『半魚囚人ジル』 深海監獄アビスロックからの脱出

アオミ レイ

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第二章 深淵を裂く影の侵攻

CHAPTER33 『静寂の観測者』

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第二階層・深奥の忘れられた墓所の片隅──

戦場を睨み続けていたイェーガーの額に、わずかな汗が滲んでいた。 目の前で繰り広げられる、ドゥームと深海の狂気の主力たちとの激闘。 どの一撃も本気、どの連携も見事。 だが──それでも、あの男には届かない。

(……どうすれば、あいつにダメージを与えられる……?)
イェーガーが思案を巡らせる中、ハンスが小さく息を呑む。

「……イェーガーさん!!」
その声にイェーガーが振り向く。 すると、すぐ隣に── いつの間にか、一人の男が立っていた。


黒い羽織に身を包み、仮面のように無表情な顔。腕を組み、悠然と戦いの様子を見つめている。静かに佇むその姿の正体は、《霧の幻影》の影に潜むナンバー2、梟だった。

(……まったく気配を感じなかった……!) 
ハンスの額にも汗が浮かぶ。


イェーガーが眉をひそめ、静かに口を開く。 
「……誰だ、お前は?」

梟は、静かに微笑んだ。 
「私? 私はただの通りすがりの者ですよ」

「……通りすがり?」

「ええ、こんな面白い戦い……近くで見物しない手はないでしょう?」
梟の瞳が、ほんの一瞬だけ光を帯びた。闇に紛れるように、彼の気配は風に揺らぐ蝋燭の炎のように薄れては消え、薄れては消えを繰り返す──。


梟の口元が、わずかに歪んだ。
「……さぁ、どうやってドゥームを倒しますかねぇ」

イェーガーは眉をひそめながら、視線を逸らさず返す。
「……おまえ……何者か知らんが……奴の弱点を知っているのか」

「……うーん」
梟は首をかしげ、組んでいた腕を解きながら、肩をすくめる。
「残念ながら、私はドゥームの“弱点”なんて知りませんよ。ただ──」

梟の目が細くなり、口元が笑みの形にわずかに吊り上がる。
「……ドゥームの技の‪“封じ方”なら、知ってますが」

その声音はどこか愉快そうで、底知れぬ自信を含んでいた。
「ただ、それを実行し、ドゥームを潰すことができるのは──我々《霧の幻影》だけでしょうね」


イェーガーの瞳がかすかに揺れる。
「……霧の幻影、だと……?」
その言葉を聞いた瞬間、イェーガーの表情が険しくなった。

ハンスもすぐさま反応し、腰の武器に手をかける。


梟はその様子に気づいて、くすりと小さく笑う。
「おっと……ご安心を。今はあなたたちとは争いませんよ」

ゆったりとした口調の中にも、どこか冷えたものが混じる。
「我々としてはね……あなたたちにドゥームを潰して頂いたほうが、ずっと都合がいいので」



──その言葉の裏で、戦場では凄まじい衝突音が響き渡っていた。

ドゥームの巨拳が地を穿ち、破片が弾丸のように飛び交う。
 バシリスクは咆哮を上げながら突進し、鋭い爪でドゥームの胸元を引き裂く。
 だがドゥームは微動だにせず、返す拳でバシリスクの腹を打ち抜いた。


「グッ……!まだ足りねえか!」
吹き飛ぶバシリスク。だが、その背後で静かに身を潜めていたクラーケンが、
 墨をたっぷりと喉に溜め、不意を突いてドゥームの顔めがけて勢いよく噴射した。

「……今だ!」
墨がドゥームの身体全体を覆い、その視界を完全に封じる。


「……ッ!」
視界を奪われたドゥームが僅かに体勢を崩す。
 その隙を逃さず、バシリスクが物凄い速さで飛びかかる。

「喰らえぇッ!!」
渾身の牙がドゥームの脇腹に突き刺さり、硬質な肉体から赤黒い血が噴き出す。
 その一撃に、地が揺れるほどの衝撃が走った。

ドゥームが初めて大きく仰け反り、鈍く唸る。


その瞬間、バシリスクの目に閃光のような期待が走る。
(……通った……ッ!)

