野獣な御曹司の束縛デイズ

あかし瑞穂

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8.

「俺のマンションに行くぞ」
数日分の着替えを詰め込んだボストンバッグを抱え、司の車に乗った綾香は、彼の言葉を聞いて、「はぁ!?」と頓狂とんきょうな声を上げた。
「べ、別に、駅前のホテルで十分ですが……っ」
反論してみるものの、じろりとにらまれ二の句がげなくなった。
「あんなことがあった後で、不特定多数の人間が出入りするホテルに、お前を置いておけるとでも?」
「いえ、あの……」
「それから、さっきの男のことを詳しく説明しろ。敵を知れば対処もしやすいからな」
いえ、だから、どうして、と問い詰めたくなるものの、何とか丁寧な断り文句を考える。
「これ以上、社長代理のお手をわずらわせるわけには……」
ぎろり、と司がこちらを見る。
……怖い。突き刺さってくる視線はブリザード級の冷たさだった。綾香は思わず助手席で首をすくめる。
「もういいから、黙ってろ」
体にみしみしとのし掛かるような威圧感に、「はい……」と返すしかない綾香だった。

***

豪華なホテルのようなロビー。きらびやかなシャンデリアに、濃い緑の観葉植物。中央に置かれているのは優雅な曲線をえがくソファ。
「お帰りなさいませ、藤堂様」
司の自宅だというマンションのエントランスに入ると、黒いスーツを着た男性が深々と頭を下げて司を迎える。
「ああ、ただいま。今夜は、誰が訪ねてきても取り次がないでくれ」
「承知いたしました」
ぐいっと腕を引っ張られ、綾香はよろめきながらも司についていく。
「あ、あの人は」
「このマンションのコンシェルジュだ。二十四時間、誰かが入り口にいる」
説明されるも、自分のアパートとはかけ離れすぎていてついていけない。アールデコ調の飾りがついたエレベーターのボタンを司が押した。ピンポン、という音と共にドアが開く。
「ワンフロアに一軒しかないから、ここなら安心だ」
司にうながされて乗り込むと、すっと音もなくドアが閉まりそのままエレベーターが上昇していく。司が押したのは最上階のフロアのボタンだった。
(お、お金持ちだっていうのは、よく分かったから!)
できれば解放してほしい。あの男におどされても、はらわたが煮えくりかえるような怒りがいてくるだけで、恐怖はなかった。一瞬不覚を取ってしまったが、あれくらいなら反撃できる自信もある。女所帯で不用心だからと、腕に覚えのあった母が一通り護身術を教えてくれていたからだ。むしろ怖かったのは、この人が来てからだ。
「本当に、大丈夫ですからっ」
もう一度抗議してみるも、司の全身をおおうどす黒いオーラに負けた。最上階に着き、静かに開いたエレベーターのドアから、つややかな木目調の玄関ドアまで歩く間も、司は綾香の腕を離さなかった。
司はカードキーをかざしてドアを開けたかと思うと、文字通り綾香を部屋に引きずり込んだ。
乱暴にドアを閉める音。ぽいっと急に手を離され、綾香はよろめいた。振り返って司を見れば、無表情でこちらを見ている。
「あ、あの……」
綾香が恐る恐る言葉を掛けると、彼は一拍置いた後、はあと深い溜息をつき、奥へ綾香をうながす。
リビングに入ると、五メートル四方はありそうな大きな窓ガラスから、綺麗な夜景が見えていた。白い天井の中央に設置された金とガラスのシャンデリアが、温かな光で部屋中を照らしている。優雅な曲線をえがく飾り棚には、洋酒のボトルやグラスが並び、つやのあるテーブルの脚にはさりげなく彫刻がほどこされていた。まるでどこかの雑誌に「豪邸紹介!」というタイトルで載っていそうな内装だ。
ぼんやりと室内を見回す綾香に、司が声をかける。
「こっちに客室があるから、そこを使え。専用のバスルームもついているから、汗を流してきたらどうだ」
「はい……」
確かに汗でべたべたで、気持ちが悪かった。綾香は小さく頷き、司が指し示したドアを開ける。
次の瞬間、綾香は目を見張った。広いベッドルームには、テーブルや椅子、冷蔵庫もあり、司の言う通り、専用のバスルームまでついていた。どうやらアメニティグッズまで用意されているらしい。
(本当に、ホテルの客室みたい。どんな人が泊まるんだろう……)
とにかく、大谷に触られたところを洗いたい。綾香はさっさとシャワーを浴びることにした……客室のドアのカギを掛けて。

