魔の森の鬼人の非日常

暁丸

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質量を持った思い出

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 (やっぱり、私に貴族暮らしは無理よねぇ)
 心の中で遠い目をする。意外にも、ステレにはホストであるオーウェンの前で溜息をつくような不作法をしないだけの分別が、まだ残っていたようだった。

 ステレは、屋敷の応接室に通された。茶の用意をすると侍女は退室し、部屋の中にはオーウェン、ステレ、ドルトンの三人しかいない。薄手の純白のカップに注がれた茶に口をつけると、今ではもう遠い昔、王弟グリフのご相伴で味わった茶の香りと味を思い出し、わずかに胸が痛んだ。茶器も茶葉も恐ろしく高級だということは判る。それだけではない、この部屋は嫌味な成金趣味は一切ないが、落ち着いたしつらえでありながら、家具から調度から何から何まで全て超高級品だ。歴史ある男爵家とはいえ、豪農と大差なかったカンフレー家の屋敷とは比べものにもならない。ドルトンのエイレンの支店に比べても格段に豪華だ。
 それでも。いや、だからこそ、ステレは(やっぱり私には山小屋暮らしが合ってるわね。こんな壊れ物の中で生活するのは無理だわ)と、すました表情のまま考えていた。

 (侯爵家の屋敷ですらこんな有様のに、陛下の隣に立とうだなんてね)

 ステレは王妃になりたかった訳ではない。
 それは、恋心を抱いた相手が王の異母弟であり、王に嫡男が誕生した後は臣籍降下して王を支えるはずだったから…という理由だけでは無い。
 女の子らしい考えが、物心ついてすぐの時点で終わってしまったステレが、『王子様のお嫁さん』という、とても成人女性とは思えない能天気な恋の夢想から一歩踏み込んで現実を正視したとき、(自分にそんな地位は無理だ)と即座に理解できたからだ。貴族の夫人とは、屋敷の女主人である。だから、同じ年頃の娘はそのための作法や屋敷の切り盛りを必死に学んでいた。だがその頃、ステレは家の郎党に混じって巻狩の猪にトドメの手槍を撃ち込んで「獲ったどー」などと勝鬨を上げていたのだ。そんな自分に貴族の妻が務まるわけが無いことはわかりきっていた。
 そもそも、ステレは剣で身を立て、女の身で家を継ぎたいと思っていた。この国ではそれが不可能と判ったとき、自分の望む生き方はできない…と諦めていたステレを、『女性ながら剣にかける一途な思いは見どころがある』…と、グリフが支援してくれたのだ。ステレは、そんなグリフに初恋に落ちた。恋などそっちのけで剣に生きたステレが、諦めたかけた剣の道を認められたら恋に落ちるという、皮肉な状態だったのである。
 だからステレは(剣で応えるしかない)…と考えた。ステレは、グリフの護衛剣士になりたかった。本当は近衛になりたかったが、騎士は爵位の一種だから女性のステレには不可能だ。だからせめてグリフを護る剣でありたかった。だが、すぐにまた性別の壁に突き当たった。ちょっと考えればわかるはずだった。女性の側仕えが四六時中男性貴族に付き従えるはずなど無いということに。ステレはおそらく貴人の女性の護衛剣士として見込まれていたのだ。……そして、ステレはこの後も性別の壁に直面することになる…。

 思い出した過去の自分に、笑えばいいのか落ち込むべきなのか困ってしまう。考えなしに行動しすぎだ。今の自分は過去の自分を積み上げたものだ。それは否定しようが無い。それにしたって…自分の我儘で多くの人に迷惑をかけただけでなく、自分自身にもいろいろ負債を積み上げてしまった気がする。記憶を吹っ飛ばし、人を捨て、負債から逃げようとして、でも、思い出した以上は逃げる訳にもいかないだろう。この大荷物を下ろせる日は来るのだろうか。
 音を立てずにカップを戻す。茶の香りだけでグリフを…陛下ではなく殿下を…思い出したのは、長い長い夢のせいだろう。

 「らしくないな」

 向いの席のオーウェンが、生真面目な顔で言う。

 「そう?」
 「静かすぎて不気味だ」

 あまりの直球に、ステレは危うく噴き出しそうになった。茶を口にしている時でなく良かった。なんとか堪えたものの妙な気配を感じちらりと視線を右に動かすと、ドルトンは俯いたまま必死に震える肩を抑えている。視線を戻すと、オーウェンは真顔のままこちらを見ている。どうやら冗談のつもりでは無いらしい。まぁ、たしかに『らしくない』ことを考えていたが……これは言わなくてもいいことだろう。

