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第十一章 Past
第六話 千葉へ飛ぶ
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花火大会で言われた通りアルバートは本社のある千葉県へ旅立った。久しぶりの遠距離で、気付けば2週間が経っていた。
その間電話はしていたがやはり同じ国内だろうと寂しさは募るばかりで、あと1週間したら会えるのに春人は待てない気持ちでいっぱいだった。
福岡に戻るのは九月になってからだ。つまりアルバートの誕生日を今年も祝うことが出来ない。
誕生日当日、春人はリビングで人差し指を突き出していた。
「ガスの元栓、クーラー、電気、ベランダの戸締りOK」
指差しで一つずつ確認していく。
「よし! いくぞ千葉!」
春人はアルバートの誕生日が休日なのを利用して千葉へと飛び立つ計画を思いついた。本人には秘密だ。
(今までことごとく驚かされたからね。今日は僕が驚かせてやる)
飛行機の座席に身体を沈めながら、今までアルバートがくれたサプライズを思い出す。
そもそも日常的に「今日の会議中、君が可愛かった」などと言ってバラの花束を持ってくる男に適うはずがない。
それでも今回は成功させるぞと息巻いている春人は、アルバートのメッセージに、あたかも福岡にいるような感じで返信する小細工まで仕込む。
二時間で、飛行機は関東地方に到着し、到着ロビーで、手帳を開いた。
(アルが泊まっているホテルは……)
ここから千葉県へと向かう。本社の場所は勿論知っている。そしてアルバートが泊まっているホテルもきちんと調べてきた。
社員の勤務状態をコンピューターで管理しているお陰だ。アルバートの名前をクリックすれば、泊まっているホテルから滞在期間、出張内容まで分かる。
ずっと欄が赤く塗られ「出張」と表示されているのは少し寂しかったが、今日はそれも忘れられる。
春人は電車を乗り継ぎ、アルバートの宿泊しているホテルのロビーで電話をかけた。流石に泊まっている部屋番号までは分からないので、ここで種明かしだ。
「ふふ。どんな反応するかな……あっ、アル? 僕だよ」
『やあ、春人』
何も知らないアルバートの声に笑みが零れる。
「今大丈夫?」
『問題ない。今日は休みかい?』
「うん、休み! アルは?」
『私も休みだよ』
「今どこにいるの?」
『ホテルだが? どうした? 心配なのか?』
(よし!)
春人はガッツポーズをした。
アルバートは春人が何かよからぬ不安を抱いていると思っているようだが。
「今、ホテルにいるんだ。」
『ホテル?』
「アルの」
「……」
「アル?」
間が空いたかと思うとドタドタと慌ただしい音がし始める。
『すぐ行く!』
アルバートの驚いた声と慌ただしさは作戦の成功の音。それが嬉しくて、春人は踵をピョンピョンさせた。そのまま彼が降りてくるであろうエレベーターの前で待つ。
「10……9……」
数字がどんどん下に誰かが降りてきているのを知らせる。
「3……2……」
——チーン
エレベーターの扉が開き終わらないうちに驚いた顔のアルバートが急いで箱から出てきた。キョロキョロあたりを見回している。
ロビーの端にいる春人を見て目を丸くする。
「何故いるのだ」
困惑した言葉とは裏腹に喜んだ顔を隠しきれていないアルバート。春人はサプライズの成功を噛み締める。
「えへへ。びっくりした?」
「当たり前だ。来るなんて行ってなかっただろ?」
「驚かせたくて!」
「とても驚いたよ。本当に一体どうしたのだ」
「アルバート……」
「ん?」
「お誕生日おめでとう!」
その瞬間、アルバートの顔が破格の笑顔になり、幸福で皺が深くなる。
「そうか。そうだった。ありがとう、春人」
どうやら忘れていたようでサプライズでそれに気がついたようだ。そして手を広げようとしたが悔しそうに拳を握る。
「ああ、抱きしめたい」
