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デート
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デートをしようと誘った張本人は、何故か私の目の前で固まってしまった。笑って細めていた目はいつもより大きく開かれていて、驚いているのがわかる。
「あれ、行かないんですか?」
いやいや、と慌てた様子で両手をブンブン振る。
「行く行く。それ、髪降ろしてるの、超いい」
パッと明るい笑顔を浮かべて、私の髪を指差している。胸元まで伸ばした髪は染めるでも、パーマをかけるでもなく、ただ伸ばしているだけだ。それを褒められるとは思っていなかったので、正直なところ困惑もしたけれど、悪い気はしなかった。
「あ、ありがとうございます」
小さく答えると、彼は何度も頷いていつものようににこにこと笑顔を見せた。
「じゃあ、俺クローズ作業しておくから、葉月ちゃん支度しちゃって」
お願いします、と軽く頭を下げてからエプロンを外した。簡単に折り畳んで奥のロッカーへ仕舞い込む。隣にある小さな鏡に顔を映して、一度じっくりと見る。化粧は出勤前にして、昼休み後に軽く直しただけだ。もともと化粧は濃い方ではないが、お昼休みに化粧直しをするようになったのはここ数日のことだ。いつ史弥さんが来てくれるかと淡い期待を込めて、普段はしないことまでやり始めている自分に驚く。
「準備いい?」
ひょっこりと顔を覗かせた坂口さんに返事をして、薄く口紅だけ塗り直してその場を後にした。
「あの、どこへ行くんですか」
そう尋ねたのは、坂口さんの運転する車に乗り込んで四十分程が経過した時だった。横浜市内から車を走らせて、いつの間にか海沿いを走っていた事に気付いた時だ。車内では、次々と繰り出される質問に私が答えていた。さっきのは、私がした最初の質問だ。
「もうすぐ着くよ。海の見えるレストラン」
「海の……」
時折見える看板の表示から、ここが既に江ノ島であることは気付いていた。楽しそうにハンドルを握る坂口さんを見ると、彼も顔をこちらへと向けて微笑んだ。
「店長って不思議な人です」
一度前を向いた彼が、再びこちらへ視線を戻す。
「え? 俺が?」
右手をハンドルから離して、自らの鼻の頭を指差している。そう、と頷くと、どこか不満そうな顔をして見せる。時々前方へと視線を戻しながら、まだこちらを見ている。
「なんか……不思議です。今日だって、何でいきなり出かけたのかも不思議ですし、わざわざこんな遠くまでご飯食べに来たのも不思議です。近場でよかったのに」
彼は少しだけ眉間に皺を寄せて、口元には微かな笑みを浮かべた。ううん、と悩むように声を漏らして、顔を前へと向き直した。
「わざわざって……。出かけたくなるのも、わざわざ海の見えるレストランまで車を走らせたのも、理由は同じだよ。簡単だと思うけどな」
少し困ったように笑って、チラリと視線を向けた。
「わかりませんよ。店長は、私には不思議な人です。史弥さんも不思議だけど、あの人ともまた違った不思議さです」
不思議、という言葉を口にした瞬間から、史弥さんのことを思い浮かべていた。史弥さんは、零れ落ちてしまいそうな魅力の中の一つに、その不思議さも含まれている様な気がした。接しやすく優しく穏やかだけれど、決して隙は見せない、そんなイメージだ。
「なんでそこであいつの名前が出てくるかな」
ピンと棘のはったような言い方に、思考が遮られた。隣にいるはずの坂口さんのことではなく、今私は完全に、史弥さんのことで頭がいっぱいになっていた。尤もそれは、今に始まった話ではなくて、初めて逢った日からずっと、彼の事を考えているわけだが。
「別に、深い意味はないですけど……」
ジーンズの生地を爪でカリカリと引っ掻きながら、心にもないことを言った。意味がないどころか、今すぐ彼に逢いたい。そんな気持ちを知ってか知らずか、坂口さんは手の甲を私の額に軽く打ち付けて、こら、と鋭く言葉を吐いた。
「そんな顔すんなって。これから、下向くの禁止な。あとあいつを話題にするのも禁止」
そんな、と言いかけた私を制して、更に続ける。
「今日だけでいいからさ、ちゃんと俺のこと見てよ。ね?」
真面目なトーンでそう言われて、顔を運転席へと向けた。言われてみれば、初めて出逢った時から一度も、私は彼を男性として意識をしたことがない。話をするようになってからも、一緒に働くようになってからも、彼の気持ちを知っても尚、それは変わっていなかった。
