶器になる。万が一襲われても、相手はもれなく神の御許に直行である。
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