砂に描いた夢

Bella

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甘い誘惑

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 史弥さんの運転する車に揺られて一時間程が過ぎて、彼は小高い山のふもとに停車させた。あたりはしんと静まり返っていて、人の気配はない。彼は私一人を車に残して、さっさと降りてしまった。彼を追いかけるように慌てて下車すれば、彼は車のすぐ隣で私を待っていてくれた。ほっとして駆け寄ろうとすると、彼は左手を真っ直ぐ私へ差し伸ばして、それを私が掴むのを待った。

 戸惑いはなかった。ひんやりと冷たい彼の手を、絶対に離したくないと思った。ぎゅっと力を込めて握れば、彼は微笑んでその手を握り返してくれる。

「こっちだよ、おいで」

 そう言いながら、彼はゆっくりと手を引いて歩き出した。歩いてすぐ視界に入ったのは、眼科に広がるなだらかな木々だった。薄黄色の葉を、落ちかけた陽が黄金色に輝かせていた。その景色に目を奪われていると、隣から優しい声が響く。

「あと少しで日が暮れる。とても綺麗なんだよ」

 黄色い陽を浴びて微笑む彼の後ろに、大きな太陽がオレンジ色に燃えていた。
 やがて十五分程で陽が落ちると、今までに見たこともないような景色に息を飲んで見入った。

 真っ赤な夕日に木々が照らされて、燃える様にゆらゆらと揺らめいた。大きな空と広い景色に圧倒されて、自らの存在の小ささを知らしめられたような感覚だった。

「この景色が大好きでね、よくここへ来るんだよ。気に入った?」

 はい、と返事をするのが精いっぱいで、ただ沈みゆく太陽を眺めていた。隣には、地球上の誰よりも大好きな人がいて、これを人は幸せと呼ぶのか、などとぼんやり考えていた。


「すごく綺麗でした。ありがとうございます」

 すっかり暗くなった山道を滑らかに走らせる史弥さんに礼を言うと、にこりと微笑んで一瞬こちらに視線を向けてくれた。

「敬語じゃなくていいよ。って言っても、すぐには抜けないだろうけど」

 何でも見通してしまうように、彼は小さく笑う。頑張ります、と敬語で脱敬語宣言をした私に笑いかけて、ちらりと時間を確認したのがわかった。

「十九時過ぎか。葉月さんの家は書店の近く?」
「はい、歩いて十分くらいで」

 近くていいね、と彼は驚く。

「それなら仕事帰りも安心だね。と言っても、一番心配なのが店の中にいるわけだけど」

 本気なのか冗談なのかもわからない口調だった。

「毎日迎えに行こうか」

 にやりと片方の口角を釣り上げて、彼が笑う。私が困って、断るとわかっているのだろう。

「お願いします、って言ったら、毎日来てくれるんですか」

 ずっとからかわれているのだから、たまにはこちらから困らせてみてもいいかもしれない、そんなちょっとした軽い気持ちだった。しかし彼は、道から完全に目を逸らして、二つの目で私を射抜いた。

「もちろん。葉月が望むなら、何だってするよ」

 そう言うや否や、するりと私の手を取って指先に唇を押し当てた。手よりも僅かに体温の高い柔らかな感触に、思わず声が漏れた。その声を聞いて、彼が楽しそうに笑う。手は握ったまま、私の膝へと戻された。
 突然のキスも、葉月と名を呼び捨てにされたことも、そのどちらかだけでも、私の心臓を制御不能にするのには充分すぎた。わたわたと言葉にならない声をあげる私に、彼は優しい目をして笑いかける。

「とりあえず書店に向かって走らせるから、家まで案内してくれる?」

 落ち着き払ったその声に、何とか自分も冷静にならなくてはと言い聞かせるが、どうにも上手く行きそうにない。諦めてため息をついて、心臓はそのまま激しく脈を打たせておくことにする。
 道案内の件にわかりましたと頷くと、彼はやはり笑って口を開く。

「そんな寂しそうな顔しないで。明日はお店に行くよ。新しい作品の資料を集めないといけないし、店長さんに釘もささないといけないしね」
「釘?」

 そう、と前を見つめたまま頷く。私の手を握っている指に力を込めて、低い声を出す。

「葉月に手を出したら噛み付くぞって」

 歯を見せつける様に口を開いて、顔をこちらへ向けた。暗い車内では、美しい顔に笑っていない目がやけに光を放っているようで、どこか不気味にも見えた。

「噛み付くって、史弥さんがですか」
「ううん、そこは真面目に返されると痛い。尤も、噛み付くなら彼じゃなくて葉月がいいけどね」

 鋭かった視線を突然甘くとろつかせて、彼は一瞬道路へ視線を戻してから、もう一度私を横目で捕えた。繋いでいた指を解いて、そのまま私の首筋を指先でなぞる。大げさに反応して漏れた声を止めようと、手遅れだとはわかりながらも両手で口を押えた。驚いた素振りを見せた彼は、すぐにかろやかに笑い出した。恥ずかしくて顔が熱くなるが、幸い車内は薄暗く、それが史弥さんに気付かれないだろうと言うのが救いだった。

