野獣な御曹司の束縛デイズ

あかし瑞穂

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4.

「水瀬さん、少し感じが変わったかな?」
「はい?」
社長室のソファに座った田代たしろ工業こうぎょうの専務、田代雄一ゆういちにそう言われ、お茶を出していた綾香は目を丸くした。
海斗と同じ三十三歳である田代と前回会ったのは、二ヶ月ほど前。その間に何か変わったという自覚はない。
「前より綺麗になったというか。いや、失礼。でも、ぱっと花が開いたような印象だよ」
意外な言葉に、綾香は少し頬が熱くなるのを感じた。
数年の付き合いになるが、いつも生真面目で冗談など滅多めったに言わない田代から、こんなことを言われるとは思っていなかった。
「ありがとうございます」
笑顔でお辞儀をした綾香は、次の瞬間、ピキリと凍り付いた。
(うっ……!)
背筋をう絶対零度の視線。顔が引きる。
「……例の資料、用意しておいてくれないか、水瀬」
穏やかな言葉に込められた嫌な気配。ちら、と田代の向かいに座る司を見ると、口元は笑っているのににらみ付けるような視線を綾香に向けている。
(な、何よ、その責めるみたいな顔は!!)
まるで綾香が悪い、とでも言いたげな瞳。訪問客に愛想よくしているだけなのに、何故にらまれなければならないのか。
(私は普段通りにしているだけなのに)
服装だっていつもの紺色スーツ、化粧もナチュラルメイク。髪型だって変えてはいない。それなのに、田代に色目を使っているとでも言いたいのだろうか。
綾香は内心の苛立いらだちをぐっとこらえ、必殺の秘書スマイルをたたえて、「承知いたしました」と社長室を後にした。

* * *

「んーっ……」
秘書室の椅子に座ったまま軽く伸びをした綾香は、コキコキと肩を鳴らした。
「やっと終わったわ……」
パソコンのキーボードを一心不乱に叩き続けて、何時間ったのか。時計を見ると、午後九時前だった。
(綾菜がいないと、時間管理ができないものね……)
つい仕事に没頭してしまった。いつもなら自分を待ってくれている綾菜のことを考え、残業はほどほどにして帰るのに。
ふうと溜息をついた綾香は、今日一日の出来事を振り返る。
今日は何故か田代と似たようなことを言う顧客が多かった。出入りの工業デザイナーには「前々から美人だとは思っていたけれど、今日は特に綺麗だね」と言われ、続いて司の前で「今度食事でもどうかな」と誘われた。さすがにどうしようかと困惑したが、「まだ私が不慣れなもので。水瀬にいてもらわないと、業務がとどこおるのですよ」と司がさらりと断ってくれた。
とはいうものの、司が綾香を見る瞳は厳しいままだったのだが……。まだ、誰とでも寝る女だと思われているのだろうか。
むっとした綾香は、やや乱暴な手つきで机の上の資料をまとめ始める。
その時、スマホの着信音が秘書室に響いた。
上着のポケットからスマホを取り出した綾香は、見慣れぬ電話番号を見て一瞬眉をひそめたものの、すぐにそれが国際電話の番号だと気付いた。
「……はい、水瀬です」
『お姉ちゃん!? 私、綾菜』
「綾菜!?」
綾香は思わず声を上げた。
「どうしたの。ハネムーン中でしょう?」
『うん、お姉ちゃんの声が聞きたくなって』
「綾菜……」
じわり、と心が温かくなったが、次の言葉を聞いて顔が引きる。
『私がいないからって仕事に没頭して、食事もロクにとってないんでしょ!?』
ぎくり、と綾香は視線を泳がせた。その通りだとは、とてもじゃないが言えない。
「ちゃ、ちゃんと食べたわよ? あなたは私のことなんて気にしなくていいから。ハネムーンを楽しんでちょうだい」
『お姉ちゃん……』
あああ……綾菜のお小言こごとが始まりそうな予感がする。綾香は慌てて言葉をいだ。
「ほら、長電話は、しゃ……海斗さんに悪いから。じゃあ、元気でね」
通話を終了し、スマホをしまって、ほう、と息を吐く。ハネムーン先から妹に心配される姉って……と、綾香は机に突っ伏してしまった。
「妹から電話か?」
その声に、ぱっと顔を上げる。いつの間にか、目の前に司が立っていた。綾香はさっと居住まいを正す。
「……ええ。元気そうでしたわ」
海斗の妻となった綾菜が妹だということは、司がやってきた二日目に話してある。てっきりすでに知っているのかとも思っていたが、初耳だったらしく、その時の彼は少し意外そうな顔をしていた。
じっと見つめられると、喉元のあたりがぐっと重くなった気がした。それでも綾香は目をらさず、司の視線を受け止める。
「お前は」
司が口を開いた。
「そんなに妹が大事なのか?」
「は?」
綾香は目を見張った。何を言っているのだろう、この人は。
「当たり前でしょう、家族なんですから。あの子が幸せになってくれることが、私の望みです」
「……」
(ど、どうしてじっと見つめてるわけ?)
居心地の悪さに、綾香は視線をらして椅子に座り直した。
「……今日はもう帰るぞ」
「はい」
もともとそのつもりだった綾香は、パソコンの電源を落とし、テキパキと書類を片付けた。司も社長室に一旦戻り、黒いかばんを持って出てくる。
綾香も上司を待たせてはいけないと、手早く引き出しの鍵を掛けて席を立ち、ショルダーバッグを肩にかけた――ところで、がしっと左腕を掴まれた。
「は、い!?」
目を丸くして司を見上げる。彼は感情の読めない表情のまま、低い声で言った。
「食事に行く。付き合え」
「え? あ、あの、私、帰宅してから……」
じろりと司ににらまれ、綾香は言葉を詰まらせた。
「妹に食事の心配をされているんだろ。部下の健康を管理するのも、上司の役目だ。ほら、行くぞ」
「え、あの、ですね……っ!?」
司にずりずりと強引に引きずられ、秘書室を後にした綾香だった。

