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気持ちの在り処
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眠さを必死に堪えてありとあらゆる睡魔対策を試してみたけれど、そのどれからも期待したほどの効果は得られなかった。今日何度目かの目薬を差し終えて、カウンターに頬杖をついた。勤務中にこんな態度を取るのは珍しいことだ。自分で言うのも何だが、私は割と真面目な方だ。勤務中にだらけた態度を取るなど、今までは考えられなかった。
しかし、今日だけは。
昨夜一人自室に戻ってからも、史弥さんの体温や匂いが忘れられずにいた。別れ際にされた鼻先へのキスも、じらすように唇が触れそうで触れられなかったことも、全てが鮮明に思い出されて眠る事など到底出来なかった。結局明け方まで一人、休まる気配すら見せない鼓動の音を聞いていた。
「夕方前に行けると思う。仕事、頑張ってね」
どうせ眠らないので、いつもより早くベッドから抜け出して支度を済ませた。ゆっくりとインスタントのコーヒーを味わっていると、スマホがピロンと間抜けな音を立ててメッセージの受信を知らせた。昨日交換した連絡先に、帰宅後も彼からメッセージをくれた。車に乗せてもらい、家まで送ってもらったのだから私からお礼の連絡をしようと思っていたが、スマホを握りしめて文を打っては消し、を繰り返しているうちに彼の方からメッセージが着てしまったのだ。一瞬でついた「既読」マークに、彼はどう思っただろう……。
「待ってます。お気をつけて」
味気なさすぎるだろうか? かといって、絵文字などを使うのは慣れていないし、どこか恥ずかしくもある。また、思考がフリーズしてしまう。結局、三十分以上も悩んだ末、「お気をつけて」だけ送った私は、地球上で最も意気地なしだと思う。それに加えて、たった一言しか送っていないにも関わらず返事はまだかとポケットに入れたスマホの画面を隙あらば確認しているのだから、本当にしょうがないと思う。
彼氏、という人生初の存在がこんなにも心をざわつかせるものなのかと狼狽え、足下が覚束なくなるような不安を覚えていた。たった一度手を握るだけで、一言メッセージをくれるだけでこんなにも幸せな気持ちにさせてくれる彼は、一体どれほど私を傷付けることができるのだろうと無意識に考えては怖くなる。
「珍しいね、そんな顔して」
ぼんやりと色んな事に思考を巡らせていると、背後から声をかけられた。すぐに坂口さんが私の隣に並び、カウンターに両肘をついて前屈みになっている。カウンターの下に椅子が仕舞われているが、何故かそれには座らないことを決めたようだ。
「具合悪いの?」
そう言って、顔を覗き込んでくる。慌てて身体を伸ばして、ついていた肘を伸ばす。
「いえ、全然。すみません、ちゃんとします」
いくらなんでも気が抜けすぎていた、と反省する。しかし身体は正直なもので、視線は正面にある時計へ吸い寄せられる。時刻は十五時半を少し回ったところだ。夕方前、とは一体何時を差すのだろう。
「別にいいよ。ゆっくりしてても」
柔らかい笑みを浮かべて、彼が笑う。
一昨日、史弥さんがカフェを去った後、彼はかなり機嫌が悪かった。私の手前必死に落ち着こうとしていたようだが、目付きの鋭さは最後まで戻らなかった。一日空いたこともあってか、どうやら気分はかなり落ち着いたようだ。史弥さんが来ればまた喧嘩になるのだろうか、などと考え、史弥さんが来るときには奥にいてくれたら……と自分に都合よく身勝手な事を考えた自分にゾッとして頭を振る。それを見て、坂口さんは口を開いた。
「真面目だねぇ。店長の俺がいいって言ってるんだから、甘えればいいのに」
