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初めての夜
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微かに聞こえるシャワーの音に意識を持っていかれないよう、必死に深呼吸を繰り返した。
あの後、私は簡単に医師からの質問に答えてすぐ帰宅の許可が降りた。私が史弥さんの家へ帰るのは、石丸さんもおおいに賛成だった。
「そうするといい。今は1人にならない方がいいだろう。有馬はこう見えて戦闘能力がそこそこ高いから、安心していい」
そう言った石丸さんは、何かを思い出したのか、含み笑いを浮かべていた。
「戦闘だなんて、石丸さんも人が悪いな」
恥ずかしそうに顔をしかめた史弥さんがそう言えば、石丸さんは父親が息子に向けるような表情を作って見せたのが印象的だった。
そして今、私は史弥さんの自宅で彼の匂いのする服に包まれていた。
先に私の部屋に寄り、必要なものだけを鞄に詰め込んできたので、寝間着もきちんと持参していた。疲れただろうから、と風呂を溜めてくれた彼はタオルと一緒にシャツとズボンを貸してくれた。
自分のを着るからと断る私に、彼は意味ありげに微笑んでこう言った。
「俺の我儘だと思って、これを着て。どうしても嫌だって言うなら、もちろん無理にとは言わないけど」
そう言いながら優しく腕を私の背中へ回した彼は、私が大人しくいうことを聞くと確信していたに違いない。
言われるがままに差し出されたぶかぶかのシャツとだぼだぼのズボンを着込んだ私を見て、彼は軽く握った拳を口に当てて、すぐに自らもシャワーを浴びに行った。
ズボンの裾は折り畳んで捲っているが、それでもウエストが大きすぎて下がってくるので、裾を引きずりながら歩いている。朝起きたら、完全に脱げているのでは……と不安になる。
そして、彼が私のために服を取りに行った部屋にチラリと見えたのは、1人暮らしにしては大きめのダブルサイズのベッドだった。
緊張感と、激しい自己嫌悪に飲み込まれて、酷い吐き気が込み上げてくる。私はいつから、こんなにも恩知らずな人間になってしまったのだろう。
心の中で自らを可能な限り罵倒していると、史弥さんが頭からタオルを被って姿を現した。
いつもピシッと完璧に決まっている彼のあまりに無防備な姿に、心臓が再び煩くなる。
「葉月、寒くない?」
タオルの隙間から綺麗な瞳を覗かせて、彼が問いかけてきた。部屋は暖房が効いているし、風呂のおかげで身体は温まっていた。
大丈夫、と首を振れば、彼は私の前にしゃがみ込む。わしわしと頭を拭いていた手を止めて、タオルを肩にかけ直す。ボサボサの髪型が妙にその色気を増幅させているような気がした。
「むしろ暑いかな? それとも、顔が赤いのは別の理由かな。少し火照ってるね」
ひんやりとした指先で首筋に触れると、一気に顔が熱くなる。それを見て、史弥さんの瞳に熱が帯びた。情熱的に私を見つめて、ごくりと喉を鳴らす。
必死に欲望にあがなおうとしているのがわかる。
私はと言えば、彼の瞳に欲望が灯されたことを、その欲望が私に向けられていることを、嬉しいと感じるようになっていた。
再び襲ってくる激しい自己嫌悪に顔をしかめて、目の前にある温もりにしがみついた。
彼は驚いたように一瞬身を固めたが、すぐに優しく背中を撫でてくれる。
「お祖母様のこと、残念だよ。俺が傍にいるから、好きなだけ泣いてもいい」
優しい言葉と声に、更に自己嫌悪は高まるばかりだ。その腕の中で首を横に振れば、彼が私の名を呼ぶ声が聞こえる。
「祖母のことは……もちろん悲しいです。それに、とても悔しい。たった一人遺された家族で、本当に私を大事に育ててくれたから」
うん、と低い声が響く。
「でも、まだ実感がなくて」
「実感?」
頷いて、先を続ける。
「ここ数年は一緒に住んでもいなかったから、毎日会っていたわけでもないし。それに、私はまだ祖母の……亡骸に会っていないから。だから、まだあの家で祖母が生きているような気がして……」
家に帰ればいつも、私の好物を作ってくれた。足が悪いので台所に立つのも大変なはずだったのに、私のために何か出来るのが嬉しいと、祖母は本当に嬉しそうに笑ってくれた。
