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中編

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 ――頭痛と貧血で倒れて、前世をがっつり思い出して、私を弾劾した三人組まで転生しちゃってる事に気が付いて、彼(いやもう元カレだけど)と後輩が会社でしっぽり(?)してるところを、前世の自分を(多分)殺した男と一緒に目撃して、弾劾される前に逃げて――って、一日で経験するにはハード過ぎない!?
 タクシーで帰った後、バタンキューとベッドに倒れ込んだ私はそのまま発熱、次の日は会社を休みました。結構繊細だったんだ、私……。

 そして、その次の日の今朝。三十九度越えした熱もすっかり下がり、気分もすこぶるいい感じ。こう、背中に張り付いていた重たい何かが消えたような開放感が。やっぱり重荷だったのね、前世。
「さて、と出社するかな」
 狭いワンルームの玄関でパンプスを履きながら、細長い姿見を見た。今日も量販店購入の茶色の上下スーツだ。スカートはプリーツスカートで上着はVネック襟なし、ブラウスは麻色。うん、平凡だわ。
 髪は艶やかと言えば艶やかだけど、特に特徴のないストレートだよね。目が大きいと言われた事はあるけど、「佐藤さんって小動物系だよねー」って同性受けするだけ。
 身長も普通だし、体形も普通。前世の豊かな胸や細いウエストは、何故一緒に転生してくれなかったのか。ちっ。
 ふと課長の顔が頭を過ぎる。あちらは能力も顔も体形も日本バージョンで転生してる。背が高くて美形で仕事が出来て。ずるい。聡志だって中身は残念だったけど外側はイケメンだし、愛海だって見た目は可愛い少女風だ。
「……私だけ平凡になってない?」
 悪役令嬢だから転生時に減らされたのか。まあ、別にいいけれど。今更過去を振り返っても仕方がない。
「よしっ、気合入れていくぞ!」
 ぱしんと両手で頬を叩く。そう、私には課長を避けるという、重大な使命がある! 前みたいに殺されたりしないようにしなければ!
 私はバックを肩に掛け直し、新たな気持ちで第一歩を踏み出した。

***

 ……って思っていたのに。
 何故私は今、課長と二人きりでホテルの最上階のバーにいるのでしょうか。しかも二人掛けのソファに並んで座ってるんですが。身体動かすと、右肩が当たりそうで怖い。前面のガラス窓の配下に広がる、きらきら輝く夜景が綺麗だけど、隣の体温が気になってそれどころではない。
 長い脚を組んでいる課長は、グレーのスーツの上着を脱いでいた。エンブレムが浮き出た、高そうな紺のネクタイが少し緩んでる。広い胸板が目の毒なんですが。
 彼が広口のグラスを飲み、私に微笑み掛けてきた。笑えるんだ、この人。涼しげな目元が妙に色っぽくて、心臓に悪い。
「ここのカクテルは美味いぞ」
「はあ、いただきます……」
 オレンジ色のしゅわしゅわと泡が立っているカクテルを一口飲んでみる。柑橘系の爽やかな香りとほのかな甘さが口の中に広がった。でも、それを味わう余裕もないくらい、私の頭は混乱していた。
(何がどうして、こうなったの!?)
 内心呻きながら、私は今日の出来事を思い返していた。 

***

「おはようございま「ちょっとっ、佐藤さん来てっ」」
 出社するなり、庶務部の母的存在である斎藤さいとう まり子女史に取っ捕まった私は、あれよあれよと言う間に給湯室へと連れて行かれた。そう、女子の噂話は給湯室から始まるのだ。
 丸眼鏡をきらりと光らせ、腰に手を当てて彼女が話し始める。
「あなた、この二日間で社内中の噂の的になってるわよ!」
「へっ!?」
 噂って、あの事で!? 社内中!? え、どうして?
 ぽかんと口を開けた私に、まり子女史が噛んで含めるように説明してくれた。
「一昨日、あなたが体調不良で早退した後……広川さんがね、庶務部中に聞こえるような大きな声で言ったのよ」

