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1巻試し読み
2.
――どうして、こんなことになってしまったんだろう。
解けた魔法から逃げるように住み慣れた古いアパートに帰った綾香は、ベッドに頭を埋めながら自己嫌悪と戦っていた。
(いくら綾菜と海斗さんの結婚式の後だったからって、あんなこと……っ!)
何も考えたくなくて、一人になりたくなくて、目の前の彼に縋ってしまった。その挙句……
ふう、と深い溜息をついた綾香の心に、半年前の光景がよみがえってきた。
***
『お姉ちゃん、私、海斗さんと結婚したいの』
愛する男性に手を握られながらそう告げる綾菜を見た時、綾香の胸を過ぎったのは、『ああ、やっぱり』という思いと、『認めたくない』という二つの思いだった。
自宅のダイニングキッチンのテーブルを挟んで座る妹を冷静に見る。茶色っぽいくせ毛で、少女のような優しげな雰囲気。
『でも、あなたはまだ大学二年でしょ? 早すぎるんじゃない?』
何とかそれだけ言うと、綾菜は首を横に振り、隣に座る男性――小野寺海斗を愛おしげに見上げた。
『私、早く自分の家族を持ちたい。大学まで行かせてくれたお姉ちゃんには申し訳ないんだけど……でも』
お姉ちゃんみたいに、キャリアウーマンになりたいわけじゃないの、と綾菜は言った。
『海斗さんも、早く結婚したいって言ってくれてるし……私も、海斗さんの傍にいたいの』
頬を染めながら言う綾菜は、本当に愛らしかった。
可愛くて優しい、たった一人の大事な妹。母が亡くなり、頼れる身内が一人もいない中、自分が母親代わりとなって懸命に面倒を見てきた。
その綾菜が海斗と出会ったのは、わずか半年前のこと。海斗が社長を務める小野寺商事で、社長秘書を務める綾香。その日、妹は自分に忘れ物を届けようと会社まで来てくれたのだ。妹を一目見て、偶然そこにいた若き社長――海斗は足を止めた。
見たことがなかった。……あんな表情をする社長なんて。今まで、どんな美女に迫られてもスマートに退けていたのに。
綾菜も海斗を見て頬を真っ赤に染めていた。
大切な妹と、長年思い続けてきた相手が、恋に落ちたのだとすぐに悟った。だから綾香が真っ先にしたことは、海斗への思いを胸の底に封印することだった。
秘書という仕事柄、感情を隠すことに慣れているから、それは簡単なことだった。
――ただ、切り刻まれたような胸の痛みだけは封印し切れなかったけれど。
『綾菜は二十歳になったばかりだから、綾香も心配だろうけど……綾菜のことは大切にする。傍にいて、守ってやりたいんだ。俺のこの手で』
真摯な態度で、そう海斗に言われた綾香は、溜息をつきながら、『結婚しても、綾菜が大学を卒業すること』を条件に、二人の結婚を許したのだった。
そして今日の午後、二人の結婚式がとある教会で厳かに行われた。
『では、誓いの口付けを』
神父の言葉に促され熱い口付けを交わす二人は、胸が痛くなるくらい、幸せそうだった。
『おめでとう、小野寺社長!』
『いやあ、本当に綺麗な花嫁で……』
その後、場所を移して開かれた立食パーティーで招待客達が歓談にざわめく中、綾香はシャンパングラスを片手に、一人壁際に佇んでいた。穏やかなBGMが流れ、着飾った女性達が会場を行き交う。会社社長の結婚式ということもあって、即席ビジネス会議を行う男性グループまでいた。
(ブライズメイドの大役も果たしたし……やれやれよね)
ちら、と自分の着ているドレスに目をやる。上半身のラインを引き立てるデザインは、いつも着ているビジネススーツとは大違いだ。とはいえ、『お姉ちゃんはブルーが似合うから!』と主張する綾菜がオーダーしてくれただけあって、鏡に映る自分の姿は普段より綺麗に見えた。
(でも……)
雪のように真っ白なウエディングドレスを纏った綾菜は、もっと綺麗で……