「……」
「……」
(一体、何を話せばいいのよ!?)
あまりにも唐突な展開に、綾香は戸惑いを隠せない。
司に強引に車の助手席へ押し込まれて連れていかれた先は、郊外にあるお洒落しゃれなイタリアンレストランだった。個室に案内された綾香は、とりあえずバジルのパスタとグリーンサラダを注文した。
静かなクラシック音楽が流れる空間。白を基調とした内装で、壁にはイタリアの国旗が飾ってあった。確か三ツ星ホテルで修業したシェフが開いたお店じゃなかっただろうか。友達の誰かがそんなことを言っていた気がする。
まずはサラダが運ばれてきたので、綾香は「いただきます」と手を合わせてから口をつけた。しばらくすると、いい香りが立ちのぼるパスタも運ばれてきた。
(こうなったら、たっぷり食べてやるんだから!)
気まずい雰囲気の中、じっと自分を見つめる司の視線を気にしつつも、綾香は食事に精を出した。
評判のレストランだけあって、パスタもサラダもとても美味おいしい。向かいにいるのが仏頂面ぶっちょうづらした上司でなければ、もっと美味おいしく食べられるのに。
司はというと、アンチョビピザをつまみながら、時折ミネラルウォーターを飲んでいる。
二人とも黙ったままだ。何とも居心地が悪く少し身じろぎすると、司が話しかけてきた。
「食欲はあるようだな」
「ええ、おかげさまで」
司の心は読めない。綾香は一旦フォークを置いて、ミネラルウォーターをこくり、と口に含んだ。すると司が再び口を開く。
「――水瀬綾香。二十七歳。短大卒業後、秘書候補として小野寺商事に入社。二十二歳の時に、社長である小野寺海斗の秘書に抜擢ばってきされる。社内での評判は高く、誰に聞いてもよくできた秘書だ、と高評価だった」
「は?」
綾香はグラスを置いて、司を見た。司は表情を変えずに言葉を続ける。
「高校生の時に母親を亡くし、年の離れた妹の世話をしてきたそうだな。だから残業もあまりできなかったが、その代わりに効率よく業務を回すことで対応してきたと聞いた」
「……」
その通りだけれど、それがどうかしたのだろうか。司の意図が掴めず、綾香は黙って向かいの相手を見つめた。
「海斗の結婚相手が、お前の妹だったと聞いた時は少し驚いた」
海斗の名前が出たせいで、一瞬自分の顔が強張こわばるのが分かった。が、綾香はすぐに平静を装う。
そんな綾香を司はなおも追及してきた。
「妹の幸せを願っていると、そう言ったな。それは本当か?」
「っ!?」
思わず息を呑んだ。それではまるで綾香が、綾菜と海斗が破局するのを望んでいるようではないか。綾香はキッと司をにらみ付けた。
「ええ、本当です。あの子だって苦労してきたんです。なのにとても素直ないい子で……だから」
だから幸せになってほしい……と言いかけた綾香は、司の瞳がぎらりと光るのを見て言葉を呑み込んだ。
「だから……のか」
司が小さく呟いた言葉は、上手く聞き取れなかった。綾香が眉をひそめると、司は大きく溜息をつく。
「さっさと食べろ。食べ終わったら家まで送る」
「……はい」
別に送ってくれなくてもいい、とは言い出せず、綾香は再び銀色のフォークを手に取ったのだった。

