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朝の風景
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規則的に上下に動く史弥さんの胸に頭を乗せて、彼の呼吸に耳を澄ませていた。少し視線を下げれば、壁にかかった時計が視界に入る。じっと目を凝らせば、薄暗い部屋の中にぼんやりと数字が浮かぶ。
一睡もできないまま朝を迎え、時刻は七時を少し回ったところだ。史弥さんは起きる気配がなく、すやすやと気持ちよさそうに寝息を立てている。左腕でしっかりと私の肩を抱いて、疲れないのだろうかとこちらが心配になるほどだ。
少しだけ頭の位置をずらして、見上げるようにして彼の寝顔を盗み見る。
すらっとした鼻筋は確かに外国の血を感じさせた。薄くて綺麗な唇も、あまりにも魅力的すぎるその瞳も、今は静かに息を潜めている。彼の胸元に置いていた左手をゆっくり動かして、指先で頬に触れてみた。
ひんやりと冷たいその肌は、昨夜よりも体温が低いように思えた。依然静かに寝息を立てている彼にいい気になって、その指先を顎のラインに沿って滑らせた。ゆっくりと、慎重に、何かを確かめるように、やがて指先は唇に触れた。その柔らかな感触が、一気に昨夜の記憶を呼び起こした。
その記憶に酔いしれそうになった瞬間、私の体は史弥さんの両腕に包まれていた。
「史弥さん」
驚いて名前を呼べば、彼はそのままくるりと体勢を変えて私の上に覆いかぶさるようにして体を密着させた。
「おはよう、葉月」
にっこりと目の前で微笑まれて、くらくらと視界が回る。
「おはよう。ごめんなさい、起こしちゃった?」
遠慮がちに彷徨う手をどうしたらいいのかわからず、なんとなく彼の腕にそっと触れておくことにした。
まだ優しく微笑んでいる彼は、いや、と首を横に振った。
「起きてたよ。葉月が俺に触る前から」
まさか、と開いた口が塞がらなくなる。寝ている彼の顔に触れていたのに気付かれていたなんて、あまりにも恥ずかしすぎる。体を無理やりよじって逃げようとしたけれど、胸から下はぴったりと彼の体がくっついていて身動きが取れない。せめてもの抵抗で両手で顔を覆った私の耳に唇を寄せて、彼は楽しそうに囁く。
「そんなに恥ずかしがらないで。俺だって葉月が寝ていたら、同じことをするよ」
顔を覆ったまま首をぶんぶんと横に振ると、大きな手が頭を撫でてくれる。
「いや、俺の場合は触るくらいじゃ済まないかもな」
低い声が耳に届くと、柔らかな唇が首筋を這うのがわかった。さらに体に力を入れた私に、彼は甘い声で囁いてくる。
「葉月、手をどけてくれないの?」
少し笑ったような、優しい口調だった。そんな声を出されたら、恥ずかしさは増すばかりで、今更おずおずと両手を下げることもできなくなっていた。
「困った子だな」
少し意地の悪い、しかしどこか心地よい声だった。
彼は首筋に唇を這わせたまま、ぶかぶかのシャツの中へと右手を差し込んでいた。大きくて冷たい手が、優しく私の意識を奪っていく。
一体何がどうなってそうなったのか私には見当もつかないけれど、気付けば顔を覆っていたはずの私の両手はその場を離れていた。代わりに、彼の甘くて優しい唇がそこにあった。
左手では史弥さんの脇から腕を通して、彼の背中にしがみ付いていた。そして右手は、長い指に絡めとられるようして手を繋いでいた。
「大丈夫?」
彼の言葉の意味を理解して、顔が赤くなる。
昨夜も、彼は同じ言葉を何度もかけてくれた。そのおかげで、恐怖は予想していたほど襲ってはこなかった。それどころか、彼の体温や匂い、そしてその感触に支配されてしまいそうで、必死に自我を保たなくてはいけないほどだった。
言葉を発さずに首を縦に振ると、先ほどよりも情熱的に唇を合わせてくる。
するするとシャツを捲られて、彼が両手でそれを脱がそうとした時、私の右耳のすぐ近くで電子音が鳴り響いた。史弥さんが一瞬そちらに目をやって、動きを止めた。
「電話、ですか?」