式で付き添っている間も、綾香は複雑な思いでいっぱいだった。姉として誇らしい気持ちと、女として負けたという気持ち。そしてその思いは、今も綾香の胸を占めている。
シャンパンをごくりと飲み、気を紛らわせる。
(今日はもう、やることもないし……少しくらい酔っても大丈夫よね)
『お姉ちゃん、当日裏方に回らないでね! ちゃんとお客様として楽しんでよ!』という綾菜の要望で、全ての段取りは前日までに終わっている。今はこうして披露宴代わりの立食パーティーの成り行きを見守るだけで良かった。
(本当に、海斗さんのおかげで助かったわ……)
彼は、綾香以外身寄りのない綾菜の事情を考慮し、普通の披露宴ではなく、立食パーティーの形にしてくれたのだ。そのため招待客も、新郎側、新婦側の区別がつかなくなっている。
とはいえ、大半は新郎側の招待客だろう。
海斗は、日本でも有数の財閥である藤堂家の出身なのだ。
『どうせ俺の親戚達は、俺の結婚式なんてビジネスの会食代わりにしか思ってないよ。根っからの商売人だから』
海斗はそう言って苦笑していた。どうやら藤堂家は、こういった冠婚葬祭の際に格式を重んじる家風ではないようだ。
一方の綾菜側は、姉である自分と、大学までの友人しか参列していない。故に若い女性が大半だ。その友人達は、いそいそと若い男性グループに話しかけている。何だか婚活パーティーを見ているような気がしてきた。
ふと、高砂席を見る。頬を上気させた綾菜と、幸せそうに笑う海斗の姿。本来、海斗の秘書でもある自分が傍に行って、二人のサポートにつくべきなのだろう。でも……
(おめでとう、って言うのが精一杯だった……)
シュワシュワと泡が弾けるシャンパンを再び口に含む。アルコールが苦手な綾香でも、その口当たりの良さは分かる。
社長の結婚式だから最高級のものを手配したけれど、その甲斐はあったかな……とぼんやり思う。
――海斗さんのことは、もう思い切らないといけない。
分かっているのに、心がついていかない。
小野寺商事に入社して以来、ずっと心に秘めていた海斗への思い。
「女の秘書は、海斗社長にのぼせ上がって使い物にならなかった」と、先任の秘書である松原から引き継ぎの時に聞かされた綾香は、まず自分の感情を殺し、海斗のサポートが完璧にできるよう力を尽くしてきた。その甲斐あってか、海斗は綾香を秘書として心から信頼してくれるようになった。
『松原は父の代からいてくれた秘書だが、彼以外で君のように優秀な秘書はいなかったよ、水瀬。君がいないと、俺は仕事になりやしないよ』
『ありがとうございます、社長』
海斗の褒め言葉を聞きながら、いつか〝秘書〟としてではなく〝女性〟として必要に思ってくれることを密かに夢見ていた。馬鹿みたいに、一途に。
(本当、馬鹿だったわよね……)
海斗に恋している素振りなんて、一度も見せたことがない。仕事のサポートに徹するあまり、彼には戦友扱いされていたのに。思いに気付いてもらえるはずなんてなかったのに。
それでも望みを捨て切れなかった……あの日、忘れ物を届けに来た綾菜と、海斗が出会うまでは。
綾香は残りのシャンパンを一気に飲み干した。喉とお腹がかっと熱くなる。
ふう、と溜息をついた綾香の後ろから、低い声が聞こえた。
『もう一杯、いかがですか?』
ぎくり、と体が強張った。聞き覚えのある声。この声は……でも、まさか。
(海斗さん!?)
ぱっと振り返った綾香の目に入ったのは、シャンパングラスを両手に一つずつ持った、見知らぬ男性だった。
『え……?』
綾香は目を見張り、そっと差し出されたグラスに目を向けた。黒の礼服姿の男性は、綾香の左手に新しいグラスを持たせると、空になったグラスを取り上げ、傍にいたボーイに渡した。流れるような一連の動作に、綾香はぼうっと、されるがままになっていた。
(この人……誰?)