『あやりさん、失恋がショックで帰っちゃったんですよぉ。私に仕事押し付けて~』

「はあ!?」
 私の目は点になった。まり子女史が溜息をついて話を続ける。

『ほら、彼女営業の松田さんと付き合ってたでしょ? でもそれ、あやりさんが、嫌がる彼に付き纏ってただけなんですよぉ。彼が本当に好きだったのは私で、それを聞いたあやりさんがヒステリー起こしちゃって。もうちょっとで修羅場になるところだったんですから~』

「修羅場……」
 そりゃ、修羅場と言えば修羅場かもしれないけどさ。倉庫であんな事こんな事してる現場に踏み込んじゃったんだから。でも、あれだけ快く彼女の座を譲ったのに、どうしてヒステリー起こした事になってるの??
「あの、東条課長はいらっしゃらなかったんですか? その場に一緒にいたんですけど」
「その時、たまたま課長は他の部署に行ってたのよね」
 ぺらぺらと聞かれもしないのに話し出した愛海を、まり子女史は止めたんだそうだ。

『何言ってるの、広川さん。そんなくだらない話どうでもいいから、さっさと仕事しなさいよ』
『斎藤さんまで、私をいじめるんですかぁ? 悲しい……』
 大きな瞳からぽろりと涙を零す愛海を見て、『まあまあ、その辺にしておいたら』と愛海びいきの木村君が仲裁に入ったとか。愛海って涙を自由自在に操れるって噂、本当だったんだなあ。 
『だからあ、あやりさんが出社してきても、皆気を遣ってあげてくださいねえ。だって、彼女かわいそうじゃないですかあ。付き纏ったあげくに、捨てられちゃうなんて~』
『何を言っている、広川。彼女がかわいそう、だと?』
 庶務部の人間全員が入口の方を見ると――無表情の課長がそこに立っていた――らしい。

(ひえええええ!?)
 私も息を呑むと、まり子女史は頬を赤らめながらばしばし私の肩を叩いた。
「もう、課長カッコよかったわよ! あっという間にあの子をやり込めて。おまけに愛の告白まで! しびれたわ~」
「……あ、い?」
 アイッテナンデスカ。
 何かいやーな予感がする。背筋が寒いのは、決して気のせいじゃない。
「あ、あの……一体何が」
「課長がね、あの子にびしっと言ったのよ! 仕事を放棄した上、根も葉もない噂話をするしか能がないのかって!」

『か、課長……ひどい……っ……』
『酷い? 酷いのはお前達の方だろう。佐藤と付き合っていた松田に擦り寄っていったのが広川だという事は、俺でも知ってる話だ』
『違いますっ! あやりさんが酷すぎたんです! 聡志さんの事も私の事も馬鹿にしてっ!』
『佐藤はまっとうな指摘をしていただけだ。それに広川の教育を佐藤に依頼したのは、この俺だ。文句があるなら今言ってみろ――第三者でも納得出来る証拠付きでな』
『……っ!』

 証拠なんて出ないわよねえ。庶務部内で、私が彼女に指導してる所、皆見てるし。普通に注意してるだけで、怒鳴ったり叩いたりもしていないしね。 
「そしたら、あの子……急に態度変えて。ふてぶてしく嗤ったのよ」

『課長、あやりさんの事、えこひいきしてませんかあ?』  
『……えこひいき?』
『だってえ、私には冷たいのに、あやりさんは庇ったりするんですからあ』

「え。冷たいって、それって」
(彼女、課長にも迫ってたって事!? あの課長キースに!?)
 私が目を見開くと、まり子女史がうんうんと頷いた。
「軽い子だと思ってたけれど、あそこまで頭悪かったなんてね。課長が相手にする訳ないじゃない」
 怖いわ~私だったら、絶対避けるわ~。あんな冷徹な男に捕まったら、何されるか分かったものじゃない。前世だって殺されたんだし(多分)。
 ……確かに、ファニアは見目好い男性にばかり、きゅるるんって迫ってたような気がする。だからロッドクリフ王子も騙されて……
(あれ?)
 私は首を傾げた。頭に浮かぶ映像の中には、キースがファニアを相手にしているところが出てこない。ファニアは笑顔を振りまいてたけれど、キースは仏頂面を崩さなかった。
 課長もそうだよね。木村君なんかは彼女が笑うと頬赤らめてたけど、課長の表情筋はぴくりとも動かなかった。これって、現世も同じ?
(まあ、それ以前にキースが笑ったの、見た事ないけど)

