祓魔師 凛冴

来星馬玲

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鬼峰家の血筋

暗雲

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 風に微かな変化があった。肌にべたべたとまとわりついてくる湿り気が、重みを増している。

 藤樹ふじき啓多けいたは何気なく虚空を見上げた。真上の空は晴れていたが、連なる山々は霧によって乳白色に染められていた。

 不意に眼に痛みを感じる。啓多は瞳をしばたかせた。水滴が目に入ったらしい。

 一瞬の間を置いて、無数の大粒の雨粒が地面を打つ。啓多はすぐ近くにある東屋へ駆け込んだ。

 東屋には、啓多の他に誰もいない。青空から降り注ぐ雨によって四方を囲まれ、啓多は一人、自然のもたらす音響に耳を傾けていた。

(狐の嫁入りって奴かなぁ)

 蘇るのは、幼少期の思い出。あの時も啓多は一人で田畑の連なる歩道を歩いていて、急な天気雨に見舞われた。

 何故、一人でいたのかは覚えていないが、家に帰る途中であったかのような気はする。記憶の一ページには、降水による轟音に呑まれながら、舗装されていない道の泥濘を踏みしめる感触が鮮明に描かれている。

 季節は真夏だったらしく、びしょ濡れになった半そでシャツと短パンが幼い啓多の肌に張り付いている。動くのも不自由するくらいの重量感があったが、不思議と心身は落ち着いていた。

 ふと立ち止まり、上空を仰ぐ。自然の事象を一般科学的に見ることを知らない幼い黒い瞳には、暗く分厚い雲の層が果てしなく続いている様子が映っており、まるで暗雲が無限に広がっているような気がした。

 暗い雲はぼこぼこと膨れ上がり、途方もない規模の渦となって世界全体を覆っている。あまりにもちっぽけな自分の存在。それを認識する己の自我は、世界を見渡す超自然的な存在から歯牙にもかけられることのないものであるのかもしれない。

 蹂躙する空。鳴動する大地。幼稚な知能が何かを理解するはずもないが、本能は強烈な畏怖の念によって戦慄した。今日、世界が終わるかもしれない――頭の片隅で、まるで脈絡の無い思考が浮き彫りになった。

 蒸気の密集した大気の質量が、青白い剛毛を生やした大熊の豪腕の如き形質を備え、地面の上で孤立する少年を踏み潰す勢いで迫ってくる。
 
 それまで無言で立ち尽くしていた少年が新たに声を発することは無かった。しかし、心の中では圧倒的な恐怖に対する絶叫が木霊し、思考の追いつかない脳内を滅茶苦茶にした。

 訳も分からず、走り出す少年。少年に踏みつけられ、ばちゃばちゃと音を立てて飛び散る泥水。向かい来る豪雨がシャツを突き破る勢いでで柔肌を叩く。

 雲全体が動き出し、ジェット機のような異様な速さで暴走する時間の流動に呑まれていった。

 空がカっと明滅した。白銀色の閃光が薄く開かれていた瞳に突き刺さり、網膜を焼く。

「うああっ」

 声が響き、少年が転倒する。倒れた華奢な前進に、機関銃のような降水が降り注いだ。 

 はっとなる。見開かれた眼は幼い者のそれではなく、この世の数多の汚れを知った成人の色。

 藤樹啓多は慌てて上体を起こし、周囲を見回す。弾ける水飛沫で視界が悪い中、十数メートル先に、朧げな東屋の屋根が見えた。

 いつの間に、東屋から飛び出したのだろうか? 朦朧とした頭の中で記憶を手繰り寄せようとしたが、無駄な試みだった。つい先刻までの記憶がすっぽりと抜け落ちてしまっているようだ。

 制服がびしょびしょに濡れていて、重量を増している。気怠い不快感に既視感があったが、成人した啓多には理解が出来なかった。

 雨から逃れる為、東屋に向かって駆けだす啓多。だが、視界の隅に何かの姿がよぎったことではっとなり、足を止める。

(ん……?)

