【完結】小悪魔にも程がある。

雨樋雫

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小悪魔にも程がある。

初めてのデート。そして…

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「陽ちゃん、かっこいい」
「そ、そうか?」
 普段あまり着ない一張羅を身にまとった陽一を晴瑠が褒める。かっこいいなんてここ最近お世辞でも言われたことがない。慣れない褒め言葉に照れていると、晴瑠が背伸びして陽一の頬にキスしてきた。

「うん。世界一かっこいい」

 晴瑠はいつもこうやってストレートに好意を伝えてくれる。
 (可愛すぎだろう…!!)
 晴瑠の濁りのないキラキラした瞳に見つめられるとドキドキと早まる鼓動を抑えられず、いよいよ心臓が保たなくなるのではないかと心配になるほどだった。

 その日は、空から温かな日差しが降り注ぐ、そんな穏やかな日だった。
 仕事の都合で休みなく働き詰めだった陽一にようやく訪れた待ちに待った休日、せっかくだから少し近所を散歩してみようかという話になった。
 一月の気温は吐く息が白くなるほど低かったけれど、風もなく澄んだ空気が気持ちいい。

「ね、手繋いでも…いい?」
 遠慮がちに問う晴瑠に答える代わりに、優しく指を絡ませる。
「あったかぁい…」
 ふふっと嬉しそうに笑う晴瑠を見て、陽一の顔もほころぶ。
 人通りが普通にある場所だ。もしかしたらこれは陽一の本気度と愛情の深さを測るためにわざと言い出したことかもしれない、と一瞬頭をよぎった。
 だが、たとえそうだったとしても全然構わなかった。元々ノーマルな陽一に、晴瑠が不安を感じていたとしても不思議じゃない。
 試し行為?上等だ。むしろたくさん伝えたい。君が大切な存在なのだと。

 すれ違いざまにチラチラとこちらに向けられる興味本位の視線を感じたが、陽一は気にしなかった。やましいことは何ひとつないのだから堂々としていればいい。知り合いに見つかったら困るとか、もし会ったらどう誤魔化そうかなんてことは1ミリも考えなかった。世間体などというくだらないものよりも、目の前の恋人が何より大切なのだから。

 陽一の腕に顔を埋めるように頬を擦り寄せる晴瑠が心から愛おしい。

「今なら神様の存在信じるな…」
「え?」
「ううん、なんでもない」
 別に、日々に不満があったわけじゃない。それでも、平凡で代わり映えのない毎日だなと、心の隅でどこか退屈さを感じていた。
 けれど晴瑠と出会ってから、そんな陽一の日常がキラキラと音を立てながら鮮やかに色づいた。
 陽一は、天に向かって「こんな素敵な子と巡り合わせて下さってありがとうございます」と、心の中で感謝の言葉を述べていた。

 二人はしばらくウィンドウショッピングを満喫したあと、ランチならそこまで費用もかからないということで普段は行かないようなオシャレなカフェでゆっくり食事を楽しんだ。















 寒いから今夜は鍋にしようと、帰りは二人でスーパーに寄って食材を調達した。何鍋にしようか、なんて他愛もない話をしながら選んでいる時間が楽し過ぎて、こんな時間がずっと続けばいいのにと思いながら、陽一は幸せを噛み締めていた。

 白菜やネギ、鶏肉など具材がたっぷり入っているレジ袋は手分けして持ってもなかなかに重く、取っ手部分が指に食い込む。誰かと囲む鍋なんて久しぶりで、少し調子に乗ってカゴに入れ過ぎてしまった。それでも二人でつつく鍋を想像したらワクワクが止まらず、指の痛みは気にならなかった。空いた方の手をどちらからともなく繋いで、お互いの体温を感じながら家路を急いだ。




「今日は楽しかったなぁ。ねぇ、陽ちゃ…」
 カンカンと音を立てながら、先にアパートの外階段を軽快に登った晴瑠の瞳に、見覚えのある人影が映った。
 外廊下の一番奥、晴瑠の部屋の前にじっと佇む人物を見つけた晴瑠の表情が固まる。

「久しぶりじゃん、晴瑠」
「タケ…ト…」

 ゆっくり近付いてくる男の姿に、晴瑠が青ざめながら、後ずさった。少し遅れて、陽一が階段を登り切る。一瞬で状況を把握した陽一は、思わずごくりと唾を飲み込んだ。
 部屋の前で何度か見かけたことのある男だ。世間体を気にするという晴瑠の説明通りぱっと見の姿は爽やかな好青年風だが、不遜さが見え隠れする瞳の奥は、彼の傲慢な内面をあらわしていた。


