2 / 3
芙蓉の庭
しおりを挟む
カコーンと、竹筒が石を叩く音が静寂を割る。
朱色の座布団に腰を下ろし、卓と向かい合った姿勢のまま腕を組んでいた熙彦は、開け放された戸の向こうの縁側へ、ちらりと視線を移した。微かな風の揺らぎが、白い芙蓉の花をさわさわと揺らしている様子が、彼の細められた目に映る。
カコーン。また、響いた。
近隣では車両が通過することはあまりなく、芙蓉の咲き誇る大きな庭は物静かで、鹿威しの音色と、池の畔に生えているカエデの樹に、最近巣を作った鳥のさえずりが、熙彦の鑑賞しているちょっとした憩いの曲であった。
熙彦は肩の力を抜き、外の様子を眺めている。暫しの間、意識を悠久のサイクルの中へ埋没させた。何らかのインスピレーションを得るには到底至らなかったが、心身のリラックスにはなったかもしれない。
(さて……と)
卓の上へ、視線を戻す。そこには白い水彩用紙が置かれており、薄い鉛筆で引かれた線が重なりあっていた。どうやら、山の風景と麓の一軒家を作画したものであるらしい。下描きとしては大分筆が進んでいるが、全体的な形には迷いが見受けられた。
じーっと、描きかけの絵を睨むように見つめる熙彦。その風景画は何かを見ながらデッサンをしたという類ではなく、熙彦にとってのある種の心象風景であった。
鉛筆を手に取るも、新たな黒線を引くこともなく、虚しく中空を彷徨わせる。熙彦は先程からこういった動作を繰り返しており、この日はほとんど進展がなかった。
押し黙ったまま迷いの中で過ごしている間も、柱時計の針は留まることなくこの世の変化の過程を告げていく。真新しい時計は時の刻みを音では示さなかったが、熙彦は、それがかえって不気味な曲線を描いている気がした。
キシ……キシ……と、床材の軋む音。熙彦は軽い安堵のため息をつくと、退屈なにらめっこを中断した。
「旦那さま。お茶をお持ち致しましたよ」
急須と湯飲みを乗せたお盆を持った、一人の若い女性が、熙彦の座っている部屋に入ってきた。
「ああ、ありがとう」
そう言う熙彦の表情は、幾分ほころんでいた。
女性は熙彦のすぐ隣で静かにしゃがむと、湯飲みを卓の上に置き、茶を注いでいく。
女性は薄桃色の着物の上に白色のエプロンドレスを羽織っている。着物は簡素な素材で作られていたが、一部に描かれた芙蓉の花の模様が彼女のお洒落な一面を物語ってもいた。
簡潔に述べるなら、和風のメイドといった出で立ち。実際、彼女はこの屋敷の使用人として住み込みで働いている身分でもあった。
「おや、昨日拝見した時から、お変わりないようですねぇ」
女性がにこにこと笑みを浮かべる。熙彦は背中をくすぐられたようなこそばゆい気持ちになった。
「まだ見ないでよ。よみちゃん」
両手で覆うようにして、描きかけの絵を隠す熙彦。よみちゃんと呼ばれた女性はくすくすっと声をもらした。
(はあ……参ったなぁ)
熙彦はそう心の中で呟くも、不思議と悪い気はしない。それほど、その女性は熙彦にとって親しい人物でもあった。
「すみませんねぇ、旦那さま」
この「旦那さま」という呼称も、少しくだけた印象がある。熙彦にとっても、余り年の離れていない美人の女性から敬称で呼ばれるのは、当初はドキリとさせられたものであった。だが、今では熙彦自身が幼かった頃から慕っていた彼女と変わらないことを熟知するに至っていた。
「……でも、最近は、いつも風景を描いていらっしゃいますね」
女性が、静かに茶をすする熙彦の傍で呟いた。
「あ、まあ……うん」
熙彦は要領の得ない返答で返すと、飲み終わった湯飲みを卓の上に戻す。
そう。少し前までの熙彦は、肖像画ばかりを描いていた。それも、熙彦にとっての憧れの存在でもあり続けていた女性の姿――。
「……芙蓉の花が綺麗ですね」
「え?」
庭に咲き誇っている芙蓉の花。熙彦にはすっかり見慣れた情景であったが、その花々を背景にして、微笑する彼女の全身がくっきりとした像になった時、遠い記憶の中の光景が蘇る。
青味がかった薄昏い世界に浮かび上がる、黄金色の輪郭。黄昏の風圧にさらされる産毛のふわふわした質感。沈みゆく日の光と共に縮んでいく芙蓉の花。
ピンポーン。唐突なチャイム音によって遮られ、現実に引き戻された。一瞬、熙彦は慌てた様子で視線を彷徨わせたが、女性と正面から目が合い、少し照れくさそうに下を向いてしまう。
「どなたか、お客様がいらっしゃったようですね。……出迎えに参ります」
女性は盆をその場に残したまま、足早に部屋を出て、玄関に向かった。
(客? ……こんな時間に?)