 ――……のものだ……

(っ……!)
 つきんと僅かに頭が痛む。恐怖を感じるような低い声。今何かを思い出し掛けたような……。
 私が前世に気を取られている間にも、まり子女史は話を続けた。
「あの子が、あやりさんばっかりひいきしないで、私も見て下さい、なんて言うもんだから。課長もキレちゃったんでしょうね」
 
『俺は仕事をする人間は公平に見る。広川の態度は目に余るものがあったからな、そういう意味では前々から注視していた』
『えーっ、そんな事ないですよぉ。私だってちゃんと仕事してます』
『広川は佐藤に仕事を押し付けていたよな? 佐藤は俺には何も言わなかったが、彼女に与えた仕事量と勤務時間を見比べれば、ここ三ヶ月程オーバーワーク気味だったのは一目瞭然だ。手を打たねばと思っていた矢先に――これだ』
『それ、あやりさんが仕事遅いだけじゃないんですか? 私や聡志さんに細かい事ばっかり言って要領悪かったし』
 あくまで白を切る愛海に、課長は最後通牒を突き付けたそうだ。

『広川、それに営業部の松田。両名とも今回の件は社の方に報告済みだ。人事部から連絡が来るまで、大人しくしているんだな――ああ、それから』
 そう言って課長は、それはそれは綺麗な笑顔を見せたらしい――庶務部中がブリザードに包まれるくらいの。

『俺は佐藤をえこひいきなどしていないが、彼女を愛しく思っているのは事実だ。だから、彼女を害そうとする者は見逃せない』

「うっきゃああああああっ!?」
 思わず奇声が出たわ!
(ななな、何言ってくれちゃってるの、あの人はっ!?)
 盛大に引き攣った私とは対照的に、まり子女史の頬は、真っ赤に染まっていた。
「もうもうもう! 本当に素敵だったわよ、課長! あんなに愛されてるなんて、佐藤さんやるわね!」
 ばしばし叩かれて背中が痛いですっ。避けようと思っていた相手からの、まさかの攻撃。嬉しくもなんともない。
 
『課長、佐藤さんの事好きなんですかあ!?』
 きゅるるんの雰囲気も消え、ぎろりと睨み付ける愛海の視線を課長は華麗にスルーしたらしい。
『ああ、彼女はまだ知らない。これから口説き落とすから、誰も手を出すなよ。――さあ、この辺までにして、各自仕事に戻れ』
 その言葉で、庶務部は一見平常運転に戻った――らしいが。当然、噂にならない訳はなく。
 
『東条課長って佐藤さんの事、ずっと昔から思っていたんですって』
『秘めた愛だったのに、広川さん達の事があって公にしたらしいわ』
『あの二人、佐藤さんに酷かったものねえ』
『傷心の佐藤さんを東条課長が慰めてるのね、きっと』
『広川さん、鬼のような形相で東条課長睨んでたらしいわよ。いい気味よね~』

 等々等々……私が休んでた間、噂が噂を呼んで凄かったみたい。

(そんな事になってるって知ってたら、昨日這ってでも出社したのにーっ!)
 どうして皆、勝手に盛り上がっちゃってるのか。どう落とし前つけてくれるんだ、課長は。
(こんな平々凡々な私が、庇ってくれた課長を嫌だって言ったら……女性社員全員を敵に回す……!)
 確実にヤラレル。泣きっ面に蜂。崖っぷち。四面楚歌。様々な言葉が頭の中を駆け巡る。
「ううう……」
 頭を抱えた私に、まり子女史はぐっと親指を立てて見せた。
「私も庶務部の女性陣も、佐藤さんの味方だからね! 何かあったら頼って頂戴!」
「……はい……」
 がっくりと肩を落とした私は、満面の笑みを浮かべているまり子女史に何も言う事が出来なかった。

