『勘違い公爵と毒見令嬢の観測ログ ~「殺される!」と震える私を、彼は「愛おしい」と見つめている~』

端野ゼロ

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第1章:薬草園の赤い悪魔

ピンク色の蜘蛛の糸

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嵐のような公爵が去った後、薬草園には不気味な静寂が戻っていた。
 私はその場にへたり込んだまま、震えが止まらなかった。
 指先まで氷のように冷たく、感覚がない。
 
「……お嬢さん、大丈夫ですか?」
 
 頭上から降ってきたのは、先ほどの公爵の地響きのような声とは対照的な、柔らかく、甘い声音だった。
 ビクッと肩を震わせて見上げると、そこには一人の初老の紳士が立っていた。

 整えられた銀髪、仕立ての良い燕尾服。
 公爵の副官――いや、侍従長のようだ。
 彼は私の前に片膝をつき、ハンカチを差し出してくれた。
 
「ああ、可哀想に。公爵様にあのように睨まれては、生きた心地がしなかったでしょう」
 
 その言葉には、深い同情と慈愛が滲んでいるように聞こえた。
 私は恐る恐るハンカチを受け取った。高級な絹の感触。そして、ほのかに漂う甘い花の香り。

 公爵の放っていた「鉄と血の匂い」とは違う。
 まるでお花畑にいるような、安らぐ香りだった。
 
(この人は……優しそうな人だ)
 
 張り詰めていた糸が切れ、涙が溢れそうになる。
 侍従長は、私の震える手元を優しく見つめながら、困ったように眉を下げた。
 
「申し訳ありません。主人は戦場暮らしが長く、力の加減というものを知らぬ方でしてね。……貴女のような華奢な花を見ると、つい手折りたくなってしまうのかもしれません」
 
「て、手折る……?」
 
 その不穏な単語に、私は息を呑む。
 侍従長は「おっと」と口元を押さえ、声を潜めた。
 
「ご安心ください。私が貴女を守ります。……実は、公爵様は少々気性が荒く、時折、制御が効かなくなるのです。ですから、貴女には『特別な部屋』を用意させていただこうと考えております」
 
「特別な、部屋……?」
 
「ええ。公爵様の目から隠れ、安全に過ごせる場所です。貴女にしていただくお仕事は、ただ一つ」
 
 彼は懐から一枚の羊皮紙を取り出した。
 そこには、見たこともないような高額の給金が記されていた。
 薬草園で十年働いても稼げない金額だ。
 
「公爵様のお食事の、小さじ一杯分の『味見』をしていただくだけです」
「……え? それだけ、ですか?」

 拍子抜けして問い返すと、侍従長は意味ありげに微笑んだ。

「ただの味見ではありませんよ。公爵家を狙う毒は、無味無臭にして無色透明。凡庸な料理人や医師では決して見抜けない『錬金毒』です。ですが貴女なら……そう、貴女のその『鼻』なら、食材に混じった微かな『エーテルの濁り』すら嗅ぎ分けられる」

「エ、エーテル……?」

 聞き慣れない言葉に、私は首を傾げた。
 侍従長は私の無知を咎めることなく、優しく諭すように続けた。

「生命が発する根源的な振動のことですよ。薬草園での選別作業を見ておりました。貴女は腐った根だけでなく、見た目は瑞々しいのに『中身が死んでいる』根をも、匂いだけで選別していましたね?」
「……はい。なんとなく、嫌な匂いがして……」
「それです。貴女は無意識に、物質のエーテル量を感じ取っている。それはまるでお伽話に登場する、真実を見抜く『特別な瞳』を持つ方のよう……。科学も魔法もすり抜ける毒を見抜けるのは、貴女のような稀有な才能を持つ方だけなのですよ」

 彼は私の手を取り、その泥だらけの手を両手で包み込んだ。
 温かい、と思った。

 けれど、私の鋭すぎる本能の奥底で、小さな警鐘が鳴った気がした。
 甘すぎる花の香りの奥に、微かな腐臭が混じっているような違和感。
 
 だが、今の私にそれを疑う余裕などなかった。
 目の前に吊らされた蜘蛛の糸は、あまりにも輝いて見えたのだ。
 
「これは貴女のご家族にとっても、素晴らしい機会です。……ああ、そうそう。実はお父様には、すでに話をつけさせていただきました」
 
「え……?」
 
「大変お喜びでしたよ。『娘が役に立つなら、いくらでも使ってくれ』と。前金として、借金の一部も肩代わりしておきました」
 
 血の気が引いた。
 父が承諾したのなら、もう私に拒否権はない。
 もし断れば、父は借金の取り立て人に追われ、その怒りの矛先は母やテオに向かうだろう。
 私が売られることは、もう決まっていたのだ。
 
「……行きます」
 
 絞り出すように答えた。
 侍従長は、満面の笑みを浮かべた。
 その笑顔は、どこまでも慈悲深く、そしてどこまでも胡散臭い輝きを放っていた。

 本当はその奥に、とてつもない悪意が潜んでいたとしても。
 今の私には、彼が地獄に降りてきた唯一の救いの天使にしか見えなかったのだ。
 
「賢明なご判断です。では、馬車の準備ができておりますので」
 
 侍従長に促され、私は立ち上がった。
 ふと、公爵が去っていった方向を見る。
 あの恐ろしい猛獣が支配する城へ、自ら足を踏み入れる。その恐怖で膝が笑う。

 けれど、侍従長は優しく背中を押してくれた。
 
「大丈夫ですよ。私がついています。……貴女が『役目』を果たせるよう、全力でサポートいたしますから」
 
 その「役目」が、使い捨ての盾(毒見役)であることを、私はまだ知らない。

 私は震える足で、迎えの豪奢な馬車へと乗り込んだ。
 バタン、と重い扉が閉まる音が、まるで牢獄の鍵がかけられた音のように、薬草園に響き渡った。

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