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変わりゆく…
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彼は私の持つ本を見て、興味深そうに覗き込んだ。眉毛をピクリと動かすと、覗き込んだ姿勢のまま視線だけを動かして私を捕えた。それだけの仕草にドキドキと煩い程高鳴る私の鼓動など知る由もない、と言った涼やかな顔で彼は口を開く。
「ダンヌンツィオ、お好きなんですか」
歌うように滑らかに発せられた言葉の意味が、私にはわからない。ぽかんと口を呆けている私を見て、彼が笑った。目が無くなる程顔をくしゃつかせて笑う姿に目を奪われて、自分の顔に熱が帯びるのが分かった。
「本、ダンヌンツィオが書いた死の勝利です。私も好きな本なのですが……貴女は違いましたか」
彼は、笑いをかみ殺すように口を歪ませている。読めもしない本を開いていただけにとどまらず、本屋で働きながら彼が口にした著者の名前すら聞いた事も無なかったのが恥ずかしくて、慌てて本を閉じようとした時、彼が私の手から本を受け取った。
「イタリア語は得意ではないんですが、彼の書く文はとても美しいです。機会があればぜひ、読んでみては」
紳士的な態度で微笑んで見せた後、彼は本を閉じて元の位置へと戻した。
「イタリア語なんて全くわかりませんから、多分一生その機会は訪れないかと……。それがイタリア語で書かれていたのも、今知りました」
正直に白状すると、彼は目を真ん丸くさせた後、ははっと声を出して軽やかに笑った。彼が笑う度に心臓が飛び出てきそうで、これ以上同じ空間にいたら、本当に心臓が口から飛び出してくるのではないかと半ば本気で思った。
「読めない本を、どうして眺めていたのですか?」
当然とも言える質問を投げかけてきた彼に、返す言葉が見当たらなかった。あなたが買った本が何なのか知りたくて、また来てくれるかが知りたかったからです、など口が裂けても言えない。下を向きたい衝動をグッと堪えて、彼の穏やかな瞳を見ていた。この瞳を見ていられるのなら、どんな気まずさにも、恥ずかしさにだって耐えられるような気がした。
「ただ、どんな本なのかなってたまたま、手に取っただけなんです。お恥ずかしいです、本当」
少しだけ視線を下げた私の頬を、冷たい風がなぞった。不思議に思い顔を上げると、頬を撫でたのは風邪ではなく、彼の指先だったと気付いた。中指の腹で微妙に頬をなぞりながら、不思議な瞳を揺るがせた。むせ返りそうになる程の魅力が彼の全身から溢れているようで、目が釘付けになってしまう。
「顔が赤いですね。余計な事を言ってしまってすみませんでした」
そう言うや否や、優しい指先は離れていってしまう。名残惜しくて、その指先を見ていた私の頭上に、柔らかい笑い声が落ちる。
「そう言えば、指の怪我は」
落とした指先で、今度はさりげなく私の右手を絡め取った。ひんやりとした感覚に、心臓が止まりそうになる。
「もう大丈夫です。大した怪我じゃなかったですし。それより、あんなに高価な物を頂いてしまって……かえって申し訳ないです」
重ねられたままの手を見ていた私がそう言うと、彼は親指の腹でそっと手の甲を撫でた。そして見上げた私に微笑んで、口を薄く開く。
「とんでもない。私が勝手に贈ったものです。迷惑でなければいいのですが」
「迷惑だなんて、そんな」
慌てて否定をした私に、彼は一瞬驚いた様子を見せた。必死になってしまったことが恥ずかしくて、更に顔が赤くなっていくのが自分でもわかる。それがまた恥ずかしくて、ますます紅潮してしまう。
「それなら良かったです。今日もまた本を買いに来たんですが、貴女がいるかもしれないと、少しだけ期待をしていました」
突然の言葉に固まってしまう私に、彼は優しい笑みを向けている。まさか、彼も私に逢いたいと思ってくれていたのだろうか? まさか、とすぐに自らを否定する。彼のように、現実離れしたほど魅力的な人が、私など気にかけるはずがない。
「こうしていると、また彼に怒られてしまいそうですね」
小さく笑って、彼は手を離してしまった。あ、と情けなく声を漏らした私を見て、優しい目付きをした。彼の言った「彼」とは、間違いなく坂口さんだろう。昨日の彼の態度を、気にしているようだ。