***

 とまあ、そんな事はあったけれど、業務中は何もなかったのよ。びくびく怯えながら庶務部の席に着いたけれど、どうやらまり子女史が根回ししてくれてたらしく、皆普通の態度だった。課長もずっと席にいなかったし。
 一方の愛海は自宅謹慎だって。聡志も。何があったのか課長も公には話してないけれど、あの二人倉庫であんな事するの、初めてじゃなかったみたいで……色々と察した人がいたみたい。皆あの二人の事、快く思ってなかったんだなあ。
 ホテル代浮かそうとセコイ事するからだ、なんて言う人もいたとか。せめて業務中はやめとけばよかったのに。

「あ……もうこんな時間」
 時計は六時ちょっと前。仕事はちゃんと終わってる。愛海に振り回されなければ、定時に終わるんだなと実感したわ。
「お先に失礼します」
 声を掛けて、庶務部を出た私の足取りは軽かった。課長も結局直帰だったし、こんな感じだったら明日も大丈夫かも。
(帰りコンビニでも寄ろうかな)
 そんな事を思いながら会社を出て歩道を歩いていた私は、いきなり腕を掴まれて横道に引きずり込まれた。
「なにす……っ、広川さん!?」 
 真っ黒のパーカーを被り、真っ黒のパンツを穿いた愛海は、普段の雰囲気とは全く違っていた。彼女はギラギラした目を私に向けて、両手で私の襟元を掴んだ。
「ちょっと! どういう事なのよ!? なんで、あんたが課長にっ!」
 首を絞められ、がくがくと身体を揺すぶられる。目の前がちかちかした。
(っ、苦しいっ……!)
「どう、って……あなた達、のせいじゃないっ」 
 吐き出すようにそう言うと、私の顔を覗き込む愛海の唇が憎々しげに歪んだ。
「私の引き立て役だったくせに! 前だってあの人に取り入って邪魔したくせに、また今回も邪魔するのっ!」
「!?」
 私は目を見開いた。愛海の今の言葉、は。
(愛海も前世の事、覚えてる!?)
 こっちも思い出した、なんて知られたら色々と面倒だ。私は愛海の右手首を握って、彼女の手を首から外した。ごほごほと咳き込みながら、愛海から一歩遠ざかる。
「何訳の分からない事言ってるのよ!? 聡志を寝取ったの、あなたの方でしょ!?」
 彼女の目が大きく吊り上がった。その鬼気迫る表情に、また頭がつきんと痛む。
「誰が王子の事話してるのよ! 私の本命はキース様だったんだから!」
「はああああああっ!?」
 思わず顎が外れそうになるくらい、驚いた。
(キースっ!? 本命!?)
 じゃあ、何だったのよ、あの婚約破棄は! 王子と身分違いの恋って盛り上がってたんじゃなかったの!?
(だめだ、知らないふりをしないと!)
 私はあくまで冷静さを装って言う。
「何の話をしてるのよ。あなたは聡志が好きだった、聡志も私よりあなたが好きだった、それだけの事なんでしょ!? だったら、もういいじゃない。二人付き合えば」
 愛海がぎりっと歯を食いしばり、とんでもない事を言い出した。
「だって、課長があんたを好きだなんて思わなかったもの! 前もあんたを抹殺したから、今回だってそうしてくれるって思ったのに!」
(やっぱり、抹殺されてたのかーっ!)
 鳥肌がぶわっと立った。やっぱり、課長キースから逃げよう。私の心にはその文字しか浮かばなかった。
「あのね……」
 ――私は課長とお付き合いする気持ちはこれっぽっちもありません。
 そう言い掛けた私の後ろから、地獄の底を引きずり回される鎖のような声が響いてきた。

「……俺が佐藤を抹殺などする訳ないだろうが。何寝ぼけた事を言っている」

 ――ぎゃーっ……! 