「俺の名前、知ってる?」
横顔を見つめていた私に、彼が笑って尋ねてくる。知り合って七年近くになるのだ。名前くらい当然知っているし、彼だってそれはわかっているはずなのに、とやはり不思議に思う。
「当たり前じゃないですか」
「本当? 店長じゃないよ?」
真面目な顔をしてそんな事を言うから、思わず笑ってしまった。すると彼は信号待ちなのをいいことに、前方から完全に視線を外して、私の顔をじっと見つめた。その顔には、いつもと同じ優しい笑みが浮かんでいる。
「名前、言ってみ」
そう促されると、信号が青に変わり、前の車が動きだした。それに気付いて、前を向き直すも、チラチラとこちらに視線を配ってくる。
「坂口さん」
「下の名前」
私が最初から名字で呼ぶと確信していたスピードで彼が反応する。一緒に働いているのだから、当然フルネームを知っている。しかしその名前を口にした事など、過去に一度もなかった。
「なんで下の名前なんですか」
窓の外に見える暗い海と、日本には到底似つかわしくないように思えるパームツリーを横目に見ながら、そう答えた。彼の意図が少しだけ見えてきて、ほのかに嫌悪感を抱いていた。
「俺も葉月ちゃんて呼んでるし。それに、あいつのことは迷わず下の名前で呼んだじゃん。俺は駄目なの?」
「俺は駄目って、子供みたいな事言わないでください。史弥さんの話は禁止って言ったの、店長ですよ」
窓を見たままそう答えると、車が左にカーブを描いた。その先には綺麗な外観の、小さなレストランが見えている。夏のようにも、秋にも見える不可思議な景色を眺めながら、話を続けていた。
「ほら、史弥さんって言った」
「それは苗字が言いにくいから……」
「アーレンスでしょ? そんなに言いにくい?」
言い返そうとしたが、何も言葉が出て来ない。口を開けたまま言葉を捜していると、車が緩やかにスピードを落として止まった。シートベルトを外して坂口さんが車を降りたので、追いかけるようにして私も車から降りた。それを待って鍵をかけた彼は、車の前方を廻ってこちらへ足を進めた。
伸ばした人差し指を倒して、にこりと笑う。
「入口こっち」
さっきまでの不毛なやりとりがやっと終わった事に安堵した私は、頷いて彼に並んだ。
「あれ、行かないんですか?」
いやいや、と慌てた様子で両手をブンブン振る。
「行く行く。それ、髪降ろしてるの、超いい」
パッと明るい笑顔を浮かべて、私の髪を指差している。胸元まで伸ばした髪は染めるでも、パーマをかけるでもなく、ただ伸ばしているだけだ。それを褒められるとは思っていなかったので、正直なところ困惑もしたけれど、悪い気はしなかった。
「あ、ありがとうございます」
小さく答えると、彼は何度も頷いていつものようににこにこと笑顔を見せた。
「じゃあ、俺クローズ作業しておくから、葉月ちゃん支度しちゃって」
お願いします、と軽く頭を下げてからエプロンを外した。簡単に折り畳んで奥のロッカーへ仕舞い込む。隣にある小さな鏡に顔を映して、一度じっくりと見る。化粧は出勤前にして、昼休み後に軽く直しただけだ。もともと化粧は濃い方ではないが、お昼休みに化粧直しをするようになったのはここ数日のことだ。いつ史弥さんが来てくれるかと淡い期待を込めて、普段はしないことまでやり始めている自分に驚く。
「準備いい?」
ひょっこりと顔を覗かせた坂口さんに返事をして、薄く口紅だけ塗り直してその場を後にした。
「あの、どこへ行くんですか」
そう尋ねたのは、坂口さんの運転する車に乗り込んで四十分程が経過した時だった。横浜市内から車を走らせて、いつの間にか海沿いを走っていた事に気付いた時だ。車内では、次々と繰り出される質問に私が答えていた。さっきのは、私がした最初の質問だ。
「もうすぐ着くよ。海の見えるレストラン」
「海の……」
時折見える看板の表示から、ここが既に江ノ島であることは気付いていた。楽しそうにハンドルを握る坂口さんを見ると、彼も顔をこちらへと向けて微笑んだ。
「店長って不思議な人です」
一度前を向いた彼が、再びこちらへ視線を戻す。
「え? 俺が?」
右手をハンドルから離して、自らの鼻の頭を指差している。そう、と頷くと、どこか不満そうな顔をして見せる。時々前方へと視線を戻しながら、まだこちらを見ている。