「晴瑠お前さあ、なんで俺の電話に全っ然出ねぇの?」
 何度も電話を無視したことにかなり苛立っているようだ。威圧的な声で晴瑠に詰め寄る。
「好きな人ができたから、もう会わないって言ったじゃん…」
 消え入りそうな声で反論する晴瑠に、タケトが納得できないという風に眉を寄せた。
「好きな人ねぇ…。それってコイツ?」

 タケトは、陽一の顔をジロジロと無遠慮に品定めし、「ふぅん」と意味ありげにニヤついた。

「なにお前、自分がまともな恋愛できるとでも思ってんの?誰彼構わず股開く尻軽のくせに」
「そういうこと…言わないで…」
「つーか、まさか隣の部屋の男引っ掛けてたとは思わなかったわ。ははっ、すげぇな、ここまで来るともはや才能」
「やめて…」
「どうせその体でたらしこんだんだろ?お前ほんと誰とでも寝るんだねー。さすが淫乱」
「やめてよ…」
「まあ、顔と体くらいしか取り柄ないしなあ、お前。お兄さん、教えてやろうか。こいつウリもしてんだぜ。金のために、その口で今まで何本の汚ねえオッサンのモノ咥え込んだんだろうなあ?」
「やめて、言わないでーー」
 泣きそうになりながら必死に男の言葉を止めようとする晴瑠を見て、黙って話を聞いていた陽一の中で何かがブツンと切れる音がした。
 すっと晴瑠の手を引き自分の後ろにかくまって、タケトの前に立つ。

「だから?」
「は…」
「それを俺に言って何がしたい?」

 晴瑠の過去を暴けば、陽一が失望するとでも思ったのだろうか。もしそうなら見当違いというものだ。そんなことで狼狽えるような陽一ではない。

 冷ややかな陽一の言葉に、タケトが驚いた表情で瞠目する。

「尻軽?淫乱?よく言うよ。それを利用して散々いい思いをしていたのはそっちだろう。晴瑠が一体何をしたって言うんだ。侮辱するのも大概にしろ。晴瑠を馬鹿にする資格なんて誰にもないんだよ!」
 のんびりした性格で普段そうそう怒らない陽一が、はっきりと怒気の孕んだ声を相手に投げつけたのは初めてのことだった。
 許せなかった。散々晴瑠のことを自分の都合の良いように扱っておいて、こんな酷い言葉で傷つける、目の前の男のことが。

 周囲にひりついた空気が流れた。互いに眉間にシワを寄せ睨み合い、一触即発かと思われたが。

「あーーー、だる。」

 殴り合いに発展することはなく、意外にも先に引いたのはタケトの方だった。
 心底うんざりした顔をして、ボリボリ頭をかきながら口を開く。

「晴瑠。お前なんて簡単にヤれるから相手してやってただけだよ。こんな面倒になるならもういらねーわ」
「ーー!?ふざけ…っ!!」
 最低な捨て台詞を吐いてその場を離れようとするタケトに陽一が抗議した。
 が、瞬間体から力が抜けてヘナヘナとその場にへたり込む晴瑠が視界に入り、慌てて駆け寄る。
「ごめ…陽ちゃ…」
 恐怖からか、ショックからか、それとも男が諦めたことによる安堵からかーー晴瑠は完全に腰が抜けてしまったようだ。
 陽一は「大丈夫だから」と優しく晴瑠の体を支え、その場で抱きしめた。

 振り返ると、もうそこにタケトの姿はなかった。




 陽一が淹れたホットココアを飲んで、ようやく気持ちが落ち着いた晴瑠が小さく丸まりながらぽつりぽつりと話してくれた内容は、耳を疑うようなことばかりだった。

 ごくごく普通の一般家庭の次男坊として生まれた晴瑠は、優秀な兄と比べられ、いつも肩身の狭い思いをしてきたらしい。
 ほどなく妹が生まれ、両親は待望の女の子であった末っ子ばかりを可愛がるようになったという。
 両親の期待を一新に背負った兄と愛される妹に挟まれ、「透明人間になった気がした」のだと、晴瑠は静かに気持ちを吐き出した。


