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鬼峰家の血筋
地底の骸
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地上の光から隔離された深い闇の淵。その漆黒の暗闇をものともせずに鍾乳洞の合間を歩む凛冴の姿があった。
凛冴は岩窟に意識を飛ばし、反射させることで周囲の構造を事細かに分析し、獣のような身のこなしで進んでいく。さながら、視力の代わりに超音波を行使して地形を理解するコウモリにも似た能力と言えた。
凛冴の動きに躊躇いはないが、一歩足を踏み外せば奈落の底へ墜落し、地上へ帰るすべを失う危険性もあった。それ故、慎重を期する重要性を肝に銘じてはいたが、契の命運に酷く不吉なものが迫っていたことを直感的に悟っている凛冴は、危険を承知のうえで先を急がねばならなかったのである。
ふと、凛冴は歩みを止める。何らかの手掛かりの存在を感じたためである。それは、この地底にはあまりにも不釣り合いな気の流れであり、生きた人間によって発せられるものである可能性が高い。
凛冴は前方に穿たれた複数の空洞の中から、進むべき道を模索する。やがて、契のものと思しき気配を察知し、闇の中で誰にも視認されるものではなかったが、凛冴の表情に微かな変化が生じていた。
(こっち……)
迷いのない動きで、狭き通路をくぐる凛冴。凛冴の気配を察知した数匹のコウモリが、この暗き静寂を侵す者の動向を訝し気に観察していた。
一気に広がる開放感。これまでの道なりとは打って変わり、だだっ広い空間が広がっていた。その広さには何らかの意図的な造形が確認できるが、当然ながら明かりの類は存在せず、足場は人が歩くには不向きだ。
足元にはごつごつした岩肌の他に、何やら細長い棒状の物体が無数に散乱していた。凛冴は気を巡らし、それらの正体を見極める。
(これは……)
凛冴の背筋に冷たいものが奔る。
(人間の骨。それも無数の……)
凛冴は豊かな感受性で以て鬼気迫るものを敏感に感じ取っている。
視界が闇に覆われていることがかえって幸いと思えるほどの地獄絵図が、一面に広がっている――その事実に、凛冴とてゾッとするものがあった。
さしもの凛冴も、死者の気配というものは感じ取れない。残留思念であれば把握できたかもしれないが、周囲に散らばる白骨死体は亡くなってから大分年月が過ぎており、到底凛冴の手におえる程度のものではない。
それでも、凛冴は一つの気の流れをはっきりと感じ取っていた。この亡者の巣窟の中に置いて、生きた人間の存在が間近で息づいている。
(いた)
一人の生者……契の気を捕らえた。凛冴は急いでそちらへ近づく。
その刹那。凛冴を取り囲むようにして、数多の怨念の如き怪異が現出した。
(魍魎)
凛冴はさっと態勢を整え、身構える。敵意を向けてくる魍魎との遭遇は、ここへ来ると決めた時点で覚悟していた。
凛冴は己の感情の奥底から沸き起こってくる昂ぶりを感じたが、あくまで冷静に、敵対する者の勢力を見極める。魍魎は不完全な状態で実体化しているため、その数を完全に特定しようとするのは無理であったが、特に注意を要する熱量の集合体は三つほど確認できた。
(……来る)
一斉に襲い掛かってくる、太い触腕。視力が役に立たない状況でありながら、凛冴は敵との距離を把握したうえでその挙動を察知し、紙一重のところで相手の攻撃をかわした。
敵の攻撃は極めて物理的なものだった。実体化した触腕を振り回し、凛冴に狙いを定め、叩きつける。肉体へ損傷を与えることを目的とした攻撃は単純だが、生身の凛冴にとっては一瞬も気を抜けない脅威だ。
人の手の加えられた平たい石肌が広がっていたが、それでも、鍾乳洞の中であるここの足場は些か不安定である。長期戦になれば体力を消耗し、注意力も散漫になる恐れもあった。
凛冴は懐から、一つの守袋を取り出した。大きさは手のひらに収まるほどのもので、紫色の布で編まれている。凛冴はこれを強く握りしめた。