「なんか……不思議です。今日だって、何でいきなり出かけたのかも不思議ですし、わざわざこんな遠くまでご飯食べに来たのも不思議です。近場でよかったのに」
彼は少しだけ眉間に皺を寄せて、口元には微かな笑みを浮かべた。ううん、と悩むように声を漏らして、顔を前へと向き直した。
「わざわざって……。出かけたくなるのも、わざわざ海の見えるレストランまで車を走らせたのも、理由は同じだよ。簡単だと思うけどな」
少し困ったように笑って、チラリと視線を向けた。
「わかりませんよ。店長は、私には不思議な人です。史弥さんも不思議だけど、あの人ともまた違った不思議さです」
不思議、という言葉を口にした瞬間から、史弥さんのことを思い浮かべていた。史弥さんは、零れ落ちてしまいそうな魅力の中の一つに、その不思議さも含まれている様な気がした。接しやすく優しく穏やかだけれど、決して隙は見せない、そんなイメージだ。
「なんでそこであいつの名前が出てくるかな」
ピンと棘のはったような言い方に、思考が遮られた。隣にいるはずの坂口さんのことではなく、今私は完全に、史弥さんのことで頭がいっぱいになっていた。尤もそれは、今に始まった話ではなくて、初めて逢った日からずっと、彼の事を考えているわけだが。
「別に、深い意味はないですけど……」
ジーンズの生地を爪でカリカリと引っ掻きながら、心にもないことを言った。意味がないどころか、今すぐ彼に逢いたい。そんな気持ちを知ってか知らずか、坂口さんは手の甲を私の額に軽く打ち付けて、こら、と鋭く言葉を吐いた。
「そんな顔すんなって。これから、下向くの禁止な。あとあいつを話題にするのも禁止」
そんな、と言いかけた私を制して、更に続ける。
「今日だけでいいからさ、ちゃんと俺のこと見てよ。ね?」
真面目なトーンでそう言われて、顔を運転席へと向けた。言われてみれば、初めて出逢った時から一度も、私は彼を男性として意識をしたことがない。話をするようになってからも、一緒に働くようになってからも、彼の気持ちを知っても尚、それは変わっていなかった。
「俺の名前、知ってる?」
横顔を見つめていた私に、彼が笑って尋ねてくる。知り合って七年近くになるのだ。名前くらい当然知っているし、彼だってそれはわかっているはずなのに、とやはり不思議に思う。
「当たり前じゃないですか」
「本当? 店長じゃないよ?」
真面目な顔をしてそんな事を言うから、思わず笑ってしまった。すると彼は信号待ちなのをいいことに、前方から完全に視線を外して、私の顔をじっと見つめた。その顔には、いつもと同じ優しい笑みが浮かんでいる。
「名前、言ってみ」
そう促されると、信号が青に変わり、前の車が動きだした。それに気付いて、前を向き直すも、チラチラとこちらに視線を配ってくる。
「坂口さん」
「下の名前」
私が最初から名字で呼ぶと確信していたスピードで彼が反応する。一緒に働いているのだから、当然フルネームを知っている。しかしその名前を口にした事など、過去に一度もなかった。
「なんで下の名前なんですか」
窓の外に見える暗い海と、日本には到底似つかわしくないように思えるパームツリーを横目に見ながら、そう答えた。彼の意図が少しだけ見えてきて、ほのかに嫌悪感を抱いていた。
「俺も葉月ちゃんて呼んでるし。それに、あいつのことは迷わず下の名前で呼んだじゃん。俺は駄目なの?」
「俺は駄目って、子供みたいな事言わないでください。史弥さんの話は禁止って言ったの、店長ですよ」
窓を見たままそう答えると、車が左にカーブを描いた。その先には綺麗な外観の、小さなレストランが見えている。夏のようにも、秋にも見える不可思議な景色を眺めながら、話を続けていた。
「ほら、史弥さんって言った」
「それは苗字が言いにくいから……」
「アーレンスでしょ? そんなに言いにくい?」
言い返そうとしたが、何も言葉が出て来ない。口を開けたまま言葉を捜していると、車が緩やかにスピードを落として止まった。シートベルトを外して坂口さんが車を降りたので、追いかけるようにして私も車から降りた。それを待って鍵をかけた彼は、車の前方を廻ってこちらへ足を進めた。
伸ばした人差し指を倒して、にこりと笑う。
「入口こっち」
さっきまでの不毛なやりとりがやっと終わった事に安堵した私は、頷いて彼に並んだ。
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