 雨の中を、さっと駆ける何者かの影。人間離れした身のこなしに、啓多は一瞬、大きな獣の姿を見たような錯覚を覚えたが、すぐに人の姿に間違いないことを知った。

「凛冴さん?」

 啓多よりも先に東屋に辿り着いた人物は、あの奇妙な女子高生らしき客人。御津國凛冴と名乗っていた少女だった。

 凛冴は啓多の方へ振り返ると、軽く会釈する。この豪雨の中には不釣り合いな、白いシャツにズボン下という出で立ち。雨で濡れて下着がくっきりと浮き出ており、目のやり場に困る姿だった。

「契さんを見つけました。……とても、衰弱しています」

言われてはっとなる啓多。なるほど、見ると、確かに凛冴は誰かを背負っている。

「あの、行方知れずになっていたという……?」

「ええ。近くの洞窟で……」

 言葉を切る凛冴。唐突な出来事で戸惑っていた啓多は、その一瞬の間に気を留めなかった。

「気を失って倒れていたんです。足を踏み外して、穴に落ちていたのかもしれません」

「……洞穴、ね」

 鬼羅山の地下には、鍾乳洞が広がっている。所々、人の手が加えられているのは何らかの儀式に利用されてきたからであるという話は聞いていたが、入り組んだ内部の大半は、広大な天然の迷宮と呼ぶにふさわしい。

 近隣を捜査するにあたって、啓多はそういった内容の話を聞かされていた。森林の中には地下へ通じる穴が点在しており、うっかり落ちてしまったりすれば、脱出できる保証はない。

「わかりました。今、屋敷の方に連絡をとりますね」

 啓多はそう言うと、携帯電話を取り出す。そのまま、屋敷にいる輝警部補に繋いだ。

 啓多が上司と通話している間、凛冴は屋敷の方を見据えた。その眼差しは鋭く、冷徹な視線で何らかの存在を吟味している風でもあった。

 凛冴に背負われている契は凛冴の着用していたジャージを着ている。啓多は契の生気の感じられない青ざめた面持ちが気がかりであり、もしかしたら契は死んでいるのではないかと訝しんでいた。



 樹々を打ち倒す勢いで響いていた轟音が収まった。尾田おだ海次郎かいじろうはテントから顔を覗かせると、訝し気に左右を見回す。動くものは何一つ見当たらず、雨水を吸った草木が放っている光沢が際立っていた。先ほどまでの土砂降りが嘘のような静寂だ。

 テントの中には、海次郎の他にも、喜先きさき土木工業の作業員が二人いる。一人は海次郎との付き合いも長い初老の男で、もう一人はまだ若く、二十代半ばの新人である背の低い小太りの男だった。

 海次郎がテントから出ると、それに続いて二人の作業員が腰を曲げた姿勢のまま外へ踏み出す。二人はキツネに包まれたような表情で互いの顔を見合っていた。

「良かったですね。すぐ止んで……」

 作業員の内、若い方の男がそう呟くと、同意を求めるように隣にいるもう一人の年配の男の表情を窺う。

 年配の男は軽く頷いただけで、海次郎の方へ顔を向けた。海次郎は二人へ背を向けたまま、無言で立ち尽くしていた。

「社長……?」

 背後から、こちらの名前を呼ぶ声がする。しかし、それは些細な雑音でしかない。

 海次郎は両方の足の先にグッと力を込めた。ブーツの靴底越しにぐにゃりと形を変える泥の感触が伝わってくる。ぬかるんだ地中から押し出されてきた汚水が足の周囲を包み込み、熱を奪う。

 海次郎の関心は、前方の斜面上に向けられていた。腐った倒木を囲んでいる草は枯れて灰色になっており、澱んだ空気が青臭かった。

 二人の作業員たちの見ている前で、海次郎が大股に足を踏み出す。そのまま確かな足取りで斜面を上っていく。

「社長!」
 
 中年の作業員が声をかけた。しかし、海次郎にはまるで声が届いていないようだ。

 海次郎は斜面を上り詰めると、倒木の根元へと視線を向けた。まるで大地から無造作に引き抜いて横倒しになっていたかのような根っこは、腐敗してどす黒く染まっていた。

 その倒木から視線をずらすと、大きな窪みが目についた。窪みの中央部分には穴が穿たれており、暗闇の中の底は知れない。

 海次郎の両目が穴の中をのぞき込んだまま釘付けとなる。穴からは獣の臭いに混じって、魚が腐敗した際に発する悪臭が立ち込めていた。海次郎は不快感を覚えながらも、その場に立ち尽くしていた。

「う……」

 微かな呻き声。海次郎はそれが己の喉元から発せられたものと認識してはいたが、意識は半ば肉体から離れて宙に浮かんでおり、凧糸の如き細く朧げな線によって辛うじて肉体との接点が保たれていた。