笑いながら手を伸ばして、椅子を掴んで引っ張り出す。そのまま跨ぐようにして座り込んで、畳まれていたノートパソコンを開いた。発注したい本などをよく探しているので、恐らく今も風変わりな本を検索しているに違いない。
「でも、それじゃ申し訳なくて……。ただでさえ、私あまり役に立っていないのに」
重たい本を運んだり、高い棚へ品出しをするのは彼が進んでやってくれるので、私は手が届く範囲の品出しと、在庫管理とレジだけだ。既に充分すぎる程、彼には甘えている。
「そんなことないよ。ここに居てくれるだけでいいんだから」
少しだけ寂しそうに、彼は私へ微笑みかけた。
「そんなわけにはいかないです。仕事ですから」
仕事か、と彼が言う。その口調はやはり悲しげで、胸にチクリと棘が刺さったようだった。
「コーヒーでも飲んだら? 暇でしょ」
そう言いながら、親指を立てて背後を差す。奥のバックヤードには、いつもドリップしたコーヒーが用意されている。これは坂口さんの好みであり、彼は常にと言っていい程コーヒーを飲んでいる。
「すみません、貰います」
椅子から立ち上がると、はいよ、と返事が背中にあたった。
コーヒーの良い香りを思い切り吸い込んで、深いため息を吐きだした。もうすぐ史弥さんが来るかと思うと、嬉しさと緊張でおかしくなってしまいそうだった。
口に含んだコーヒーを飲みこんだ時、店の方から話し声が聞こえてきた。お客さんが来たようだ、とコーヒーカップを片手に戻る事を躊躇した時だった。
私はコーヒーが零れるのも気にせずに走り出した。
「あぁ、よかった。いないのかと思った」
カウンターの向こうでは、やはり史弥さんが立っていた。眩しい笑みで私を見つめて、ふと視線を私の胸元に下げて眉尻を下げた。
「大丈夫? 火傷してないといいけど」
カウンターまで歩み出た私の胸元を指差して、彼が笑う。その先を辿って視線を送れば、薄いグリーンのエプロンに黒い染みが出来ていた。ここへ走ってきた時にかかったのだろう。私が舞い上がって、まさに飛ぶようにここまで急いできた事に、彼は気付いているだろう。
「大丈夫です」
恥ずかしくて下を向いてコーヒーをカウンターへ置くと、彼の低い笑い声が聞こえてくる。
「本を買いに来たんじゃないんですか。あっちですよ」
隣で坂口さんが不機嫌な声を出す。頬杖をついて、もう一方の手で奥のコーナーを指差した。仮にも客である史弥さんにそんな態度を取るなんて、と顔を上げると、近くに史弥さんが立っている事に気付き、思わず見惚れてしまう。
「あ、スーツ……」
ようやく、彼がスーツを身に纏っていることにも気付く。普段は茶色い革のジャケットを着ているので、初めて見るスーツ姿に目から火花が出るかと思った。紺色の細身のスーツを着て、中には薄い水色のストライプが入ったシャツを着ている。ネクタイはせず、胸元を少しだけ空けていた。
「かっこいい」
思わず口から洩れた本音に、慌てて口を塞ぐ。しかし、一度口から飛び出した言葉は二度と戻っては来てくれないものだ。クスクスと声を殺して笑う史弥さんを見て、顔が熱くなる。
「ありがとう、嬉しいな。今日はこの後、仕事の付き合いで食事に行かなくてはいけなくてね。一応正装を、と思って」
にこりと微笑んだ彼を見て、『仕事の付き合い』の相手が女性でない事を心から願った。コーヒーの染みを付けたエプロンを身に着けた私なんて、彼には恐ろしい程釣り合わない。改めてそう思い知って、ため息が漏れそうになる。
「ところで、昨日は眠れなかった? 少し目が赤いね。せっかくの休日だったのに、連れ出して悪かったね」
心配そうな瞳をして、史弥さんが私の目を覗き込む。透明度の高い灰色の瞳に、呼吸が止まる。
「いえ、嬉しかったです。いや、あの、そうじゃなくて、楽しかったです」
