魔の森の鬼人の非日常

暁丸

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とある鬼人のとある一日

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 ステレは夜明けの気配で目を覚ました。
 小屋の中は薄暗いままだが、屋根に空いた煙出しと、閉じられた板の窓の隙間から僅かに朝日が入り込み、剥きだしの梁と小屋組みの見慣れた天井が暗がりに見えるようになってきている。
 枯草の束に毛皮を被せただけの寝床から這い出て突き上げの窓を開けると、朝日が山脈の稜線から顔を出そうとしている。稜線にかかる雲は、紫色に輝いていた。
 ステレはうーんと伸びをすると呟いた。
 「晴れて良かった、今日のうちに仕事を片づけよう」

 ステレは鬼人族(オーガ)の女性である。体格は一般的な只人(人間族)の女性より二回りは大きい。筋骨逞しく、只人の男性に並んでも全く見劣りしない。胸も筋肉に覆われ、膨らみはほとんど胸囲にしか貢献していない。僅かに狭い肩幅と胴回り、僅かに広い腰回りが、かろうじてステレが女性だと主張している。顔立ちは整っているが、短く切り揃えた髪と体格も相まって『街を歩けば女性が振り返えりますよ』とは知人の商人の弁だが、本人にはなんとも実感がわかない話であった。何しろ素顔を出して街歩きをしたことなど一度も無いのだから。
 炎のような真紅の髪と額の上の小さな角、尖った耳と、金色で縦に裂けた瞳。顔を見れば、一目で鬼人族と判ってしまう。そして、彼女の住む国グラスヘイムでは、鬼人族は食人鬼として怖れられていた。

 水がめから柄杓で一口水を飲むと、ステレは小屋の外に出た。よほど裕福でもなければ、庶民は替えの服などそうそう持てない。山小屋で暮らすステレが寝巻など持っているはずもなく、身に着けているのは下穿きの下着一枚のみだ。それも、何かあって夜具を汚すと面倒なので着けているだけで、そこに目をつぶれば全裸でも一向に構わない。鬼人の身体はむやみに頑強だし、『見られても減るものでもない』と思っている。このあたりも只人の女性とは異なりなんとも漢らしい性格だが、鬼人の女性が皆こうなのか、自分だからそうなのか、ステレ自身にも判らない。男女問わず同族には一人も会ったことが無い。

 そもそも、、、

 ステレは首に手ぬぐいをかけ、身体のあちこちを伸ばしながら回りを見渡す。
 ステレの住む山小屋があるのは、大陸を東西に横断する白骨山脈から南に突き出た尾根の中腹である。主脈から延びる山並みが、ぐるりと綺麗な円形を描き、その内側は広大な大森林となっている。火山にはよくこういった地形ができるというが、この地は火山ではないと聞いた。大森林を囲む円形の支山脈は南が空いており、切れ目からは彼方まで続く平原と、その先にかすかに街の城壁が見える。この国は平原の国であり農業や牧畜が盛んだが、眼下の森や山脈は魔獣のひしめく危険地帯だ。

 、、、ステレは人目を気にする必要は全くない。
 何しろ、この山と森には、ステレ以外には人間は誰も住んでいないのだから。

 小屋は山の中腹の広場に建っている。周りは魔獣が跋扈する魔の森だが、この広場には入ってこない。どうやら広場を囲むように立っている石の柱が何等かの結界を張っているらしく、その内側に入ることができないらしい。小屋は丸太を蔦で縛って組み上げた小屋組みに、ぶ厚く草を重ねて屋根を葺いたものだ。壁は骨組みに泥をぶ厚く塗り付けた土壁。室内は土間のみで、小さな机と食器や小物を入れる棚、衣服を入れた行李がいくつかと鎧櫃、寝台だけが家具である。端に小さな土づくりの竈が据えてある。雨風を防いで寝るだけの簡素な小屋だが、ステレにはこれで十分だ。小屋ができる前は完全な野宿生活だった。