見覚えがないということは、海斗側の招待客だろう。海斗も長身だが、この男性も背が高い。おまけに……
(こんな綺麗な人、会ったことがない……)
端整だが、どこか野性味を感じさせる顔立ち。そんな彼が漂わせる艶っぽい雰囲気に、呑まれそうになる。ふっと微笑まれ、綾香の頬は瞬時に熱くなった。
『花嫁のお知り合いですか?』
……似てる。低くて甘い声が、あの人――海斗さんに。
綾香は一瞬言葉を出せなかった。
『あの、私……』
言いかけて、すぐに口をつぐんだ。
この人が誰かは分からないが、これほど声が似ているということは海斗の親戚筋だろう。ならばあまり自分のことを言わない方がいいかもしれない。
実は自分達姉妹は、名字が違う。水瀬綾香と大谷綾菜。父親が違うせいだが、下手に名乗ったりすればそこから家庭環境の話にならないとも限らない。何もおめでたい席でそんな話をすることもないだろう。
綾香は男性に向かってにっこりと微笑んだ。
『……ええ、そうです。あなたは? 新郎のお知り合いですか?』
曖昧に答え、逆に質問を返す綾香に、男性の瞳が面白がるように光った。
『そうです。俺が海外出張に行っている間に、結婚が決まっていたことには驚きましたが』
カツン、と、綾香のグラスに男性のグラスが軽く触れる。
『……新郎新婦の幸せを願って』
ええ、と頷いた綾香は、金色のシャンパンを飲み干す。爽やかな泡が喉元を通り過ぎる。何だか足元がふわふわしてきた。男性は、そんな綾香をじっと見つめている。
(……何かしら)
今までこんなに男性にじろじろ見られることなどなかった。普段なら、居心地悪く感じていただろうが、アルコールの力が綾香の心を麻痺させていた。
『何か?』
首を傾げた綾香に、男性はくっくっ……と笑った。その笑い声に、綾香の指先が震える。
『いえ。あなたの態度が新鮮だったもので』
『新鮮?』
どういう意味だろう。特に何もしていない気がするけれど。
綾香は訳が分からず、男性の顔を見上げた。
『今まで俺の周りには、あなたみたいな女性はいなかったな』
『はあ、そうですか……』
よく分からないが、不作法をしたわけではないらしい。アルコールで気が緩んでいた綾香は、気にせずやり過ごすことにした。
『この後、予定はありますか?』
『いえ……特には』
そう。もう『家で妹が待っているから』と言って早く帰らなくてもいい。
ずきんと胸の奥が痛む。
『もし良ければ、場所を変えて飲み直しませんか? このホテルのラウンジも、なかなか良い酒を置いているそうですよ』
『私……』
断ろうとした綾香の脳裏に、幸せそうな二人の姿が浮かんだ。
(今、一人になりたくない……)
綾香は思わず、『ええ』と掠れた声で答えていた。男性の口の端が満足そうに上がった。
『じゃあ、パーティーが終わったら最上階のラウンジで。……待っていますよ』
男性はにっこりと笑って、踵を返した。綾香はその場に立ち尽くし、浮かんでは消えるシャンパンの泡を見つめていた。
その後のことは正直言って、はっきりとは思い出せない。
夜景が綺麗に見える、ラウンジの窓際の席。ふかふかのソファに並んで座り、二人で飲んだ。男性の話は面白くて、会話も弾んだ気がする。
(まるで、海斗さんとデートしているみたい……)
目を瞑ると、本当にそう思えるくらい似ている。綾香はうっとりとその声に聞き惚れた。次から次へとカクテルを注文した綾香は、いつの間にか酩酊状態になっていた。
『……俺の名前は司。名前を聞いてもいいか?』
アルコールが進んだせいか、男性は随分くだけた口調になっていた。
『……綾香』
相手が名字を名乗らずにいてくれたのは、こちらとしても都合が良かった。
『綾香……いい名前だ。色っぽくて、よく似合っている』
『色っぽい? 私が?』
綾香は首を傾げながら隣に座る司を見た。
『……ああ。思わず俺が声をかけてしまうぐらいに。あんなことは初めてだった』
『初めて? まさか』
あんなにスマートに話しかけてきたのに。
眉をひそめた綾香の頬を、彼の長い指が撫でた。
『……本当だ。俺は自分から女性に声をかけたことはない……さっきまではな』
『声をかけなくても、寄ってくるんでしょうね……あなた、モテそうだもの』