慌てて言い直したのがよほどおかしかったのか、彼は声をあげて笑い出した。今まで見た中で、一番の大笑いだ。やはり眉尻を下げて笑うその表情に、胸が痛い程ときめいてしまう。
「それならよかった。俺も嬉しかったよ」
意味ありげに微笑んでから、本を見てくるね、と言い残してその場を後にした。
広い背中を見つめながら、顔の熱が引くのを待った。そこで、隣で坂口さんがぶすっとしているのを思い出した。やっとの思いで史弥さんの背中から目を逸らして、ちらりと坂口さんを見やれば、分かりやすく拗ねているのがわかる。
「あ、やっと俺の事思い出してくれた?」
何て返せばいいのかわからずにいると、彼は更に続けた。
「昨日、出かけたんだね」
ぽつりと言われて、何故だか罪悪感が込み上げてくる。
「たまたま逢ったんです。それで……」
「帰り、遅かったの?」
針のように鋭い口調で彼が尋ねた時、私が口を開くよりも前に、史弥さんの声が聞こえた。気付けば、彼は私達の目の前に立っていた。坂口さんもこれにはぎょっとして、座っていた椅子から飛び跳ねる様に降りて後退した。
「あんた、いつからそこにいた?」
静かに尋ねれば、史弥さんもまた、静かに答えた。
「少し前、ですよ。これを頂こうかと思いまして」
そう言いながら、冷ややかな視線を坂口さんにぶつけている。分厚い本を一冊手渡す際も、両者とも視線を逸らす事はなかった。坂口さんがレジに向かってやっと目を逸らせば、史弥さんも穏やかな視線を私に向けた。
「葉月も、今日は雰囲気が違うね。イヤリングしてる」
腕を伸ばして指先で耳に触れて、史弥さんが笑う。横目で坂口さんがこちらを見ているのがわかる。
「可愛いよ」
汚れたエプロンが恥ずかしくて、きっと母の形見であるこのイヤリングも似合ってはいないだろうと思い込んで落ち込む準備が出来ていた私の心を、彼はいとも簡単に躍らせる。優しい笑みに笑顔を返せば、ふいに坂口さんが目の前に立ち私と史弥さんの間に割って入った。その時に肩がぶつかって、軽くよろけてしまう。すると素早く史弥さんが腕を下げて、坂口さんを超えて私の肩を支えた。
「危ないな」
珍しく怒った顔をして、史弥さんが睨む。その迫力は、物静かな彼から発せられているとは思えない程、強烈だった。
「あんた、俺に公私混同するなとか偉そうに言っておいて、自分は何なんだよ」
「私は、葉月の上司ではありませんよ」
真っ直ぐ立ちなおした史弥さんが、感情の籠らない声で応える。しかしその顔を見る限り、憤慨しているのがわかる。
「葉月って……。あんたこそただの客だろ。ベタベタ触りやがって」
「店長、やめてください。史弥さんは……」
大事な人なんです、そう言いかけたところで、代わりに史弥さんが口を開く。
「あなたが、彼女に好意を寄せているのはわかります。けれどそれを一方的に押し付けても、彼女を怖がらせるだけですよ。本当に彼女の事が大切なら、困らせる様な事はやめるべきなのでは?」
彼の落ちついた態度が、余計に坂口さんを苛立たせているのがわかる。歯を食いしばって何も言わなくなった坂口さんを一瞥して、史弥さんは私に優しい目をくれる。
「食事の帰りに、家に寄ったら迷惑かな? 遅くなるつもりはないし、玄関ですぐに帰るよ。顔が見れれば、それでいいから」
彼の申し出が嬉しくて飛び上がりそうになるが、さすがに坂口さんの手前それはできない。家を知っていることに驚いたのか、私が頷いた事に驚いたのかは定かではないが、彼は口をあんぐりと開けて私を見た。そして、小さな声で私の名を呼んだ。
「ごめんなさい、店長。私、史弥さんのことが……」
きちんと言わなくては、そう思い振り絞った勇気を、坂口さんは拒絶した。両掌を見せる様に開いて、ぷるぷると振った。
「それ以上は言わないで」
そう言った後、ピンと人差し指を伸ばして史弥さんを正面から射抜く。史弥さんはそれをじっと見つめて、表情一つ変えない。