 晴瑠の初体験は高校生の頃、担任だった男性教師とだった。
 晴瑠が家族との関係で悩んでいた時、親身になって話を聞いてくれたその男性教師に甘い言葉で誘い込まれ、そのまま流されるように関係を持った。
 散々、性の捌け口として利用された挙げ句、結局その男は同僚の女性と結婚し、晴瑠の元を去った。

「勉強も運動も駄目で…俺みたいなのを社会のお荷物って言うんだよね。親から見放されるのもトーゼンっていうか…」
「誰かにそう、言われたのか…?」
 陽一の問いには答えず、晴瑠は半ば投げやりな口調で話を続けた。
「でもどうやらこの体だけは存在価値があったみたいでさ。てゆーか…俺には、それしか無かったから」
 はは、と力無げに笑う晴瑠の声は震えていた。

 初めて晴瑠に誘われたあの日、晴瑠はとにかく自信満々で怖いものなんてないタイプなんだと思っていた。実際はむしろその逆で、自分に自信がないからこその、あの行動だったのだと今ならわかる。

 不特定多数の相手と関係を持つ日々。たとえそれが弄ばれただけだったとしても、それは晴瑠が自分自身を肯定するたった一つの方法だったのだ。

 今まで、どんなに傷ついてきたのだろう。どれだけ傷つけられてきたのだろう。

 晴瑠の心の痛みを思うと、涙が出そうになる。

 (社会のお荷物なんて、体にしか存在価値が無いなんて、そんなわけあるもんか。晴瑠の素敵なところは俺がいっぱい知ってるんだ)

 容姿にはかなり恵まれている晴瑠だが、むしろ容姿が優れていたために体目当ての連中ばかりが寄ってきたことが晴瑠にとっては不幸だったのかもしれない。
 しかし、そんな人間でも当時の晴瑠の唯一の心の拠り所だったというのは、何とも皮肉な話だ。


 陽一は、晴瑠に執着する人間の存在まで気が回らず完全に油断していた自分に対して舌打ちした。
 ああいった人間は、自分がコントロール下に置ける相手を見つけるのが上手いという。晴瑠は自己肯定感の低さから、そういう卑怯な人間ばかり引き付けてしまっていたのだろう。あの男の態度を見れば、今まで晴瑠がどんな扱いを受けていたか想像に難くない。
 卑劣な人間が、今まで自分の思い通りに利用していた相手から反旗を翻されたら、それを恨みに思って押しかけて来る可能性があるなんてことは簡単に予想できたはずだ。もっと早くに対処していれば今回のような鉢合わせを避けることができたかもしれないのに。


 陽一は、晴瑠が何か隠し事をしていることに気付いていながら、いつか話してくれるだろうと安易に考え晴瑠の内面に踏み込まなかったことを後悔した。
 理解のある恋人でいようと思ってのことだったけれど、結局それも晴瑠の前でいい格好しようという自分可愛さから来ていたものなんじゃないかと自嘲し、そんな自分に対して怒りさえ湧いてくる。
 晴瑠は嫌われることを恐れて言い出せなかっただけで、本音ではずっと聞いてもらいたかったのだろう。

「幻滅した…?」
 難しい顔をして黙りこくってしまった陽一を不安そうに見つめる瞳は、嫌われたくないとうったえている。そんな晴瑠の震える手を、そっと優しく包みながら陽一は首を横に振った。
「性に奔放そうなのは付き合うずーっと前からもう分かってたことだし…そんなことぐらいで今更驚かないよ」
「そっ…か。そうだよね、ごめん」
 晴瑠を安心させようとあえて軽い口調で、なんとも思ってないと話す陽一に晴瑠は苦笑した。
 知った上で晴瑠を好きになったのだ。そんなことで揺らぐような簡単な気持ちじゃない。

「でもウリはもう絶対するなよ。危ないんだから」
「陽ちゃんと付き合ってからは一度もやってないよ。……でも俺、他に稼ぐ方法を知らなくて。バイトもミスばっかしてすぐクビになっちゃうし…」

 先ほどの話を聞く限りでは、実家にも頼りたくないのだろう。

 それしか生きる手段がなかったであろう相手に売春は違法だなんて正論で追い詰める気はないけれど、それでも愛する人にやって欲しいことではない。

 それより気になったのは、交際が長く続けばいつかは綻びが出ることなのに晴瑠は一体この先どうするつもりだったのかということだ。付き合ってからはウリを一度もやってないという言葉に嘘はないだろう。晴瑠はとてもわかりやすい。そして、いくら貯金があったって、金はいつか尽きる。