「……ご馳走様ちそう さまでした」
会計を終えた司に、綾香はぺこりと頭を下げた。司はそれに軽く頷いてこたえると、そのまま店に隣接した駐車場へ歩き始める。
先に歩く司の背中を追いながら、綾香はまた溜息をついた。
(疲れた……)
残業よりも気力を奪われた気がする。肩に掛けたショルダーバッグの紐をきつく握りしめた。気まずい雰囲気のまま終わった食事。最後の方は、味なんてほとんど分からなかった。おまけに自分の分は払うと言ったのに、結局司に「いいから」と押し切られてしまった。
(大体、どうして誘われたのか全然分からないんだけど)
司が助手席のドアを開ける。綾香としては近くの駅で降ろしてほしいのだが、司は家まで送るといって聞かなかった。
(この人、唯我独尊ゆいがどくそんを地でいっているんじゃないの!?)
ぶつぶつと心の中で文句を言いながらも、とりあえず「ありがとうございます」とお礼を言うのは忘れない。
座り心地のいいシートに腰を下ろして自宅までの道のりを告げると、司は無言で車を発進させた。
彼の車は、銀色の国産スポーツカーだった。静かな運転に、緊張していた綾香も肩の力を抜く。
「……」
ちらりと横を見れば、街の灯りに照らされ、司の端整な横顔が薄闇の中に浮かび上がる。ハンドルを持つ骨ばった手を見た時、どくん、と心臓が跳ねた。
――あの手が、指が……優しく触れて……
頬にかああっと熱が集まった。慌てて、窓の外へ目を向ける。
(だめ、思い出しちゃ……っ)
疲れているせいか、秘書の仮面ががれかかっている。司の持つつやっぽい空気に、反応してしまう。綾香はぎゅっと目をつむり、気持ちを落ち着かせようとした。
(一、二、三、……)
心の中で数を数え始めた。それだけに意識を集中させる。
(十五、十六、十七……)
スポーツカーにしては静かな振動に揺られながら、綾香はひたすら数を数え続けたのだった。

(百二、百三、百四……)
「おい、着いたぞ」
「ひゃあっ!?」
低い声に驚いて、変な声を上げてしまった。目を開けると、間近に司の顔がある。いつの間にか車は停まっていた。司は何故か運転席から身を乗り出し、綾香におおいかぶさるように両手をついている。
かちゃり、と司が綾香のシートベルトを外す。綾香は目を見開いたまま、ただ司の顔を見上げることしかできない。
(顔……近いっ……)
司の瞳がぎらり、と光った気がして、背筋がぞくりと寒くなった。
「……お前、今酔っていないよな?」
「え?」
何のことかと綾香が聞こうとした瞬間――唇がふさがれていた。
(――!!)
必死に両手で彼の胸を押したが、びくともしない。司の熱い唇が、むように綾香の唇の上を動く。
「んん……っ、ふ……うん……!」
下唇を甘噛みされ舌でなぞられると、ぞくっと体が震えた。甘いしびれに、手から力が抜けていく。
「やっ……ん……」
少し開いた唇の隙間から、司の舌が侵入してきた。歯茎を器用に舐め回し、ねっとりと綾香の舌にまとわりついてくる。粘膜と粘膜がこすれ合い、時折吸い付かれて、何も考えられなくなった。
誘うような熱い舌の動きに翻弄ほんろうされているうちに、大きな手がスーツの上着の下にもぐり込んでくる。薄いブラウスの上から丸いふくらみを掴まれて、綾香は我に返った。
(なっ、なに……っ!!)
ばし! と、咄嗟とっさにショルダーバッグを司の側頭部に当て、体をひねる。すると彼はむっとしたような表情を浮かべた。
「何をする」
「な、何をするじゃないでしょうっ!! 何してるんですか、あなたこそ!!」
完全に秘書の仮面ががれ落ちてしまった綾香は、息を切らしながら叫ぶ。司はしれっとした態度で答えた。
「あの夜の続きだが?」
「なっ」
かっと頬が熱くなる。わなわな震える綾香を、司の面白がるような瞳がとらえた。
「お前はもう忘れたと言ったが、俺は忘れないぞ。あの時のお前の甘い声も……白い柔らかな体も」
「……っ、何言って……っ!!」
ちゅ、と短いキスが落とされた。あまりにも自然なその行為に、言葉が止まった。
「だからこれからは酔っていないお前を口説く。分かったか?」
(……この人、何言ってるの!? 口説くって!?)
綾香の頭の中は完全に真っ白になっていた。
くっくっく……と司が笑う。
「お前でもそんな顔するんだな。ぽかんと口を開けたままの、可愛い間抜け顔」
ばっと両手で口をおおった綾香を、あやしい光を宿した瞳が見つめる。
「今日はここまでにしておいてやる。これから覚悟しておくんだな」
司はすっと手を伸ばして、助手席のドアを開けた。綾香はなかば転がるように車から脱出する。
「じゃあ、また明日」
にやり、と肉食獣の笑みを浮かべた司は、そのまま静かに車を発進させた。綾香は呆然とアパートの入り口で立ちすくみ、それを見送るしかできない。
(何だったの、今の!?)
唇に手を当てる。熱を持ったそこは、ほんの少しれている気がする。やがて真っ白になっていた綾香の頭は、次第に怒りで沸騰ふっとうし始めた。
「忘れないって……口説くって……一体何様よっ!!」
思わず叫んでしまった綾香は、はっとしてあたりをうかがい、近所迷惑になっていないか確認する羽目になったのだった。
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