何も言わず、ただ私を抱きしめる力を強めた彼の背中に腕を回してしっかりとしがみ付く。
「私、最低な孫なの」
小さな声で白状をするように囁けば、彼は驚きの声を微かにあげた。
「え? どういうこと?」
優しい声を聞いて、胸がチクリと痛む。
「祖母があんなことになったばかりで悲しくて堪らないはずなのに……」
それ以上どう続けたらいいのかもわからない私をあやすように背中を撫でてくれていた彼の腕が、ピタリと動きを止めた。
「はずなのに、何?」
どこか意地悪そうな口調になった彼が尋ねる。しかし、そんな問いかけに答えられるような余裕はとうに無く、私にできることは得意の沈黙を守ることだけだった。
痺れを切らしたのか、彼はゆっくりと私から体を離した。指先で私の顎を掴んで持ち上げようとするが、恥ずかしくて今は彼の顔を見る自信がなかった。
細やかかな抵抗は簡単に無視され、半ば無理やり顔を上に向けられて、あの瞳を目の前に見ることになる。
「それなのに、の続きは聞かせて貰えないのかな」
口元を歪めて笑う彼は、いつにも増して甘くとろけてしまいそうな瞳をしていた。
黙って首を横に振れば、彼は困ったように笑う。その仕草1つで1人の心臓が止まりそうになっていることなど、彼は知る由もないのだろう。
「そうか、それは困ったな。それじゃあ、好きに続きを想像しちゃうけど構わないね?」
そう彼が言った次の刹那、私の唇は既に彼に支配されていた。病院でしてくれたキスよりも少しだけ熱を帯びていたけれど、どこまでも優しいキスに頭の芯がぼうっと痺れてくる。
「俺の服を着せたのは失敗だった」
唇を離した彼が、頬から耳元へと唇を這わせてそう言った。耳のすぐそばで聞こえる低い声に肩がすくんで、口から息が漏れる。
「失敗?」
辛うじて絞り出した声に、彼は頷く。そしてそれに答える前にも一度、唇を合わせた。
「そう、失敗。そんな格好であんなことを言われたら、さすがの俺も理性を保てる自信がないな」
困ったように眉尻を下げて、彼は私に何も言わせないようにするかのようにキスを仕掛けてくる。それだけで体温が上がり、何も考えられなくなってしまう。
「あんなことがあったばかりだから、こんなことをするつもりは全く無かったんだけど……」
苦しそうに息を吐く彼が、私の首筋に唇を寄せた。優しくキスを繰り返して、そのまま腕の中に閉じ込めてくれる。彼の胸に耳を当てると、いつもより早い鼓動が聞こえた。
「ごめん、俺も最低だ」
「そんなこと……」
強い力で抱き締められて、何も言えなくなる。しばらくそのまま抱き締められていたが、やがて彼は小さな声で私の名前を呼んだ。
「今日はもう遅い。俺はソファで眠るから、葉月は向こうのベッドを使って」
いつもと同じ、穏やかで優しい声だった。
私はもはや、自己嫌悪の念すら抱けなくなっていた。ただ彼の一言が悲しくて、落胆していた。
それに気付いたであろう彼は、私を抱く力を微かに弱めた。
「葉月が弱っている隙に、つけ込むようなことはしたくない。だから、これ以上煽らないで」
そう笑って、彼は私の額に唇を寄せた。私はそのまま彼の広い背中に腕を回して、離れようとはしなかった。
「葉月、ダメだよ。本当に……」
力ずくで私の腕を解いた彼が、私の顔を見て言葉を失った。口を微かに開けて、驚いているのがわかる。
腕を掴んでいない方の手で私の頬を撫でたと思った1秒後には、私は彼の腕の下にいた。
彼の肩越しに天井を見て初めて、彼に押し倒されたのだと気付いた。そっと顔を下ろして、優しいキスをしてくれる。
「そんなに真っ赤な顔をして」
穏やかに笑う彼は、私の頬に手を当てて熱を覚まそうとしてくれる。しかし彼の手が首や鎖骨を彷徨えば、その分また体温は上がるばかりだ。
「葉月にここまでさせておいて、気付かない振りをするわけにはいかないな」
必死に彼に迫っていた自分が恥ずかしくて、両手で顔を覆った。クスクスと低い笑い声がすぐ近くで聞こえる。
耳元で、世界で一番大好きな声が聞こえて涙がこぼれそうになる。
「怖くない?」
彼の存在をこれ以上ないほど近くに感じ、かつてないほど安心していた。怖いものなんて、今この瞬間は何も無かった。
彼のクビに腕を回して、私は首を横に振った。