青白い閃光が激しく迸り、人間を呑み込めるほどの巨大な蛇のようにうねる。強烈な発光によって、周囲の構造が肉眼で見渡せるほどに鮮明に映し出された。
【ギギギィ……】
硬い物をこすり合わせるような奇声が木霊する。凛冴の周囲を包む輝きを前にして、数多の異形たちが攻めあぐねている。
凛冴を取り囲んでいる、無数の蛸のような形状の肉の塊に、蛙の目玉を思わせる突起物がぶつぶつと生えている。そのどす黒い眼球の一つ一つが、完全に独立した動きでギョロギョロと蠢き、凛冴の動向と、空間を満たす熱量をつぶさに観察しているらしい。
【グググ……グッグッ】
痺れを切らしたのだろうか。魍魎の一匹が、コウモリの翼とよく似た一対の触腕を左右に大きく広げた。そのまま凛冴の全身を抑え込もうと覆いかぶさってくる。
凛冴は迫り来るグロテスクな肉の翼を一瞥すると、一瞬だけ顔をしかめた。魍魎の肉に取り囲まれる前に後方へ飛びのき、守袋を握りしめている手を前方へ突き出した。
バシュン。
それは軽快な音とともに、空間を割く勢いで放たれた。白い斬撃が魍魎の両翼の付け根の部分を正確にとらえ、一瞬で切り裂く。切断された肉の翼がぼとりと下へ落ちた。
この世の生き物とは思えない奇声を上げ、手負いの魍魎が我武者羅に突っ込んできた。凛冴は守袋から生じた光の長剣を構え、相手を正面から迎え撃つ。
振り下ろされる、光の刃。接近していた魍魎は両断され、強烈な熱量を受けて爆散した。
飛び散る肉片。原型を失った魍魎の残骸は、石面の至る所にべちゃりと張り付いた。石面からはぐじゅぐじゅになった肉塊に混じって、石灰の溶けた液体がぽこぽこと泡立っている。肉片は凛冴の方にも飛び散ったが、彼女は全身を覆う光の膜によって守られ、無傷であった。
周囲の魍魎たちの間に、明らかな動揺があった。凛冴の力がこれまでとは比較にならない程の高まりを見せており、魍魎たちは迂闊に近づけなくなっている。
【シャゲェェェ】
突如、魍魎の一体が凛冴に飛びかかってきた。魍魎は数本の触腕で石面を打ち、バッタのような跳躍力で凛冴に迫ってくる。
「……ち!」
凛冴は相手が一メートルほど近くまで接近してきたところで、光の長剣を振るい、横へ薙ぎ払った。肉の弾ける嫌な音が響き、ぐちゃぐちゃになった無数の肉塊が、散乱している髑髏の上へ降り注いだ。異形の肉の悪臭と溶かされた骨の臭いが、凛冴の鼻腔を突く。
仲間を二体も倒され、魍魎たちは怒り狂ったような雄たけびをあげる。凛冴はそれには動じず、敵の出方を窺っていた。
(……これ以上は攻めてこない、か)
凛冴は表面上は落ち着いたふるまいを見せていたが、内心、焦っていた。
こちらから攻勢に転ずれば、それだけ防御が手薄になる。そのため、数では圧倒的に勝っている魍魎を相手に自分から攻めるのは、多大なリスクが伴う。
だが、このまま睨み合っているだけでは、自らの霊力を浪費するだけであった。守袋から発せられる光は、袋の中にある護符と、護符に挟まれた神木の欠片を介して、凛冴自身の霊力を増幅させたうえで発散させているに過ぎない。そのため、時間をかければかけるほど、凛冴という霊力の井戸からは水が汲み取られ続け、やがては力が枯れ果ててしまう。
(なら……)
凛冴は光の切っ先を敵に向け、攻め込む姿勢を見せた。それでも、敵はもう挑発には乗らない。残された選択肢は、リスクを覚悟の上で突っ込み、この場にいる魍魎を全滅させるしかない。
魍魎たちに向かって、切り込もうとする凛冴。その刹那、凛冴の脳裡で声が響いた。
「待て」
驚き、動きを止める凛冴。それでも、敵の反撃に備えて、警戒は怠らなかった。
「これ以上の戦いはお互いの為にならない」
「な、なにを言って……?」
頭の中で反響する声。それは、人間の肉声のように聞こえた。
「……………」
凛冴は剣を構えたまま、霊力によって照らされている周囲を見渡す。魍魎たちの動きにも僅かな変化が生じていたが、それが何を意味しているのかまでは、凛冴とて把握できずにいた。