ふふっと司が笑う。
『それは否定しないが……俺目当て、というわけでもないからな。大抵は、俺のバック狙いだ』
『ふうん?』
酔っていた綾香は、司の言葉を特に気にも留めなかった。海斗の親戚なら良家の生まれであると想像がつく。
『だから、媚を売らない綾香が眩しかった』
〝綾香〟
その言葉に込められた熱に、背筋がぞくりとした。
こんな風に海斗にも呼んでほしかった。胸が締め付けられるように痛くなる。
しばらくした後、司が腕時計を見た。
『……そろそろこの店も閉まる。帰るなら送っていこう』
あの部屋に? もう、綾菜が帰ってこない部屋。だって、綾菜は……綾菜の隣には……
テーブルの上に置いた拳をぎゅっと握りしめた。胸がずきずきと痛む。理性で抑え込んでいた感情がアルコールの魔法で溢れ出す。
『一人に……しないで』
――今夜だけは。一人でいたくない。この胸の痛みを抱えたまま、あの部屋に戻りたくない。
目を瞑った綾香の肩を、大きな手がふわりと抱いた。
『……分かった。俺がいる。一人にはしない』
ふっと体の力を抜いてもたれた逞しい胸は、とても温かかった。
***
「ううう……」
翌朝、目を覚ました綾香は、ベッドの上でずきずきと痛む頭を抱え込んだ。
昨夜の出来事がよみがえってくる。普段の自分なら、初めて会った男性と絶対にあんなことしないのに……! 恥ずかしくて、今日一日このままベッドの中に潜り込んでいたいぐらいだ。
(もう絶対お酒は飲まないっ!)
昨日の男性――司の瞳や表情をまざまざと思い出した綾香は、思わず胸の前で拳を握りしめた。その胸がじくじくと痛い。
(傷付けてしまったわよね……)
最後に見た司は、怒りに燃える瞳で憎々しげに綾香を睨んで立ち去った。
でも、そうされても仕方のないことをした。誘いに乗っておいて、他の男性の名前を呼ぶなんて。暴力を振るわれなかっただけでもラッキーだったと思わなければ。
綾香はきゅっと唇を噛んだ。
(海斗さんの親戚とはいえ、そうそう会うこともないだろうけれど……もしまた会えたら)
ちゃんと事情を話して謝ろう。いつになるかは分からないが、その時までにはこの胸の痛みにも慣れて、冷静な自分でいられるだろうから。
綾菜と海斗は、これから長期ハネムーンに旅立つ。行き先は南ヨーロッパで、期間は二ヶ月。気持ちの整理をつける時間としては十分だ。
(その間に私は、二人の前で笑えるようにならなくちゃ)
むくりと綾香は体を起こした。枕元の目覚まし時計は午前五時を指していて、まだ窓の外は暗い。
今日は通常通り出社しなければならない。二日後には、長期休暇を取る海斗の代わりに、藤堂家から社長代理となる人物が来る予定になっている。それまでに、段取りを整えてしまわないと。
(普段、藤堂家の力は借りたくないと言っている海斗さんにしては、珍しい決断だったわよね)
綾香は海斗の言葉を思い出した。
『じいさんから言われてね。〝結婚の時ぐらい、私を頼れ。お前は私の孫なのだから〟って。じいさんが社長代理を派遣してくれるおかげで、俺の長期休暇が取れたようなものなんだ。誰が来るのかはまだ決まっていないみたいだが、多分藤堂カンパニーの重役クラスの人間が来ると思う。綾香も大変だろうけれど、サポートしてほしい』
藤堂財閥の総本山と言える藤堂カンパニーは、国内有数の大企業。そして「じいさん」とは、藤堂財閥の会長だ。その会長が派遣する役員が、社長代理として小野寺商事に来るという。落ち度があってはならない。
(そうよね、せめて社長秘書としてきちんと役目を果たさないと。秘書に取り立ててくれた海斗さんのためにも)
ぶんぶんと大きく首を振った綾香は、ベッドから下りて大きく伸びをした。ぺちぺちと両手で頬を叩き、気合いを入れる。ひとまず個人的な感情は置いて、仕事に専念しなければならない。
「――よし、頑張ろう!」
綾香は気持ちを切り替えて、朝食の用意をすべくキッチンの方へと歩き出した。
解けた魔法から逃げるように住み慣れた古いアパートに帰った綾香は、ベッドに頭を埋めながら自己嫌悪と戦っていた。
(いくら綾菜と海斗さんの結婚式の後だったからって、あんなこと……っ!)