「だ、だめだよ!」
「分かっている。とりあえずどこかへ行こうか」
たしかに、こんな所で愛の劇場を男2人で繰り広げているのはいささか目に付く。
「もう出かけられるの?」
「問題ない。行こうか」
「うん!」
「春人、少しだけ本社に寄ってもいいかい?」
「いいよ! 外で待ってようか?」
「暑いだろ? 中で待っていてくれ。それに君は支社に務めているのだから社内にいても問題ないよ」
「わかった!」
アルバートと一緒に本社へ向かう。本社へ来るのは新人研修以来だ。
「懐かしいなあ」
アルバートが出張中に与えられているデスクのあるオフィスへ行く。
「少し待っていてくれ」
「うん!」
オフィスへ入っていくアルバートを見送り周りをキョロキョロと見渡す。ほとんど人はおらず静かな廊下は壁が所々剥げている。本社と言う割に綺麗にしているわけではなく、どちらかと言うと本社としての歴史観を残している。
(門司支社はおしゃれだもんな……ガラス張りだし)
おかげで廊下から恋人を見放題だ。
その恋人をしばらくは待っていたがなかなか出てこない。さすがに仲まで入るのは憚られ、廊下の奥へと足をのばした。
その足取りには迷いがない。
(この先は何があるか覚えている)
研修指導員の控え室として使われていた部屋だ。そしてその横には小さな会議室がある。
ドアノブに手を開けると、何の抵抗もなく回った。ゆっくり開けると、あの日と同じ景色が広がっている。
長机にパイプ椅子。その椅子に座り、春人は研修時代に今の上司に教えを乞うたのだ。
(ここで僕は村崎部長に……告白したんだ)
会議室に足を踏み入れた瞬間、もう二年も前なのに鮮明に蘇ってくる。自分が何と言ったかも、村崎がどんな表情をしていたかも。今ではもうお目にかかれない表情に、春人は申し訳なさで胸が痛んだ。
だが、脳裏に金色の草原が広がり、結んでいた唇を緩める。
「今でも胸が痛むけど……これはあの時の自分の軽率さが恥ずかしくて起こる痛みなんだよね……失恋の痛みは忘れちゃった」
自分の現金さに苦笑いが零れる。
「ありがとうアルバート……」
そしてゆっくりと長机に指を這わせる。
そこは部屋に籠る夏の熱気で熱くなっていた。
あの日の情熱がまだ残っているようだ。
「ごめんなさい村崎部長」
あの日の軽率さを謝り、春人は熱を切る様に指を離した。
「春人?」
「ん? あっ、終わったの?」
後ろにはアルバートがいた。
「ああ、待たせてすまない。どこへ行ったのかと思った」
「ごめんごめん。行こうか!」
そう言ってアルバートの背中を押す。
もう一度長机を見つめて、微笑みながら、春人はアルバムを綴じるようにドアを閉めた。
「よーし! 観光に行こう! 僕、タワーに登りたい!」
先陣を切るように歩く春人。既婚者に情熱的な恋をしていた青年の背中をアルバートは目を細めて見つめた。
そして電車を乗り継ぎ、観光名所を目指す。
「早く着かないかな。ごめんね東京まで連れ出して。千葉っていえば、大きなテーマパークあるけど、アルはいきそうになかったから」
「君が行きたいなら行こうか」
「アルがネズミの耳を頭につけてくれるなら行く」
「東京観光にしよう」
そんな談笑をしながら目的地を目指す。
真っ赤なタワーを下から見上げる春人の唇を撫でると、頬をタワーより淡い色に変え、中に走って行ってしまった。
チケットを買い、最上階を目指す。
最上階に着くと、春人は更に幼さを増した。
「たかーい‼ 夜の方が景色良さそうだよね!」
「この景色も素敵だ」
「ここから千葉見えるかな?」
「難しいのでは? そういえば日帰り?」
「明日までいるよ」
「ホテルは?」
「ん? まだ見つけてない! 急に思いついたからとりあえず飛行機だけ取ってきちゃったんだ」
眼下の景色を楽しみながら無邪気に笑う春人に嬉しさが込み上げる。
「そうだったのか。ありがとう」
「えへへ。アルが喜んでる。それにしても本当に高いね」