「大人しく渡すと思うなよ」
ゾッとするような声だったが、史弥さんはにっこりと笑って見せた。
「葉月に何かしたり、傷付ける様なことさえしなければ、ご自由にどうぞ」
低い声でそう言って、彼は私には「夜にね」と微笑んで去って行った。
しかし、今日だけは。
昨夜一人自室に戻ってからも、史弥さんの体温や匂いが忘れられずにいた。別れ際にされた鼻先へのキスも、じらすように唇が触れそうで触れられなかったことも、全てが鮮明に思い出されて眠る事など到底出来なかった。結局明け方まで一人、休まる気配すら見せない鼓動の音を聞いていた。
「夕方前に行けると思う。仕事、頑張ってね」
どうせ眠らないので、いつもより早くベッドから抜け出して支度を済ませた。ゆっくりとインスタントのコーヒーを味わっていると、スマホがピロンと間抜けな音を立ててメッセージの受信を知らせた。昨日交換した連絡先に、帰宅後も彼からメッセージをくれた。車に乗せてもらい、家まで送ってもらったのだから私からお礼の連絡をしようと思っていたが、スマホを握りしめて文を打っては消し、を繰り返しているうちに彼の方からメッセージが着てしまったのだ。一瞬でついた「既読」マークに、彼はどう思っただろう……。
「待ってます。お気をつけて」
味気なさすぎるだろうか? かといって、絵文字などを使うのは慣れていないし、どこか恥ずかしくもある。また、思考がフリーズしてしまう。結局、三十分以上も悩んだ末、「お気をつけて」だけ送った私は、地球上で最も意気地なしだと思う。それに加えて、たった一言しか送っていないにも関わらず返事はまだかとポケットに入れたスマホの画面を隙あらば確認しているのだから、本当にしょうがないと思う。
彼氏、という人生初の存在がこんなにも心をざわつかせるものなのかと狼狽え、足下が覚束なくなるような不安を覚えていた。たった一度手を握るだけで、一言メッセージをくれるだけでこんなにも幸せな気持ちにさせてくれる彼は、一体どれほど私を傷付けることができるのだろうと無意識に考えては怖くなる。
「珍しいね、そんな顔して」
ぼんやりと色んな事に思考を巡らせていると、背後から声をかけられた。すぐに坂口さんが私の隣に並び、カウンターに両肘をついて前屈みになっている。カウンターの下に椅子が仕舞われているが、何故かそれには座らないことを決めたようだ。
「具合悪いの?」
そう言って、顔を覗き込んでくる。慌てて身体を伸ばして、ついていた肘を伸ばす。
「いえ、全然。すみません、ちゃんとします」
いくらなんでも気が抜けすぎていた、と反省する。しかし身体は正直なもので、視線は正面にある時計へ吸い寄せられる。時刻は十五時半を少し回ったところだ。夕方前、とは一体何時を差すのだろう。
「別にいいよ。ゆっくりしてても」
柔らかい笑みを浮かべて、彼が笑う。
一昨日、史弥さんがカフェを去った後、彼はかなり機嫌が悪かった。私の手前必死に落ち着こうとしていたようだが、目付きの鋭さは最後まで戻らなかった。一日空いたこともあってか、どうやら気分はかなり落ち着いたようだ。史弥さんが来ればまた喧嘩になるのだろうか、などと考え、史弥さんが来るときには奥にいてくれたら……と自分に都合よく身勝手な事を考えた自分にゾッとして頭を振る。それを見て、坂口さんは口を開いた。
「真面目だねぇ。店長の俺がいいって言ってるんだから、甘えればいいのに」
笑いながら手を伸ばして、椅子を掴んで引っ張り出す。そのまま跨ぐようにして座り込んで、畳まれていたノートパソコンを開いた。発注したい本などをよく探しているので、恐らく今も風変わりな本を検索しているに違いない。
「でも、それじゃ申し訳なくて……。ただでさえ、私あまり役に立っていないのに」