 小屋の一段下に作った厠で用足しをし、それから日課と家事をこなす。
 小さな池になっている泉の水を手桶に汲んで小屋の水がめに足し、型稽古で身体を解し、持ち手だけ細く削った丸太での素振り。一通り身体を動かすと、顔を洗い身体を拭く。
 竈の熾きに小枝を差して鍋をかけ、野草と獣の肉の煮込みを温め直すと、鼠避けに小屋の梁から吊るしてあるパンを降ろして、包丁代わりの短剣でたたき割った。この地では小麦も採れないから、パンも輸入品(?)である。焼いて数か月経ったパンはカチカチでそのままでは食べられないので、鍋の煮込みに浸して食べる。余分な食器も無いので、煮込みは鍋から直接すくって食べる。味付けは塩と香草のみ。この肉は鹿だから臭みも少ないが、ステレはどんな肉でも大して気にしない。どうしても獲物が狩れず、野草だけが具の塩スープに浸してパンを食べたこともあるのだ。
 食事の後は夜具の毛皮を日に当て、タライに水と灰を入れて下着や手ぬぐいの洗濯。相変わらず下着一枚で作業している。「服を着なければ汚す心配が無い」とドヤ顔して呆れられたことがあるが、事実だから気にしない。

 洗濯物を干すと、小屋の裏にある物置を確認する。塩漬けにした魔獣の毛皮の樽。魔獣の腱や皮を煮込んで作った未精製の膠、森の木から集めた未精製のラッカー樹液、皆ステレが収集したものだ。あと数日のうちにこれらを引き取りに商人が来る予定になっている。
 ステレは小屋の周りに広がる魔の森で魔獣狩りや採集をして暮らしている。だが、魔獣の素材を目当てに狩をしている訳では無い。確かにこの森の魔獣の毛皮等の素材は、商人を通じて王都で売られている。しかし、稀に表れては魔獣の暴走の引き金となる大型魔獣を狩る時以外は、自分の食べる分か襲われたときに身を守る以外には獣を狩らない。とはいえ、生きている以上は石器時代の暮らしをする訳にもいかない。金属の道具、織物の服、紙やペン、そしてパンを手に入れるには、森の外から持ち込むしかない。ステレは食べる肉以外をそれらの対価としていた。これらの素材は商人の手から職人に渡り、毛皮は塩抜きしてから鞣される。膠やラッカーも精製してから使われる。この森の生物は動物も植物も皆豊富な魔力を持っている。上手く加工すれば、それだけで魔力付与済みの素材ができ上がる。仕上げて売れば一財産になるそうだが、どれもこれもステレの手には余る作業だ。そもそもこんな山の中で金を持っていても、なんの足しにもならない。だから物々交換で十分だ。

 実を言えば、ステレの持っている黒い小札の胴鎧は、鞣した魔獣の革を魔獣の膠で固めて強化し、魔の森のラッカーで仕上げ、魔獣の革紐で綴った、オール魔の森メイドである。自分の卸している素材が希少なものだという自覚が全くないステレを見かね、出入りの商人が作らせて送ったものだ。ステレはその防御力に驚きはしたものの、「ここで戦争する訳じゃないし、、でもデカブツとやるときは着てみるわ」と鎧櫃にしまい込んでしまった。後で、胴だけで王都の戸建ての家一軒分くらいの値段と聞いて、青い顔をする羽目になったのだが。

