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七章 院長の頼み
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「姉崎さん」
「はい」
院長である大津高子に呼ばれ、菜緒はカルテをしまう手を止めた。
ショートヘアで眼鏡の五十代にさしかかるくらいの白衣を着た女性が、首にかけていた聴診器を外しながら菜緒に話しかけてきた。
「今日、夕方から夜って予定ある?」
「いえ、ないです」
「姉崎さんの歓迎会やろうって話してたのよ。急だから、どうだろうって思って」
にか、と大津院長がフランクな笑みを浮かべる。
彼女のこういう飾り気のない笑顔はいい、と菜緒も笑顔で返す。
「全然! 大丈夫です! ていうか、歓迎会を開いてもらえるなんて思っていなかったので嬉しいです」
「よかった。今から皆にライン送るから。場所と時間はまた連絡する。多分駅前の居酒屋になると思うけれど」
「わかりました」
大津院長は踵を返したところで「あ」と短い声を上げてまた菜緒に振り返る。
「ごめん、歓迎会の時間より早く来てもらう用事があったんだ。いいかな?」
「はい大丈夫ですよ」
「じゃあ、それもあとでラインに送るわ」
「お願いします」
それで会話は終了した。
菜緒は先に二階に上がり更衣室に入る。
「姉崎さんお疲れ様! お先に失礼するね」
と先輩である浜田さんが、ナースウェアにカーディガンを羽織ったまま帰って行く。
歩いて五分ほどの場所に住んでいるせいか、こうして看護師の制服のまま通勤している。
大らかな性格で明るい。この医院のムードメーカーだ。
「あ、先生からラインだ。姉崎さん今日OKなんだ」
着替えながらスマホを確認しているのは、看護助手の宮本さんだ。
准看護師で、ここで働きながら看護師の資格を取ろうと頑張っている三十代の女性。
色々事情があるようだけど、詳しく聞いていない。
ちょっと痩せすぎ? と心配になるほど細いが、ぽっちゃりの浜田さんより大食いだそうだ。
「急に聞いてきてビックリしたでしょ?」
「まぁ……でも、今日は私も暇でしたから」
実はずっと予定がはいっていないのでと、内心呟き愛想笑いをしながら菜緒も着替える。
「そうなんだ~。先生結構急に言い出すのよね~。忙しいから忘れちゃうんだろうけど」
「もしかしたら宮本さん、今日都合悪いんですか?」
「ううん、大丈夫! 姉崎さんの歓迎会だし先生の奢りだし、絶対行く! 駅前だろうからいつもの肉バルかな~? それとも鶏のお店かな~? 中華もいいよね~。先生グルメだから、どれも美味しいお店なんだけどね~!」
歓迎会の主役である菜緒より、ずっと楽しみにしているようだ。宮本が生唾を呑み込む。
宮本の話に菜緒も、より楽しみになった。
けれど――
「私、先生から話があるからって集合時間より早めに行くんです。なんの話しなんだろう……」
それが気になった。
菜緒はGW明けに大津クリニックに再度連絡し、面接にこぎつけた。
半年のブランクはあるものの見事採用。
五月いっぱいで工場を辞めると伝えたら、これもまたあっさり受理された。
「急に辞めるなんて……」とお局様に睨まれたが、自分が菜緒に辛く当たっていたことを自覚していたのか、ほんの少しの嫌味だけで済んだ。
気力体力を回復させた菜緒は本来の、あっけらかんと物事をハッキリ言う性格が戻ってきたせいもある。
気力も体力も戻ったせいなのか、不思議だが視力まで改善させた。
眼鏡無しでも十分に生活でき、なんの支障もない。
こうして六月の入梅の月に菜緒は大津クリニックで看護師として働いて、それから二週間目の土曜日。
土曜日は午前中のみ。
しかし、ここ大津クリニックは地元に密着した個人病院であり、朝から患者が座る椅子さえ足りないほどの激混みであった。
それは面接時に言われていたので覚悟はしていた。
『忙しすぎて細かい指示を出せないときがあるの。そのときは同じ看護師の浜田さんに聞いて』
浜田さん――ぽっちゃりとしているが動きが機敏な方で、指示もわかりやすい。
しかも、どんなに忙しくてもいつもニコニコとしていて、患者さん達に人気の中年女性だ。
そして准看護師の宮本さん。薬剤師の島根さんに医療事務担当の小林さん。
院長を入れて総勢五人という、小さな個人院。
(なのにこんなに忙しい……!)