 「ここに来る前にドルトンのお店でしばらくやっかいになっててね。お嬢様扱いされたおかげで、だいぶ作法を思い出したわ。及第点には程遠いけどね」
 「そうか…」

 オーウェンとしては、ステレの微妙な変化に過敏になっていたのだが、そう言われれば引き下がるしかない。そもそも言い方が悪いのだが、ステレ相手だとどうしてもド直球の物言いになってしまうのだ。貴族同士での変化球の投げあいに疲れているのかもしれない。

 「もう大丈夫なのか?」
 「えぇ、完全に元通りという訳では無いけど、それは寝たきりになっていたせいで、病気や怪我ではないし」
 「ドルトンに聞いたが、その…」

 ステレの横の席に座るドルトンに一瞬だけ視線を動かすと、いかにも聞きづらいことのように切り出す。

 「粗方は思い出したわ。でも、なんていうのか…ベールが一枚かかっているような…物語の粗筋を思い出したときのような、どこか他人事のような思い出し方なのよ」

 (それはある意味、記憶を思い出として昇華してしまったと言えないか?)とオーウェンは考えた。そうならば、心配の種が一つ減ったということだ。
 それが表情に出ていたのだろうか。ステレはオーウェンがそれを口にする前に首を振った。

 「これじゃダメなの。ちゃんと正面か向き合うつもり。そして受け入れたいと思ってる」
 「……っ、……そうか」

 一瞬息を飲んだオーウェンだが、それでも止めようとは思わなかった。ステレ決めたことだ、オーウェンの気持ちは変わらない。彼女の側で支えたい、それだけだ。

 「…俺は、ステレが記憶を捨てるために夢を見ているのだと思っていた」
 「たぶん私もそのつもりだったんだろうね。でも途中で『あぁ、これは夢だ』って気づいちゃった」

 夢が夢だと気づく時点で、もはや忘れるためのやり直しとしての意味は無くなっている。だが、思い出したのにどうにか耐えられるのは、あの夢のおかげなのは?と思える。

 「それで、ステレはこれからどうするつもりだ?」
 「春になったら森に帰るわよ。それまではどうしようかしらね」

 そう聞くと、傍から見てもわかるほどに、オーウェンの表情に陰が差す。ステレは、オーウェンの告白を覚えていなかったのだろうか?あの告白は、思い出しても恥ずかしい限りだが、誓って偽りや勢いではなかった。だが、上滑りしていたかと思うと、さすがにダメージが大きい。

 「剣の修業はどうされます?」

 雰囲気が変わったことで、それまでは黙っていたドルトンも、口を挟んできた。

 「今回は駄目ね。シュライサー様には、ちゃんと泣いてから出直せと言われたし。もう少し時間が要るかなぁ……あ、ちょうどいいからオーウェン、久しぶりに稽古つけてよ」
 「それは構わんが…王都で文官の真似事をしてたから、かなり鈍ってるぞ」
 「私もしばらく寝たきりだったから、似たようなものよ。鍛えなおしてから帰らなきゃ森に飲まれるわ」

 いっそサバサバしているステレに対して、森に戻る気満々のステレを前にオーウェンの気持ちは益々沈んでいきそうになる。
 (きちんとステレに向き合おう。意識のあるステレに気持ちを伝えなければ。拒絶されたら、それはそれからだ)心の中で自分を叱咤する。

 「ステレ、俺も一緒に森に行っていいか?」

 突然の申し出に、はっとしたステレはオーウェンを見た。だが、それも一瞬で、すぐに俯いてしまった。

 (???)『馬鹿なことを…』と反対されるか、笑って流されるか、そう予想していたオーウェンが、予想外の反応を見せたステレの顔をを訝し気に見る。
 俯いたままのステレの顔は真っ赤だった。

 (え?…あれ??)

 そんな素振りは全然見せなかったではないか。まさか、あのとき、抱きしめて言ったことを全部…

 「ひ、ひょっとしてステレ…」

 ステレは両手で顔を覆うと、かろうじて頷いたのだった。
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