クラーケンやハンスたちの表情にも、一瞬だけ希望の色が灯る。

巨躯を揺らしたあの怪物にも、確かに“痛み”が届いた。
勝てるかもしれない――そんな錯覚にも似た喜びが、刹那の間、戦場を包んだ。



だが──
ドゥームは――笑っていた。


次の瞬間、視界を奪われたままのドゥームの拳が、正確にバシリスクの顎を捉える。

 バシリスクの体が大きく仰け反り、さらに追撃の肘が肩に落ち、吹き飛ばされる。
「ぐっ……!」

ドゥームの周囲の空気が、再び重くなる。
静かにドゥームが息を吸うと、足元の水がざわめき、
瞬く間に螺旋の如き水流が顔を駆け上がる。
渦巻く水が黒墨を洗い落とし、深淵のごとき眼がふたたび開かれる。


その直後――

「ウオオオオオッ!!」
狂気に駆られたような怒声と共に、モルドが飛び込んできた。
鋭い牙を剥き出しに、ドゥームの腹に連打を叩き込み、足元に噛みつく勢いで襲いかかる。

「終わりだ! ドゥーム、死にやがれぇッ!!」

四肢を使った獣じみた乱打。
その全てに“殺意”だけが込められていた。


全力を込めたモルドの拳が迫る中、それを嘲笑うかのように、ドゥームの鉄拳が容赦なく唸りを上げて振り下ろされ、モルドの肩にめり込むような一撃が突き刺さった。

「グアッ……!」

それでもモルドは怯まず、ドゥームの太腿に深く噛みつき、牙で引き裂いた。

「このクソ野郎があああッ!」

鮮血が飛び散る。
だがドゥームは、意に介す様子もなく、嘲るように低く呟いた。

「……よく吠える犬だ、躾が出来てないぞ、バシリスク」


そしてその瞬間、ドゥームの巨拳が唸りを上げて振り下ろされ、モルドの顔面を容赦なく叩き潰した。

ズドンッ!

モルドの身体が無残に地へ叩きつけられ、鈍く、乾いた音と共に骨が砕ける響きがあたりに広がった。

それでも戦場には、なおも殺気が渦巻いていた。


沈黙と囁き

熱を帯びる戦場の気配を背に、イェーガーは視線を梟へと移した。
「……なら、その技の“封じ方”とやらを早く教えろ!」

梟は肩を揺らし、喉の奥から楽しげな笑いを漏らす。
「……ホホホホホ。残念ながら、時間切れのようですねぇ」

「……なんだと?」
イェーガーの目が細くなる。


梟はちらりと視線を背後に流しながら、涼しげに言い放った。
「もうすぐそこまで……沈黙の牙の兵士どもが迫ってきていますよ」

「……なに!?」


(……ハッ!)
ハンスが目を閉じ、神経を集中させた。
「大量の気配が……近くまで来てます!」


「バシリスク!」
イェーガーが鋭く叫ぶ。
「一旦退こう! 沈黙の牙の軍勢が近い!今は分が悪すぎる!」

バシリスクは奥歯を噛みしめ、怒りを噛み殺すように呟いた。
「……クソッ!…まだ足りねえか!…ドロマ、動け!」

手にした首飾りをぎゅっと握りしめ、魚人兵器と化したドロマへ命令を叩き込む。


ドゥームが笑う。
「……フフ、折角温まってきたのにな。まだ“血の味”が薄いぞ、バシリスク?」

クラーケンは冷静に一歩退き、撤退の構えに入る。

「モルド! 退くぞ!」
バシリスクが怒声を飛ばす。

だが、砕けかけた頭蓋に満身創痍の体を引きずりながらモルドは肩を震わせ、剥き出しの殺意を込めて叫んだ。
「まだだ……俺はあいつをぶっ殺すまで止まらねぇ…」


「ハンス!」
バシリスクの合図に、ハンスは無言で頷いた。
腰元から鋼鉄のロープをスルスルと伸ばし、モルドの体に巻きつける。

「……クソッ!」

もがくモルドを引き寄せるハンス。

イェーガーの横に並んだ梟が囁く。
「それでは私も、そろそろお暇いたします…あれだけの破壊力にあの装甲……恐れ入りますねぇ…」

そして、くるりと背を向けた。
「それでは、またお会いしましょう――」


その姿は霧の帳に溶けるように、すうっと消えていった。


ドゥームはゆっくりと背を向ける敵の背中を見送りながら、口の端を吊り上げる。
「英霊たちに捧げるには……まだまだ血が足りんな」

喉の奥で低く笑い、地を這うような声で続けた。
「次こそは、喰らい尽くしてやるぞ……」


激闘の余波

囮となったドロマたちが、迫り来る沈黙の牙の軍勢を引きつけ、その隙にバシリスクたちは辛うじて包囲を逃れ、闇の回廊へと姿を消した。


こうして、深海に轟いた激戦は一旦の幕を下ろした。
だが、去り際に残された血と殺気は、なおもアビスロックを濁らせ続けていた。
静寂の奥に潜む次なる戦火──それは、すでに始まりつつある。
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