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4.理想の夫婦
フェリクスは、困惑していた。
自分とその妻、クリスティーナは、政略結婚により結ばれた仲であるが、それに相応しく共に家の繁栄を考えられる、冷静沈着な良き夫婦のつもりだった。それがある日から、急に崩れてしまった。
――妻が、目の前で毒をあおって自死しようとしたのだ。
「何故だ?!」
未だ目覚めない妻の寝室から追い出され、仕方なく自室に帰ったフェリクスは、イライラと叫んだ。付き合いの長い側近が、すぐさま宥めるような口調で言った。
「旦那様、世話をするものたちの邪魔をするのはいかがなものかと」
「だが何かあったらどうするんだ?!」
「何か変化あればすぐに知らせがきます……同じ家の中ですよ?」
心底呆れたふうに言われても、フェリクスの焦燥感はおさまらなかった。
食卓に毒が盛られたのは、ほんの数時間前のことだ。
妻が静かに掲げた杯を見て、フェリクスは顔を歪めた。またか、と言うのがフェリクスの正直な気持ちだった。また親戚連中がいらぬ野心を燃やしているのだ。
毒ですか、と冷静な声色で問われ、フェリクスはささくれ立つ心を抑えるのに苦労しながら頷いた。同時に、一目でそうと見抜いた妻の観察眼に感心した。あるいは、この家で過ごすうちに彼女もこういった手合いに慣れてきたのかもしれない。
なのに、である。
毒である、と確認したにもかかわらず、妻クリスティーナは、躊躇いなく杯を口にしたのだ。
フェリクスは、何が起きたか初め理解できなかった。その唇が、混ぜ物のされた食前酒に触れている、と頭で認識するより早く、力一杯はたき落としていた。いつ立ち上がったのかもわからない。勢い余って彼女の手まで引っ叩いてしまった気がしなくもないが、もはやそれどころじゃなかった。
「何故だ?」
いつもより弱々しい、どこか悲壮な表情の妻を見下ろし、フェリクスは頭の中には疑問符だけが渦巻いていた。
「我々は似た者同士の完璧な夫婦だったはずなのに……」
執務室の椅子に腰掛け、フェリクスは頭を抱えた。慰めのつもりか、側近が言った。
「十中八九、奥様のご実家の件がお耳に入ったのでしょう」
「そんなことはわかってる! そもそも、無理に伏せていたつもりもない、いつかは知る事だ」
「あるいは」
側近が短く言葉を切った。
「伯父上からの横槍の件、奥様の元にも及んでいたのやもしれません」
「まさか……」
伯父が、妻を変えろ、などと非常識な申し出をしてきたのはわずか一週間前のことである。失脚した家を切り、伯父の懇意にしている家より娘を娶れ……話半分でフェリクスは聞くのをやめたが。
「あの腐れ狸ジジイ、人の妻に何を吹き込んだ?!」
吐き捨てるようにフェリクスはうめいた。
「まだ憶測ですよ、旦那様」
「わからんだろ!」
フェリクスはイライラと髪をかきむしる。伯父の干渉は今に始まった事ではない――それこそ、フェリクスが公爵位を継いでからは、枚挙に暇もないほどに。嫌々ながらも飲み込まなければいけなくなった事だって、一度や二度ではない。だか、しかしである。『妻を替える』などというのは、さすがのフェリクスも受け入れかねた。
「たかだか実家の失脚くらいで、クリスティーナを放り出すわけないだろうに……なぜ皆それがわからないんだ」
ぶつぶつとうめいていたフェリクスは、唐突にハッと顔を上げて側近を見た。
「母上は? 最近変化はなかったか?」
「離邸の方は相変わらずです。訪問もなく、新たに加わった者も解雇された者もおりません。半月ほど前に大叔父上宛にお手紙が出されましたが、中身はいつもの嘆願です」
「ふん、母上も諦めんな……いや、何もなければいい」