「どうか剣を収めてくれたまえ。きみと争う意思はない」
なおも繰り返される、謎の声。凛冴は姿見えぬ相手に対して答える。
「襲ってきたのはそちらの方。信用はできない」
「……わかっている。今、退かせる」
次の瞬間、不可思議な旋律が空間に木霊した。粘液で覆われた触手で人の心をかき回すような、気味の悪い音色だった。
途端、魍魎たちは戦意を失ったのか、次々と闇の奥深くへと没していった。
あとには、凛冴によって切り裂かれた魍魎の肉塊と、崩れた人間の髑髏だけが残された。
「落ちるところまで落ち、理性を失った雑鬼とはいえ、我が同胞だ。見殺しにはできぬ」
不可視の存在はそう言った。
「…………」
凛冴は守袋に握力を加え、光の長剣を引っ込めた。だが、警戒は怠らず、いつでも臨戦態勢に移るための構えは解かない。守袋を通して放出される凛冴の霊力が、変わらずに周囲を照らしていた。
襲ってくるものがいなくなったことで、凛冴は改めて辺りを見回した。石肌のくぼみ一つ一つまでを精査するように、丹念に視線を這わせる。声の主、それに契の姿を探したが、それらしい輪郭を見つけることもできない。
「……契さんがここにいるはず。今すぐ解放して」
一瞬の間があった。やがて、またあの声が響く。
「良かろう」
平たい岩が音を立ててひっくり返った。続けざまに、散乱していた白骨がバラバラと転がり落ちる。そして、明るみに出たものは――。
滑らかな摩耗された石の台座。その上に、全裸のまま横たえられている若い女の姿があった。
「契さん」
凛冴は契の傍に近づき、彼女の顔を覗き込んだ。瞳は硬く閉ざされていたが、微かな鼓動を感じ取れる。
どうやら気を失っているらしい。契の生存を確認し、凛冴は微かな安堵を覚えていた。
だが、予断は許されない。凛冴は急いで上着を脱ぐと、それで契の裸体を包む。契の酷く冷えた全身が、断熱材を織り込んだ布地で丁寧に覆われていった。
(早く、外に連れ出さないと……)
このままでは命に関わる。何者かの如何なる思惑によって、契がこのような地下深くに閉じ込められていたのか、疑念は尽きなかったが、今は彼女を小夜子のもとへ送り届けるのを急がねばならなかった。
(ただ……)
姿の見えない、先ほどの声の主。気配すら感じられないが、すぐ近くにいるのは間違いないだろう。
「お前は何者? どうして、契さんをここに閉じ込めた?」
正体不明の存在だが、先ほど交戦した魍魎の仲間であるのはまず間違いないだろう。こちらの隙をついて、襲い掛かってくるかもしれない。凛冴はいつでも応戦できるように守袋を掲げながら、照らした周辺を丹念に調べる。
地面には、相変わらず無数の白骨死体が散乱している。余程長い年月をかけて積み重なってきたものと思われ、半場溶けかかっている遺体も多く見受けられた。……契もまた、この者たちと同じ命運を辿っていたかもしれないのだ。
「……答えろ」
凛冴が冷たく言い放つ。内心は、無力な女性を辱め、その命まで奪おうとした姿見えぬ魍魎への怒りが爆発しそうになるのを堪えていた。
「この娘を地底に連れてきたのは私の意図していたことではないさ。が、私の同胞の指図であるとは言えよう」
相手はそれだけ答えると、小さな含み笑いにも似た声をもらした。それが、凛冴の気に障る。
「……外道が。姿を見せろ」
「おやおや、早くも冷静さを欠いていそうだね。やはり、まだまだ青いな」
凛冴とて、己の未熟さは理解していた。肇慶から性奴隷のように弄ばれ、最後はゴミのように捨てられた契。もし、凛冴がよりよい選択をとっていたら、未然に防げていたかもしれないのだ。
「きみの後ろだよ」
背筋に鋭く冷たい感触が奔る。凛冴が咄嗟に振り返ると、そこには長身の人物が立っていた。
「な……」
それは、一人の初老の男だった。青黒いスーツを着込んでおり、青い彫りの深いしわと結わえられた白髪は、相応の年齢を感じさせる。ただ、その表情には未だ衰えない精悍さが感じられ、瞳の色も黒い若さに彩られていた。
(人間? いや、そんなはずは……)