「さっきまでもっと高いところにいただろ」
「飛行機は、別なの!」
「この後はどうする?」
「もう少し東京観光して、晩御飯食べて、僕はホテル探すよ! 明日の15時の便で帰るから、アルの近くに泊まれば明日も少しは一緒にいられるかな?」
「居られるよ。それに空港まで見送りに行こう」
「えっ? 大丈夫だよ!」
「行かせてくれ。君だって私がイギリスに帰るときは必ず来てくれただろ?」
「今回は逆だね!」
「そうだな」
最後の方は景色をバックにただ二人で会話をしているだけになってしまった。
その後は東京タワーをあとにして東京観光をし、再び千葉に戻る。
晩御飯を食べようとどこか食事処を探す。色々さがしたが、結局無難に居酒屋になってしまった。
「何食べよっかなぁ……アルは何がいい? 飲む?」
「少し仕事が残っているから遠慮しておくよ。」
「じゃ、僕もやめとこ!」
「気にしないで飲みなさい」
「えー! でもぉ!」
「いいから」
「じゃ……」と、アルコールのメニューを見ている春人をアルバートはジッと見つめる。
(もし酔えば、彼は昔の話をしてくれるだろうか……)
さっきの部屋で、春人がアルバートにとって尊敬と嫉妬が入り混じる人物の名前を呟いているのを聞いてしまった。
(春人にも思うところがあったからあの部屋にいたのだろう)
本社へ連れて行ったことを軽く後悔するアルバートだったが、今が聞き時なのかもしれないと腹を括った。
「すみませーん! ……これと、これと——」
店員が去ったあと、メニュー表を春人が脇に寄せたところで重い口を開く。
「聞きたいことがあるのだが」
「なに?」
次に言われる質問が何かを知らない春人はニコニコと笑っている。
「君の過去を聞きたい。今までの恋愛や、もちろん村崎さんのことも。出会ったのはいつ頃なのだ?」
いつ頃出会ったか知っているのに彼の口から全てを聞きたくて尋ねる。
「えっ、えっと……ていうか、せっかくの誕生日なのにそんな話、嫌じゃない?」
「祝おうとしてくれている気持ちはとても嬉しい。しかしこのままだといつまでも聞けない気がするのだ」
「でも……」
「では、自分から言うのもなんだが、誕生日プレゼントとして君と村崎さんのことを聞くというのはどうかな?」
「プレゼントは福岡にある! さすがに今渡すと荷物になるかなと思って持ってきてないんだ」
手段が一つ消えてしまう。
「春人、教えてくれないか」
「……」
「そんなに言えない事が過去にあったのだろうか?」
「そうじゃないけど……」
春人が黙り込んでいる間に、頼んだものが運ばれてくる。
その後も黙り込む春人はビールを一気飲みしてしまい、ようやく濡れた唇を開いた。
「前にも言ったけど、僕は女性との経験はゼロだよ。でもゲイってわけじゃない。ちゃんと女性を好きになった。ただ発展しなかっただけで」
「では男性を好きになったのは……」
「村崎部長が初めて」
春人があからさまに目を逸らし、アルバートは胸が苦しくなる。自分自身も春人が初めての相手ではないのに、嫉妬するのはお門違いかもしれないが、それでもやはり我儘な心がそうさせてしまう。
「アルって研修なかったよね?」
「それどころか入社試験もなかったよ」
「ヘッドハンティングだもんね。うちは新人には必ず半年間の研修があるんだ。これも言ったけど、その時、本社で僕と村崎部長は出会って……好きになって……告白して……」
春人の瞳がどんどん陰る。
「振られたのか?」
「いや、逃げた」
「逃げた?」
「勉強を教えて貰っていた部屋で告白して、アルの言った通り振られて、そして逃げたの!」
最後はやけくそになり早口で言い終え、ビールのお代わりを頼んでいた。
「今日、君がいた部屋はもしかして」
「……あそこで告白したんだ。あっ、ありがとうございます」
注文したビールはすぐに来た。すぐに半分ほど一気に飲み干す。
そしてまた話し始める。
