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祖母と孫娘
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「今日も召し上がられないんですか?」
もうずいぶんと長い間お世話になっている看護師が、そう私に尋ねました。
私は、ありがとうとお礼を言って私用の食事を下げてもらいました。看護師は少し悲しそうな顔をして、手の付けられていない料理を下げていきます。申し訳のないことをした、という罪悪感を伴って私はその背を見送ります。
でも仕方のないことなのです。
私はこれ以上、私のために何かを犠牲にすることに耐えられそうにないのです。
しわがれた自分の手を見ます。絶えず止まない頭痛を感じます。動かぬ身体を抱えます。
もう宣告された余命をとうに過ぎた身体と共に。
心は幾許かの寂寥と罪悪感で占められています。
私が事実を告げた時の孫娘の、亜衣の顔が幾度も頭をよぎります。呆然として、事実を受け入れられないあの顔。
これでよかったのでしょうか?やはり、間違っていたのでしょうか?
そう何度も自身に問いかけましたが、もう事実が変わることはありません。
覆水は盆に返らない。放たれた矢は二度と戻りはしない。
私が篠原さんの手を借りて行った暴力が、あの子を暴力から救い出し。その過程で大きくあの子を傷つけました。
そしてその暴力が三人の命を、自身の娘の命すら奪いました。
余命一年というのはやはり焦りがあったのでしょうか。まあ、なんの因果か余命宣告から二年近く生き残ってしまっているわけですが。
大事な亜衣を守る。明るく、傷つきながらも、前を向いていたあの子を守る。何度も助けを求められ、それをなすことが老年の私の唯一の生きる目的でした。
時代にそぐわず女だてらに会社なんぞ経営していたものですから、優先順位をはっきりつけることの重要さは身に染みています。
人を守るため、金を切る。会社を守るため、人を切る。命を守るため、会社を切る。今までの人生で、どれだけ傷を、犠牲を背負ってきたのでしょう。
それでも、どちらかしか守れぬ、だから優先順位をつけねばならぬ。そんな場面、何度、遭遇してきたことでしょう。
慣れたものでした。娘より、亜衣の方が優先度は高い、理由は、色々。ただ、結論として私の脳はそう判断しました。判断してしまいました。
愛すべきものを守るため、同じく愛すべきものであるはずの娘の命を切りました。
実の娘、という相手にすら、切り捨てる判断をしてしまえる。
自嘲と罪悪感はありましたが、決断に迷いはありませんでした。
私からの圧力を、あの手この手で跳ねのける娘。同じく会社を経営し、現役の彼女の方が、経済力も影響力も圧倒的に上です。
迷ってどうにかなる相手ではないのです。
そして、余命が一年と宣告された時、それまで考えていた手段のすべてが頓挫してしまいました。
時間が、圧倒的に時間が足りなかったのです。解決するための時間が。
人に託すこともできましたが、人から託されたもの程度、あの娘なら容赦なく叩き潰してしまうでしょう。
血縁がゆえに、そういう苛烈さがあの娘に眠っているのはわかっていました。
だから、私は最後の手段に頼らざる得なかったのです。
いえ、ちがいますね。
どんな過程をたどろうが、私が私の意思で決断したのです。
実の娘の殺害という犠牲を。亜衣が幸せになってほしいというわがままのために。
「・・・・・・」
しかし、そのわがまますら叶ったかどうかは怪しいものです。
困惑と絶望に満ちたあの子の顔を、私は何度も頭で反芻してしまいます。
それはそうでしょう、肉親を肉親が殺したのですから。
まあ、この反応も想定済みでした。それでも、苦しみから解放されればあの子はやがて幸せになるだろうと考えていました。
いえ、多分、どこか高をくくっていたのでしょう。亜衣はいずれ全てを忘れて勝手に幸せになると。