「あ、あの人は店長で……それで……」
「貴女の事を大切に想っている、ですよね?」
そうはっきり言われてしまっては、何も言えなくなってしまう。それに私が言おうとしたのはそんな事ではなく、私はただの従業員です、と彼との関係性を無意識に明らかにさせようとしていたのだと思い知り、自分の行動がとても醜く感じた。
「貴女も、彼のことが……」
言いかけた彼は、軽く首を横に振り、先ほどと同じ様ににっこりと微笑んだ。その笑顔に、胸がぎゅっと締め付けられるような痛みを覚えた。
「こんなこと、よく知りもしない男に聞かれていい気はしませんね。すみません、忘れてください」
そう言うと、彼は私に背を向けて本を眺めた。今日買う本を物色しているのだろう。長い指が一冊の本の背表紙をそっと撫でた。本を羨ましいと思ったのは、これが初めてだった。
「あの、私、坂口さんの事は何とも思ってません」
え、と声を出して振り返り、目をぱちくりとさせている彼に向かって、私は一人で話を続けた。
「確かに、色んな事に感謝してますし、優しくて頼りになる人です。でも、私にとっては、なんていうか……お兄ちゃんみたいで……」
そうだ、それがしっくりくる。言いながら、そう思った。坂口さんは、私にとってたった一人に兄だ。誰よりも大切で、困った時にはきっと頼ってしまう。だけど、恋愛感情は一生抱けない。そんな存在なのだ。
だから、その……と突然始めたスピーチを終わらせる術も知らず、両手を組んでもじもじとするほか無かった。私も困っているが、きっと彼の方が困っているに違いない。そう思った刹那、彼が私のすぐ前に立ったのがわかった。驚きと緊張で、肩に力が入ってしまう。その肩にそっと手を乗せたかと思うと、パニックにならないように彼のジャケットの胸ポケットに集中させていた視線を、彼の冷たい指が顎を持ち上げて無理やり視線を絡ませた。
そこに浮かぶ瞳はどこまでも穏やかで、優しくて、それだけで安心できた。
「それは、いいことを聞きました。彼には気の毒ですけど」
眉尻を下げて、彼は坂口さんがいると思われるレジの奥へと視線を向けた。釣られて私もそちらを向こうとするが、長い指に顎の位置を引き戻されて、それは許されなかった。じっと私の目を見つめた後、彼は優しく笑って指を離した。
何かを期待していたとでも言うのか、私は自分が落胆していることに驚いていた。
「ダンヌンツィオ、お好きなんですか」
歌うように滑らかに発せられた言葉の意味が、私にはわからない。ぽかんと口を呆けている私を見て、彼が笑った。目が無くなる程顔をくしゃつかせて笑う姿に目を奪われて、自分の顔に熱が帯びるのが分かった。
「本、ダンヌンツィオが書いた死の勝利です。私も好きな本なのですが……貴女は違いましたか」
彼は、笑いをかみ殺すように口を歪ませている。読めもしない本を開いていただけにとどまらず、本屋で働きながら彼が口にした著者の名前すら聞いた事も無なかったのが恥ずかしくて、慌てて本を閉じようとした時、彼が私の手から本を受け取った。
「イタリア語は得意ではないんですが、彼の書く文はとても美しいです。機会があればぜひ、読んでみては」
紳士的な態度で微笑んで見せた後、彼は本を閉じて元の位置へと戻した。
「イタリア語なんて全くわかりませんから、多分一生その機会は訪れないかと……。それがイタリア語で書かれていたのも、今知りました」
正直に白状すると、彼は目を真ん丸くさせた後、ははっと声を出して軽やかに笑った。彼が笑う度に心臓が飛び出てきそうで、これ以上同じ空間にいたら、本当に心臓が口から飛び出してくるのではないかと半ば本気で思った。
「読めない本を、どうして眺めていたのですか?」
当然とも言える質問を投げかけてきた彼に、返す言葉が見当たらなかった。あなたが買った本が何なのか知りたくて、また来てくれるかが知りたかったからです、など口が裂けても言えない。下を向きたい衝動をグッと堪えて、彼の穏やかな瞳を見ていた。この瞳を見ていられるのなら、どんな気まずさにも、恥ずかしさにだって耐えられるような気がした。
「ただ、どんな本なのかなってたまたま、手に取っただけなんです。お恥ずかしいです、本当」