何も考えたくなくて、一人になりたくなくて、目の前の彼に縋ってしまった。その挙句……
ふう、と深い溜息をついた綾香の心に、半年前の光景がよみがえってきた。
***
『お姉ちゃん、私、海斗さんと結婚したいの』
愛する男性に手を握られながらそう告げる綾菜を見た時、綾香の胸を過ぎったのは、『ああ、やっぱり』という思いと、『認めたくない』という二つの思いだった。
自宅のダイニングキッチンのテーブルを挟んで座る妹を冷静に見る。茶色っぽいくせ毛で、少女のような優しげな雰囲気。
『でも、あなたはまだ大学二年でしょ? 早すぎるんじゃない?』
何とかそれだけ言うと、綾菜は首を横に振り、隣に座る男性――小野寺海斗を愛おしげに見上げた。
『私、早く自分の家族を持ちたい。大学まで行かせてくれたお姉ちゃんには申し訳ないんだけど……でも』
お姉ちゃんみたいに、キャリアウーマンになりたいわけじゃないの、と綾菜は言った。
『海斗さんも、早く結婚したいって言ってくれてるし……私も、海斗さんの傍にいたいの』
頬を染めながら言う綾菜は、本当に愛らしかった。
可愛くて優しい、たった一人の大事な妹。母が亡くなり、頼れる身内が一人もいない中、自分が母親代わりとなって懸命に面倒を見てきた。
その綾菜が海斗と出会ったのは、わずか半年前のこと。海斗が社長を務める小野寺商事で、社長秘書を務める綾香。その日、妹は自分に忘れ物を届けようと会社まで来てくれたのだ。妹を一目見て、偶然そこにいた若き社長――海斗は足を止めた。
見たことがなかった。……あんな表情をする社長なんて。今まで、どんな美女に迫られてもスマートに退けていたのに。
綾菜も海斗を見て頬を真っ赤に染めていた。
大切な妹と、長年思い続けてきた相手が、恋に落ちたのだとすぐに悟った。だから綾香が真っ先にしたことは、海斗への思いを胸の底に封印することだった。
秘書という仕事柄、感情を隠すことに慣れているから、それは簡単なことだった。
――ただ、切り刻まれたような胸の痛みだけは封印し切れなかったけれど。
『綾菜は二十歳になったばかりだから、綾香も心配だろうけど……綾菜のことは大切にする。傍にいて、守ってやりたいんだ。俺のこの手で』
真摯な態度で、そう海斗に言われた綾香は、溜息をつきながら、『結婚しても、綾菜が大学を卒業すること』を条件に、二人の結婚を許したのだった。
そして今日の午後、二人の結婚式がとある教会で厳かに行われた。
『では、誓いの口付けを』
神父の言葉に促され熱い口付けを交わす二人は、胸が痛くなるくらい、幸せそうだった。
『おめでとう、小野寺社長!』
『いやあ、本当に綺麗な花嫁で……』
その後、場所を移して開かれた立食パーティーで招待客達が歓談にざわめく中、綾香はシャンパングラスを片手に、一人壁際に佇んでいた。穏やかなBGMが流れ、着飾った女性達が会場を行き交う。会社社長の結婚式ということもあって、即席ビジネス会議を行う男性グループまでいた。
(ブライズメイドの大役も果たしたし……やれやれよね)
ちら、と自分の着ているドレスに目をやる。上半身のラインを引き立てるデザインは、いつも着ているビジネススーツとは大違いだ。とはいえ、『お姉ちゃんはブルーが似合うから!』と主張する綾菜がオーダーしてくれただけあって、鏡に映る自分の姿は普段より綺麗に見えた。
(でも……)
雪のように真っ白なウエディングドレスを纏った綾菜は、もっと綺麗で……
式で付き添っている間も、綾香は複雑な思いでいっぱいだった。姉として誇らしい気持ちと、女として負けたという気持ち。そしてその思いは、今も綾香の胸を占めている。