焦りを言い訳に、この結末から目を背けていたのでしょう。亜衣が受けるであろう、苦しみを罪悪感を。
・・・まあ、相応しい罰でしょうか。
最愛の孫娘からの絶望に満ちた視線も、未だあの子が私に会いに来ないことも。
全てが相応しいのでしょう、誰が見ても納得の自業自得です。信心深くはありませんが、地獄行きは確定でしょう。
まあ、幸いなのは我が娘も酷い行いをたくさんしたものですから、地獄では立派に再会できるということでしょうか。
向こうで会えたら、ついぞ聞けなかったあの子の本心も聞くことができるのでしょうか。
そろそろ、夏に差し掛かろうとしている頃でした。体調は刻一刻と悪くなっていく頃でした。
篠原さんから面談の連絡が来ました。
「亜衣も一緒に行きます」
私は身体が震えるのをただただ感じていました。
----------------
夏に差し掛かったころ、おばあちゃんに会いたい、と私の方から口に出した。
そのころには殺し屋さんがお昼寝をする機会を見ることも増えて、二日に一回くらいはお昼寝していた。相変わらず夜は起きているみたいだけど、明らかに顔色が良くなっている。
私も運動メニューが二セット目までできるようになった。料理のバリエーションは更に増えた。健康に関する知識もどんどん頭に詰め込まれ、殺し屋さんの料理に不足していた味付けも相当数のスパイスを仕入れることでカバーできる領域になっていた。
殺し屋さんが読んでいた本は30冊ほど読了した。読んだ本の感想を殺し屋さんと一緒にお話ししたりもした。
時々、二人で出かけて自然の中を歩いた。森の中、山の中、海のそば、川を辿って源流を探したりもした。
お母さんの声はまだ時折聞こえるけれど、深く息を吸うと心の底の方にまた沈んでいった。
大丈夫、失われていない。でも、ちゃんと歩いていけてる。
死にたくなったら、深く息をする。ぼーっとして、感情を手放す。そしてまた息をする。教えられたとおりに。
でも、心のどこかに引っ掛かりがあった。お母さんのこととはまた別に。
それを解決しなきゃと思った。そしたら、口は自然とおばあちゃんに会いたいと動いていた。
歯車は回りだしている。あるべき場所へ、あるべき形へ。かたかたと進みだしている。
そういえば、以前読んだ本にこんな一文があった。
人は幸せになるために生きているらしい。
その時は首を傾げたけれど、今は、その通りなのだと思ってる。
心は、身体は、在るべき在り方を目指して進んでいく。
かたかたかた、歯車を回しながら。
----------------
おばあちゃんと出会うのおよそ半年ぶりだった。
道中、殺し屋さんがおばあちゃんの事情を説明しようとしてくれたけど、首を振って断った。
「ちゃんと、おばあちゃんから直接聞きます」
きっと、そうしないと意味がないのだ。殺し屋さんは少し驚いた後、優しくそっかと微笑んでいた。
看護師さんに案内されて病室のドアを開けると、ベッドに横たわるおばあちゃんがいた。ちゃんと覚えてないけれど、半年前よりかなり老け込んでしまったように見えた。実際、病状はあまりよくないのだろう。
「・・・いらっしゃい」
声も少し小さく細い。私のイメージしているおばあちゃんは優しく、それでいて気丈で、遠慮のない人だった。だけど今は少し違って見える。どことなく不安げで、か細く見えた。年齢と死期が近いことがそうさせてしまっているのかな、それとも・・・。
殺し屋さんが看護師さんに口添えして、席を外してもらう。部屋には私たち三人だけになった。殺し屋さんから、誰が聞いてるかわからないから、外では殺しのことを口に出さないことを、少しきつめに言われていた。それをちょっと心がけてから、話し始める。
まあ、最初に言うことは実は決まっていたのだけれど。
「おばあちゃん!久しぶり!」
第一声は元気よく。
「さて、問題です!私の背はいくつ伸びたでしょう?!」
第二声はとびきりの笑顔で。
おばあちゃんは面食らったような顔になった。困惑、疑問、不安、そんな顔。