重たい本を運んだり、高い棚へ品出しをするのは彼が進んでやってくれるので、私は手が届く範囲の品出しと、在庫管理とレジだけだ。既に充分すぎる程、彼には甘えている。
「そんなことないよ。ここに居てくれるだけでいいんだから」
少しだけ寂しそうに、彼は私へ微笑みかけた。
「そんなわけにはいかないです。仕事ですから」
仕事か、と彼が言う。その口調はやはり悲しげで、胸にチクリと棘が刺さったようだった。
「コーヒーでも飲んだら? 暇でしょ」
そう言いながら、親指を立てて背後を差す。奥のバックヤードには、いつもドリップしたコーヒーが用意されている。これは坂口さんの好みであり、彼は常にと言っていい程コーヒーを飲んでいる。
「すみません、貰います」
椅子から立ち上がると、はいよ、と返事が背中にあたった。
コーヒーの良い香りを思い切り吸い込んで、深いため息を吐きだした。もうすぐ史弥さんが来るかと思うと、嬉しさと緊張でおかしくなってしまいそうだった。
口に含んだコーヒーを飲みこんだ時、店の方から話し声が聞こえてきた。お客さんが来たようだ、とコーヒーカップを片手に戻る事を躊躇した時だった。
私はコーヒーが零れるのも気にせずに走り出した。
「あぁ、よかった。いないのかと思った」
カウンターの向こうでは、やはり史弥さんが立っていた。眩しい笑みで私を見つめて、ふと視線を私の胸元に下げて眉尻を下げた。
「大丈夫? 火傷してないといいけど」
カウンターまで歩み出た私の胸元を指差して、彼が笑う。その先を辿って視線を送れば、薄いグリーンのエプロンに黒い染みが出来ていた。ここへ走ってきた時にかかったのだろう。私が舞い上がって、まさに飛ぶようにここまで急いできた事に、彼は気付いているだろう。
「大丈夫です」
恥ずかしくて下を向いてコーヒーをカウンターへ置くと、彼の低い笑い声が聞こえてくる。
「本を買いに来たんじゃないんですか。あっちですよ」
隣で坂口さんが不機嫌な声を出す。頬杖をついて、もう一方の手で奥のコーナーを指差した。仮にも客である史弥さんにそんな態度を取るなんて、と顔を上げると、近くに史弥さんが立っている事に気付き、思わず見惚れてしまう。
「あ、スーツ……」
ようやく、彼がスーツを身に纏っていることにも気付く。普段は茶色い革のジャケットを着ているので、初めて見るスーツ姿に目から火花が出るかと思った。紺色の細身のスーツを着て、中には薄い水色のストライプが入ったシャツを着ている。ネクタイはせず、胸元を少しだけ空けていた。
「かっこいい」
思わず口から洩れた本音に、慌てて口を塞ぐ。しかし、一度口から飛び出した言葉は二度と戻っては来てくれないものだ。クスクスと声を殺して笑う史弥さんを見て、顔が熱くなる。
「ありがとう、嬉しいな。今日はこの後、仕事の付き合いで食事に行かなくてはいけなくてね。一応正装を、と思って」
にこりと微笑んだ彼を見て、『仕事の付き合い』の相手が女性でない事を心から願った。コーヒーの染みを付けたエプロンを身に着けた私なんて、彼には恐ろしい程釣り合わない。改めてそう思い知って、ため息が漏れそうになる。
「ところで、昨日は眠れなかった? 少し目が赤いね。せっかくの休日だったのに、連れ出して悪かったね」
心配そうな瞳をして、史弥さんが私の目を覗き込む。透明度の高い灰色の瞳に、呼吸が止まる。
「いえ、嬉しかったです。いや、あの、そうじゃなくて、楽しかったです」
慌てて言い直したのがよほどおかしかったのか、彼は声をあげて笑い出した。今まで見た中で、一番の大笑いだ。やはり眉尻を下げて笑うその表情に、胸が痛い程ときめいてしまう。
「それならよかった。俺も嬉しかったよ」
意味ありげに微笑んでから、本を見てくるね、と言い残してその場を後にした。