誰かがドアのチャイムを鳴らしたのであるが、まだ正午前のこの時間帯に人が来るのは珍しい話であった。何かの配達員だろうかとは思ったが、心当たりはない。
客の応対を彼女に任せた熙彦は、ぼんやりとした様子で空になった湯飲みを見つめ、続けて、描きかけの紙に視線を戻す。
熙彦の導く答えを待ち続けている風景の下描きの中では、今もなお、記憶の中の風にさらされた未完成の家が、静かに佇んでいた。
朱色の座布団に腰を下ろし、卓と向かい合った姿勢のまま腕を組んでいた熙彦は、開け放された戸の向こうの縁側へ、ちらりと視線を移した。微かな風の揺らぎが、白い芙蓉の花をさわさわと揺らしている様子が、彼の細められた目に映る。
カコーン。また、響いた。
近隣では車両が通過することはあまりなく、芙蓉の咲き誇る大きな庭は物静かで、鹿威しの音色と、池の畔に生えているカエデの樹に、最近巣を作った鳥のさえずりが、熙彦の鑑賞しているちょっとした憩いの曲であった。
熙彦は肩の力を抜き、外の様子を眺めている。暫しの間、意識を悠久のサイクルの中へ埋没させた。何らかのインスピレーションを得るには到底至らなかったが、心身のリラックスにはなったかもしれない。
(さて……と)
卓の上へ、視線を戻す。そこには白い水彩用紙が置かれており、薄い鉛筆で引かれた線が重なりあっていた。どうやら、山の風景と麓の一軒家を作画したものであるらしい。下描きとしては大分筆が進んでいるが、全体的な形には迷いが見受けられた。
じーっと、描きかけの絵を睨むように見つめる熙彦。その風景画は何かを見ながらデッサンをしたという類ではなく、熙彦にとってのある種の心象風景であった。
鉛筆を手に取るも、新たな黒線を引くこともなく、虚しく中空を彷徨わせる。熙彦は先程からこういった動作を繰り返しており、この日はほとんど進展がなかった。
押し黙ったまま迷いの中で過ごしている間も、柱時計の針は留まることなくこの世の変化の過程を告げていく。真新しい時計は時の刻みを音では示さなかったが、熙彦は、それがかえって不気味な曲線を描いている気がした。
キシ……キシ……と、床材の軋む音。熙彦は軽い安堵のため息をつくと、退屈なにらめっこを中断した。
「旦那さま。お茶をお持ち致しましたよ」
急須と湯飲みを乗せたお盆を持った、一人の若い女性が、熙彦の座っている部屋に入ってきた。
「ああ、ありがとう」
そう言う熙彦の表情は、幾分ほころんでいた。
女性は熙彦のすぐ隣で静かにしゃがむと、湯飲みを卓の上に置き、茶を注いでいく。
女性は薄桃色の着物の上に白色のエプロンドレスを羽織っている。着物は簡素な素材で作られていたが、一部に描かれた芙蓉の花の模様が彼女のお洒落な一面を物語ってもいた。
簡潔に述べるなら、和風のメイドといった出で立ち。実際、彼女はこの屋敷の使用人として住み込みで働いている身分でもあった。
「おや、昨日拝見した時から、お変わりないようですねぇ」
女性がにこにこと笑みを浮かべる。熙彦は背中をくすぐられたようなこそばゆい気持ちになった。
「まだ見ないでよ。よみちゃん」
両手で覆うようにして、描きかけの絵を隠す熙彦。よみちゃんと呼ばれた女性はくすくすっと声をもらした。
(はあ……参ったなぁ)
熙彦はそう心の中で呟くも、不思議と悪い気はしない。それほど、その女性は熙彦にとって親しい人物でもあった。
「すみませんねぇ、旦那さま」
この「旦那さま」という呼称も、少しくだけた印象がある。熙彦にとっても、余り年の離れていない美人の女性から敬称で呼ばれるのは、当初はドキリとさせられたものであった。だが、今では熙彦自身が幼かった頃から慕っていた彼女と変わらないことを熟知するに至っていた。
「……でも、最近は、いつも風景を描いていらっしゃいますね」
女性が、静かに茶をすする熙彦の傍で呟いた。
「あ、まあ……うん」
熙彦は要領の得ない返答で返すと、飲み終わった湯飲みを卓の上に戻す。