だから、優しく微笑んだ。
そんなに怖がらなくていいんだよ、って。そういう意味を込める。
「え・・・・え、と、1センチ?」
「残念!3センチと3ミリでした!」
成長期は大方越えていたのだけれど、ちゃんと食べるようになったからかな、意外とまだ伸びるものだ。ブブーと腕でぺけ印を作った。
しばらく、沈黙があった。ちょっと気まずい。
殺し屋さんが後ろで、ぷっと抑えたように吹き出した。
釣られて、私も吹き出した。そこでようやく、おばあちゃんも少し、思わずと言った感じで笑った。
場に少しの笑いが満ちる。
「改めて、久しぶり。おばあちゃん」
「ええ、いらっしゃい。亜衣」
すごく久しぶりの笑顔の邂逅。笑う姿は私のよく知るおばあちゃんそのもので。
よかった、おばあちゃんは相変わらずおばあちゃんだね。
狂気に支配された見知らぬ人ではなかった。この人は確かに私が知っている、厳しくて優しくて孫に甘い、しっかりもののおばあちゃんなのだ。
後ろを振り返ると、殺し屋さんが優しくうなずいていた。
---------------------
僕は亜衣の後ろに立って黙って二人の話を聞いていた。
亜衣を助け出すために、亜衣の祖母が決意したこと。
計画、過程、実行されたこと。後始末。その時の気持ち。犠牲になったもの、その一つ一つ。
死期の間際に記憶された事実とは思えぬほど鮮明に、彼女はその詳細を語って見せた。
きっと、何度も何度も頭の中で起こった出来事を反芻していたのだろう。
話しながら次第に涙をこぼす祖母を、亜衣はどことなく微笑んで見守っていた。
「----これが、あなたの身に起こったことの全て。ごめんなさいね。全部、全部、全部、私が悪いのよ」
最後にそう締めて、祖母は言葉を切った。
亜衣はしばらく眼を閉じていた。言われた事実を思い描いているのか、それらを心の中で整理しているのだろうか。
音が聞こえた。亜衣が息を吸う音。
優しく、長く吸われ。穏やかに、永く解かれた。
亜衣がゆっくりと首を上げ、眼を開ける気配がした。
「おばあちゃん、ありがとう。話してくれて」
亜衣は座っていた椅子から立ち上がると、ベッドの隣まで行くと祖母に手を伸ばした。
祖母は少しためらった後、その手を取った。亜衣はそのままベッドに寄りかかって、祖母の小さな頭を抱きしめた。
「ごめんね、ごめんね。私のわがままのせいで、ごめんね」
老婆の口から紡がれた言葉は、己の過ちを親に詫びる少女のようで。
「ううん、ありがとう。私のためにしてくれたんだよね、ありがとう。ありがとう」
抱きしめる彼女は、子をあやす親のようで。
そうして抱き合った後、お互い顔を見合わせた。
「ごめんね、許してね」
亜衣は優しく微笑んで、首を横に振った。
決意と意志に満ちた眼。
亜依という少女をよく表した眼。
「ううん、違うのおばあちゃん。
もうね、おばあちゃんを許して上げれる人はね、どこにもいないの。私を許してくれる人もね、どこにもいないの。
だからね、私たちはきっと自分自身で自分を許すしかないんだ。
たくさん、たくさん、犠牲になっちゃったけど。
お母さんも、お父さんも、同級生も。
きっとね、生きることに犠牲になったたくさんのものも。
誰もね、もう誰も許すことなんてできないから、私たちは自分自身で自分を許すしかないんだよ。
犠牲にしたことを無駄にしないように。
後付けでしか、意味はついてこないから。意味があるように、精一杯生きるしかないの。
いつか死んだ時に犠牲になった人たちに胸を張って会えるように。
あなた達の犠牲はありましたが、私はこれだけ懸命に生きました!ってね。
私ね、殺し屋さんと過ごして、ずっと思ってたの。
こんな私に犠牲が必要なほどの価値があったのかなって。
私なんかのために人が死ぬほどの意味があったのかなって。
振り返ったらね、呑み込まれちゃいそうでね、いっつもいっつも不安になるの。時々、死にたくなっちゃくらい。