***

(この格好で、あの豪華なリビングに出ていくって、勇気いるわね……)
白のTシャツに、下は紺色のジャージ。オレンジの線が入った短パンだ。実は高校の時の体操服で、着心地の良さゆえに、長年部屋着として愛用している。一人でホテルに泊まるのだとばかり思っていたから普段着を入れたのに、と綾香はなかば恨むように自分の姿を見下ろした。
(あああ、もう、いいわっ)
かちゃり、とカギを回してドアを開け、司が待つリビングへと足を踏み入れる。
リビングのソファに座り、琥珀色こはくいろの液体の入ったグラスを傾けていた司は、どしどしと入ってきた綾香を見て、一瞬固まった後――大笑いした。
「……笑いすぎじゃありませんかっ!?」
お腹を抱えて苦しそうに体をよじる司に、綾香はぶすっとしながら言った。
「す……すまな……」
ぶぶっとまた噴き出す司に、いっそ後頭部に蹴りを入れてやろうか、とやけくそ気味に思う。
「い……意外に似合っているな」
「それはそれは、どうもありがとうございますっ! なにせ高校生の時からの愛用品ですから」
綾香が開き直り、司の向かいのソファにどかっと座った。
やがてようやく笑いが収まった司はグラスを置いて立ち上がり、洋酒のボトルが並んだ棚からワインを一本選んで取り出した。新しいグラスに、赤みがかった紫色の液体ががれる。
「ほら。今日は飲んでも大丈夫だろ」
じろっと司をにらんだ綾香は差し出されたグラスを受け取り、ぐいっと一口飲み込む。アルコールで喉がカッとなったが、もう気にしない。
そんな綾香を司は面白そうに見ていたが、不意にその瞳が冷静になった。
「……で? あの男との関係を洗いざらい話せ」
まるで詰問きつもんされるような口調に加え、先程の大谷への怒りもよみがえってきた綾香は、むかむかとする心を抑えながら口を開いた。
「私の……元、義理の父親です。私が小学一年の時、母があの男と再婚しました」
説明しながら、両手でグラスを握りしめる。
「元々、嫌な男でした。母もすぐに結婚を後悔していたみたいですが……綾菜を身ごもったから……」
当時、年下で若かった大谷に母性本能をくすぐられたのだろう。そんな母親の情にすがった大谷は、ほどなく本性を見せ始めた。
「直接暴力を振るわなくても、いやらしい言葉を投げ付けてきたり、つねったりするので……私はいつもあの男から逃げていました」
司は黙ったまま、綾香の言葉を聞いていた。
「綾菜が生まれた頃にはほとんど家にも帰らなくなって……その方が、私にはよかったんですけど」
そこまで話したところで、綾香はぎりっと奥歯を噛みしめた。
「だけどあの日――あの男が、金をせびりに家に戻ってきた時――」

『うっせえんだよ、このガキ!!』
『うわああああああああん!!』
『綾菜に何するのよっ!』
『本当に小憎たらしいガキだぜ、お前も!』
『ああああああん』
『黙れ、うるせえ!』
『綾菜! あやなーっ!』