 まさか、晴瑠は陽一との関係を長くは続かないひとときの刹那的なものと思いながらずっと過ごしていたのではないか。向こう見ずなところがある晴瑠だけれど、先のことを深く考えずに行動したと言うよりこっちの方がしっくりきた。

 本来なら安心できる場所であるはずの家庭では冷たくされ、信頼して初めてを捧げた相手には裏切られた。そんな経験を持つ晴瑠は、明るく振る舞いつつも心のどこかでは幸せになることを諦めてしまっている感じさえする。その瞬間だけ満たされれば良いと言うかのように…。

 それでも晴瑠が陽一のことを想う気持ちは間違いなく本物だった。陽一との関係をどうしたら良いのか、晴瑠の中でも葛藤があったのかもしれない。

 笑顔の下ではいつかは終わりが来ると覚悟しながら自分と付き合っていたのだろうか。そんなの哀し過ぎる。陽一は、晴瑠との日々を短い間の思い出になんてするつもりはないのだから。


 陽一は決心した。


「じゃあ、俺と一緒に暮らすかぁ」
「え?」
「俺も奨学金返してる身だから贅沢はできないけど…まあ食うには困らないだろ。片方の部屋解約すれば家賃分は浮くし。今みたいなのが怖かったら引っ越してもいい。そして、ゆっくり晴瑠ができることを考えていったらどうかな」

 しかしそんな陽一の提案に、意外にも晴瑠は喜ぶどころか戸惑いの表情を見せ、首をぶんぶんと左右に振った。

「専業主婦みたいなの期待してるなら無理だよ。俺、ほんとに何もできないポンコツだから。陽ちゃんの負担にしかならないもん…」

 いつもの底無しの明るさとは正反対の、自虐と共に弱音を吐く晴瑠。逆に考えれば、それだけ心を開いてくれているということだ。

「あの丸焦げの料理を見て、俺がそんなものを晴瑠に期待してると思うか?」
 ププッと笑い飛ばすと、晴瑠が「ひどい」と口を尖らせた。陽一は「悪い悪い」と謝りながら、晴瑠の柔らかい髪をそっと撫でる。
 さっきまで青ざめていた晴瑠の顔に少しずつ血色が戻り始めていた。

「俺に悪いとか、余計なことは考えなくていい。俺さぁ、晴瑠の笑顔があったら仕事も頑張れるんだ」

 そこには、眉を八の字にして照れたような表情で微笑む陽一がいた。

「ちょっとドジなところも、行動が奇想天外で毎回驚かされるとこも、子どもみたいに無邪気なところもーー全部含めて、晴瑠が好きだ」

 陽一の真っ直ぐな告白に、晴瑠の瞳が大きく見開かれる。

「晴瑠は晴瑠のままでいい」

 瞬間、晴瑠がわあああーと、大粒の涙を流しながら、幼い子どものように泣きじゃくった。そういえば晴瑠は今までこんな風に感情を爆発させて泣いたことはなかったと思い至る。きっとこの子は、ずっと我慢してきたのだろう。
 陽一はそんな晴瑠を優しく抱き締めて言った。
「二人で、一緒に考えていこう。時間はたっぷりあるんだから」















「いってきまーす!」

 あれから晴瑠は公共の職業訓練を経て、無事自分に合った仕事を見つけることができた。今は毎日楽しそうに職場に向かっている。


 生き生きした表情で出勤する晴瑠の姿が遠く見えなくなるまで、目を細めながら満足げに見送る自分はまるで保護者だな、と陽一は苦笑した。


「ほんと陽ちゃんは凄いなあ…かっこいいよ」
 実家に頼らず働きながら奨学金を返済している陽一の姿を見て、このままじゃいけないと一念発起した晴瑠が就職斡旋所の戸を叩いたのは、一緒に暮らし始めてすぐのこと。