先代院長時代には産科もやっていたせいか二階建ての広めの病院だが、現在使用しているのは一階のみ。
三部屋と内診する検査室の合計四室を、医療事務の小林さんと薬剤師の島根さんを除いた三人でバタバタと走り回るのだ。
走り回るというか小走りだが、気持ち的には全速力で走っている気がする。
それほど忙しいのだ。
とにかく時間内で患者を捌かなくてはならない。しかし、手抜きは許されない、しっかりと患者の話を聞いて、適した処置を素早くしなくてはならない。
それは急患がやってきたときと似ていると菜緒は思った。
――ただ、平日含めて開院している間は、いつもそんな状態なだけで。
(これは……給料が高い理由がわかった気がするわ)
二週間なんてあっという間だった。
(もしかしたらこの二週間でミスでもしたのかな? それとも生意気なことした?)
大津クリニックは女性だけしかいない。
看護師の世界を生き抜いた菜緒だが、その間にも女性同士の争いを何度も見てきたし、北海道の病院を退職した理由もそれだ。
自分ではそういうつもりではないのに生意気な口をきいたとか、誤解で大変な苛めにあることだってある。
「何か私、気に障ることしたんでしょうか……」
「大丈夫じゃない? 姉崎さん、さすが大きい病院で働いていただけあって動きもスムーズだし。多分、『この二週間どう?』みたいな確認だと思う」
「かなぁ……」
「実は姉崎さんが入ってくる前に何人か看護師さんいれたのよ、でも忙しいせいかすぐに辞めちゃってね~。それで先生もこまめに話を聞くようにしたんじゃないかな~」
「そうだったんですか」
確かに忙しいけれど午後の診療まで休めるし、なんて言っても魅力なのは『超長期休暇』だ。
他の個人院と比べたら、GWにお盆休みと正月休みが長い。
菜緒もそれが魅力の一つで面接に挑んだ。
何でも初代がそれで過労で何度もダウンしたらしく『休みのときは思いっきり休んで英気を養う』と今の院長の大津高子が決めたらしい。
しかも出産は大きなリスクを抱えている場合がある。もし母胎共々生死の境を彷徨うことになったら早いほうが生存率は上がる。
なら妊娠後期まで診て、出産は設備が整っている大きな病院を紹介と、これまた今の院長が決めた。
(まあ、今の忙しさに+出産まで面倒診てたら……確かにオーバーワークだわ)
菜緒はスマホのラインを確認しながら自宅に戻る。
「はい」
院長である大津高子に呼ばれ、菜緒はカルテをしまう手を止めた。
ショートヘアで眼鏡の五十代にさしかかるくらいの白衣を着た女性が、首にかけていた聴診器を外しながら菜緒に話しかけてきた。
「今日、夕方から夜って予定ある?」
「いえ、ないです」
「姉崎さんの歓迎会やろうって話してたのよ。急だから、どうだろうって思って」
にか、と大津院長がフランクな笑みを浮かべる。
彼女のこういう飾り気のない笑顔はいい、と菜緒も笑顔で返す。
「全然! 大丈夫です! ていうか、歓迎会を開いてもらえるなんて思っていなかったので嬉しいです」
「よかった。今から皆にライン送るから。場所と時間はまた連絡する。多分駅前の居酒屋になると思うけれど」
「わかりました」
大津院長は踵を返したところで「あ」と短い声を上げてまた菜緒に振り返る。
「ごめん、歓迎会の時間より早く来てもらう用事があったんだ。いいかな?」
「はい大丈夫ですよ」
「じゃあ、それもあとでラインに送るわ」
「お願いします」
それで会話は終了した。
菜緒は先に二階に上がり更衣室に入る。
「姉崎さんお疲れ様! お先に失礼するね」
と先輩である浜田さんが、ナースウェアにカーディガンを羽織ったまま帰って行く。
歩いて五分ほどの場所に住んでいるせいか、こうして看護師の制服のまま通勤している。
大らかな性格で明るい。この医院のムードメーカーだ。
「あ、先生からラインだ。姉崎さん今日OKなんだ」
着替えながらスマホを確認しているのは、看護助手の宮本さんだ。
准看護師で、ここで働きながら看護師の資格を取ろうと頑張っている三十代の女性。
色々事情があるようだけど、詳しく聞いていない。
ちょっと痩せすぎ? と心配になるほど細いが、ぽっちゃりの浜田さんより大食いだそうだ。
「急に聞いてきてビックリしたでしょ?」
「まぁ……でも、今日は私も暇でしたから」
実はずっと予定がはいっていないのでと、内心呟き愛想笑いをしながら菜緒も着替える。