凛冴は動揺していた。魍魎の気配すら感じられなかったのもあるが、直前まで、その男の存在を全く察知できなかったからだ。
初老の男は、突如として、その場に存在していた。それまで凛冴に感知できなかった存在が、ある時間の一点を境に、凛冴にとって認識できる存在になったという結果によって、視界に出現した。凛冴には、そう感じられた。
「なにをそんなに驚いているのかね。私は、きみがこの領域に足を踏み入れた時点で、既にここに立っていたよ。ずーっとね……」
今度は脳裏ではない。生きている人間の肉声が聴覚を通して、はっきりと聞こえた。
「…………」
凛冴は、困惑している自らの感情の乱れを整える。得体の知れない者のペースに操られるのだけは避けねばならない。
「……まだ、問いに答えていない。お前は……何者?」
「答えてやる義理などはないがね」
くっくっく、とほくそ笑む男。
「だが、ヒントくらいはあげようか」
男はそう言うと、凛冴に向かって小さな物体を投げた。宙に弧を描き、守袋から洩れている光を反射して煌く物体。それが眼前に落ちてきたところで、凛冴はパシッと掴み取った。
それは、一本の金属製の鍵だった。若干錆びていたが、鈍い光沢は失われていない。
「何の真似?」
凛冴の問い。答えに期待はしていなかったが、そう聞かずにはいられなかった。
「……私はね、きみの成長に期待しているのだよ」
男が悠然と語り出す。
「今のきみは未熟だ。本来なら、この館におびき出されたきみは、鬼峰家に憑りついている魍魎の同胞の餌食となり、その肉体は彼らの滋養となるところだった。だが、それだけで終わらせるには、あまりにも惜しい。護津國の血を引くきみには、新たな時代を生み出す礎となって欲しい。私はそれを望んでいるのだよ」
凛冴を見る男の眼つきが、穏やかな色を帯びている。それは荒ぶる心を安心させるような類のものであったかもしれないが、凛冴にとっては、悍ましい奈落が眼球の裏側に広がっている、得体の知れない不気味なものとして映った。
「それよりも、早くその娘を地上に出してやった方が良くはないかね? この地底に渦巻いている霊気は、生者から命を吸い尽くそうとしているよ……」
凛冴ははっとなり、契を抱きかかえる。言われて見れば、契の身体からは徐々に生気が抜き取られているようだ。肌は青ざめ、鼓動も途切れそうだ。先ほど凛冴自身が危惧した通り、このままでは契の命が尽きるのも時間の問題だろう。
「近道を開けてあげよう」
男はそう言うと、腕を大きく振り上げ、半月を描くように回して見せた。それが合図になったのか、地の底から断続的な振動が起こり、段々と感覚が狭まるにつれ、洞窟全体に広がっていった。
ひと際大きな地響きが唸ると、壁面の一部に亀裂が奔った。広がった裂け目からは新たな道なりが露出し、上の方からは僅かな白い光が差し込んでくる。
「そこを進めば、地上へ出られる」
確かに、目の前の煌きは陽の光なのだろう。それでも、凛冴は相手の思惑がわからない以上、迂闊に動けないでいた。
「ほら、何をぼやぼやしているのかな。その娘は、とても苦しそうにしているじゃないか」
男の言葉を聞き、凛冴は契の顔へ視線を落とした。瞳を閉じ、力尽きている契は、苦しいというよりは半ば安らかな表情であったが、それだけ死に近づいているのは間違いない。
凛冴はもう一度、男の方に目をやった。いや……そこには、男の姿はなかった。
「消えた……」
茫然と呟く凛冴。
もう、気配は全く感じられない。最初の状態に戻ったのだ。完全に相手の掌で踊らされているという凛冴の無力感だけが虚しく残されている。
凛冴は契を抱える腕に力を込めた。そして、上着で包まれた彼女の身体を、背中に背負う。傍から見れば、凛冴の華奢な腕からは想像もできない程の力が振るわれたと思われるかもしれないが、凛冴にとっては瘦せ細った少女一人を背負って地上へ戻るなど、造作もない。
与えられた道を足早に進み、地上へと歩み始める凛冴。