広い背中を見つめながら、顔の熱が引くのを待った。そこで、隣で坂口さんがぶすっとしているのを思い出した。やっとの思いで史弥さんの背中から目を逸らして、ちらりと坂口さんを見やれば、分かりやすく拗ねているのがわかる。
「あ、やっと俺の事思い出してくれた?」
何て返せばいいのかわからずにいると、彼は更に続けた。
「昨日、出かけたんだね」
ぽつりと言われて、何故だか罪悪感が込み上げてくる。
「たまたま逢ったんです。それで……」
「帰り、遅かったの?」
針のように鋭い口調で彼が尋ねた時、私が口を開くよりも前に、史弥さんの声が聞こえた。気付けば、彼は私達の目の前に立っていた。坂口さんもこれにはぎょっとして、座っていた椅子から飛び跳ねる様に降りて後退した。
「あんた、いつからそこにいた?」
静かに尋ねれば、史弥さんもまた、静かに答えた。
「少し前、ですよ。これを頂こうかと思いまして」
そう言いながら、冷ややかな視線を坂口さんにぶつけている。分厚い本を一冊手渡す際も、両者とも視線を逸らす事はなかった。坂口さんがレジに向かってやっと目を逸らせば、史弥さんも穏やかな視線を私に向けた。
「葉月も、今日は雰囲気が違うね。イヤリングしてる」
腕を伸ばして指先で耳に触れて、史弥さんが笑う。横目で坂口さんがこちらを見ているのがわかる。
「可愛いよ」
汚れたエプロンが恥ずかしくて、きっと母の形見であるこのイヤリングも似合ってはいないだろうと思い込んで落ち込む準備が出来ていた私の心を、彼はいとも簡単に躍らせる。優しい笑みに笑顔を返せば、ふいに坂口さんが目の前に立ち私と史弥さんの間に割って入った。その時に肩がぶつかって、軽くよろけてしまう。すると素早く史弥さんが腕を下げて、坂口さんを超えて私の肩を支えた。
「危ないな」
珍しく怒った顔をして、史弥さんが睨む。その迫力は、物静かな彼から発せられているとは思えない程、強烈だった。
「あんた、俺に公私混同するなとか偉そうに言っておいて、自分は何なんだよ」
「私は、葉月の上司ではありませんよ」
真っ直ぐ立ちなおした史弥さんが、感情の籠らない声で応える。しかしその顔を見る限り、憤慨しているのがわかる。
「葉月って……。あんたこそただの客だろ。ベタベタ触りやがって」
「店長、やめてください。史弥さんは……」
大事な人なんです、そう言いかけたところで、代わりに史弥さんが口を開く。
「あなたが、彼女に好意を寄せているのはわかります。けれどそれを一方的に押し付けても、彼女を怖がらせるだけですよ。本当に彼女の事が大切なら、困らせる様な事はやめるべきなのでは?」
彼の落ちついた態度が、余計に坂口さんを苛立たせているのがわかる。歯を食いしばって何も言わなくなった坂口さんを一瞥して、史弥さんは私に優しい目をくれる。
「食事の帰りに、家に寄ったら迷惑かな? 遅くなるつもりはないし、玄関ですぐに帰るよ。顔が見れれば、それでいいから」
彼の申し出が嬉しくて飛び上がりそうになるが、さすがに坂口さんの手前それはできない。家を知っていることに驚いたのか、私が頷いた事に驚いたのかは定かではないが、彼は口をあんぐりと開けて私を見た。そして、小さな声で私の名を呼んだ。
「ごめんなさい、店長。私、史弥さんのことが……」
きちんと言わなくては、そう思い振り絞った勇気を、坂口さんは拒絶した。両掌を見せる様に開いて、ぷるぷると振った。
「それ以上は言わないで」
そう言った後、ピンと人差し指を伸ばして史弥さんを正面から射抜く。史弥さんはそれをじっと見つめて、表情一つ変えない。
「大人しく渡すと思うなよ」
ゾッとするような声だったが、史弥さんはにっこりと笑って見せた。
「葉月に何かしたり、傷付ける様なことさえしなければ、ご自由にどうぞ」
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