 卸す素材を確認し、岩塩を少し補充することにした。明日は出かける用事があるから、今日のうちに片付けてしまわなければならない。さすがのステレも裸で森をうろつくことはできないので、毛織の服を身に着け山歩き用の丈夫なブーツを履くと、籠を付けた背負子に小さなつるはしと半透明をした細長い卵型の水筒を入れて背負った。大きな鉈のような山刀を片手に、ステレは裏山の道とも言えぬ獣道を登り始める。
 山道をしばらく進み、森を抜けその先に地層の露出している崖がある。大きくえぐれた岩棚の下、褐色や灰色の層の間に、カラフルな半透明の層が入っている。この部分が岩塩の層だ。周りの石の層のうち、目の細かい物は砥石に使われる。
 王都の学者が言うには、このあたりは元々海の底だったのが、長い間に地面が盛り上がって山になったもので、その名残で塩が取れるのだそうだ。地面が動くというのもよく判らないが、地震が起きて地面が凹んだり盛り上がったりすることがあると聞いた。きっとそんなものなのだろうと思うことにする。そこに塩があるのならステレにはどうでもいい話だ。
 岩塩をつるはしで掘り崩して籠に入れる。生物ではないが有悠の時を魔力に晒されたせいか、この岩塩も魔力を帯びている。色毎にいろいろ効果があるそうだが、気にしたことが無いので詳しくは知らない。掘るだけで取れるが、運べる量に限りがある上、自分で使う分を取っているのでこれもあまり量を出してはいない。

 籠を背負って山道を戻る途中で、狼型の魔獣の襲撃を受けた。飛びかかってくる頭を慌てもせずにはたき落とすと、背中の籠を下ろして山刀を構える。一匹だけで他に気配はない。群れで襲う狼に比べて痩せているから、群れから離れた若い個体だろうか。唸り声を上げ再び襲ってきた狼の首を、すれ違い様に切り落とす。赤紫色の血を噴き出して魔狼は絶命した。この地の魔獣は、魔力の影響なのか血に青みが混じっている。後ろ足を掴んで持ち上げ、短剣で腹を裂くと内臓がボタボタと落ちた。周りの梢には、早くもおこぼれを狙う鳥たちが集まっている。まだ温かい内臓を残らずかきだし、水筒の水で手と獲物を軽く洗って手持ちの縄で荷物に括り付けると、後始末は山の獣たちに任せ籠を背負って何事も無かったように歩きはじめる。つまりは良くある事なのだ。

 小屋に帰ったステレは、狼の皮を剥ぎ肉を切り分けて下拵えをしておいた。肉に臭みはあるが贅沢は言っていられない。せっかく取って来た岩塩だが、肉を塩漬けして保管するのにも割かなければならない。明日は出かける用事があるから、今から鍋一杯の煮込みを作っても無駄になるかもしれない。
 肉を乾燥した香草と一緒に塩樽に放り込んだステレは、手を洗い棚から紙の束を取り出した。まだ日のあるうちに片付けなけれなならない仕事が残っている。この小屋に灯りは非常用のロウソク数本か獣脂しか置いて無いし、灯りの魔法はステレは使うことができない。作業するには日の光が一番だ。
 最近出回るようになった靭皮紙は、羊皮紙に比べたら値段は安いがインクがにじみやすい。今まで書き溜めた紙束をめくりながら、書き損じが無いか確かめる。識字率のそう高く無いこの国では珍しく、ステレは読み書きができる。紙の束はこの森での報告書である。一通り読みなおすと、新しい紙を取り出し、木目の出ないように仕上げた物書き用の板の上でペンを走らせる。書き上げると文箱に収めた。軽い木で蓋がぴったり合うように作られたもので、湿気でにじむ心配をしなくて済む。

 今日の仕事を終えたステレは、明るさの残るうちに夕食を食べてしまう。普段は一日二食で昼食は食べない。夕食といっても、朝食と同じカチカチのパンと煮込みだ。夜の帳が下りれば、下着一枚で寝台に潜り込む。日の出と共に起き、日が落ちたら寝る生活だ。
 決して裕福ではない、余裕もない。けれど、毎日繰り返される平穏な日々。
 眠りに落ちながらステレは考える。(明後日もまた平穏な日々を送れるだろうか?)と。
 報告書に書き足し、文箱に収めたのは「明日出かける用事」のことと、もし自分が戻らなかった際の連絡である。

 ステレが明日向かう先で待つのは、強靭な肉体を誇る彼女にとっても生還の容易でない相手だった。
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