でもね、そういう時はねおまじないをするの。少し長く息を吸って、長く吐く。
たった、それだけ。それだけなんだけどね。でもねそうすると、ちょっと落ち着くの。
落ち着いたらね、ちょっと気持ちがマシになるの。
不思議なんだけどね。そんなふうにして、ご飯食べて、身体動かして、眠ってるとね、ま、こんな私でも生きてていいかなって気分になってくるの。現金な話だけどさ。ちょっとだけね、前向きになれるの。
そしたらね、不思議でね。ついでに幸せになるかーとか思い出すの。変でしょ。死にたがってたくせに。でも、実際そうなんだよ。
ねえ、おばあちゃん。
犠牲になった人は帰ってこないからね、もう私たちはさ、起こったことを受け入れるしかないんだよ。
してしまったことも、思ったことも。失ったものも。
過ぎ去ったことは、もう帰ってこないから、受け入れるしかないんだよ。
今の気持ちも、今の私も、もうここまで来ちゃったことは変わらないから。それでも生きるしかないんだよ。
私たちは、私たち以外にはなれないから、私たちのまま歩いていくしかないんだよ」
「亜衣・・・・」
「ねえ、おばあちゃん、生きてね。精一杯、生きてね。
ごめんなさい、ありがとう。たくさん犠牲にしたけれど、それでも生きていたいんですって。
そうやって祈りながら生きていくしかないからさ。
だからね、おばあちゃん、
たとえ、おばあちゃんがもうちょっとで死んじゃうとしても、しっかり生きてね。
必死に生きてね。祈りながら、謝りながら、お礼を言いながら、目一杯生きてね。
お願いだよ。
たくさんお願いしたけど、これがきっと最後のお願いだから」
泣く祖母の傍で笑いながら、亜衣はその手を握っていた。
少しの間、そうした後、亜衣はゆっくりと祖母から離れた。
それから、僕の方をゆっくりと向いて笑った。
「話し終わりました、帰りましょう」
僕はうなずいて、二人で踵を返した。
「篠原さん」
病室のドアに手をかけたところで、後ろから亜依の祖母の声がした。振り返る。
「ごめんなさい、それから、亜衣をよろしくお願いします」
僕は振り返って、うなずいた。
「ありがとう」
そんな言葉を背後に聞きながら、ドアを閉めた。
部屋には彼女、一人が取り残された。
もうずいぶんと長い間お世話になっている看護師が、そう私に尋ねました。
私は、ありがとうとお礼を言って私用の食事を下げてもらいました。看護師は少し悲しそうな顔をして、手の付けられていない料理を下げていきます。申し訳のないことをした、という罪悪感を伴って私はその背を見送ります。
でも仕方のないことなのです。
私はこれ以上、私のために何かを犠牲にすることに耐えられそうにないのです。
しわがれた自分の手を見ます。絶えず止まない頭痛を感じます。動かぬ身体を抱えます。
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そしてその暴力が三人の命を、自身の娘の命すら奪いました。
余命一年というのはやはり焦りがあったのでしょうか。まあ、なんの因果か余命宣告から二年近く生き残ってしまっているわけですが。
大事な亜衣を守る。明るく、傷つきながらも、前を向いていたあの子を守る。何度も助けを求められ、それをなすことが老年の私の唯一の生きる目的でした。
時代にそぐわず女だてらに会社なんぞ経営していたものですから、優先順位をはっきりつけることの重要さは身に染みています。
人を守るため、金を切る。会社を守るため、人を切る。命を守るため、会社を切る。今までの人生で、どれだけ傷を、犠牲を背負ってきたのでしょう。
それでも、どちらかしか守れぬ、だから優先順位をつけねばならぬ。そんな場面、何度、遭遇してきたことでしょう。
慣れたものでした。娘より、亜衣の方が優先度は高い、理由は、色々。ただ、結論として私の脳はそう判断しました。判断してしまいました。
愛すべきものを守るため、同じく愛すべきものであるはずの娘の命を切りました。