ただ彼のことだけを考えて、自分身に起きた悲劇も、これから襲い来るであろうあの男の恐怖も、全て忘れていたかった。
あの後、私は簡単に医師からの質問に答えてすぐ帰宅の許可が降りた。私が史弥さんの家へ帰るのは、石丸さんもおおいに賛成だった。
「そうするといい。今は1人にならない方がいいだろう。有馬はこう見えて戦闘能力がそこそこ高いから、安心していい」
そう言った石丸さんは、何かを思い出したのか、含み笑いを浮かべていた。
「戦闘だなんて、石丸さんも人が悪いな」
恥ずかしそうに顔をしかめた史弥さんがそう言えば、石丸さんは父親が息子に向けるような表情を作って見せたのが印象的だった。
そして今、私は史弥さんの自宅で彼の匂いのする服に包まれていた。
先に私の部屋に寄り、必要なものだけを鞄に詰め込んできたので、寝間着もきちんと持参していた。疲れただろうから、と風呂を溜めてくれた彼はタオルと一緒にシャツとズボンを貸してくれた。
自分のを着るからと断る私に、彼は意味ありげに微笑んでこう言った。
「俺の我儘だと思って、これを着て。どうしても嫌だって言うなら、もちろん無理にとは言わないけど」
そう言いながら優しく腕を私の背中へ回した彼は、私が大人しくいうことを聞くと確信していたに違いない。
言われるがままに差し出されたぶかぶかのシャツとだぼだぼのズボンを着込んだ私を見て、彼は軽く握った拳を口に当てて、すぐに自らもシャワーを浴びに行った。
ズボンの裾は折り畳んで捲っているが、それでもウエストが大きすぎて下がってくるので、裾を引きずりながら歩いている。朝起きたら、完全に脱げているのでは……と不安になる。
そして、彼が私のために服を取りに行った部屋にチラリと見えたのは、1人暮らしにしては大きめのダブルサイズのベッドだった。
緊張感と、激しい自己嫌悪に飲み込まれて、酷い吐き気が込み上げてくる。私はいつから、こんなにも恩知らずな人間になってしまったのだろう。
心の中で自らを可能な限り罵倒していると、史弥さんが頭からタオルを被って姿を現した。
いつもピシッと完璧に決まっている彼のあまりに無防備な姿に、心臓が再び煩くなる。
「葉月、寒くない?」
タオルの隙間から綺麗な瞳を覗かせて、彼が問いかけてきた。部屋は暖房が効いているし、風呂のおかげで身体は温まっていた。
大丈夫、と首を振れば、彼は私の前にしゃがみ込む。わしわしと頭を拭いていた手を止めて、タオルを肩にかけ直す。ボサボサの髪型が妙にその色気を増幅させているような気がした。
「むしろ暑いかな? それとも、顔が赤いのは別の理由かな。少し火照ってるね」
ひんやりとした指先で首筋に触れると、一気に顔が熱くなる。それを見て、史弥さんの瞳に熱が帯びた。情熱的に私を見つめて、ごくりと喉を鳴らす。
必死に欲望にあがなおうとしているのがわかる。
私はと言えば、彼の瞳に欲望が灯されたことを、その欲望が私に向けられていることを、嬉しいと感じるようになっていた。
再び襲ってくる激しい自己嫌悪に顔をしかめて、目の前にある温もりにしがみついた。
彼は驚いたように一瞬身を固めたが、すぐに優しく背中を撫でてくれる。
「お祖母様のこと、残念だよ。俺が傍にいるから、好きなだけ泣いてもいい」
優しい言葉と声に、更に自己嫌悪は高まるばかりだ。その腕の中で首を横に振れば、彼が私の名を呼ぶ声が聞こえる。
「祖母のことは……もちろん悲しいです。それに、とても悔しい。たった一人遺された家族で、本当に私を大事に育ててくれたから」
うん、と低い声が響く。
「でも、まだ実感がなくて」
「実感?」
頷いて、先を続ける。
「ここ数年は一緒に住んでもいなかったから、毎日会っていたわけでもないし。それに、私はまだ祖母の……亡骸に会っていないから。だから、まだあの家で祖母が生きているような気がして……」
家に帰ればいつも、私の好物を作ってくれた。足が悪いので台所に立つのも大変なはずだったのに、私のために何か出来るのが嬉しいと、祖母は本当に嬉しそうに笑ってくれた。
何も言わず、ただ私を抱きしめる力を強めた彼の背中に腕を回してしっかりとしがみ付く。
「私、最低な孫なの」
小さな声で白状をするように囁けば、彼は驚きの声を微かにあげた。
「え? どういうこと?」