「こうも長くお家騒動が続くとは、お父上が草葉の陰で泣いておられますね」
「どうかな、政敵に毒をばら撒き始めたのはそもそもあの人だ。結局毒が返ってきて死んでは元も子もない」
おかげでこちらは苦労させられている、とフェリクスは苦く吐いた。父の逝去がなければ、フェリクスとて若くして公爵位などという大役に身を投じなくて済んだだろう。
「ところで、今回の処遇はどのように?」
「いつも通りでいい。とにかくあの場にいた全員を解雇だ。……実行犯の目処は立っているのか?」
「一応は」
「では、そやつ以外には紹介状を持たせてやれ。それから新たな人を雇うにあたっては、より厳しく選別するように伝えろ」
「はい」
フェリクスは深いため息をつき、執務机に向き直ると、再び頭を抱えた。
「一体何故……そんなに実家の件が気掛かりだったのか……?」
側近が、一歩近づく足音がした。
「奥様は、聡明な方です。誇りある貴婦人として、看過できなかったのかもしれません」
「……どういう事だ」
静かな進言に、フェリクスは不機嫌な声で応えた。
「ご実家の醜聞を恥じたのやもしれません。ひいては旦那様の重荷になると……」
「言うな!」
フェリクスは強く遮った。その可能性は考えなくもなかった。考えたくはなかったが。
「……まずは伯爵家に援助の申し出を手配しろ。少なくとも切るつもりはないと示さなければ」
「はい、旦那様」
側近が神妙に頷く。それをチラと確認してからフェリクスは立ち上がり、まっすぐ執務室の扉に向かって歩く。途端に側近が呆れたような口調で言った。
「旦那様、まだ15分ほどしか経っておりませんが」
「……何がだ」
「奥様のお部屋に向かうのは、もう少し時間を置かれた方が良いかと」
何故わかった、と思いっきり顔に出したフェリクスだったが、すぐにヤケになって言い返した。
「うるさいな! 少し顔を見るだけだ!」
「さようで」
側近は肩をすくめた。
自分とその妻、クリスティーナは、政略結婚により結ばれた仲であるが、それに相応しく共に家の繁栄を考えられる、冷静沈着な良き夫婦のつもりだった。それがある日から、急に崩れてしまった。
――妻が、目の前で毒をあおって自死しようとしたのだ。
「何故だ?!」
未だ目覚めない妻の寝室から追い出され、仕方なく自室に帰ったフェリクスは、イライラと叫んだ。付き合いの長い側近が、すぐさま宥めるような口調で言った。
「旦那様、世話をするものたちの邪魔をするのはいかがなものかと」
「だが何かあったらどうするんだ?!」
「何か変化あればすぐに知らせがきます……同じ家の中ですよ?」
心底呆れたふうに言われても、フェリクスの焦燥感はおさまらなかった。
食卓に毒が盛られたのは、ほんの数時間前のことだ。
妻が静かに掲げた杯を見て、フェリクスは顔を歪めた。またか、と言うのがフェリクスの正直な気持ちだった。また親戚連中がいらぬ野心を燃やしているのだ。
毒ですか、と冷静な声色で問われ、フェリクスはささくれ立つ心を抑えるのに苦労しながら頷いた。同時に、一目でそうと見抜いた妻の観察眼に感心した。あるいは、この家で過ごすうちに彼女もこういった手合いに慣れてきたのかもしれない。
なのに、である。
毒である、と確認したにもかかわらず、妻クリスティーナは、躊躇いなく杯を口にしたのだ。
フェリクスは、何が起きたか初め理解できなかった。その唇が、混ぜ物のされた食前酒に触れている、と頭で認識するより早く、力一杯はたき落としていた。いつ立ち上がったのかもわからない。勢い余って彼女の手まで引っ叩いてしまった気がしなくもないが、もはやそれどころじゃなかった。
「何故だ?」
いつもより弱々しい、どこか悲壮な表情の妻を見下ろし、フェリクスは頭の中には疑問符だけが渦巻いていた。