シャンパンをごくりと飲み、気を紛らわせる。
(今日はもう、やることもないし……少しくらい酔っても大丈夫よね)
『お姉ちゃん、当日裏方に回らないでね! ちゃんとお客様として楽しんでよ!』という綾菜の要望で、全ての段取りは前日までに終わっている。今はこうして披露宴代わりの立食パーティーの成り行きを見守るだけで良かった。
(本当に、海斗さんのおかげで助かったわ……)
彼は、綾香以外身寄りのない綾菜の事情を考慮し、普通の披露宴ではなく、立食パーティーの形にしてくれたのだ。そのため招待客も、新郎側、新婦側の区別がつかなくなっている。
とはいえ、大半は新郎側の招待客だろう。
海斗は、日本でも有数の財閥である藤堂家の出身なのだ。
『どうせ俺の親戚達は、俺の結婚式なんてビジネスの会食代わりにしか思ってないよ。根っからの商売人だから』
海斗はそう言って苦笑していた。どうやら藤堂家は、こういった冠婚葬祭の際に格式を重んじる家風ではないようだ。
一方の綾菜側は、姉である自分と、大学までの友人しか参列していない。故に若い女性が大半だ。その友人達は、いそいそと若い男性グループに話しかけている。何だか婚活パーティーを見ているような気がしてきた。
ふと、高砂席を見る。頬を上気させた綾菜と、幸せそうに笑う海斗の姿。本来、海斗の秘書でもある自分が傍に行って、二人のサポートにつくべきなのだろう。でも……
(おめでとう、って言うのが精一杯だった……)
シュワシュワと泡が弾けるシャンパンを再び口に含む。アルコールが苦手な綾香でも、その口当たりの良さは分かる。
社長の結婚式だから最高級のものを手配したけれど、その甲斐はあったかな……とぼんやり思う。
――海斗さんのことは、もう思い切らないといけない。
分かっているのに、心がついていかない。
小野寺商事に入社して以来、ずっと心に秘めていた海斗への思い。
「女の秘書は、海斗社長にのぼせ上がって使い物にならなかった」と、先任の秘書である松原から引き継ぎの時に聞かされた綾香は、まず自分の感情を殺し、海斗のサポートが完璧にできるよう力を尽くしてきた。その甲斐あってか、海斗は綾香を秘書として心から信頼してくれるようになった。
『松原は父の代からいてくれた秘書だが、彼以外で君のように優秀な秘書はいなかったよ、水瀬。君がいないと、俺は仕事になりやしないよ』
『ありがとうございます、社長』
海斗の褒め言葉を聞きながら、いつか〝秘書〟としてではなく〝女性〟として必要に思ってくれることを密かに夢見ていた。馬鹿みたいに、一途に。
(本当、馬鹿だったわよね……)
海斗に恋している素振りなんて、一度も見せたことがない。仕事のサポートに徹するあまり、彼には戦友扱いされていたのに。思いに気付いてもらえるはずなんてなかったのに。
それでも望みを捨て切れなかった……あの日、忘れ物を届けに来た綾菜と、海斗が出会うまでは。
綾香は残りのシャンパンを一気に飲み干した。喉とお腹がかっと熱くなる。
ふう、と溜息をついた綾香の後ろから、低い声が聞こえた。
『もう一杯、いかがですか?』
ぎくり、と体が強張った。聞き覚えのある声。この声は……でも、まさか。
(海斗さん!?)
ぱっと振り返った綾香の目に入ったのは、シャンパングラスを両手に一つずつ持った、見知らぬ男性だった。
『え……?』
綾香は目を見張り、そっと差し出されたグラスに目を向けた。黒の礼服姿の男性は、綾香の左手に新しいグラスを持たせると、空になったグラスを取り上げ、傍にいたボーイに渡した。流れるような一連の動作に、綾香はぼうっと、されるがままになっていた。
(この人……誰?)