実の娘、という相手にすら、切り捨てる判断をしてしまえる。
自嘲と罪悪感はありましたが、決断に迷いはありませんでした。
私からの圧力を、あの手この手で跳ねのける娘。同じく会社を経営し、現役の彼女の方が、経済力も影響力も圧倒的に上です。
迷ってどうにかなる相手ではないのです。
そして、余命が一年と宣告された時、それまで考えていた手段のすべてが頓挫してしまいました。
時間が、圧倒的に時間が足りなかったのです。解決するための時間が。
人に託すこともできましたが、人から託されたもの程度、あの娘なら容赦なく叩き潰してしまうでしょう。
血縁がゆえに、そういう苛烈さがあの娘に眠っているのはわかっていました。
だから、私は最後の手段に頼らざる得なかったのです。
いえ、ちがいますね。
どんな過程をたどろうが、私が私の意思で決断したのです。
実の娘の殺害という犠牲を。亜衣が幸せになってほしいというわがままのために。
「・・・・・・」
しかし、そのわがまますら叶ったかどうかは怪しいものです。
困惑と絶望に満ちたあの子の顔を、私は何度も頭で反芻してしまいます。
それはそうでしょう、肉親を肉親が殺したのですから。
まあ、この反応も想定済みでした。それでも、苦しみから解放されればあの子はやがて幸せになるだろうと考えていました。
いえ、多分、どこか高をくくっていたのでしょう。亜衣はいずれ全てを忘れて勝手に幸せになると。
焦りを言い訳に、この結末から目を背けていたのでしょう。亜衣が受けるであろう、苦しみを罪悪感を。
・・・まあ、相応しい罰でしょうか。
最愛の孫娘からの絶望に満ちた視線も、未だあの子が私に会いに来ないことも。
全てが相応しいのでしょう、誰が見ても納得の自業自得です。信心深くはありませんが、地獄行きは確定でしょう。
まあ、幸いなのは我が娘も酷い行いをたくさんしたものですから、地獄では立派に再会できるということでしょうか。
向こうで会えたら、ついぞ聞けなかったあの子の本心も聞くことができるのでしょうか。
そろそろ、夏に差し掛かろうとしている頃でした。体調は刻一刻と悪くなっていく頃でした。
篠原さんから面談の連絡が来ました。
「亜衣も一緒に行きます」
私は身体が震えるのをただただ感じていました。
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夏に差し掛かったころ、おばあちゃんに会いたい、と私の方から口に出した。
そのころには殺し屋さんがお昼寝をする機会を見ることも増えて、二日に一回くらいはお昼寝していた。相変わらず夜は起きているみたいだけど、明らかに顔色が良くなっている。
私も運動メニューが二セット目までできるようになった。料理のバリエーションは更に増えた。健康に関する知識もどんどん頭に詰め込まれ、殺し屋さんの料理に不足していた味付けも相当数のスパイスを仕入れることでカバーできる領域になっていた。
殺し屋さんが読んでいた本は30冊ほど読了した。読んだ本の感想を殺し屋さんと一緒にお話ししたりもした。
時々、二人で出かけて自然の中を歩いた。森の中、山の中、海のそば、川を辿って源流を探したりもした。
お母さんの声はまだ時折聞こえるけれど、深く息を吸うと心の底の方にまた沈んでいった。
大丈夫、失われていない。でも、ちゃんと歩いていけてる。
死にたくなったら、深く息をする。ぼーっとして、感情を手放す。そしてまた息をする。教えられたとおりに。
でも、心のどこかに引っ掛かりがあった。お母さんのこととはまた別に。
それを解決しなきゃと思った。そしたら、口は自然とおばあちゃんに会いたいと動いていた。
歯車は回りだしている。あるべき場所へ、あるべき形へ。かたかたと進みだしている。
そういえば、以前読んだ本にこんな一文があった。
人は幸せになるために生きているらしい。
その時は首を傾げたけれど、今は、その通りなのだと思ってる。
