こいじまい。 -Ep.the British-

ベンジャミン・スミス

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第三章 Love matures

第三話 異文化の壁

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 春人は身震いするような寒さに襲われ、半分夢の中で毛布を探した。寝相が悪かったのか、毛布は床に落ちていて、それを引っ張り上げ雑に被せた。

「会社に行きたくない」

 開けなければならない瞼を強く閉じてぼやく。

「アルバートに会いたくないよ」

 その瞬間、瞼の裏にアルバートの顔がチラつき、目を勢いよく開いた。「ううう」と唸りながらせっかく拾い上げた毛布を掛け布団ごと床に逆戻りさせる。
無理矢理身体を起こし、冷たい水で顔を洗う。髭のなかなか生えない綺麗な顔は元気がない。

「夢だったらいいのに」

 残念ながら春人の願望は水と共に排水溝に流れた。
 昨日、ラブホテルにアルバートと行き何もされなかったどころか避けられた事も、今日仕事で彼に会う事も現実だ。
 まだ水の滴る唇に指を這わす。

「……」

 もし昨日、アルバートにキスをされていたら、身体を求められたら、春人は……きっと……

(受け入れていただろうな……されても嫌じゃなかったと思う)

 口には出さない。出せば瞳から違うものまで溢れる気がして。押し殺すようにその場にしゃがみ込む。

 自分の仕事が認められた時、距離が縮まったあの時、胸が焼けるように熱くなった。顔を見るだけでもその現象は春人を襲った。そして避けられた瞬間、この世の終わりの様に足元がぐらつき、息が詰まった。こんな煩い胸などいらない、無くなってしまえと思うくらい痛かった。

(きっと昨日で嫌われただろうな)

 紳士に対して軽率な行動をしてしまった自分に自戒の念が押し寄せ家に籠りたくなる。誰にも姿を見られたくなかった。

「仕事に行かなきゃ」

 弱い自分に飽きれかえりながら立ち上がり、スーツのネクタイを締める。
 これ以上は遅刻してしまう。社会は無残にも一定の時を刻み、そのレールに乗っている以上従わなければならない。
冷たい革靴に足を入れ、春人は会社へと向かった。
昨日の雨の気配の残像すらない冬の透き通った空を見上げる。

(どうしたらいいのかな? 謝る? でも昨日は避けられた……話してくれるかな……ああ、もう嫌だ)

 もう何が何か分からず、天に届く様な大声で吼えたくなった。たった一度の失敗に心を掻き乱される。まだ村崎が好きで、アルバートへの気持ちははっきりしないはずなのに。


◇        ◇          ◇

「おはようございます!」

 いつもより遅く出勤したのに研修生の姿は一人もいなかった。いつ来るかと見張っていたが、結局彼らは現れず総括の赤澤の姿もない。
 村崎の声で朝礼が始まる。普通に村崎を眺めていたが、彼の口から研修生について触れられることは無かった。まさか四人揃って遅刻や欠勤のはずはない。仕事に取り掛からず挙動不審になっていると松田が声をかけてきた。

「何してんだ」
「誰も来ないなって」
「誰も? ……お前忘れてんな?」

 松田が卓上カレンダーにペンを向ける。そこには「研修生・福岡空港支社」と書いてあり、週末まで矢印がひかれていた。

「え? あっそっか」

 年明けに研修生は福岡空港支社へ研修場所を変える。その事前指導を兼ね今日から週末まであちらに勤務しているのだ。

「だからしばらくは通常業務だぞ」
「すっかり忘れてた」

 最初の水族館デートから昨日のデートまで期間があいたのもこれが原因だった。引き継ぎ資料に、福岡空港支社への出張の付き添い。猫の手も借りたいほど忙しかった。

(そういえば、赤澤さんに喧嘩売ったな)

 最初の出張前の届のミスで、村崎に赤澤が腕を回した。それに威嚇の様な態度を取ってしまい、あの日に全てが終わった。あの時アルバートも気が付いていたと思うと変な気持ちになる。

——ズキンッ

(村崎部長の事、忘れないと)

 しかし彼を忘れさせようと奮闘するアルバートにまで失礼なことをしてしまい春人は飽和状態だった。
 混乱し始めた頭を思い切り振る。そしてパソコンを開き、意識を無理矢理仕事に向かせた。
 しばらくして腕時計を見ると4時間も経過していたのにほぼ真っ白のパソコン画面。研修生が福岡空港支社に行って業務が軽くなったはずなのに、まるで忘れてしまったかのように仕事が進まない。
 
 その真っ白の画面の前に、まだ気持ち晴れやかだった時に作成した勤勉な書類が現れる。

「おーい、月嶋。ここミスってる」

 松田が、英文のスペルミスを指摘してきた。何ヵ所か赤で訂正されている。

「はい! すぐ直します。もう一枚の書類の添削もお願いできますか? ちょっと自信がなくて」
「りょーかい。今、手が空いてるからやるわ」

 先に指摘された箇所を訂正し、その後は松田が添削してくれているのを緊張しながら見守った。その間、春人は身体を彼の方に向けていた。奥では村崎が何やら書類とにらめっこしている。