警戒は怠らない。それでも、焦る気持ちを抑えることもできない。
未だ背中に感じる契の体温。自分以外の生者の証だけが、凛冴を勇気づけてくれていた。
凛冴は岩窟に意識を飛ばし、反射させることで周囲の構造を事細かに分析し、獣のような身のこなしで進んでいく。さながら、視力の代わりに超音波を行使して地形を理解するコウモリにも似た能力と言えた。
凛冴の動きに躊躇いはないが、一歩足を踏み外せば奈落の底へ墜落し、地上へ帰るすべを失う危険性もあった。それ故、慎重を期する重要性を肝に銘じてはいたが、契の命運に酷く不吉なものが迫っていたことを直感的に悟っている凛冴は、危険を承知のうえで先を急がねばならなかったのである。
ふと、凛冴は歩みを止める。何らかの手掛かりの存在を感じたためである。それは、この地底にはあまりにも不釣り合いな気の流れであり、生きた人間によって発せられるものである可能性が高い。
凛冴は前方に穿たれた複数の空洞の中から、進むべき道を模索する。やがて、契のものと思しき気配を察知し、闇の中で誰にも視認されるものではなかったが、凛冴の表情に微かな変化が生じていた。
(こっち……)
迷いのない動きで、狭き通路をくぐる凛冴。凛冴の気配を察知した数匹のコウモリが、この暗き静寂を侵す者の動向を訝し気に観察していた。
一気に広がる開放感。これまでの道なりとは打って変わり、だだっ広い空間が広がっていた。その広さには何らかの意図的な造形が確認できるが、当然ながら明かりの類は存在せず、足場は人が歩くには不向きだ。
足元にはごつごつした岩肌の他に、何やら細長い棒状の物体が無数に散乱していた。凛冴は気を巡らし、それらの正体を見極める。
(これは……)
凛冴の背筋に冷たいものが奔る。
(人間の骨。それも無数の……)
凛冴は豊かな感受性で以て鬼気迫るものを敏感に感じ取っている。
視界が闇に覆われていることがかえって幸いと思えるほどの地獄絵図が、一面に広がっている――その事実に、凛冴とてゾッとするものがあった。
さしもの凛冴も、死者の気配というものは感じ取れない。残留思念であれば把握できたかもしれないが、周囲に散らばる白骨死体は亡くなってから大分年月が過ぎており、到底凛冴の手におえる程度のものではない。
それでも、凛冴は一つの気の流れをはっきりと感じ取っていた。この亡者の巣窟の中に置いて、生きた人間の存在が間近で息づいている。
(いた)
一人の生者……契の気を捕らえた。凛冴は急いでそちらへ近づく。
その刹那。凛冴を取り囲むようにして、数多の怨念の如き怪異が現出した。
(魍魎)
凛冴はさっと態勢を整え、身構える。敵意を向けてくる魍魎との遭遇は、ここへ来ると決めた時点で覚悟していた。
凛冴は己の感情の奥底から沸き起こってくる昂ぶりを感じたが、あくまで冷静に、敵対する者の勢力を見極める。魍魎は不完全な状態で実体化しているため、その数を完全に特定しようとするのは無理であったが、特に注意を要する熱量の集合体は三つほど確認できた。
(……来る)
一斉に襲い掛かってくる、太い触腕。視力が役に立たない状況でありながら、凛冴は敵との距離を把握したうえでその挙動を察知し、紙一重のところで相手の攻撃をかわした。
敵の攻撃は極めて物理的なものだった。実体化した触腕を振り回し、凛冴に狙いを定め、叩きつける。肉体へ損傷を与えることを目的とした攻撃は単純だが、生身の凛冴にとっては一瞬も気を抜けない脅威だ。
人の手の加えられた平たい石肌が広がっていたが、それでも、鍾乳洞の中であるここの足場は些か不安定である。長期戦になれば体力を消耗し、注意力も散漫になる恐れもあった。
凛冴は懐から、一つの守袋を取り出した。大きさは手のひらに収まるほどのもので、紫色の布で編まれている。凛冴はこれを強く握りしめた。
青白い閃光が激しく迸り、人間を呑み込めるほどの巨大な蛇のようにうねる。強烈な発光によって、周囲の構造が肉眼で見渡せるほどに鮮明に映し出された。
【ギギギィ……】
