殺し屋さんと自殺少女

キノハタ

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こころとあい

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 亜衣の手が僕の背中に回る。

 抱きしめられる。柔らかい感触に、温かい体温に包まれる。

 殺し屋がどうすれば幸せになれるというのか。

 ずっとずっと考えてた。眠れない夜にたくさんの言葉が擦り切れるほどに考えていた。

 たくさんの犠牲があった。たくさんの死体を踏み越えてきた。

 その先に手にしたものがあっても、それはきっと血みどろの何かじゃないか。

 どろどろに汚れた僕の手じゃ、真っ黒に汚れた僕の手じゃ、何を掴んだって汚れたままじゃないか。

 綺麗なものがあってもそれじゃつかめやしないよ。僕が触れることで汚してしまうじゃないか。

 ずっとずっと考えてた。祈るたびに、幸せの残滓を削りながら考えていた。

 考えてた?嘘だ、考えてた気になってただけだ。ずっとずっと、諦めていただけだ。幸せには触れられないって思い込んでただけだ。もうどうしようもないってそう思い込んでただけだ。手が汚れてるんじゃなくて、自分自身で黒い汚れを握りしめていたんだ。

 つまり、僕が何者かになることを諦めていただけ。

 つまり、僕が変わることを諦めていただけ。

 つまり、僕が幸せになることを諦めていただけ。

 具体的な手段など何も考えていなかったじゃないか。

 どうすれば幸せになれるのかなんて、真剣に模索したことなどなかったじゃないか。

 暗い海の底で藻掻きもせず、じっと黙って膝を抱えていただけだ。

 もう上に向かう足などないと、泳ぐための手などないと、必死に自分の身体を丸めて縮こまっていただけだ。

 そうすることで、誰かが幸せになれるならそれでいいと。

 僕自身が犠牲になって誰かが救わるのならそれでいいと。

 誰かを犠牲にしながら、僕自身を犠牲にしながら。もうどうしようもないと。

 そう思い込んで暗い海の底に自分から沈んでいただけだ。

 

 

  

 暗い海の底から海面を見上げる。泳ぐ方法は、自分で自分を救う方法はもう誰かから習ったはずだろう?

 続けること、些細な積み重ねを、ちょっとした変化を、海辺の砂粒みたいなそれを、一つずつ積み重ねること。

 身体にいいものを食べる、野菜を肉を穀物を果物を。適度な運動をする、少し汗をかいて息が荒れるくらい。祈ること、集中して一つのことを想うこと。本を読むこと、工夫の種を探し続けること。深く息をすること、心を強くするために。

 そして、よく眠ること。明日に向かうために。

 ずっと前に教えられたそれらが、泳いで海面に上がるためのすべだということさえ、いつしか忘れてしまっていた。

 忘れてしまったそれを亜衣に教えるたび、思い出していた。

 同じように暗い海の底に沈んだ、いやきっと僕より深く沈んだ彼女に教えるたび。

 腕の動かし方を、足の動かし方を、暗い水底で息をする方法を、海面に上がるための方法を、幸せになるための方法を。

 毎日、少しずつ教えるたび、思い出していた。

 この行いがなぜ行われるか、どうすれば幸せになれるのか、どうすれば人は変われるのか。

 その一つ、一つを教えながら思い出していた。

 僕がもう諦めてしまったそれを、ゆっくりと指でなぞりながら教え込んだんだ。

 そうして彼女が一つ何かを覚えるたび、指が動く。彼女が一つ成し遂げるたび、閉じていた膝が緩む。

 彼女に語り掛けているのに、まるで僕自身に対して教え直しているみたいだ。

 運動は、こうだ。食事は、こうだ。祈りは、こうだ。呼吸は、こうだ。海面にはこう上がるのだ。こうして、人は変わるのだ。

 気づけば、亜衣は僕を越えて海面に向かっている。あそこまで暗く沈んでいた彼女が、幸せにむかって進んでいる。

 迷って、惑って、それでも受けいれて、幸せにむかって泳いでいく。少しずつ、ゆっくりと、でも確かに海面を目指している。

 夜の海を月あかりをたよりに昇っていく。

 それを見上げる僕の後ろで、もう一人の僕が聞いている。

 どうする?君も行くかい?それとも、ここに残る?