「我々は似た者同士の完璧な夫婦だったはずなのに……」
執務室の椅子に腰掛け、フェリクスは頭を抱えた。慰めのつもりか、側近が言った。
「十中八九、奥様のご実家の件がお耳に入ったのでしょう」
「そんなことはわかってる! そもそも、無理に伏せていたつもりもない、いつかは知る事だ」
「あるいは」
側近が短く言葉を切った。
「伯父上からの横槍の件、奥様の元にも及んでいたのやもしれません」
「まさか……」
伯父が、妻を変えろ、などと非常識な申し出をしてきたのはわずか一週間前のことである。失脚した家を切り、伯父の懇意にしている家より娘を娶れ……話半分でフェリクスは聞くのをやめたが。
「あの腐れ狸ジジイ、人の妻に何を吹き込んだ?!」
吐き捨てるようにフェリクスはうめいた。
「まだ憶測ですよ、旦那様」
「わからんだろ!」
フェリクスはイライラと髪をかきむしる。伯父の干渉は今に始まった事ではない――それこそ、フェリクスが公爵位を継いでからは、枚挙に暇もないほどに。嫌々ながらも飲み込まなければいけなくなった事だって、一度や二度ではない。だか、しかしである。『妻を替える』などというのは、さすがのフェリクスも受け入れかねた。
「たかだか実家の失脚くらいで、クリスティーナを放り出すわけないだろうに……なぜ皆それがわからないんだ」
ぶつぶつとうめいていたフェリクスは、唐突にハッと顔を上げて側近を見た。
「母上は? 最近変化はなかったか?」
「離邸の方は相変わらずです。訪問もなく、新たに加わった者も解雇された者もおりません。半月ほど前に大叔父上宛にお手紙が出されましたが、中身はいつもの嘆願です」
「ふん、母上も諦めんな……いや、何もなければいい」
「こうも長くお家騒動が続くとは、お父上が草葉の陰で泣いておられますね」
「どうかな、政敵に毒をばら撒き始めたのはそもそもあの人だ。結局毒が返ってきて死んでは元も子もない」
おかげでこちらは苦労させられている、とフェリクスは苦く吐いた。父の逝去がなければ、フェリクスとて若くして公爵位などという大役に身を投じなくて済んだだろう。
「ところで、今回の処遇はどのように?」
「いつも通りでいい。とにかくあの場にいた全員を解雇だ。……実行犯の目処は立っているのか?」
「一応は」
「では、そやつ以外には紹介状を持たせてやれ。それから新たな人を雇うにあたっては、より厳しく選別するように伝えろ」
「はい」
フェリクスは深いため息をつき、執務机に向き直ると、再び頭を抱えた。
「一体何故……そんなに実家の件が気掛かりだったのか……?」
側近が、一歩近づく足音がした。
「奥様は、聡明な方です。誇りある貴婦人として、看過できなかったのかもしれません」
「……どういう事だ」
静かな進言に、フェリクスは不機嫌な声で応えた。
「ご実家の醜聞を恥じたのやもしれません。ひいては旦那様の重荷になると……」
「言うな!」
フェリクスは強く遮った。その可能性は考えなくもなかった。考えたくはなかったが。
「……まずは伯爵家に援助の申し出を手配しろ。少なくとも切るつもりはないと示さなければ」
「はい、旦那様」
側近が神妙に頷く。それをチラと確認してからフェリクスは立ち上がり、まっすぐ執務室の扉に向かって歩く。途端に側近が呆れたような口調で言った。
「旦那様、まだ15分ほどしか経っておりませんが」
「……何がだ」
「奥様のお部屋に向かうのは、もう少し時間を置かれた方が良いかと」
何故わかった、と思いっきり顔に出したフェリクスだったが、すぐにヤケになって言い返した。
「うるさいな! 少し顔を見るだけだ!」
「さようで」
側近は肩をすくめた。
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