硬い物をこすり合わせるような奇声が木霊する。凛冴の周囲を包む輝きを前にして、数多の異形たちが攻めあぐねている。
凛冴を取り囲んでいる、無数の蛸のような形状の肉の塊に、蛙の目玉を思わせる突起物がぶつぶつと生えている。そのどす黒い眼球の一つ一つが、完全に独立した動きでギョロギョロと蠢き、凛冴の動向と、空間を満たす熱量をつぶさに観察しているらしい。
【グググ……グッグッ】
痺れを切らしたのだろうか。魍魎の一匹が、コウモリの翼とよく似た一対の触腕を左右に大きく広げた。そのまま凛冴の全身を抑え込もうと覆いかぶさってくる。
凛冴は迫り来るグロテスクな肉の翼を一瞥すると、一瞬だけ顔をしかめた。魍魎の肉に取り囲まれる前に後方へ飛びのき、守袋を握りしめている手を前方へ突き出した。
バシュン。
それは軽快な音とともに、空間を割く勢いで放たれた。白い斬撃が魍魎の両翼の付け根の部分を正確にとらえ、一瞬で切り裂く。切断された肉の翼がぼとりと下へ落ちた。
この世の生き物とは思えない奇声を上げ、手負いの魍魎が我武者羅に突っ込んできた。凛冴は守袋から生じた光の長剣を構え、相手を正面から迎え撃つ。
振り下ろされる、光の刃。接近していた魍魎は両断され、強烈な熱量を受けて爆散した。
飛び散る肉片。原型を失った魍魎の残骸は、石面の至る所にべちゃりと張り付いた。石面からはぐじゅぐじゅになった肉塊に混じって、石灰の溶けた液体がぽこぽこと泡立っている。肉片は凛冴の方にも飛び散ったが、彼女は全身を覆う光の膜によって守られ、無傷であった。
周囲の魍魎たちの間に、明らかな動揺があった。凛冴の力がこれまでとは比較にならない程の高まりを見せており、魍魎たちは迂闊に近づけなくなっている。
【シャゲェェェ】
突如、魍魎の一体が凛冴に飛びかかってきた。魍魎は数本の触腕で石面を打ち、バッタのような跳躍力で凛冴に迫ってくる。
「……ち!」
凛冴は相手が一メートルほど近くまで接近してきたところで、光の長剣を振るい、横へ薙ぎ払った。肉の弾ける嫌な音が響き、ぐちゃぐちゃになった無数の肉塊が、散乱している髑髏の上へ降り注いだ。異形の肉の悪臭と溶かされた骨の臭いが、凛冴の鼻腔を突く。
仲間を二体も倒され、魍魎たちは怒り狂ったような雄たけびをあげる。凛冴はそれには動じず、敵の出方を窺っていた。
(……これ以上は攻めてこない、か)
凛冴は表面上は落ち着いたふるまいを見せていたが、内心、焦っていた。
こちらから攻勢に転ずれば、それだけ防御が手薄になる。そのため、数では圧倒的に勝っている魍魎を相手に自分から攻めるのは、多大なリスクが伴う。
だが、このまま睨み合っているだけでは、自らの霊力を浪費するだけであった。守袋から発せられる光は、袋の中にある護符と、護符に挟まれた神木の欠片を介して、凛冴自身の霊力を増幅させたうえで発散させているに過ぎない。そのため、時間をかければかけるほど、凛冴という霊力の井戸からは水が汲み取られ続け、やがては力が枯れ果ててしまう。
(なら……)
凛冴は光の切っ先を敵に向け、攻め込む姿勢を見せた。それでも、敵はもう挑発には乗らない。残された選択肢は、リスクを覚悟の上で突っ込み、この場にいる魍魎を全滅させるしかない。
魍魎たちに向かって、切り込もうとする凛冴。その刹那、凛冴の脳裡で声が響いた。
「待て」
驚き、動きを止める凛冴。それでも、敵の反撃に備えて、警戒は怠らなかった。
「これ以上の戦いはお互いの為にならない」
「な、なにを言って……?」
頭の中で反響する声。それは、人間の肉声のように聞こえた。
「……………」
凛冴は剣を構えたまま、霊力によって照らされている周囲を見渡す。魍魎たちの動きにも僅かな変化が生じていたが、それが何を意味しているのかまでは、凛冴とて把握できずにいた。
「どうか剣を収めてくれたまえ。きみと争う意思はない」
なおも繰り返される、謎の声。凛冴は姿見えぬ相手に対して答える。
「襲ってきたのはそちらの方。信用はできない」
「……わかっている。今、退かせる」