(難しそうな顔してるなあ)

 すると、オフィスの扉が開く音がして、急いで村崎が席を立つ。そして春人も背後に気配を感じて振り向くとそこには……

「おはようございます……田中部長」

 化学事業部の部長・田中がいた。トレードマークのてっぺん禿げと出っ張ったお腹は今日も健在だ。普段自分では動かぬ田中部長の登場と神妙な面持ちで彼の元へ歩いていく村崎にオフィス内が一瞬ざわつく。
 そして村崎が来るのを待てなかった田中が春人にあの視線を向ける。いつかトラウマにでもなってしまうのでは?と感じさせる視線に春人は身構えた。
 田中の欠点を見つける抜群の目がデスクの書類に行く。そして赤色の字に嬉しそうな顔をした。

「やっぱり君は「期待」は取った方が良いんじゃないかい?」
「……」

 返す言葉が見つからない。

「訂正されているようでは先が思いやられるね。新人だろうと基礎がなっていないんじゃ」

 眉間に皺を寄せた村崎が止めに入ろうとしたが、もう恥ずかしい姿を晒せないと覚悟し、姿勢よく立ち上がった春人は思いつく限りの単語を並べた。

「おっしゃる通りです。松田先輩や村崎部長、他の社員にも指導してもらいながら精進していきたいと思います。もちろん田中部長にも」

 その後の「指導してもらいたい」はプライドにより言う事ができなかった。しかし、こんなあからさまな褒め言葉にも単純な男は喜ぶ。

「ははは、君は素直だな。来年、化学事業部にでも来るかい?」

 嘘か真か分からない勧誘に、社会人一年目で上司に恵まれた春人には限界だった。

「月嶋は俺の部下です。無理な勧誘は止めてください」
「そんな怖い顔をするなよ村崎部長。それにうちには来年……」
「田中部長!」

 未発表の人事をこんな大勢の前で暴露しようとした田中にさすがの村崎も焦る。そして「貴方はこの件で来たのでしょう」と先ほど難しい表情で見ていた書類を主張させる。

「そうだった。部長になったばかりの若造に目に物を見せてやらんとな」

と、二人はミーティング室へ消えた。
 結局彼が自分から来たのは早く村崎に仕事で嫌味を言いたいからだった。あまりの所業にオフィスはヒソヒソ声がヒソヒソと言えるレベルではなくなり険悪や心配の声が上がる。
心配の声の矛先は村崎と春人。
 椅子に座り直した春人に松田が声をかける。

「大丈夫か?」
「はい」
「凄いなお前。俺、一年目に嫌味を言われた時は悔しくて反発しちまった」

 春人もこの前の事が無ければ返しが見つからなかっただろう。

「そんなことありません」
「いや、凄かった」

と、小さく拍手しながら褒めてくれる松田。しかし春人はもっと卓越した返しを知っている。そのせいで自分はまだまだなのだと劣等感に苛まれる。

(アルバートならきっと上手く返せた)

 春人の模範的な返しは、田中を傷つけはしない。しかし全員が救われる内容でもない。誰かが我慢をしなければならない。だから誰も傷つく事なくあの場を収めたアルバートに少し憧れていた。
 春人は純粋にもっとそばでいろいろ学びたいと思っていた。
昨日のホテルの件はあのような形に終わったが、ラブホテルという文化は世界共通ではない事を知り、また一つ賢くなった。

(そもそもこれを乗り越えないと付き合うなんて無理なんじゃ?) 

 この先も異文化に歪は生じてくる。その度に悩んでいてはやっていけない。多文化共生社会に必要なのは相手を尊重する事と知ることだ。そういった意味でも昨日のデートはかなり有意義な内容になっていたかもしれない。

(それに……)

 春人は訂正する書類を握りしめ、アルバートを連想させる並んだ英単語を見つめた。

(付き合うこと前提で考えちゃってる)

 付き合えない理由ではなく、付き合うために何をする必要があるのかという思考回路になってしまっている春人。
 アルバートが昨日本当は何を考えていたのかは分からない。「嫌われたかもしれない。」というのは勝手な憶測で、まだ確定したことではない。

——歩み寄り。

 春人は昼休みになるとすぐさまスマートフォンを持って非常階段へ向かった。そして電話帳を開いて直ぐ上にある「あ行」に指を伸ばす。
 目的の名前を押して震えながら耳元に当てる。
無機質な音が鳴り止まず焦る。
またかけ直そうかと耳から話そうとした時、受話器を上げるような音がした。

「もしもし」
『もしもし』

 電話の奥からいつもより低いアルバートの声が聞こえてくる。
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