見覚えがないということは、海斗側の招待客だろう。海斗も長身だが、この男性も背が高い。おまけに……
(こんな綺麗な人、会ったことがない……)
端整だが、どこか野性味を感じさせる顔立ち。そんな彼が漂わせる艶っぽい雰囲気に、呑まれそうになる。ふっと微笑まれ、綾香の頬は瞬時に熱くなった。
『花嫁のお知り合いですか?』
……似てる。低くて甘い声が、あの人――海斗さんに。
綾香は一瞬言葉を出せなかった。
『あの、私……』
言いかけて、すぐに口をつぐんだ。
この人が誰かは分からないが、これほど声が似ているということは海斗の親戚筋だろう。ならばあまり自分のことを言わない方がいいかもしれない。
実は自分達姉妹は、名字が違う。水瀬綾香と大谷綾菜。父親が違うせいだが、下手に名乗ったりすればそこから家庭環境の話にならないとも限らない。何もおめでたい席でそんな話をすることもないだろう。
綾香は男性に向かってにっこりと微笑んだ。
『……ええ、そうです。あなたは? 新郎のお知り合いですか?』
曖昧に答え、逆に質問を返す綾香に、男性の瞳が面白がるように光った。
『そうです。俺が海外出張に行っている間に、結婚が決まっていたことには驚きましたが』
カツン、と、綾香のグラスに男性のグラスが軽く触れる。
『……新郎新婦の幸せを願って』
ええ、と頷いた綾香は、金色のシャンパンを飲み干す。爽やかな泡が喉元を通り過ぎる。何だか足元がふわふわしてきた。男性は、そんな綾香をじっと見つめている。
(……何かしら)
今までこんなに男性にじろじろ見られることなどなかった。普段なら、居心地悪く感じていただろうが、アルコールの力が綾香の心を麻痺させていた。
『何か?』
首を傾げた綾香に、男性はくっくっ……と笑った。その笑い声に、綾香の指先が震える。
『いえ。あなたの態度が新鮮だったもので』
『新鮮?』
どういう意味だろう。特に何もしていない気がするけれど。
綾香は訳が分からず、男性の顔を見上げた。
『今まで俺の周りには、あなたみたいな女性はいなかったな』
『はあ、そうですか……』
よく分からないが、不作法をしたわけではないらしい。アルコールで気が緩んでいた綾香は、気にせずやり過ごすことにした。
『この後、予定はありますか?』
『いえ……特には』
そう。もう『家で妹が待っているから』と言って早く帰らなくてもいい。
ずきんと胸の奥が痛む。
『もし良ければ、場所を変えて飲み直しませんか? このホテルのラウンジも、なかなか良い酒を置いているそうですよ』
『私……』
断ろうとした綾香の脳裏に、幸せそうな二人の姿が浮かんだ。
(今、一人になりたくない……)
綾香は思わず、『ええ』と掠れた声で答えていた。男性の口の端が満足そうに上がった。
『じゃあ、パーティーが終わったら最上階のラウンジで。……待っていますよ』
男性はにっこりと笑って、踵を返した。綾香はその場に立ち尽くし、浮かんでは消えるシャンパンの泡を見つめていた。
その後のことは正直言って、はっきりとは思い出せない。
夜景が綺麗に見える、ラウンジの窓際の席。ふかふかのソファに並んで座り、二人で飲んだ。男性の話は面白くて、会話も弾んだ気がする。
(まるで、海斗さんとデートしているみたい……)
目を瞑ると、本当にそう思えるくらい似ている。綾香はうっとりとその声に聞き惚れた。次から次へとカクテルを注文した綾香は、いつの間にか酩酊状態になっていた。
『……俺の名前は司。名前を聞いてもいいか?』
アルコールが進んだせいか、男性は随分くだけた口調になっていた。
『……綾香』
相手が名字を名乗らずにいてくれたのは、こちらとしても都合が良かった。
『綾香……いい名前だ。色っぽくて、よく似合っている』
『色っぽい? 私が?』
綾香は首を傾げながら隣に座る司を見た。
『……ああ。思わず俺が声をかけてしまうぐらいに。あんなことは初めてだった』
『初めて? まさか』
あんなにスマートに話しかけてきたのに。
眉をひそめた綾香の頬を、彼の長い指が撫でた。
『……本当だ。俺は自分から女性に声をかけたことはない……さっきまではな』