「……まだ二歳の綾菜を。風邪で熱があって、ぐずぐず言っていただけなのに……あの男は」
どろどろしたマグマのような怒り、いや憤怒ふんぬが、綾香を支配した。
「蹴り飛ばしたんですよ!? その後殴ろうとして……っ」
あの時綾香は、必死で綾菜の体を抱きしめてかばった。けれど大谷はそんな綾香の背中を蹴り、髪の毛を掴んで引きずり回した。それでも綾菜を離さない綾香に、大谷が手を振り上げた瞬間――外出していた母親が帰ってきた。
綾香はグラスの酒を半分ほど一気に飲んだ。司は何も言わなかった。
「一目見て、母は状況を理解しました。大谷はしつけだとかなんとか、言いつくろおうとしていましたが、母は……」
綾香は、本気で怒る母親をその時初めて見た。するどい光を瞳に宿した母親は、大谷を一瞬で叩きのめしたのだ。
「母はすぐに警察へ通報して、あの男は綾菜と私への傷害罪で逮捕されました」
「……」
「それから、会っていなかったんです。……十年前、母が亡くなるまでは」
母親が病気で亡くなった時、綾香と綾菜には保険金がのこされた。すると、どこで知ったのか、大谷がいきなり連絡してきて、綾菜を引き取ると言い出したのだ。どう見ても、保険金目当てだった。
「あなたなんかに綾菜は渡さない、そう言った私に大谷は乱暴しようとしました」
どこまでも下衆げすな男だった。綾香はふっと暗い笑みを浮かべた。
「……母は大谷の性格を分かっていました。だから、自分が死んだら、すぐに近所の民生委員や市役所の担当者に連絡しろ、と」
大谷が綾香の腕を掴んで、押し倒したところに民生委員が割って入ってきた。隣の部屋に控えてもらっていたのだ。民生委員はすぐに警察に連絡した。
本当は、この手で叩きのめしたかったんですけどね、と綾香は呟く。
「大谷は再逮捕され、親権の主張もできなくなりました」
民生委員はその後、綾香達の後見人も務め、二人がこれまで通り一緒に暮らせるように手配するなど、あらゆることに力を貸してくれた。だが、母の保険金があるとはいえ、贅沢ぜいたくはできない。だから綾香は、進学校だった私立高校を退学して夜間高校へと移った。高卒よりも短大卒の方がいい就職先が見つかる、とその民生委員が進学を勧めてくれたので、短大だけは卒業したのだった。
「どうして、お前の妹の姓は『大谷』のままだったんだ? 母親の姓には……」
司の言葉に、綾香は首を横に振った。
「母は地方の旧家の出身で、色々あって出奔しゅっぽんしたのだ、と言っていました。だから子どもには、自分の姓をがせない、と」
「じゃあ、お前の『水瀬』というのは……」
「亡くなった私の父の姓です。母は大谷と離婚した後に旧姓に戻りましたから、うちの家族は三人とも違う名字だったんですよ」
「……そうか」
綾香は真っ直ぐに司を見た。
「綾菜はあまり知らないんです、大谷のことを。怪我をさせられた時はまだ二歳だったし……十年前も、家の外に出していたから」
「海斗が事情を知っているのは、本当か?」
「はい……私が話しました。隠せば大谷につけ込まれる、と思っていましたから。読み通りでしたね」
綾香は残りの酒を飲み干し、とん、とサイドテーブルにグラスを置いた。
「大谷がどんなに卑劣ひれつな男でも、綾菜には何の罪もありません。あの男のために、綾菜が泣くなんて……絶対に許せない」
ふう、と司の口から溜息がれた。うつむき加減でからになったグラスを見つめる綾香に、彼が声をかける。
「お前がやたらと妹の心配をする理由は分かった。だが……」
続く彼の言葉に、綾香の頭は真っ白になる。
「……もう、その役目は海斗のものだ」
「え?」
綾香は顔を上げる。司の瞳は――真剣だった。
「お前の妹の騎士ナイトは海斗だ。……もうお前は、今までのように妹のことばかりを考えなくてもいい」
「そ、んなこと――」
あなたに言われなくても、分かっている。そう言おうとした綾香だったが、言葉が出なかった。
もう、妹には、海斗がいる。
もう、綾菜には……
(私は……必要、ないんだ……)
自分がいなくても、海斗があの子を守ってくれる。
(綾菜……)
妹の笑顔を思い出し、綾香の胸はずきずきと痛んだ。
「……分かっています。私の役目は、もう終わったんだって」
海斗なら、綾菜を幸せにしてくれる。綾菜も海斗の傍にいれば、たとえ大谷が来たって大丈夫だろう。
妹の幸せを、こんなにも願っているのに。ずっとずっと願ってきたのに。なのに、何故。こんなにも。
「……泣くな」
いつの間にか自分の隣に腰かけていた司に抱きしめられるまで、綾香は自分が涙をぽろぽろこぼしていたことに気が付かなかった。
(何、言っているの、この人は?)
「泣いて……なんか」
どうして彼はこんなに温かいんだろう。
はあ、と重い溜息と共に、大きな手が綾香の頭をでた。
「……今夜ぐらい、素直に甘えていろ」
優しくて甘い声。あの夜と同じ。
「うっ……く……」
いつの間にか、綾香の両手は、目の前のワイシャツを掴んでいた。涙が次から次へとこぼれ落ちる。
(どうして泣いているの? どうして寂しいの? どうして……この温かさが、心地いいの……?)
自分でもわけの分からないまま、綾香は肩を震わせる。司は何も言わず、そっと綾香を抱きしめていた。
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