「研修で希望の支社を選べて、迷わず門司支社を選んだの。部署は選べなかったけど、あの時の僕にはありがたい事にインテリア事業部に配属になった」
そこからは毎日アタックをして砕けて、また頑張るという毎日だった。
「そんな時、アルバートが研修に来た」
「当初は見向きもされていなかったよ」
「だって村崎部長が好きだったんだから。その後は知っての通りです赤澤部長に呼び出されて、ショックで飲み会で体調悪くして、アルバートの家に泊まったんだ。」
二人のスタート地点にようやく足が着いた。
アルバートは眉間にシワを寄せて春人を見ている。それが何を意味しているのか考えようにも一気にアルコールを入れてしまった春人の頭では考えることが出来ない。なのにまたお酒を追加してしまった。
「春人、もう飲むのはやめた方がいいのでは? 顔色が良くない」
「やだ、飲む」
アルバートの静止を無視してまるでやけを起こしたように春人はお酒を追加していく。春人が深く酔うと体調が悪くなるのを知っている為、アルバートは必死に止めたが、本人は首を横に振り、とうとう……
——ゴツンッ!!
いきなり前にガクンと倒れて額をテーブルに打ち付けた。そのまま動かなくなる。
「春人!」
慌てて横に行き、耳を近づけると寝息を立ていた。
アルコールのせいもあるだろうが、福岡からの移動や観光の疲れ、久しぶりに思い出した気持ちや昔の話を終えて電池が切れたのだろう。
(すまない。私の我儘のせいで)
店員を呼びお勘定をお願いする。その間にアルバートは泊まっているホテルに電話をかけ、空室がないかの確認をした。特に繁盛期でもなかった為、空室があった。
そして店員に手伝ってもらい、春人をおんぶする。
「あの時と同じだな……」
あの日はこのまま春人を自分の家へと連れて帰った。奇しくも、過去の思い出が色々と重なってしまった二人。アルバートは心の中で春人に謝り、春人は大きな背中の上で寝息を立てていた。
その間電話はしていたがやはり同じ国内だろうと寂しさは募るばかりで、あと1週間したら会えるのに春人は待てない気持ちでいっぱいだった。
福岡に戻るのは九月になってからだ。つまりアルバートの誕生日を今年も祝うことが出来ない。
誕生日当日、春人はリビングで人差し指を突き出していた。
「ガスの元栓、クーラー、電気、ベランダの戸締りOK」
指差しで一つずつ確認していく。
「よし! いくぞ千葉!」
春人はアルバートの誕生日が休日なのを利用して千葉へと飛び立つ計画を思いついた。本人には秘密だ。
(今までことごとく驚かされたからね。今日は僕が驚かせてやる)
飛行機の座席に身体を沈めながら、今までアルバートがくれたサプライズを思い出す。
そもそも日常的に「今日の会議中、君が可愛かった」などと言ってバラの花束を持ってくる男に適うはずがない。
それでも今回は成功させるぞと息巻いている春人は、アルバートのメッセージに、あたかも福岡にいるような感じで返信する小細工まで仕込む。
二時間で、飛行機は関東地方に到着し、到着ロビーで、手帳を開いた。
(アルが泊まっているホテルは……)
ここから千葉県へと向かう。本社の場所は勿論知っている。そしてアルバートが泊まっているホテルもきちんと調べてきた。
社員の勤務状態をコンピューターで管理しているお陰だ。アルバートの名前をクリックすれば、泊まっているホテルから滞在期間、出張内容まで分かる。
ずっと欄が赤く塗られ「出張」と表示されているのは少し寂しかったが、今日はそれも忘れられる。
春人は電車を乗り継ぎ、アルバートの宿泊しているホテルのロビーで電話をかけた。流石に泊まっている部屋番号までは分からないので、ここで種明かしだ。
「ふふ。どんな反応するかな……あっ、アル? 僕だよ」
『やあ、春人』
何も知らないアルバートの声に笑みが零れる。
「今大丈夫?」
『問題ない。今日は休みかい?』
「うん、休み! アルは?」
『私も休みだよ』
「今どこにいるの?」
『ホテルだが? どうした? 心配なのか?』
(よし!)