そう。少し前までの熙彦は、肖像画ばかりを描いていた。それも、熙彦にとっての憧れの存在でもあり続けていた女性の姿――。
「……芙蓉の花が綺麗ですね」
「え?」
庭に咲き誇っている芙蓉の花。熙彦にはすっかり見慣れた情景であったが、その花々を背景にして、微笑する彼女の全身がくっきりとした像になった時、遠い記憶の中の光景が蘇る。
青味がかった薄昏い世界に浮かび上がる、黄金色の輪郭。黄昏の風圧にさらされる産毛のふわふわした質感。沈みゆく日の光と共に縮んでいく芙蓉の花。
ピンポーン。唐突なチャイム音によって遮られ、現実に引き戻された。一瞬、熙彦は慌てた様子で視線を彷徨わせたが、女性と正面から目が合い、少し照れくさそうに下を向いてしまう。
「どなたか、お客様がいらっしゃったようですね。……出迎えに参ります」
女性は盆をその場に残したまま、足早に部屋を出て、玄関に向かった。
(客? ……こんな時間に?)
誰かがドアのチャイムを鳴らしたのであるが、まだ正午前のこの時間帯に人が来るのは珍しい話であった。何かの配達員だろうかとは思ったが、心当たりはない。
客の応対を彼女に任せた熙彦は、ぼんやりとした様子で空になった湯飲みを見つめ、続けて、描きかけの紙に視線を戻す。
熙彦の導く答えを待ち続けている風景の下描きの中では、今もなお、記憶の中の風にさらされた未完成の家が、静かに佇んでいた。
0
あなたにおすすめの小説
百合ランジェリーカフェにようこそ!
楠富 つかさ
青春
主人公、下条藍はバイトを探すちょっと胸が大きい普通の女子大生。ある日、同じサークルの先輩からバイト先を紹介してもらうのだが、そこは男子禁制のカフェ併設ランジェリーショップで!?
ちょっとハレンチなお仕事カフェライフ、始まります!!
※この物語はフィクションであり実在の人物・団体・法律とは一切関係ありません。
表紙画像はAIイラストです。下着が生成できないのでビキニで代用しています。
JKメイドはご主人様のオモチャ 命令ひとつで脱がされて、触られて、好きにされて――
のぞみ
恋愛
「今日から、お前は俺のメイドだ。ベッドの上でもな」
高校二年生の蒼井ひなたは、借金に追われた家族の代わりに、ある大富豪の家で住み込みメイドとして働くことに。
そこは、まるでおとぎ話に出てきそうな大きな洋館。
でも、そこで待っていたのは、同じ高校に通うちょっと有名な男の子――完璧だけど性格が超ドSな御曹司、天城 蓮だった。
昼間は生徒会長、夜は…ご主人様?
しかも、彼の命令はちょっと普通じゃない。
「掃除だけじゃダメだろ? ご主人様の癒しも、メイドの大事な仕事だろ?」
手を握られるたび、耳元で囁かれるたび、心臓がバクバクする。
なのに、ひなたの体はどんどん反応してしまって…。
怒ったり照れたりしながらも、次第に蓮に惹かれていくひなた。
だけど、彼にはまだ知られていない秘密があって――
「…ほんとは、ずっと前から、私…」
ただのメイドなんかじゃ終わりたくない。
恋と欲望が交差する、ちょっぴり危険な主従ラブストーリー。
せんせいとおばさん
悠生ゆう
恋愛
創作百合
樹梨は小学校の教師をしている。今年になりはじめてクラス担任を持つことになった。毎日張り詰めている中、クラスの児童の流里が怪我をした。母親に連絡をしたところ、引き取りに現れたのは流里の叔母のすみ枝だった。樹梨は、飄々としたすみ枝に惹かれていく。
※学校の先生のお仕事の実情は知りませんので、間違っている部分がっあたらすみません。
あるフィギュアスケーターの性事情
蔵屋
恋愛
この小説はフィクションです。
しかし、そのようなことが現実にあったかもしれません。
何故ならどんな人間も、悪魔や邪神や悪神に憑依された偽善者なのですから。
この物語は浅岡結衣(16才)とそのコーチ(25才)の恋の物語。
そのコーチの名前は高木文哉(25才)という。
この物語はフィクションです。
実在の人物、団体等とは、一切関係がありません。
ママはヤンママ女子高生! ラン&ジュリー!!