次の瞬間、不可思議な旋律が空間に木霊した。粘液で覆われた触手で人の心をかき回すような、気味の悪い音色だった。
途端、魍魎たちは戦意を失ったのか、次々と闇の奥深くへと没していった。
あとには、凛冴によって切り裂かれた魍魎の肉塊と、崩れた人間の髑髏だけが残された。
「落ちるところまで落ち、理性を失った雑鬼とはいえ、我が同胞だ。見殺しにはできぬ」
不可視の存在はそう言った。
「…………」
凛冴は守袋に握力を加え、光の長剣を引っ込めた。だが、警戒は怠らず、いつでも臨戦態勢に移るための構えは解かない。守袋を通して放出される凛冴の霊力が、変わらずに周囲を照らしていた。
襲ってくるものがいなくなったことで、凛冴は改めて辺りを見回した。石肌のくぼみ一つ一つまでを精査するように、丹念に視線を這わせる。声の主、それに契の姿を探したが、それらしい輪郭を見つけることもできない。
「……契さんがここにいるはず。今すぐ解放して」
一瞬の間があった。やがて、またあの声が響く。
「良かろう」
平たい岩が音を立ててひっくり返った。続けざまに、散乱していた白骨がバラバラと転がり落ちる。そして、明るみに出たものは――。
滑らかな摩耗された石の台座。その上に、全裸のまま横たえられている若い女の姿があった。
「契さん」
凛冴は契の傍に近づき、彼女の顔を覗き込んだ。瞳は硬く閉ざされていたが、微かな鼓動を感じ取れる。
どうやら気を失っているらしい。契の生存を確認し、凛冴は微かな安堵を覚えていた。
だが、予断は許されない。凛冴は急いで上着を脱ぐと、それで契の裸体を包む。契の酷く冷えた全身が、断熱材を織り込んだ布地で丁寧に覆われていった。
(早く、外に連れ出さないと……)
このままでは命に関わる。何者かの如何なる思惑によって、契がこのような地下深くに閉じ込められていたのか、疑念は尽きなかったが、今は彼女を小夜子のもとへ送り届けるのを急がねばならなかった。
(ただ……)
姿の見えない、先ほどの声の主。気配すら感じられないが、すぐ近くにいるのは間違いないだろう。
「お前は何者? どうして、契さんをここに閉じ込めた?」
正体不明の存在だが、先ほど交戦した魍魎の仲間であるのはまず間違いないだろう。こちらの隙をついて、襲い掛かってくるかもしれない。凛冴はいつでも応戦できるように守袋を掲げながら、照らした周辺を丹念に調べる。
地面には、相変わらず無数の白骨死体が散乱している。余程長い年月をかけて積み重なってきたものと思われ、半場溶けかかっている遺体も多く見受けられた。……契もまた、この者たちと同じ命運を辿っていたかもしれないのだ。
「……答えろ」
凛冴が冷たく言い放つ。内心は、無力な女性を辱め、その命まで奪おうとした姿見えぬ魍魎への怒りが爆発しそうになるのを堪えていた。
「この娘を地底に連れてきたのは私の意図していたことではないさ。が、私の同胞の指図であるとは言えよう」
相手はそれだけ答えると、小さな含み笑いにも似た声をもらした。それが、凛冴の気に障る。
「……外道が。姿を見せろ」
「おやおや、早くも冷静さを欠いていそうだね。やはり、まだまだ青いな」
凛冴とて、己の未熟さは理解していた。肇慶から性奴隷のように弄ばれ、最後はゴミのように捨てられた契。もし、凛冴がよりよい選択をとっていたら、未然に防げていたかもしれないのだ。
「きみの後ろだよ」
背筋に鋭く冷たい感触が奔る。凛冴が咄嗟に振り返ると、そこには長身の人物が立っていた。
「な……」
それは、一人の初老の男だった。青黒いスーツを着込んでおり、青い彫りの深いしわと結わえられた白髪は、相応の年齢を感じさせる。ただ、その表情には未だ衰えない精悍さが感じられ、瞳の色も黒い若さに彩られていた。
(人間? いや、そんなはずは……)
凛冴は動揺していた。魍魎の気配すら感じられなかったのもあるが、直前まで、その男の存在を全く察知できなかったからだ。
