幸せという呪縛

秋赤音

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福の音は、その先にある幸

3.手にあるもの

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退院して二か月後。
仕事へ復帰した私を待っていたのは、
体調の気遣いと、無言だが感じる嫌悪感だった。
残っている履歴に失った記憶の手掛かりがあるかもしれないと思い、
見るが謎は深まるばかりだった。
記録では産休をとっていたことがある、が、覚えがない。
その子供が目の前にいたとして、
今、昔と同じように接しろと言われると無理な話だが。
とりあえず、無音の嫌悪感の原因はわかった気がした。
母親の立場からすると、
子供のことだけを忘れるのは『ありえない』と思っても不思議ではない。
誰かに話した覚えはないが、なぜか広まっているのは、
よくあることだ。

帰って、すぐ、陸空に聞いた。
黙っていたのは、何か理由があるはずだ。
記憶に穴が開いている七年間。
落ち着いた雰囲気の夫に、改めて過ぎた年月を体感する。

「私は、子供を、生んでいたの?
休暇履歴に、産休って…どうして、言ってくれなかったの?」

今から料理を始めよう。
そんな姿の陸空は、台所へ行く足を止め、私を抱きしめる。

「本人と養父母が望んだので、養子にだしたからだ。
養育費は、きちんと支払っているから、心配はいらない。
世話をしなくていい相手より、体調を優先してほしかった。
これからも、聞きたいことがあったら、言ってくれ。
今日は疲れただろう。体調はどうだ」

「疲れたけど、大丈夫。
着替えたら手伝うから」

「ゆっくりでいいからね」

いつものように微笑む陸空は、
台所へ向かい、夕食を作る支度を始める。
私は、優しい声に甘えてしまった。
着替えた後、陸空の隣に立ち、一緒に料理を仕上げる。

「漣音。味見して。どう?」

そう言いながら、小皿を渡される。
入っている中の半分を口に入れた。
疲れていても食べやすい味付けだ。

「おいしい」

「そう…ん、良い感じだな」

一瞬だった。
気づけば陸空に舌を奪われていた。
長くもなく、短くはない口づけに頭がくらくらする。

「漣音。運ぶから、先にいって」

耳元で囁かれた声は、とても甘い。

「うん」

熱をもった頭で返事をして、言われたとおりに食卓で待つ。

新しい日常は、新しい私を作っていく。
何かが欠けたまま月日は流れ、
しだいに、欠けたこともあまり気に留めなくなっていった。
相変わらず優しい陸空や義両親、陰口が風化した仕事場。
適度に忙しく、しかし穏やかな時間が過ぎていく。
そうして、あっという間に一年が経った。

相変わらず、休日は、陸空と一緒に買い物をする。

「待てよー」

「待たないー」

歩いていると、前から走ってくる子供とぶつかりそうになった。
しかし、陸空が避けてくれた。
勢いのある子どもは、私の横を通り過ぎる。
その後、音がした。少し後ろでこけたらしい。

「漣音。怪我は…」

「ない。それより子供さんは…」

「わかった。ここで、待って」

陸空が、こけた子供に話しかけている。
何を言っているかは、分からない。
子供は、私をみた。
涙声で何かを言っているが、聞き取れない。
その子供に何かを言った後、足早に戻ってくる陸空。

「待たせた。行こう」

「あの子供さんは…」

「大丈夫。心配ない」

「そう。よかった」

私は、差し出された陸空の手をとり歩き出す。

「さよなら、お母さん」

後ろから聞こえたつぶやきに、歩みを止めて、振り向いた。

「漣音?」

そこには、誰もいなかった。
あの子供さんは、
すでに遠くで呼んでいる子供のところへ駆けている。

「行こう」

「うん」

陸空と共に、再び歩き出す。
晴れた空に吹き渡る風と香りが、新しい季節を知らせていた。
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