アルラウネの防人

来星馬玲

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SCENE2 母への憧憬

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 その男の名を、ロカと言った。今でこそ咎人の汚名を背負っている身分であるが、かつては上流階級を名乗るにたる爵位と領地を持つ家の跡取り息子であった。

 少年だった頃のロカは、内向的な性格であり、話し相手と言えば、余所余所しい態度の使用人や、専属の教育係に限られる。大抵の日は、屋敷の外に出ている父親との交流もほとんど無い。
 
 ロカのこういった性格は、彼が幼くして母親と死別していたことに起因している。実際の所、父親の妻子に対する愛情は希薄で、息子を溺愛していた妻を失ってからは育児教育の全てを使用人に任せ、自身は息子と距離をおくようになっていた。

 午前中から始まる、貴族主義の教えに従事する教育係による授業は、ロカの日課であった。授業は日が暮れる前には終わり、その後の自由時間は認められていたが、不要とされる外出は禁じられている。

 来る日も来る日も、自室の窓から沈みゆく斜陽を眺めている少年の姿。少年の脳裡では時折、抑圧されている願望が首をもたげる瞬間が訪れる機会も度々あったが、それは空虚な精神の中に埋没し消えていく程度のものでしかない。

 ロカは自分の父が大嫌いだった。母に対して冷たかった父への嫌悪感を幼少の頃より抱いていた。病気で弱っていた母が亡くなるよりもずっと前から、軽薄な父が出先で多くの愛人を作っていたという事実を、屋敷の使用人の会話を盗み聞きして知ったことも、父への不快感を一層強めた要因だった。

 しかし、相手を憎悪したり激しい怒りを覚えるには、この少年の心はあまりにも貧弱過ぎた。ロカは父に隷従するしか出来なかった亡き母の姿を目の当たりにしていた結果、父に逆らってはならないという母の立場が、その幼い心にそっくり擦りこまれてしまったようだ。

 夕刻。その日も一人、自室で過ごしていたロカは、遠くに連なる田園の向こう、トゥーガロ山に落ち行く斜陽をぼんやりと眺めている。窓越しに映る赤焼けの情景を独り占めにしている間だけ、ロカはある種の優越感を浸っていた。

 こつこつ……と、扉を叩く音が響く。己の孤独に踏み入る無粋な者へ、ロカは関心を示さない。ただ、沈黙したまま、朱に染まった雲の影を目で追うのみだった。

 繰り返し、こつこつこつ……と、扉が叩かれる。流石に煩わしいものを感じたロカは座椅子から立ち上がり、扉の方を睨んだ。無垢な少年――と呼ぶには、あまりにも濁りのある瞳が相応しくない。幾つかの感情が欠落した、無神経で身勝手な少年と呼ぶ方が的を射ていた。

 一定の間を置いて、また、扉がノックされる。確かに、高貴な者の部屋を使用人が訪れる際は、相手の許可を得るまでは決して声を出さず、内部へ踏み入ってはならないというのがこの国の常識ではあったが、それを頑なに、馬鹿正直に守る者の存在は異質だ。屋敷内の使用人の誰もが、ロカの性格をよく知っているはずであったから。

 何時しか、ロカの視線は扉へ釘付けになっていた。この扉の向こう側にいる者は、ロカがよく知っている日常の外から舞い込んできたようだ。相変わらず、ロカの目つきは他者への無関心さを現わしていたが、多少なりとも変化が生じていた。

 突然、扉が開かれた。面食らったロカは、僅かに肩で震わせたが、その表情にはほとんど変化が無い。それでも、無骨な侵入者へ向けられた視線には訝し気な感情がこもっていた。

 給仕服を身に着けた長身の女の姿。身体の輪郭は大人びた印象ではあったが、顔つきはその人物の少女性を色濃く反映しており、丁寧に編み込まれた赤毛のおさげ髪が背中の辺りで揺れていた。

「あの……お夕食をお持ちしました」

 女はおどおどとした様子で、ロカに声をかける。両手で持った盆の上には魚と数種類の果実を練り込んだパイ生地と、肉と野菜を煮込んだスープ、スパイスの入った小瓶が乗せてあった。

 ロカは相変わらず黙っていた。女は次にどう行動するべきかを逡巡しているらしい。だが、このまま動かずにいれば、温めたスープも冷めてしまうだろう。女は「失礼致します」と言いながら頭を垂れると、ロカの反応を待たずしてその隣に歩み寄り、卓の上に夕食を並べていく。

「…………」

 女の横顔。ロカは目を見開き、見入っている。近くで見ると、小麦色の肌に薄い斑点が幾つか浮いているのが目立った。化粧に覆われていない、自然なそばかすだった。

 ロカの様子を不審に思ったのか、女は己を見つめるロカに視線を合わせた。ロカは気まずくなったのか、そっぽを向いてしまう。

「どこか、お具合が……すぐれないのでしょうか?」

 女の口をついてでた問い。いつものロカならば、不愛想な態度で無視していたことであろうが、ロカは一言「何でもない」とだけ答えた。

 その後、女は当たり障りのないの言葉を一言二言残して、一室から退出すると、扉を慎重に閉めた。明らかに、慣れない仕事をやらされている新米の使用人といった印象だ。

 女が立ち去った後も、ロカはまたぼんやりと窓から見える外景を眺めていた。食事には一切手を付けていない。

 だが、ロカの脳裡では、先ほどの女の横顔が焼き付いて離れない。初めて見る人物であったが、ある既視感が少年の意識下に芽生え始めていた。

(こっちを見なさい、ロカ)

 優しく諭すような呼び声。幼い男の子はうつ向いていた顔を上げ、その女性の温和な表情を見つめる。

(里の人たちが丹精込めて作ったのよ。あの人たちの苦労の上に私たちの命が成り立っている。だから、その人たちに感謝しなければいけません。それも統治者として、必要な心……)

 女性が諫めているのは、その子供が食事を嫌って手をつけていないからだった。昨今、食を娯楽として興じている貴族たちの生活の中に置いて、この女性の考え方の方がある種異質ではある。それでも、彼女の言葉は、彼に対して最も意義のあるものだった。

 少年は形式張った神への祈りを捧げると、パイ生地を銀のフォークで口に運び、頬張った。この年の不作を思えばそれは極めて豪勢な料理と言えたが、少年の味覚が感動を噛み締めることはない。

 しかし、少年の心中では、ある追い求めていたものを得た喜びに打ち震える感情が広がりつつあった。はっきりと自覚していたわけではないが、胸の鼓動が高鳴るのを感じている。

 その女性は化粧を嫌っていた。煌びやかで贅沢な装飾を施した衣装で着飾るといったことに対しても苦手意識を持っており、自然体でいるのを好んだ。無論、人前では、背負っている家の重荷と血筋を守らなければならない立場であることは十分に理解しており、慎ましく振舞っていた。

 ただ――少年の記憶に刻み込まれた彼女は、素朴でいて奔放な振る舞いを見せながらも、仕来たりではなく人としてあるべき教えを説く聡明な人物。何より、貴族らしからぬそばかすを隠すこともなく陽の光を浴び、黄金色に輝いていた肌の温もりが何よりも愛おしく、今もなお尊い姿。

「お母さん……」

 ロカはそう呟くと、手にしたスプーンでスープを掬い、口に含んだ。スープは既に冷たくなっていたが、ロカの心臓の鼓動は高鳴り、脈が熱くなっていた。
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