『声をかけなくても、寄ってくるんでしょうね……あなた、モテそうだもの』
ふふっと司が笑う。
『それは否定しないが……俺目当て、というわけでもないからな。大抵は、俺のバック狙いだ』
『ふうん?』
酔っていた綾香は、司の言葉を特に気にも留めなかった。海斗の親戚なら良家の生まれであると想像がつく。
『だから、媚を売らない綾香が眩しかった』
〝綾香〟
その言葉に込められた熱に、背筋がぞくりとした。
こんな風に海斗にも呼んでほしかった。胸が締め付けられるように痛くなる。
しばらくした後、司が腕時計を見た。
『……そろそろこの店も閉まる。帰るなら送っていこう』
あの部屋に? もう、綾菜が帰ってこない部屋。だって、綾菜は……綾菜の隣には……
テーブルの上に置いた拳をぎゅっと握りしめた。胸がずきずきと痛む。理性で抑え込んでいた感情がアルコールの魔法で溢れ出す。
『一人に……しないで』
――今夜だけは。一人でいたくない。この胸の痛みを抱えたまま、あの部屋に戻りたくない。
目を瞑った綾香の肩を、大きな手がふわりと抱いた。
『……分かった。俺がいる。一人にはしない』
ふっと体の力を抜いてもたれた逞しい胸は、とても温かかった。
***
「ううう……」
翌朝、目を覚ました綾香は、ベッドの上でずきずきと痛む頭を抱え込んだ。
昨夜の出来事がよみがえってくる。普段の自分なら、初めて会った男性と絶対にあんなことしないのに……! 恥ずかしくて、今日一日このままベッドの中に潜り込んでいたいぐらいだ。
(もう絶対お酒は飲まないっ!)
昨日の男性――司の瞳や表情をまざまざと思い出した綾香は、思わず胸の前で拳を握りしめた。その胸がじくじくと痛い。
(傷付けてしまったわよね……)
最後に見た司は、怒りに燃える瞳で憎々しげに綾香を睨んで立ち去った。
でも、そうされても仕方のないことをした。誘いに乗っておいて、他の男性の名前を呼ぶなんて。暴力を振るわれなかっただけでもラッキーだったと思わなければ。
綾香はきゅっと唇を噛んだ。
(海斗さんの親戚とはいえ、そうそう会うこともないだろうけれど……もしまた会えたら)
ちゃんと事情を話して謝ろう。いつになるかは分からないが、その時までにはこの胸の痛みにも慣れて、冷静な自分でいられるだろうから。
綾菜と海斗は、これから長期ハネムーンに旅立つ。行き先は南ヨーロッパで、期間は二ヶ月。気持ちの整理をつける時間としては十分だ。
(その間に私は、二人の前で笑えるようにならなくちゃ)
むくりと綾香は体を起こした。枕元の目覚まし時計は午前五時を指していて、まだ窓の外は暗い。
今日は通常通り出社しなければならない。二日後には、長期休暇を取る海斗の代わりに、藤堂家から社長代理となる人物が来る予定になっている。それまでに、段取りを整えてしまわないと。
(普段、藤堂家の力は借りたくないと言っている海斗さんにしては、珍しい決断だったわよね)
綾香は海斗の言葉を思い出した。
『じいさんから言われてね。〝結婚の時ぐらい、私を頼れ。お前は私の孫なのだから〟って。じいさんが社長代理を派遣してくれるおかげで、俺の長期休暇が取れたようなものなんだ。誰が来るのかはまだ決まっていないみたいだが、多分藤堂カンパニーの重役クラスの人間が来ると思う。綾香も大変だろうけれど、サポートしてほしい』
藤堂財閥の総本山と言える藤堂カンパニーは、国内有数の大企業。そして「じいさん」とは、藤堂財閥の会長だ。その会長が派遣する役員が、社長代理として小野寺商事に来るという。落ち度があってはならない。
(そうよね、せめて社長秘書としてきちんと役目を果たさないと。秘書に取り立ててくれた海斗さんのためにも)
ぶんぶんと大きく首を振った綾香は、ベッドから下りて大きく伸びをした。ぺちぺちと両手で頬を叩き、気合いを入れる。ひとまず個人的な感情は置いて、仕事に専念しなければならない。
「――よし、頑張ろう!」
綾香は気持ちを切り替えて、朝食の用意をすべくキッチンの方へと歩き出した。
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