春人はガッツポーズをした。
アルバートは春人が何かよからぬ不安を抱いていると思っているようだが。
「今、ホテルにいるんだ。」
『ホテル?』
「アルの」
「……」
「アル?」
間が空いたかと思うとドタドタと慌ただしい音がし始める。
『すぐ行く!』
アルバートの驚いた声と慌ただしさは作戦の成功の音。それが嬉しくて、春人は踵をピョンピョンさせた。そのまま彼が降りてくるであろうエレベーターの前で待つ。
「10……9……」
数字がどんどん下に誰かが降りてきているのを知らせる。
「3……2……」
——チーン
エレベーターの扉が開き終わらないうちに驚いた顔のアルバートが急いで箱から出てきた。キョロキョロあたりを見回している。
ロビーの端にいる春人を見て目を丸くする。
「何故いるのだ」
困惑した言葉とは裏腹に喜んだ顔を隠しきれていないアルバート。春人はサプライズの成功を噛み締める。
「えへへ。びっくりした?」
「当たり前だ。来るなんて行ってなかっただろ?」
「驚かせたくて!」
「とても驚いたよ。本当に一体どうしたのだ」
「アルバート……」
「ん?」
「お誕生日おめでとう!」
その瞬間、アルバートの顔が破格の笑顔になり、幸福で皺が深くなる。
「そうか。そうだった。ありがとう、春人」
どうやら忘れていたようでサプライズでそれに気がついたようだ。そして手を広げようとしたが悔しそうに拳を握る。
「ああ、抱きしめたい」
「だ、だめだよ!」
「分かっている。とりあえずどこかへ行こうか」
たしかに、こんな所で愛の劇場を男2人で繰り広げているのはいささか目に付く。
「もう出かけられるの?」
「問題ない。行こうか」
「うん!」
「春人、少しだけ本社に寄ってもいいかい?」
「いいよ! 外で待ってようか?」
「暑いだろ? 中で待っていてくれ。それに君は支社に務めているのだから社内にいても問題ないよ」
「わかった!」
アルバートと一緒に本社へ向かう。本社へ来るのは新人研修以来だ。
「懐かしいなあ」
アルバートが出張中に与えられているデスクのあるオフィスへ行く。
「少し待っていてくれ」
「うん!」
オフィスへ入っていくアルバートを見送り周りをキョロキョロと見渡す。ほとんど人はおらず静かな廊下は壁が所々剥げている。本社と言う割に綺麗にしているわけではなく、どちらかと言うと本社としての歴史観を残している。
(門司支社はおしゃれだもんな……ガラス張りだし)
おかげで廊下から恋人を見放題だ。
その恋人をしばらくは待っていたがなかなか出てこない。さすがに仲まで入るのは憚られ、廊下の奥へと足をのばした。
その足取りには迷いがない。
(この先は何があるか覚えている)
研修指導員の控え室として使われていた部屋だ。そしてその横には小さな会議室がある。
ドアノブに手を開けると、何の抵抗もなく回った。ゆっくり開けると、あの日と同じ景色が広がっている。
長机にパイプ椅子。その椅子に座り、春人は研修時代に今の上司に教えを乞うたのだ。
(ここで僕は村崎部長に……告白したんだ)
会議室に足を踏み入れた瞬間、もう二年も前なのに鮮明に蘇ってくる。自分が何と言ったかも、村崎がどんな表情をしていたかも。今ではもうお目にかかれない表情に、春人は申し訳なさで胸が痛んだ。
だが、脳裏に金色の草原が広がり、結んでいた唇を緩める。
「今でも胸が痛むけど……これはあの時の自分の軽率さが恥ずかしくて起こる痛みなんだよね……失恋の痛みは忘れちゃった」
自分の現金さに苦笑いが零れる。
「ありがとうアルバート……」
そしてゆっくりと長机に指を這わせる。
そこは部屋に籠る夏の熱気で熱くなっていた。
あの日の情熱がまだ残っているようだ。
「ごめんなさい村崎部長」
あの日の軽率さを謝り、春人は熱を切る様に指を離した。