少しだけ視線を下げた私の頬を、冷たい風がなぞった。不思議に思い顔を上げると、頬を撫でたのは風邪ではなく、彼の指先だったと気付いた。中指の腹で微妙に頬をなぞりながら、不思議な瞳を揺るがせた。むせ返りそうになる程の魅力が彼の全身から溢れているようで、目が釘付けになってしまう。
「顔が赤いですね。余計な事を言ってしまってすみませんでした」
そう言うや否や、優しい指先は離れていってしまう。名残惜しくて、その指先を見ていた私の頭上に、柔らかい笑い声が落ちる。
「そう言えば、指の怪我は」
落とした指先で、今度はさりげなく私の右手を絡め取った。ひんやりとした感覚に、心臓が止まりそうになる。
「もう大丈夫です。大した怪我じゃなかったですし。それより、あんなに高価な物を頂いてしまって……かえって申し訳ないです」
重ねられたままの手を見ていた私がそう言うと、彼は親指の腹でそっと手の甲を撫でた。そして見上げた私に微笑んで、口を薄く開く。
「とんでもない。私が勝手に贈ったものです。迷惑でなければいいのですが」
「迷惑だなんて、そんな」
慌てて否定をした私に、彼は一瞬驚いた様子を見せた。必死になってしまったことが恥ずかしくて、更に顔が赤くなっていくのが自分でもわかる。それがまた恥ずかしくて、ますます紅潮してしまう。
「それなら良かったです。今日もまた本を買いに来たんですが、貴女がいるかもしれないと、少しだけ期待をしていました」
突然の言葉に固まってしまう私に、彼は優しい笑みを向けている。まさか、彼も私に逢いたいと思ってくれていたのだろうか? まさか、とすぐに自らを否定する。彼のように、現実離れしたほど魅力的な人が、私など気にかけるはずがない。
「こうしていると、また彼に怒られてしまいそうですね」
小さく笑って、彼は手を離してしまった。あ、と情けなく声を漏らした私を見て、優しい目付きをした。彼の言った「彼」とは、間違いなく坂口さんだろう。昨日の彼の態度を、気にしているようだ。
「あ、あの人は店長で……それで……」
「貴女の事を大切に想っている、ですよね?」
そうはっきり言われてしまっては、何も言えなくなってしまう。それに私が言おうとしたのはそんな事ではなく、私はただの従業員です、と彼との関係性を無意識に明らかにさせようとしていたのだと思い知り、自分の行動がとても醜く感じた。
「貴女も、彼のことが……」
言いかけた彼は、軽く首を横に振り、先ほどと同じ様ににっこりと微笑んだ。その笑顔に、胸がぎゅっと締め付けられるような痛みを覚えた。
「こんなこと、よく知りもしない男に聞かれていい気はしませんね。すみません、忘れてください」
そう言うと、彼は私に背を向けて本を眺めた。今日買う本を物色しているのだろう。長い指が一冊の本の背表紙をそっと撫でた。本を羨ましいと思ったのは、これが初めてだった。
「あの、私、坂口さんの事は何とも思ってません」
え、と声を出して振り返り、目をぱちくりとさせている彼に向かって、私は一人で話を続けた。
「確かに、色んな事に感謝してますし、優しくて頼りになる人です。でも、私にとっては、なんていうか……お兄ちゃんみたいで……」
そうだ、それがしっくりくる。言いながら、そう思った。坂口さんは、私にとってたった一人に兄だ。誰よりも大切で、困った時にはきっと頼ってしまう。だけど、恋愛感情は一生抱けない。そんな存在なのだ。
だから、その……と突然始めたスピーチを終わらせる術も知らず、両手を組んでもじもじとするほか無かった。私も困っているが、きっと彼の方が困っているに違いない。そう思った刹那、彼が私のすぐ前に立ったのがわかった。驚きと緊張で、肩に力が入ってしまう。その肩にそっと手を乗せたかと思うと、パニックにならないように彼のジャケットの胸ポケットに集中させていた視線を、彼の冷たい指が顎を持ち上げて無理やり視線を絡ませた。
そこに浮かぶ瞳はどこまでも穏やかで、優しくて、それだけで安心できた。
「それは、いいことを聞きました。彼には気の毒ですけど」
眉尻を下げて、彼は坂口さんがいると思われるレジの奥へと視線を向けた。釣られて私もそちらを向こうとするが、長い指に顎の位置を引き戻されて、それは許されなかった。じっと私の目を見つめた後、彼は優しく笑って指を離した。
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