冥土神楽

来星馬玲

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旦那様がお描きになるのは、あの記憶の光景でございましょう

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 カコーンと、竹筒が石を叩く音が静寂を割る。

 朱色の座布団に腰を下ろし、卓と向かい合った姿勢のまま腕を組んでいたてるひこは、開け放された戸の向こうの縁側へ、ちらりと視線を移した。微かな風の揺らぎが、白い芙蓉の花をさわさわと揺らしている様子が、彼の細められた目に映る。

 カコーン。また、響いた。

 近隣では車両が通過することはあまりなく、芙蓉の咲き誇る大きな庭は物静かで、鹿威しの音色と、池の畔に生えているカエデの樹に、最近巣を作った鳥のさえずりが、熙彦の鑑賞しているちょっとした憩いの曲であった。

 熙彦は肩の力を抜き、外の様子を眺めている。暫しの間、意識を悠久のサイクルの中へ埋没させた。何らかのインスピレーションを得るには到底至らなかったが、心身のリラックスにはなったかもしれない。

(さて……と)

 卓の上へ、視線を戻す。そこには白い水彩用紙が置かれており、薄い鉛筆で引かれた線が重なりあっていた。どうやら、山の風景と麓の一軒家を作画したものであるらしい。下描きとしては大分筆が進んでいるが、全体的な形には迷いが見受けられた。

 じーっと、描きかけの絵を睨むように見つめる熙彦。その風景画は何かを見ながらデッサンをしたという類ではなく、熙彦にとってのある種の心象風景であった。

 鉛筆を手に取るも、新たな黒線を引くこともなく、虚しく中空を彷徨わせる。熙彦は先程からこういった動作を繰り返しており、この日はほとんど進展がなかった。

 押し黙ったまま迷いの中で過ごしている間も、柱時計の針は留まることなくこの世の変化の過程を告げていく。真新しい時計は時の刻みを音では示さなかったが、熙彦は、それがかえって不気味な曲線を描いている気がした。

 キシ……キシ……と、床材の軋む音。熙彦は軽い安堵のため息をつくと、退屈なにらめっこを中断した。

「旦那さま。お茶をお持ち致しましたよ」

 急須と湯飲みを乗せたお盆を持った、一人の若い女性が、熙彦の座っている部屋に入ってきた。

「ああ、ありがとう」

 そう言う熙彦の表情は、幾分ほころんでいた。

 女性は熙彦のすぐ隣で静かにしゃがむと、湯飲みを卓の上に置き、茶を注いでいく。

 女性は薄桃色の着物の上に白色のエプロンドレスを羽織っている。着物は簡素な素材で作られていたが、一部に描かれた芙蓉の花の模様が彼女のお洒落な一面を物語ってもいた。

 簡潔に述べるなら、和風のメイドといった出で立ち。実際、彼女はこの屋敷の使用人として住み込みで働いている身分でもあった。

「おや、昨日拝見した時から、お変わりないようですねぇ」

 女性がにこにこと笑みを浮かべる。熙彦は背中をくすぐられたようなこそばゆい気持ちになった。

「まだ見ないでよ。よみちゃん」

 両手で覆うようにして、描きかけの絵を隠す熙彦。よみちゃんと呼ばれた女性はくすくすっと声をもらした。

(はあ……参ったなぁ)

 熙彦はそう心の中で呟くも、不思議と悪い気はしない。それほど、その女性は熙彦にとって親しい人物でもあった。

「すみませんねぇ、旦那さま」

 この「旦那さま」という呼称も、少しくだけた印象がある。熙彦にとっても、余り年の離れていない美人の女性から敬称で呼ばれるのは、当初はドキリとさせられたものであった。だが、今では熙彦自身が幼かった頃から慕っていた彼女と変わらないことを熟知するに至っていた。

「……でも、最近は、いつも風景を描いていらっしゃいますね」

 女性が、静かに茶をすする熙彦の傍で呟いた。

「あ、まあ……うん」

 熙彦は要領の得ない返答で返すと、飲み終わった湯飲みを卓の上に戻す。

 そう。少し前までの熙彦は、肖像画ばかりを描いていた。それも、熙彦にとっての憧れの存在でもあり続けていた女性の姿――。

「……芙蓉の花が綺麗ですね」

「え?」

 庭に咲き誇っている芙蓉の花。熙彦にはすっかり見慣れた情景であったが、その花々を背景にして、微笑する彼女の全身がくっきりとした像になった時、遠い記憶の中の光景が蘇る。

 青味がかった薄昏い世界に浮かび上がる、黄金色の輪郭。黄昏の風圧にさらされる産毛のふわふわした質感。沈みゆく日の光と共に縮んでいく芙蓉の花。

 ピンポーン。唐突なチャイム音によって遮られ、現実に引き戻された。一瞬、熙彦は慌てた様子で視線を彷徨わせたが、女性と正面から目が合い、少し照れくさそうに下を向いてしまう。

「どなたか、お客様がいらっしゃったようですね。……出迎えに参ります」

 女性は盆をその場に残したまま、足早に部屋を出て、玄関に向かった。

(客? ……こんな時間に?)

 誰かがドアのチャイムを鳴らしたのであるが、まだ正午前のこの時間帯に人が来るのは珍しい話であった。何かの配達員だろうかとは思ったが、心当たりはない。

 客の応対を彼女に任せた熙彦は、ぼんやりとした様子で空になった湯飲みを見つめ、続けて、描きかけの紙に視線を戻す。
 
 熙彦の導く答えを待ち続けている風景の下描きの中では、今もなお、記憶の中の風にさらされた未完成の家が、静かに佇んでいた。
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