「春人?」
「ん? あっ、終わったの?」
後ろにはアルバートがいた。
「ああ、待たせてすまない。どこへ行ったのかと思った」
「ごめんごめん。行こうか!」
そう言ってアルバートの背中を押す。
もう一度長机を見つめて、微笑みながら、春人はアルバムを綴じるようにドアを閉めた。
「よーし! 観光に行こう! 僕、タワーに登りたい!」
先陣を切るように歩く春人。既婚者に情熱的な恋をしていた青年の背中をアルバートは目を細めて見つめた。
そして電車を乗り継ぎ、観光名所を目指す。
「早く着かないかな。ごめんね東京まで連れ出して。千葉っていえば、大きなテーマパークあるけど、アルはいきそうになかったから」
「君が行きたいなら行こうか」
「アルがネズミの耳を頭につけてくれるなら行く」
「東京観光にしよう」
そんな談笑をしながら目的地を目指す。
真っ赤なタワーを下から見上げる春人の唇を撫でると、頬をタワーより淡い色に変え、中に走って行ってしまった。
チケットを買い、最上階を目指す。
最上階に着くと、春人は更に幼さを増した。
「たかーい‼ 夜の方が景色良さそうだよね!」
「この景色も素敵だ」
「ここから千葉見えるかな?」
「難しいのでは? そういえば日帰り?」
「明日までいるよ」
「ホテルは?」
「ん? まだ見つけてない! 急に思いついたからとりあえず飛行機だけ取ってきちゃったんだ」
眼下の景色を楽しみながら無邪気に笑う春人に嬉しさが込み上げる。
「そうだったのか。ありがとう」
「えへへ。アルが喜んでる。それにしても本当に高いね」
「さっきまでもっと高いところにいただろ」
「飛行機は、別なの!」
「この後はどうする?」
「もう少し東京観光して、晩御飯食べて、僕はホテル探すよ! 明日の15時の便で帰るから、アルの近くに泊まれば明日も少しは一緒にいられるかな?」
「居られるよ。それに空港まで見送りに行こう」
「えっ? 大丈夫だよ!」
「行かせてくれ。君だって私がイギリスに帰るときは必ず来てくれただろ?」
「今回は逆だね!」
「そうだな」
最後の方は景色をバックにただ二人で会話をしているだけになってしまった。
その後は東京タワーをあとにして東京観光をし、再び千葉に戻る。
晩御飯を食べようとどこか食事処を探す。色々さがしたが、結局無難に居酒屋になってしまった。
「何食べよっかなぁ……アルは何がいい? 飲む?」
「少し仕事が残っているから遠慮しておくよ。」
「じゃ、僕もやめとこ!」
「気にしないで飲みなさい」
「えー! でもぉ!」
「いいから」
「じゃ……」と、アルコールのメニューを見ている春人をアルバートはジッと見つめる。
(もし酔えば、彼は昔の話をしてくれるだろうか……)
さっきの部屋で、春人がアルバートにとって尊敬と嫉妬が入り混じる人物の名前を呟いているのを聞いてしまった。
(春人にも思うところがあったからあの部屋にいたのだろう)
本社へ連れて行ったことを軽く後悔するアルバートだったが、今が聞き時なのかもしれないと腹を括った。
「すみませーん! ……これと、これと——」
店員が去ったあと、メニュー表を春人が脇に寄せたところで重い口を開く。
「聞きたいことがあるのだが」
「なに?」
次に言われる質問が何かを知らない春人はニコニコと笑っている。
「君の過去を聞きたい。今までの恋愛や、もちろん村崎さんのことも。出会ったのはいつ頃なのだ?」
いつ頃出会ったか知っているのに彼の口から全てを聞きたくて尋ねる。
「えっ、えっと……ていうか、せっかくの誕生日なのにそんな話、嫌じゃない?」
「祝おうとしてくれている気持ちはとても嬉しい。しかしこのままだといつまでも聞けない気がするのだ」
「でも……」