 ごくんと生唾を呑み込み、恐る恐る振り向くと……そこには。
(こ、氷の微笑みっ……!)
 大通りの灯りを背にして、薄暗い路地に立ちはだかる(?)長身の魔王がいました……。

***

(あああ、大変だった……)
 その時の事を思い出した私は、ぐったりとソファの背もたれに身を預けた。
『課長っ、どうしてその女を!? 私の方が相応しいのに!』
 とぎゃあぎゃあ騒ぐ愛海に、課長は冷たく一瞥して言ったのだ。
『前にも言った通り、俺はお前の事など何とも思っていない。松田と一緒にいればいいだろう……ただし』
 ひっと悲鳴を上げて愛海が後ろに下がった。課長から駄々漏れになっている黒い気配に、私も息が出来ないっ……!
『これ以上、佐藤に手を出すな。彼女を傷付けたら……クビ程度で済まないと思え』
『――っ!』 
 わなわなと真っ青な顔で震えている愛海を放置して、課長は右手で私の肩を抱いて路地から出た。足元が覚束ない。左肩に感じる体温が、憎らしい程頼もしかった。
『課長……どうして』
 歩きながら聞くと、彼は私を心配そうに見下ろした。
『もう帰る頃だろうと思って迎えに来たら、路地から言い争う声がした。聞き覚えのある声だったから、覗いてみたら――こうなってたという訳だ』
『あ、ありがとう……ございました……』
 やっぱりショックだったみたいで、しばらく私は呆然と課長に身を預ける形で歩いていた。が。
(……この状況ってまずくない?)
 我に返ると、別の意味で危機が迫ってる気がした。この人に抹殺されたんだよ、私。逃げようと思ってたのに、肩を抱かれて歩いてるって、やっぱりまずい。
(でも、どうやって、課長から逃げたらいいのか、分からないーっ!)
 どうしようと考え込んでる間に、いつの間にか駅前のホテルに着いてて……『ショック状態だろうから、少し飲め』とか言われて……今に至る。

「どうした? 口に合わないのか」
 隣からの声に、私はぶんぶんと首を横に振った。
「い、いえ、美味しいです!」
(そう、さっさと帰らないといけない!)
 愛海が前世を知ってたって事は、この人もって事もあり得る。だめだ、私が思い出したと気付かれないうちに、逃げないと!
(よし、これ飲んだら帰ろう)
 ジュースみたいに口当たりのいいお酒。軽めのカクテルを頼んでくれたから、大丈夫だよね。今の私は結構飲めるようになったし。私は一気にグラスをあおり、オレンジ色のお酒を口に流し込んだ。

 ごくごくごくごく

 喉元を爽やかな香りが通り抜けていく。炭酸の泡が心地いい。空になったグラスをテーブルに置いた私は、改めて右隣を向いた。課長が少しだけ、目を見開く。
「あのっ、もう大丈夫ですから。私はこれで帰りま……」
 ぐらん

(あ……れ……?)
 立ち上がろうとしたのに、足に力が入らない。何だか課長が二重に見えて……る……?

「……ああ、言い忘れていたが」
 瞼が重たくなってきた私を覗き込んで、課長は薄っすらと笑みを浮かべた。
「そのカクテルは口当たりは軽いが、度数は高くてな。前のお前なら、一口で倒れていたはずだが……」
「へ……?」
 前の? 何の事?

 ああ、課長の顔が背景に滲んでいく。ゆっくりと力の抜けていく私の身体を、大きな手が抱き留めた。

「……お前は俺のものだと、あの時言っただろう? ……ベス」

 課長が何を言ったのか、もう私には分からなかった。私は温かい何かに包まれながら、意識を完全に手放してしまったのだった。
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