【グググ……雌……雌の肉……】

 くぐもった声が脳内で響く。何か得体のしれないものが頭の中に入り込んできている。

 二人の作業員が海次郎の背後に駆け寄り、三度、彼の名を呼ぶ。暫しの間、海次郎は微動だにしなかったが、やがて二人の方へ向き直った。

 朦朧とする意識。海次郎は混濁としている自我の中から、眼前にいる二人の記憶を思い起こそうとしたが 余りにも曖昧模糊なものとなっていた。

 危機感がなかったわけではない。しかし、海次郎は知らずして己の意識の中に同居している存在に対する抵抗を止めてしまっていた。

「……何でもない、さっさと持ち場に戻れ」

 ぶっきらぼうに言う海次郎。それは己の思考を邪魔する二人の部外者に対する拒絶であったが、作業員の二人には知る由もない。

 海次郎は、そのままふらふらとした足取りで歩きだす。作業員のうち、年輩の男が流石に困惑の表情を浮かべて海次郎に声をかけた。

「あの……どちらへ?」

 その問いに、海次郎はぴたりと立ち止まる。暫し、意識の底から記憶の断片を引き上げ、返答を導き出す。

「館に……」

 海次郎の脳裡に、一人のメイドの姿が浮かび上がる。海次郎が肇慶からあてがわれた娘、三田みた浬穂りほだった。

 途端、海次郎は貪欲さを露わに舌なめずりをした。背中越しに話しかけている部下の作業員たちには、海次郎のそういった変化は知る由もなかったが。

「たった今、用事が出来てね。急いでいるんだ」

 海次郎はそう言い残すと、足早に立ち去った。取り残された作業員たちは状況に対する理解が追いつかず、去っていく海次郎の後ろ姿を見送っていた。



 つい先刻までの大雨が止み、館の周囲には静かな霧が揺蕩っている。その霧の振り払うようにして、庭の中を歩いている初老の男性の姿があった。姫岸小夜子から犾才えんさいと呼ばれていた、あの庭師である。

 庭師は急な土砂降りで直前まで続けていた仕事を中断させられ、屋敷のベランダの屋根の下で雨宿りをしていたのであるが、飴が静まったため、また作業を再開しようと庭に戻ってきた。傍から見れば、そう思われるのが自然であった。

 しかし、庭師の思考は全く別のところにある。

(紅い……血のようだ)

 庭師の視線が、山並みの向こうへ沈みつつ太陽の方へ向けられていた。夕日は雲に覆われており、輪郭も掴めないが、連なる昏い雨雲の半身が血の海の波にどっぷりとつかっているかのように、真紅に染められていた。

(……あの時と同じ)

 庭師は真剣な面持ちで、ある不吉な予感と向き合っている。そこには、今生きている人間の中では、最も長い間この鬼峰家の館に携わって来た者の苦悩があった。

 庭師は瞳を閉じ、一度だけ、大きく深呼吸をした。少しの間、じっと佇んでいたが、やがて目を開くと、傍に植えてある、形の崩された馬型のトピアリーへ視線を向けた。

「……見ているのだろう。可愛らしい客人」

 暫しの間。やがて、観念した様子で、トピアリーの根元の辺りから、一匹の三毛猫が顔を覗かせた。

《可愛らしいとは言ってくれるねぇ。……あんた、あたしの正体に感づいているくせに、ね》

 アイネの言葉に、庭師――犾才えんさいは頭を横に振った。

「いや、分からんよ。何しろお前さんは儂よりも……いや、今を生きるこの世のあらゆる人間よりも、長い年月を生き続けているのだろうからね」

《それだけ知っていれば、十分さ》

 アイネは感心するように言った。

《どうやら、あんただけは鬼峰の息がかかった秘境の住人の中で正気を保っているらしいね》

「そう、思うかね」

 犾才の口調は、厳かだった。

「儂は今まで……何もできなかった。そして、これから起ころうとしている悪夢に対しても、どうしようもないほど無力だ。……それで平静を保っていられる方が、よっぽど異常である気がするがね」

《凛冴は御津國と鬼峰の因縁に迫っているよ。何れ知ることになるだろうね》

「それで何かが変わるのかね? お前さん方は儂らがどうこうできる存在では無いと思うが……」

 そこまで言ったところで、犾才が言葉を切る。そして、何かを思い出したように語り出した。

「そうだ、儂だけが正気だとお前さんは言ったね。しかし、それは間違いだよ。儂は見ての通り傍観しているだけで、まともとは言えないが……一人、鬼峰の暗雲の中に取り残されている人がいる」

《取り残されている?》

 アイネが不審げに聞き返す。

 犾才が頷く。

「姫岸小夜子だ。彼女ならあるいは……凛冴さんと鬼峰の戦いに、一石を投じる役目を担うかもしれない」

 姫岸小夜子――アイネはすぐに、庭師で自分を追い回したあのメイドの姿を思い出していた。

 夕日は、徐々にその赤みを失っている。薄暮が暗雲に呑まれ、闇へと移り変わろうとしていた。

 だが、間もなく現れる月は、この闇を別の血で染め上げる。赤い月には、魍魎の活動と何らかの関連性があることに、犾才も気付いていたのである。
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