優しい声を聞いて、胸がチクリと痛む。
「祖母があんなことになったばかりで悲しくて堪らないはずなのに……」
それ以上どう続けたらいいのかもわからない私をあやすように背中を撫でてくれていた彼の腕が、ピタリと動きを止めた。
「はずなのに、何?」
どこか意地悪そうな口調になった彼が尋ねる。しかし、そんな問いかけに答えられるような余裕はとうに無く、私にできることは得意の沈黙を守ることだけだった。
痺れを切らしたのか、彼はゆっくりと私から体を離した。指先で私の顎を掴んで持ち上げようとするが、恥ずかしくて今は彼の顔を見る自信がなかった。
細やかかな抵抗は簡単に無視され、半ば無理やり顔を上に向けられて、あの瞳を目の前に見ることになる。
「それなのに、の続きは聞かせて貰えないのかな」
口元を歪めて笑う彼は、いつにも増して甘くとろけてしまいそうな瞳をしていた。
黙って首を横に振れば、彼は困ったように笑う。その仕草1つで1人の心臓が止まりそうになっていることなど、彼は知る由もないのだろう。
「そうか、それは困ったな。それじゃあ、好きに続きを想像しちゃうけど構わないね?」
そう彼が言った次の刹那、私の唇は既に彼に支配されていた。病院でしてくれたキスよりも少しだけ熱を帯びていたけれど、どこまでも優しいキスに頭の芯がぼうっと痺れてくる。
「俺の服を着せたのは失敗だった」
唇を離した彼が、頬から耳元へと唇を這わせてそう言った。耳のすぐそばで聞こえる低い声に肩がすくんで、口から息が漏れる。
「失敗?」
辛うじて絞り出した声に、彼は頷く。そしてそれに答える前にも一度、唇を合わせた。
「そう、失敗。そんな格好であんなことを言われたら、さすがの俺も理性を保てる自信がないな」
困ったように眉尻を下げて、彼は私に何も言わせないようにするかのようにキスを仕掛けてくる。それだけで体温が上がり、何も考えられなくなってしまう。
「あんなことがあったばかりだから、こんなことをするつもりは全く無かったんだけど……」
苦しそうに息を吐く彼が、私の首筋に唇を寄せた。優しくキスを繰り返して、そのまま腕の中に閉じ込めてくれる。彼の胸に耳を当てると、いつもより早い鼓動が聞こえた。
「ごめん、俺も最低だ」
「そんなこと……」
強い力で抱き締められて、何も言えなくなる。しばらくそのまま抱き締められていたが、やがて彼は小さな声で私の名前を呼んだ。
「今日はもう遅い。俺はソファで眠るから、葉月は向こうのベッドを使って」
いつもと同じ、穏やかで優しい声だった。
私はもはや、自己嫌悪の念すら抱けなくなっていた。ただ彼の一言が悲しくて、落胆していた。
それに気付いたであろう彼は、私を抱く力を微かに弱めた。
「葉月が弱っている隙に、つけ込むようなことはしたくない。だから、これ以上煽らないで」
そう笑って、彼は私の額に唇を寄せた。私はそのまま彼の広い背中に腕を回して、離れようとはしなかった。
「葉月、ダメだよ。本当に……」
力ずくで私の腕を解いた彼が、私の顔を見て言葉を失った。口を微かに開けて、驚いているのがわかる。
腕を掴んでいない方の手で私の頬を撫でたと思った1秒後には、私は彼の腕の下にいた。
彼の肩越しに天井を見て初めて、彼に押し倒されたのだと気付いた。そっと顔を下ろして、優しいキスをしてくれる。
「そんなに真っ赤な顔をして」
穏やかに笑う彼は、私の頬に手を当てて熱を覚まそうとしてくれる。しかし彼の手が首や鎖骨を彷徨えば、その分また体温は上がるばかりだ。
「葉月にここまでさせておいて、気付かない振りをするわけにはいかないな」
必死に彼に迫っていた自分が恥ずかしくて、両手で顔を覆った。クスクスと低い笑い声がすぐ近くで聞こえる。
耳元で、世界で一番大好きな声が聞こえて涙がこぼれそうになる。
「怖くない?」
彼の存在をこれ以上ないほど近くに感じ、かつてないほど安心していた。怖いものなんて、今この瞬間は何も無かった。
彼のクビに腕を回して、私は首を横に振った。
ただ彼のことだけを考えて、自分身に起きた悲劇も、これから襲い来るであろうあの男の恐怖も、全て忘れていたかった。
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