「そんなに? ごめんね、触ったらだめだった?」

 笑いながらも心配そうな瞳で、覗き込まれる。既に街中へ戻ってきた私達は、信号で止まっていた。

「いえ、そういうわけじゃないんですけど……」

 下を向けば、細い指先で顎を持ち上げられて、いつかのように彼の方へ強制的に顔を向けさせられた。彼は真面目な目付きで、口元を軽く緩めて笑った。

「じゃあ、触っても構わないのかな。これから俺の家へ来る?」

 息を飲んだ私の目に映るのは、今にも笑い出しそうな顔をしている史弥さんだ。どうやら、またからかわれたようだ。ほどいていた指をまた絡めた彼は、楽しそうに笑っている。

「あの、私……本当にこういうの慣れてなくて……。だから、あの、そういうのは……少し待ってもらえないですか」

 繋いだ指に視線を落として、ぽそぽそと口にした。私は、彼が好きだ。そして彼もまた、同じ気持ちだと言ってくれた。私だっていつまでも小娘なわけではないし、大人の男女が気持ちを確認し合えば、その次にどんな展開が待っているのくらいは理解している。頭では、理解しているのだ。だけど、どうしても心が追いつかない。彼の優しい指が肌を撫でたり離れてしまう度に、一喜一憂しているのに。

 あの日の記憶が忌々しく甦り、私を縛り付ける。

 史弥さんの指を握りしめる様に手に力を込めた時、彼はその手を強く握り返してから滑らかな手つきでほどいてしまう。やはり、いい年をした女が体の関係を拒めば、そこに待つのは別れだけなのだろうか。
 涙が零れそうになったその刹那、頭をぽんぽんと二度優しく触れられた。その手は優しく髪を撫でて、垂れていた横髪を耳へとかけてくれた。優しい手つきでもう一度頭を撫でたあと、指先でそっと頬に触れた。

「ごめんね、怖がらせたかな。大丈夫だよ、わかってるから」

 俯いていた顔を上げて運転席を見ると、彼はちらりとこちらを見て、今までで一番優しい微笑みを向けてくれる。

「さっきも言ってたね、慣れてないって。それなのに悪ふざけがすぎたね。焦るつもりは全くないから、安心してよ」

 優しい口調と目付きとは裏腹に、弄ぶように指先で耳に触れて、その言動全てが私を壊そうとしているかのようだった。このままでは心臓がいくつあっても足りないのではと、本気で不安になるくらいだ。

「ありがとう、ございます」

 うん、と優しく答えて、彼はまた指を絡ませた。


 そこから自宅までは、ほんの数分でついてしまった。書店に向かう道から案内をしながら、彼はアパートの入り口まで車をつけてくれた。エンジンをかけたまま、彼はサイドブレーキを引いて車を降りた。足元に置いていた鞄を拾い上げてから降りようとすると、外からドアが開かれる。そして目の前に綺麗な手が差し出されて、思わず彼を見上げる。

「お手をどうぞ、お姫様」

 紳士的な態度でそう言って、なんてね、と子供のように笑って見せた。しかし手はまだ差し伸べられたままで、冗談で手を伸ばしたわけではないのだと悟った。
 少し丸められたその手に触れると、優しい力で引いて私を立ち上がらせた。そしてそのまま流れる様に私を胸元まで抱き寄せて、肩に腕を巻きつけた。空いた手で車のドアを閉めて、両手で私の身体を決して強くはない力で抱きしめた。腕の中で固まる私の頭を包むように片手を乗せて、身体を僅かに離した。そして指で顎を持ち上げると、ゆっくりと顔を近付けた。首を傾けて唇を薄く開いた彼は、両手を私の背中へ回していた。つまり、私には逃げ道がなかった。逃げたいとも思わなかったわけだが、彼は唇が重なるその直前でピタリと止めた。様子を伺う様に私の目を覗きこんで、ふと柔らかい笑みを浮かべた。
 すると彼は、そのまま顔の位置をずらして私の頬に口づけをした。優しいキスを頬から額へと滑らせて、頭に手を乗せて離れてしまう。

「また明日、お店でね。今日は逢えてよかった」

 そう言って、彼は私の頭を撫でてから手を離した。安心したけれど、残念に思う気持ちも確かにあって、私は彼の目をじっと見つめた。同じように見つめ返した彼が、微笑む。

「そんな顔をされたら帰せなくなってしまうな。次は、逃がさないかもしれないよ」

 妖しさすらも彼は味方につけてしまうのかと思うほど妖艶に、更には美しく笑って見せた。さっきの台詞は、もしかしたら私こそ言うべきなのかもしれない、などと思ってみたりする。

「だ、大丈夫です」

 勇気を振り絞って口を開いたはずだったのに、漏れた言葉は弱弱しく震えていた。恥ずかしくて下を向いていると、頭上に優しい声が響く。

「無理しないで。時間ならいくらでもあるから」

 そう言って頭に手を乗せて、やはり二度、優しくぽんぽんと叩いた。

「また明日、お店でね。おやすみ」
「おやすみなさい」

 挨拶をするために顔を上げた私の鼻先に、彼が一瞬キスをした。そして満足そうに目を細めて笑うと、私をアパートの中へと促した。
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