 傷ついた期間が長すぎた晴瑠に正直無理はさせたくないとも思ったが、ヤル気に満ち溢れている相手を止める道理はないと陽一は静かに見守ることにした。

 自分の存在が人の心を動かせるなんて思ってもいなかったから、晴瑠の言葉に嬉しいような、それでいてくすぐったいような気持ちになる。


 陽一は、応援の意味も込めて晴瑠の就職の相談に真剣に乗ることにした。元来の面倒見の良さを遺憾なく発揮して丁寧にヒアリングしていく中で、どうやら晴瑠は一度に二つ以上のことをするのが難しい質らしいということが見えてきた。
 それなのに今までマルチタスクが必須なコンビニやらファーストフード店やらに勤めていたと言うのだから、そりゃ向いてなかっただろうなと陽一は納得した。

 だが、短所は得てして長所と表裏一体になっているものだ。
 じっくり話を聞けば、晴瑠の長所を活かせそうな職種がいくつかあった。今回、そのうちのひとつに見事採用されたのである。


 人は深く悩んだ時ほど視野が狭くなりがちな生き物だ。きっと晴瑠もそうだったのだろう。
 しかしひとたび目線を変えてみれば、そこには意外と新しい世界が広がっていたりする。
 陽一はほんの少しでもそのお手伝いができたことに心嬉しい気持ちになった。


 それでも、時期が近付くと新しい環境への恐怖心が一気に押し寄せたようで、晴瑠は「失敗したらどうしよう」と不安がり、弱音を吐いた。

 陽一はそんな晴瑠の頬を両手でそっと包み込み、優しい眼差しで見つめながら諭すように言葉を紡いだ。
「晴瑠、失敗ってね、チャレンジした人にしか起きないことなんだ。だからたとえ失敗したとしても、それは晴瑠が挑戦した証だよ。誇りに思っていい」
「挑戦した…証…?」
 ずっと兄妹と比べられ、何か間違えばそのたびに叱責され続けていた。出来損ないが生まれたと言われたことも一度や二度じゃない。
 挑戦した証だなんて、そんなことを言ってくれる人、今までいなかった。
 晴瑠は、陽一の言葉ひとつひとつを取りこぼさないように真剣に聞き入っていた。
「それにもし何かあっても大丈夫。俺がここにいるじゃん。安心して行っておいで」

 帰る場所がある。自分を肯定してくれる存在がいる。それがどんなに心強いか。
 陽一の言葉に肩の力が抜けた晴瑠は、いつもの笑顔を取り戻した。

「頑張ってくる!」

 元気に大きく手を振りながら初出勤する晴瑠の、小柄で小さな背中が、その日はなんだか頼もしく見えたような気がした。


 予想通り初日は色々失敗もやらかしたらしいが、陽一の言葉を大切に胸に抱き、上手く気持ちの切り替えができたようで、帰宅後は嬉しそうに仕事の報告をしてくれた。
 ちょっと人よりドジなだけで元々頑張り屋の気質を持っていた晴瑠は、今では信頼され様々な仕事を任されるまでになっている。


 タケトの一件があってから、晴瑠の身の安全も考えてすぐに引っ越した。タケトはもう二度と来ないようなことを言っていたが保証はないし、晴瑠が今までに関係した他の男が押しかける可能性だってあったからだ。
 大家さんに相談すると、運良く家賃もそう変わらず住める物件があると紹介してもらえた。
 相変わらずの安普請で、かなり年季が入ったお世辞にも綺麗とは言えない狭い部屋だったけれど、それでも良かった。
 そう、二人一緒にいられるならなんだって。

「なんだか、新婚生活みたいだな」
 引っ越しが無事に済み荷解きもそこそこ終えた頃、さらりと何気なく言った陽一の言葉に、晴瑠が頬を真っ赤にして両手で顔を覆い、指の隙間からちろりと上目遣いで陽一を見つめた。
「なんか照れる…」

 計算かそれとも無意識かーーわからないけれど、晴瑠の仕草ひとつ表情ひとつに陽一の心はつかまれっぱなしだ。
 そうきっと、初めて晴瑠が陽一の部屋を訪れた、あの日から。
 たとえ計算だとしても構わない。それが晴瑠が生きていく中で身につけたものだったのなら、それはもう晴瑠の一部だ。

「なんでさあ、晴瑠はいつもそういちいち可愛いわけ?」
「ええっ!?」
 動揺する晴瑠にクスッと笑いかけながら、そっと優しく抱き締めた。
 まったくもう、そんな顔は俺の前だけにしてくれよ。誰にも見せたくないくらい可愛いから。

 陽一は愛しい恋人の額にキスをして、少しだけ呆れた顔で言った。
「ほんと、小悪魔にも程があるよ」
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