野獣な御曹司の束縛デイズ

あかし瑞穂

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9.

『お姉ちゃん』
綾菜が笑う。
『お姉ちゃん、私、海斗さんが好きなの』
(……綾菜)
『海斗さんも早く結婚したいって』
(でも……まだ二十歳になったばかり、なのに)
『お姉ちゃんは海斗さんのこと、まだ〝社長〟って呼ぶのね。海斗でいいって言われているのに』
(だって……そう呼ばないと……)
綾菜の隣に海斗が立ち、彼女の肩を抱いた。綾菜は輝くような笑顔で海斗を見上げている。
『君は最高の秘書だよ』
海斗の口からこぼれる言葉。
(……違う、の……)
『綾菜のことは大切にする。傍にいて、守ってやりたいんだ。俺のこの手で』
(じゃあ、もう……私、は……)
両手に顔をうずめる。津波のような感情が、綾香を襲う。流される。必死にもがいても、もがいても、苦しさから逃れられない。息が詰まる。
渦潮うずしおに巻き込まれそうになった綾香の腕を、誰かが掴んだ。ぎゅっと温かな胸に抱きしめられる。呼吸が楽になり、ほっと力が抜けた。耳に熱い息がかかる。
『お前を……』
(……誰?)
低くて甘い声……いつか聞いたような。大好きな声。
(あなた、は……)
綾香は、その人を捕まえようと、声のする方へ手を伸ばした……

***

「……ん、ん?」
うっすらと開けた目に、カーテンの隙間から差し込む光がまぶしい。見慣れない白の天井は、金の装飾がほどこされていて豪華だ。
(ここ、ホテルかしら……?)
しばらくぼーっとしていた綾香だったが、はたと気が付き、がばっと起き上がった。
「え、ええっ!?」
あたりを見回す。自分のボストンバッグが、寝ていたベッドの脇に置かれている。白を基調とした家具がそろったホテルの一室――ではなく、司のマンションの客間。
(いつの間にここに!?)
ベッドから下りて壁時計を見る。六時半。
(確か……シャワーを浴びて……リビングでお酒を飲んで……それから……)
「@★&$%##~~っ!!!!」
思わず、奇声を上げてしゃがみ込んでしまった。顔がかあっと熱くなる。
(わ、わ、私……っ、も、もしかして……抱き付いて泣いた!? あの人に!?)
ワインをグラス一杯しか飲んでいないのに、その後の記憶がない。あれで酔っぱらってしまった? いやそれよりも、酔っぱらった自分をここまで運んで寝かせてくれたのは。
(……っ!)
綾香は頭を抱え込んだ。
(どうして、いつもこんな姿ばかり見られるの!? どうしていつも、あの人なの!? あああ、もう絶対お酒なんか飲まないっ!!)
自己嫌悪が収まらない綾香の耳に、おぼろげながらも昨日の記憶がよみがえった。
『……泣くな』
耳に残る優しい声に、ますます居たたまれない気持ちが襲ってくる。
(このまま部屋を出たくない……だ、だって、どんな顔すればいいのよっ!?)
でも、もう支度をしないと遅刻してしまう。ううう、とうめきつつも綾香は立ち上がり、バスルームの方へ歩いていった。

***

赤くなった目は冷やして何とか元に戻し、メイクもいつもより濃いめにした。着ているのは、紺色スーツ。洗面台の鏡に映るのは、普段通りの自分だった……見かけだけは。
重い溜息と共にリビングに続くドアを開く。その途端に、ふんわりとただよってきたのは、香ばしいコーヒーの香り。綾香のお腹が鳴りそうになる。
「おはよう。朝食ができているぞ」
ワイシャツにスラックス姿の司が、ちょうどオープンキッチンから白いダイニングテーブルへと料理を運んでいるところだった。目が合うと、途端に心臓が跳ねる。
「お、おはよう……ございます」
思わず小声になり、うつむき気味に視線をらしてしまう。そんな綾香を見て、にやりと司が笑みを浮かべた。
「コーヒーでいいか?」
「は、はい……」
綾香が躊躇ためらいながらも席に着くと、司は綾香の前にコーヒーを置いて、自分も向かいの席に座る。
いい香りのするロールパンに、スクランブルエッグ。そしてサラダ。まるでホテルの朝食のようだ。
「……いただきます」
パンをちぎって口にする。ほんのりと甘い。スクランブルエッグもちょうどよい塩加減だった。
「あの、これ……」
ああ、と司が言った。
「俺が作った。好きなんだ、料理。家にいる時はなるべく自炊している」
うっ、と綾香はフォークを落としそうになった。
(ま、負けた……っ)
そう。綾香の最大の弱点は、料理。この歳になっても、炒飯チャーハンさえがしてしまうくらいなのだ。気まずさを感じて黙り込んだ綾香を見る司の瞳には、あやしいきらめきが宿っていた。