心は、身体は、在るべき在り方を目指して進んでいく。
かたかたかた、歯車を回しながら。
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おばあちゃんと出会うのおよそ半年ぶりだった。
道中、殺し屋さんがおばあちゃんの事情を説明しようとしてくれたけど、首を振って断った。
「ちゃんと、おばあちゃんから直接聞きます」
きっと、そうしないと意味がないのだ。殺し屋さんは少し驚いた後、優しくそっかと微笑んでいた。
看護師さんに案内されて病室のドアを開けると、ベッドに横たわるおばあちゃんがいた。ちゃんと覚えてないけれど、半年前よりかなり老け込んでしまったように見えた。実際、病状はあまりよくないのだろう。
「・・・いらっしゃい」
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殺し屋さんが看護師さんに口添えして、席を外してもらう。部屋には私たち三人だけになった。殺し屋さんから、誰が聞いてるかわからないから、外では殺しのことを口に出さないことを、少しきつめに言われていた。それをちょっと心がけてから、話し始める。
まあ、最初に言うことは実は決まっていたのだけれど。
「おばあちゃん!久しぶり!」
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「さて、問題です!私の背はいくつ伸びたでしょう?!」
第二声はとびきりの笑顔で。
おばあちゃんは面食らったような顔になった。困惑、疑問、不安、そんな顔。
だから、優しく微笑んだ。
そんなに怖がらなくていいんだよ、って。そういう意味を込める。
「え・・・・え、と、1センチ?」
「残念!3センチと3ミリでした!」
成長期は大方越えていたのだけれど、ちゃんと食べるようになったからかな、意外とまだ伸びるものだ。ブブーと腕でぺけ印を作った。
しばらく、沈黙があった。ちょっと気まずい。
殺し屋さんが後ろで、ぷっと抑えたように吹き出した。
釣られて、私も吹き出した。そこでようやく、おばあちゃんも少し、思わずと言った感じで笑った。
場に少しの笑いが満ちる。
「改めて、久しぶり。おばあちゃん」
「ええ、いらっしゃい。亜衣」
すごく久しぶりの笑顔の邂逅。笑う姿は私のよく知るおばあちゃんそのもので。
よかった、おばあちゃんは相変わらずおばあちゃんだね。
狂気に支配された見知らぬ人ではなかった。この人は確かに私が知っている、厳しくて優しくて孫に甘い、しっかりもののおばあちゃんなのだ。
後ろを振り返ると、殺し屋さんが優しくうなずいていた。
---------------------
僕は亜衣の後ろに立って黙って二人の話を聞いていた。
亜衣を助け出すために、亜衣の祖母が決意したこと。
計画、過程、実行されたこと。後始末。その時の気持ち。犠牲になったもの、その一つ一つ。
死期の間際に記憶された事実とは思えぬほど鮮明に、彼女はその詳細を語って見せた。
きっと、何度も何度も頭の中で起こった出来事を反芻していたのだろう。
話しながら次第に涙をこぼす祖母を、亜衣はどことなく微笑んで見守っていた。
「----これが、あなたの身に起こったことの全て。ごめんなさいね。全部、全部、全部、私が悪いのよ」
最後にそう締めて、祖母は言葉を切った。
亜衣はしばらく眼を閉じていた。言われた事実を思い描いているのか、それらを心の中で整理しているのだろうか。
音が聞こえた。亜衣が息を吸う音。
優しく、長く吸われ。穏やかに、永く解かれた。
亜衣がゆっくりと首を上げ、眼を開ける気配がした。
「おばあちゃん、ありがとう。話してくれて」
亜衣は座っていた椅子から立ち上がると、ベッドの隣まで行くと祖母に手を伸ばした。
祖母は少しためらった後、その手を取った。亜衣はそのままベッドに寄りかかって、祖母の小さな頭を抱きしめた。
「ごめんね、ごめんね。私のわがままのせいで、ごめんね」