初老の男は、突如として、その場に存在していた。それまで凛冴に感知できなかった存在が、ある時間の一点を境に、凛冴にとって認識できる存在になったという結果によって、視界に出現した。凛冴には、そう感じられた。
「なにをそんなに驚いているのかね。私は、きみがこの領域に足を踏み入れた時点で、既にここに立っていたよ。ずーっとね……」
今度は脳裏ではない。生きている人間の肉声が聴覚を通して、はっきりと聞こえた。
「…………」
凛冴は、困惑している自らの感情の乱れを整える。得体の知れない者のペースに操られるのだけは避けねばならない。
「……まだ、問いに答えていない。お前は……何者?」
「答えてやる義理などはないがね」
くっくっく、とほくそ笑む男。
「だが、ヒントくらいはあげようか」
男はそう言うと、凛冴に向かって小さな物体を投げた。宙に弧を描き、守袋から洩れている光を反射して煌く物体。それが眼前に落ちてきたところで、凛冴はパシッと掴み取った。
それは、一本の金属製の鍵だった。若干錆びていたが、鈍い光沢は失われていない。
「何の真似?」
凛冴の問い。答えに期待はしていなかったが、そう聞かずにはいられなかった。
「……私はね、きみの成長に期待しているのだよ」
男が悠然と語り出す。
「今のきみは未熟だ。本来なら、この館におびき出されたきみは、鬼峰家に憑りついている魍魎の同胞の餌食となり、その肉体は彼らの滋養となるところだった。だが、それだけで終わらせるには、あまりにも惜しい。護津國の血を引くきみには、新たな時代を生み出す礎となって欲しい。私はそれを望んでいるのだよ」
凛冴を見る男の眼つきが、穏やかな色を帯びている。それは荒ぶる心を安心させるような類のものであったかもしれないが、凛冴にとっては、悍ましい奈落が眼球の裏側に広がっている、得体の知れない不気味なものとして映った。
「それよりも、早くその娘を地上に出してやった方が良くはないかね? この地底に渦巻いている霊気は、生者から命を吸い尽くそうとしているよ……」
凛冴ははっとなり、契を抱きかかえる。言われて見れば、契の身体からは徐々に生気が抜き取られているようだ。肌は青ざめ、鼓動も途切れそうだ。先ほど凛冴自身が危惧した通り、このままでは契の命が尽きるのも時間の問題だろう。
「近道を開けてあげよう」
男はそう言うと、腕を大きく振り上げ、半月を描くように回して見せた。それが合図になったのか、地の底から断続的な振動が起こり、段々と感覚が狭まるにつれ、洞窟全体に広がっていった。
ひと際大きな地響きが唸ると、壁面の一部に亀裂が奔った。広がった裂け目からは新たな道なりが露出し、上の方からは僅かな白い光が差し込んでくる。
「そこを進めば、地上へ出られる」
確かに、目の前の煌きは陽の光なのだろう。それでも、凛冴は相手の思惑がわからない以上、迂闊に動けないでいた。
「ほら、何をぼやぼやしているのかな。その娘は、とても苦しそうにしているじゃないか」
男の言葉を聞き、凛冴は契の顔へ視線を落とした。瞳を閉じ、力尽きている契は、苦しいというよりは半ば安らかな表情であったが、それだけ死に近づいているのは間違いない。
凛冴はもう一度、男の方に目をやった。いや……そこには、男の姿はなかった。
「消えた……」
茫然と呟く凛冴。
もう、気配は全く感じられない。最初の状態に戻ったのだ。完全に相手の掌で踊らされているという凛冴の無力感だけが虚しく残されている。
凛冴は契を抱える腕に力を込めた。そして、上着で包まれた彼女の身体を、背中に背負う。傍から見れば、凛冴の華奢な腕からは想像もできない程の力が振るわれたと思われるかもしれないが、凛冴にとっては瘦せ細った少女一人を背負って地上へ戻るなど、造作もない。
与えられた道を足早に進み、地上へと歩み始める凛冴。
警戒は怠らない。それでも、焦る気持ちを抑えることもできない。
未だ背中に感じる契の体温。自分以外の生者の証だけが、凛冴を勇気づけてくれていた。
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