「そうなんだ~。先生結構急に言い出すのよね~。忙しいから忘れちゃうんだろうけど」
「もしかしたら宮本さん、今日都合悪いんですか?」
「ううん、大丈夫! 姉崎さんの歓迎会だし先生の奢りだし、絶対行く! 駅前だろうからいつもの肉バルかな~? それとも鶏のお店かな~? 中華もいいよね~。先生グルメだから、どれも美味しいお店なんだけどね~!」
歓迎会の主役である菜緒より、ずっと楽しみにしているようだ。宮本が生唾を呑み込む。
宮本の話に菜緒も、より楽しみになった。
けれど――
「私、先生から話があるからって集合時間より早めに行くんです。なんの話しなんだろう……」
それが気になった。
菜緒はGW明けに大津クリニックに再度連絡し、面接にこぎつけた。
半年のブランクはあるものの見事採用。
五月いっぱいで工場を辞めると伝えたら、これもまたあっさり受理された。
「急に辞めるなんて……」とお局様に睨まれたが、自分が菜緒に辛く当たっていたことを自覚していたのか、ほんの少しの嫌味だけで済んだ。
気力体力を回復させた菜緒は本来の、あっけらかんと物事をハッキリ言う性格が戻ってきたせいもある。
気力も体力も戻ったせいなのか、不思議だが視力まで改善させた。
眼鏡無しでも十分に生活でき、なんの支障もない。
こうして六月の入梅の月に菜緒は大津クリニックで看護師として働いて、それから二週間目の土曜日。
土曜日は午前中のみ。
しかし、ここ大津クリニックは地元に密着した個人病院であり、朝から患者が座る椅子さえ足りないほどの激混みであった。
それは面接時に言われていたので覚悟はしていた。
『忙しすぎて細かい指示を出せないときがあるの。そのときは同じ看護師の浜田さんに聞いて』
浜田さん――ぽっちゃりとしているが動きが機敏な方で、指示もわかりやすい。
しかも、どんなに忙しくてもいつもニコニコとしていて、患者さん達に人気の中年女性だ。
そして准看護師の宮本さん。薬剤師の島根さんに医療事務担当の小林さん。
院長を入れて総勢五人という、小さな個人院。
(なのにこんなに忙しい……!)
先代院長時代には産科もやっていたせいか二階建ての広めの病院だが、現在使用しているのは一階のみ。
三部屋と内診する検査室の合計四室を、医療事務の小林さんと薬剤師の島根さんを除いた三人でバタバタと走り回るのだ。
走り回るというか小走りだが、気持ち的には全速力で走っている気がする。
それほど忙しいのだ。
とにかく時間内で患者を捌かなくてはならない。しかし、手抜きは許されない、しっかりと患者の話を聞いて、適した処置を素早くしなくてはならない。
それは急患がやってきたときと似ていると菜緒は思った。
――ただ、平日含めて開院している間は、いつもそんな状態なだけで。
(これは……給料が高い理由がわかった気がするわ)
二週間なんてあっという間だった。
(もしかしたらこの二週間でミスでもしたのかな? それとも生意気なことした?)
大津クリニックは女性だけしかいない。
看護師の世界を生き抜いた菜緒だが、その間にも女性同士の争いを何度も見てきたし、北海道の病院を退職した理由もそれだ。
自分ではそういうつもりではないのに生意気な口をきいたとか、誤解で大変な苛めにあることだってある。
「何か私、気に障ることしたんでしょうか……」
「大丈夫じゃない? 姉崎さん、さすが大きい病院で働いていただけあって動きもスムーズだし。多分、『この二週間どう?』みたいな確認だと思う」
「かなぁ……」
「実は姉崎さんが入ってくる前に何人か看護師さんいれたのよ、でも忙しいせいかすぐに辞めちゃってね~。それで先生もこまめに話を聞くようにしたんじゃないかな~」
「そうだったんですか」
確かに忙しいけれど午後の診療まで休めるし、なんて言っても魅力なのは『超長期休暇』だ。
他の個人院と比べたら、GWにお盆休みと正月休みが長い。
菜緒もそれが魅力の一つで面接に挑んだ。
何でも初代がそれで過労で何度もダウンしたらしく『休みのときは思いっきり休んで英気を養う』と今の院長の大津高子が決めたらしい。
しかも出産は大きなリスクを抱えている場合がある。もし母胎共々生死の境を彷徨うことになったら早いほうが生存率は上がる。
なら妊娠後期まで診て、出産は設備が整っている大きな病院を紹介と、これまた今の院長が決めた。
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