オズ研究所《横須賀ストーリー紅白へ》
キャラ文芸
神崎ランの父親の再婚相手は幼馴染みで女子高生の高原ジュリーだった。
ジュリーは金髪美少女だが、地元では『ワイルドビーナス』の異名を取る有名なヤンキーだった。
学校ではジュリーは、ランを使いっ走りにしていた。
当然のようにアゴで使われたが、ジュリーは十八歳になったら結婚する事を告白した。
同級生のジュリーが結婚するなんて信じられない。
ランは密かにジュリーの事を憧れていたので、失恋した気分だ。
そう言えば、昨夜、ランの父親も再婚すると言っていた。
まさかとは思ったが、ランはジュリーに結婚相手を聞くと、ランの父親だと判明した。
その夜、改めて父親とジュリーのふたりは結婚すると報告された。
こうしてジュリーとの同居が決まった。
煙草屋さんと小説家
男鹿七海
キャラ文芸
※プラトニックな関係のBL要素を含む日常ものです。
商店街の片隅にある小さな煙草屋を営む霧弥。日々の暮らしは静かで穏やかだが、幼馴染であり売れっ子作家の龍二が店を訪れるたびに、心の奥はざわめく。幼馴染としてでも、客としてでもない――その存在は、言葉にできないほど特別だ。
ある日、龍二の周囲に仕事仲間の女性が現れ、霧弥は初めて嫉妬を自覚する。自分の感情を否定しようとしても、触れた手の温もりや視線の距離が、心を正直にさせる。日常の中で少しずつ近づく二人の距離は、言葉ではなく、ささやかな仕草や沈黙に宿る。
そして夜――霧弥の小さな煙草屋で、龍二は初めて自分の想いを口にし、霧弥は返事として告白する。互いの手の温もりと目の奥の真剣さが、これまで言葉にできなかった気持ちを伝える瞬間。静かな日常の向こうに、確かな愛が芽吹く。
小さな煙草屋に灯る、柔らかく温かな恋の物語。
どうしよう私、弟にお腹を大きくさせられちゃった!~弟大好きお姉ちゃんの秘密の悩み~
さいとう みさき
恋愛
「ま、まさか!?」
あたし三鷹優美(みたかゆうみ)高校一年生。
弟の晴仁(はると)が大好きな普通のお姉ちゃん。
弟とは凄く仲が良いの!
それはそれはものすごく‥‥‥
「あん、晴仁いきなりそんなのお口に入らないよぉ~♡」
そんな関係のあたしたち。
でもある日トイレであたしはアレが来そうなのになかなか来ないのも気にもせずスカートのファスナーを上げると‥‥‥
「うそっ! お腹が出て来てる!?」
お姉ちゃんの秘密の悩みです。
俺様上司に今宵も激しく求められる。
美凪ましろ
恋愛
鉄面皮。無表情。一ミリも笑わない男。
蒔田一臣、あたしのひとつうえの上司。
ことあるごとに厳しくあたしを指導する、目の上のたんこぶみたいな男――だったはずが。
「おまえの顔、えっろい」
神様仏様どうしてあたしはこの男に今宵も激しく愛しこまれているのでしょう。
――2000年代初頭、IT系企業で懸命に働く新卒女子×厳しめの俺様男子との恋物語。
ユーザ登録のメリット
- 毎日¥0対象作品が毎日1話無料!
- お気に入り登録で最新話を見逃さない!
- しおり機能で小説の続きが読みやすい!
1~3分で完了!
無料でユーザ登録する
すでにユーザの方はログイン
閉じる