 振り返った。膝を抱える僕がいた。海の底で下を向く僕がいた。

 怖いよ。

 うん。

 不安だ。

 うん。

 でもね。

 きっと僕も少しずつ変わってたんだ。

 幸せそうなあの子の顔を見て、続けることの意味を思い出して。

 ああ、僕も幸せになれるのかなって。

 なりたいなって。

 うん、そっか。

 なっていいのかな?

 わかんない、それは誰が許してくれるの?

 ・・・・誰も許してくれないね、だから自分自身で許すしかないんだね。

 君は許すことができるのかな?

 わかんない。ただ、そんなすぐには変わんないよ。

 そっか。

 でもね。

 うん。

 でも、ちょっとずつ変わってる。些細な変化だけれど、ちょっとずつ変わってる。

 君は確かに前に進んでるんだ。

 元から進むための足はあったんだ。

 だから大丈夫。心配いらない。

 君は変われるよ、進んでいけるよ。

 僕のことは心配しなくていい。僕はずっと一緒だ、不安も怖さもずっと一緒だ。

 だって僕は君なんだ。

 不安なのも、怖いのも、まぎれもなく君なんだ。

 だから一緒に行けばいい。

 不安も怖さも抱えたまま、一緒に泳いでいけばいい。

 不安でいいのかい?

 いいんだよ。

 怖くていいのかい?

 いいんだよ。

 それなのに、変わって幸せになろうとして、いいのかい?

 いいんだよ。君は君なんだから。君の幸せは君が決めるんだから。

 ほら、上を見なよ。

 亜衣が呼んでる。

 行こう。

 うん。

 そうだね、行こう。

 ーーーーーーーーーーーーーーーーーーー

 僕より小さく、柔らかい彼女に包まれる。

 徐々に零れてくるものはなんだろう。涙かな。

 身体が震えているのはなんでだろう。泣いているからかな。

 涙なんていつぶりだろう。もう、あまり思い出せない。

 零れる。ああ、そうだ。

 辛かった。苦しかった。

 人を殺すことも、犠牲を産みだすことも、自分自身が幸せになれないことも。辛かった。

 誰かの幸せのためなのは確かだった。

 仕方ないと思った。誰かが笑えるならそれでいいと思った。

 でもやっぱり、僕自身が笑えないのが辛かった。

 そう辛かったんだ。

 すごく、今更だけれどさ。

 辛かったんだよ。本当に。

 悲しかったんだよ。苦しかったんだよ。

 誰にも許されないってわかってたから、言えなかったけれど。

 ずっとずっと。

 辛くて、悲しくて、苦しかったんだよ。

 今更、本当に今更だけどさ。

 僕はそんなことをずっと知らないままだったんだよ。

 ああ。

 僕の話なのに、亜衣は僕よりたくさん泣いている。

 きっと僕の代わりに泣いている。

 ありがとう、ごめんね。

 きっと随分と昔に僕が泣き損ねた分まで、泣いている。

 優しい子。人の気持ちに敏感で、努力家で、前向きで、僕なんかのために泣いて、僕なんかの幸せを願ってくれる。

 そんな、優しい子。

 どうか、どうかこの子が幸せであればいい。

 そのために僕にできることをしたい。できることを積み重ねていきたい。

 僕にできること、亜衣のためにしてあげられること。

 きっと何より、僕の幸せのために。

 この子の幸せが僕の幸せだから。

 ああ、これをなんて言葉で呼ぶのだったけ。



 「愛してます」



 そっか。



 「僕も愛してる」



 これは『愛』って呼ぶものなんだ。




 ーーーーーーーーーーーーーーー




 二人の泣き声だけが響いてる。

 でもきっと。

 泣き止んだその時には、きっと。

 少しだけ、笑っていられるよね。

 きっと、そうきっと。

 涙が止まった時に、僕はたちは少しだけ幸せになれるんだ。

 そう思った。
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