「……ごちそうさまでした」
食後のコーヒーを口にする綾香を見ながら、司が口を開く。
「昨夜、海斗に連絡した」
突然落とされた爆弾に、思わずむせ返った。ごほごほとせきをしながら、コーヒーカップをだん、とテーブルに置いて司をにらみ付ける。
「ど、どうして……っ!?」
返ってきた司の声は冷静だった。
「これからの対応も含めて、海斗と情報共有する必要があるからな」
「そ、それは」
反論できない綾香に対して司は、大谷が綾香の家まで来たこと、そしておどしをかけたことを隠さず海斗に伝えた、と言う。
「海斗もお前の妹も、お前のことを心配していたから、俺の家にいる、と言っておいた」
「は、い!?」
綾香の声は上ずった。
「こ、ここにいるって言ったんですかっ!?」
(な、なんてことしてくれるのよ!?)
「ああ。お前の居場所を知りたがっていたからな。ここにいれば安心だってことは海斗ならよく分かっているはずだ」
司がしれっと言葉をぐ。
「そ、そういうことではなくて、ですね!!」
綾香はテーブルに両手を叩き付けながら立ち上がる。
「あなたの家に私がいるってことが、そもそもおかしいじゃないですかっ!!」
司が綾香を見上げる。そのするどい目つきに、綾香はうっと詰まった。
「別におかしくないだろう。お前と婚約した、と言ったからな」
「……はい?」
綾香の目が丸くなった。しばし頭の中が真っ白になる。
(え、え、こここ、婚約って!?)
「えええええええええええええええっ!?」
綾香が出した大声にも、司は動じなかった。素知そしらぬ顔でコーヒーを飲んでいる。
「な、何で、そんなことっ……!! 大体私、同意していませんけど!?」
「婚約者よりも、愛人の方がいいのか? 俺はどちらでも構わないが」
司はコーヒーカップをテーブルに置き、事もなげに言った。
「だ、だから、どうして、そんな選択肢しかないんですかっ!?」
「あの男の一件が片付くまでは、元の家には戻れない。ホテルも危険だ。ここなら安心だが……」
綾香を見つめる司の瞳があやしく揺れる。綾香の体はヘビににらまれたカエルのように固まってしまった。
「ここにいる適切な理由が必要だろう。それで〝婚約〟が最適だ、と判断したが?」
ビジネス口調の冷静な声。それと裏腹な熱い瞳。
綾香は口をぱくぱくさせたまま、言葉を失った。頬が熱くて仕方がない。
くすりと司が笑う。その笑みに、どくんと心臓が跳ねた。
「あの男の件が片付いたら、婚約解消すればいい。それでどうだ?」
「あ、あの……このこと、他の人、には」
「別に言う必要もないだろう。海斗とお前の妹を安心させることが目的だからな」
それを聞いて綾香は少しほっとする。
婚約者とされたことは釈然しゃくぜんとしないが、実際問題、あのアパートに帰る気はしない。大谷に付きまとわれるのは怖くないが、うっとうしい。かといって、今から新しい住居を探すとなると時間も手間もかかる。司の案は、少なくとも当面の平穏な生活を確保してくれるものだ。何より、新婚の綾菜に余計な心配を掛けたくない。
(仕方ないか……早く部屋を探して、引っ越しすればいいんだもの)
綾香は渋々「分かりました」と呟いた。うつむき気味だった綾香は、司が満足げな笑みを浮かべたことに気が付かなかった。

***

その十数分後。
「いえ、ですから、私は地下鉄で……っ」
そんな抵抗もむなしく、綾香はずるずると司に腕を掴まれたまま、地下駐車場へと連れていかれるところだった。
「同じ会社に出勤するのに、非効率な方法を取ろうとするな」
「こ、効率とかの問題じゃありませんっ! 社長代理と同じ車で出勤というのが、問題なんですっ!」
「見られて困るものでもないだろう」
「困ります! 社内で余計な噂を立てられたくないんです!」
「なら、婚約発表するか? それなら皆納得するだろう」
「そんなことしたら、解消した後が大変じゃないですかっ!! セレブ男性から捨てられた女に世間の目は厳しいんですよ!」
「俺がフラれたことにすればいいだろうが」
「誰が信じるんですか、そんなことっ!」
ぜいぜいと荒い息を吐きながら綾香は抗議を続けたが、ただ自分の非力さを思い知らされただけだった。

「あああ、もう……」
助手席で両手に顔をうずめる綾香の耳に、嫌味っぽい声が響く。
「俺と一緒にいるのが、そこまで嫌だとは光栄だな、婚約者殿」
だから、そういう問題ではないのに、と綾香は溜息をついた。
「もう少し、周りの目というものを考えて下さい……」
大体、出会ってすぐに婚約など、金目当てで秘書が社長代理をたぶらかした、と思われても不思議ではない。
そう言うと、運転中の司は不可解そうに綾香を見た。
「海斗の結婚式でお前に一目惚れした俺が、お前と過ごすために社長代理としてやってきた、でいいんじゃないのか?」
「!!」
綾香の顔が一気に熱くなった。
(も、もう、あの夜のことは思い出させないでほしい……っ!)
思わず黙り込んだ綾香に、司はくすりと笑った。
「噂にならないように、手は回しておく。それで我慢しろ。今はお前を一人にしないことが重要だからな」
そこまで過保護にしなくても、と思ったが、司の真剣な表情を見た綾香は反論するのをやめた。
後は、「はい……」となかば諦め気味の返事をするしかないのだった。
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