老婆の口から紡がれた言葉は、己の過ちを親に詫びる少女のようで。
「ううん、ありがとう。私のためにしてくれたんだよね、ありがとう。ありがとう」
抱きしめる彼女は、子をあやす親のようで。
そうして抱き合った後、お互い顔を見合わせた。
「ごめんね、許してね」
亜衣は優しく微笑んで、首を横に振った。
決意と意志に満ちた眼。
亜依という少女をよく表した眼。
「ううん、違うのおばあちゃん。
もうね、おばあちゃんを許して上げれる人はね、どこにもいないの。私を許してくれる人もね、どこにもいないの。
だからね、私たちはきっと自分自身で自分を許すしかないんだ。
たくさん、たくさん、犠牲になっちゃったけど。
お母さんも、お父さんも、同級生も。
きっとね、生きることに犠牲になったたくさんのものも。
誰もね、もう誰も許すことなんてできないから、私たちは自分自身で自分を許すしかないんだよ。
犠牲にしたことを無駄にしないように。
後付けでしか、意味はついてこないから。意味があるように、精一杯生きるしかないの。
いつか死んだ時に犠牲になった人たちに胸を張って会えるように。
あなた達の犠牲はありましたが、私はこれだけ懸命に生きました!ってね。
私ね、殺し屋さんと過ごして、ずっと思ってたの。
こんな私に犠牲が必要なほどの価値があったのかなって。
私なんかのために人が死ぬほどの意味があったのかなって。
振り返ったらね、呑み込まれちゃいそうでね、いっつもいっつも不安になるの。時々、死にたくなっちゃくらい。
でもね、そういう時はねおまじないをするの。少し長く息を吸って、長く吐く。
たった、それだけ。それだけなんだけどね。でもねそうすると、ちょっと落ち着くの。
落ち着いたらね、ちょっと気持ちがマシになるの。
不思議なんだけどね。そんなふうにして、ご飯食べて、身体動かして、眠ってるとね、ま、こんな私でも生きてていいかなって気分になってくるの。現金な話だけどさ。ちょっとだけね、前向きになれるの。
そしたらね、不思議でね。ついでに幸せになるかーとか思い出すの。変でしょ。死にたがってたくせに。でも、実際そうなんだよ。
ねえ、おばあちゃん。
犠牲になった人は帰ってこないからね、もう私たちはさ、起こったことを受け入れるしかないんだよ。
してしまったことも、思ったことも。失ったものも。
過ぎ去ったことは、もう帰ってこないから、受け入れるしかないんだよ。
今の気持ちも、今の私も、もうここまで来ちゃったことは変わらないから。それでも生きるしかないんだよ。
私たちは、私たち以外にはなれないから、私たちのまま歩いていくしかないんだよ」
「亜衣・・・・」
「ねえ、おばあちゃん、生きてね。精一杯、生きてね。
ごめんなさい、ありがとう。たくさん犠牲にしたけれど、それでも生きていたいんですって。
そうやって祈りながら生きていくしかないからさ。
だからね、おばあちゃん、
たとえ、おばあちゃんがもうちょっとで死んじゃうとしても、しっかり生きてね。
必死に生きてね。祈りながら、謝りながら、お礼を言いながら、目一杯生きてね。
お願いだよ。
たくさんお願いしたけど、これがきっと最後のお願いだから」
泣く祖母の傍で笑いながら、亜衣はその手を握っていた。
少しの間、そうした後、亜衣はゆっくりと祖母から離れた。
それから、僕の方をゆっくりと向いて笑った。
「話し終わりました、帰りましょう」
僕はうなずいて、二人で踵を返した。
「篠原さん」
病室のドアに手をかけたところで、後ろから亜依の祖母の声がした。振り返る。
「ごめんなさい、それから、亜衣をよろしくお願いします」
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そんな言葉を背後に聞きながら、ドアを閉めた。
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