「では、自分から言うのもなんだが、誕生日プレゼントとして君と村崎さんのことを聞くというのはどうかな?」
「プレゼントは福岡にある! さすがに今渡すと荷物になるかなと思って持ってきてないんだ」
手段が一つ消えてしまう。
「春人、教えてくれないか」
「……」
「そんなに言えない事が過去にあったのだろうか?」
「そうじゃないけど……」
春人が黙り込んでいる間に、頼んだものが運ばれてくる。
その後も黙り込む春人はビールを一気飲みしてしまい、ようやく濡れた唇を開いた。
「前にも言ったけど、僕は女性との経験はゼロだよ。でもゲイってわけじゃない。ちゃんと女性を好きになった。ただ発展しなかっただけで」
「では男性を好きになったのは……」
「村崎部長が初めて」
春人があからさまに目を逸らし、アルバートは胸が苦しくなる。自分自身も春人が初めての相手ではないのに、嫉妬するのはお門違いかもしれないが、それでもやはり我儘な心がそうさせてしまう。
「アルって研修なかったよね?」
「それどころか入社試験もなかったよ」
「ヘッドハンティングだもんね。うちは新人には必ず半年間の研修があるんだ。これも言ったけど、その時、本社で僕と村崎部長は出会って……好きになって……告白して……」
春人の瞳がどんどん陰る。
「振られたのか?」
「いや、逃げた」
「逃げた?」
「勉強を教えて貰っていた部屋で告白して、アルの言った通り振られて、そして逃げたの!」
最後はやけくそになり早口で言い終え、ビールのお代わりを頼んでいた。
「今日、君がいた部屋はもしかして」
「……あそこで告白したんだ。あっ、ありがとうございます」
注文したビールはすぐに来た。すぐに半分ほど一気に飲み干す。
そしてまた話し始める。
「研修で希望の支社を選べて、迷わず門司支社を選んだの。部署は選べなかったけど、あの時の僕にはありがたい事にインテリア事業部に配属になった」
そこからは毎日アタックをして砕けて、また頑張るという毎日だった。
「そんな時、アルバートが研修に来た」
「当初は見向きもされていなかったよ」
「だって村崎部長が好きだったんだから。その後は知っての通りです赤澤部長に呼び出されて、ショックで飲み会で体調悪くして、アルバートの家に泊まったんだ。」
二人のスタート地点にようやく足が着いた。
アルバートは眉間にシワを寄せて春人を見ている。それが何を意味しているのか考えようにも一気にアルコールを入れてしまった春人の頭では考えることが出来ない。なのにまたお酒を追加してしまった。
「春人、もう飲むのはやめた方がいいのでは? 顔色が良くない」
「やだ、飲む」
アルバートの静止を無視してまるでやけを起こしたように春人はお酒を追加していく。春人が深く酔うと体調が悪くなるのを知っている為、アルバートは必死に止めたが、本人は首を横に振り、とうとう……
——ゴツンッ!!
いきなり前にガクンと倒れて額をテーブルに打ち付けた。そのまま動かなくなる。
「春人!」
慌てて横に行き、耳を近づけると寝息を立ていた。
アルコールのせいもあるだろうが、福岡からの移動や観光の疲れ、久しぶりに思い出した気持ちや昔の話を終えて電池が切れたのだろう。
(すまない。私の我儘のせいで)
店員を呼びお勘定をお願いする。その間にアルバートは泊まっているホテルに電話をかけ、空室がないかの確認をした。特に繁盛期でもなかった為、空室があった。
そして店員に手伝ってもらい、春人をおんぶする。
「あの時と同じだな……」
あの日はこのまま春人を自分の家へと連れて帰った。奇しくも、過去の思い出が色々と重なってしまった二人。アルバートは心の中で春人に謝り、春人は大きな背中の上で寝息を立てていた。
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