私が訪ねると、彼は頷いて枕元に置いてあった携帯へ手を伸ばす。
「石丸さんだよ。彼じゃなければ、無視して続けるんだけどね」
冗談ぽくそう言って彼は私の腕を掴んで引き起こした。それと同時に電話を耳にあてて、応える。ベッドの上に私を座らせたかと思うと、彼は滑らかにその場を移動して枕元に面した壁に背中を預けてもたれ掛った。この間に、もしもし? といつものように礼儀正しく電話に出ていた。
おはようございます、と挨拶をしながら、彼は私を抱き寄せて胸元へ抱え込んだ。電話を持っていない方の手で、しっかりと抱いてくれている。
「いえ、大丈夫ですよ。起きてました」
電話の内容は、知りたくなかった。しかし彼が電話を切れば、嫌でも知ることになるだろう。つい数秒前までの幸せにすがりつくように、私は史弥さんの胸にしがみ付いた。
「葉月も起きてますよ」
ちらりと私に視線を落として、彼がニヤリと笑う。とんでもない言葉が耳に届くのは、その笑顔に見惚れた直後だった。
「何を言うんですか。いいところだったのに、石丸さんの電話で邪魔されたんですよ」
楽しそうに笑う史弥さんは、石丸さんの前では少しだけ少年のような幼さをさらけ出す。そんなことを考えていた思考は一気に吹き飛び、弾かれたように私は史弥さんの腕から逃げようとした。その行動に何の意味があったかは定かではないが、まるで石丸さんに見られているような気がしたのだ。
しかし彼はそんなことを気にもしない素振りで電話を続けて、強い力で私を閉じ込めた。
「はい、わかりました。すぐに葉月と向かいます」
そう言って電話を切った彼は、私が何かを言うよりも早く口付をした。両手で頭を持たれて、深くなっていく口付に意識が朦朧とするような感覚に陥る。
やがて唇を離した彼は、額にもう一度キスをしてからベッドから降りた。来ていたシャツを脱ぐと、そのまま気遣うような笑みを向けてくる。
「石丸さんが、すぐに来てほしいって。支度できる?」
祖母の件で、何かわかったことがあるのだろうか。それとも、あの男の事だろうか。どちらにしても気の進む話ではないが、行かないわけにはいかない。
「はい。史弥さんも、一緒に来てくれる?」
もちろん、と彼が頷く。安心してベッドから立ち上がった私は、差し出された手を掴んで微笑み返した。彼の横を通り過ぎて洗面へ向かおうとしたが、繋いでいた手を引かれて後ろから彼に抱きとめられる。長身なはずの彼の口が耳元まで下りてきて、低い声で私を翻弄する。
「体は痛くない? 着替え、手伝おうか」
しばらくその場で立ち尽くして、それが冗談だったのだと気付いた。後ろで体を震わせている彼の方を見ることもできなくて、逃げるようにその場を走り去った。
身支度を全て整えて居間へ行くと、史弥さんがコーヒーを渡してくれる。
「ごめん、朝ご飯は後でもいい?」
「お腹空いてないです。コーヒーで充分」
苦いコーヒーが、少しは頭をすっきりさせてくれるような気がした。カップを口から離して一息つくと、いつものようにきちんとした格好で決めた史弥さんに改めて見惚れてしまう。スーツではないものの、落ち着いたグレーのジャケットに、黒のシャツとパンツを合わせている。石丸さんの言ったように、まるでファッション雑誌の表紙から抜け出て来たモデルのようだ。
それに比べて、私はいつものように、黒のセーターに細身のジーンズを選んでいた。急に自分の格好が恥ずかしくなったが、彼に相応しい服などどこを探しても持ってはいないのだ。
「あの、私……おかしくないですか。こんな格好で……」
きょとんと私を見つめた彼は、すぐに優しい笑みを浮かべる。
「他の誰がどんな素敵な服を着ていようが、俺には葉月しか目に入らないよ。それくらい、葉月は素敵だよ。着飾る必要なんてない」
彼の言葉は、不思議と素直に心に染み渡る。嬉しくて頬が緩みきった私の額にキスをして、彼が私の手からカップを受け取る。
「そろそろ行こうか。ここから石丸さんのいる警視庁までは二時間弱かかるから、車の中で眠っていていいよ」
そんな、と言いかけた私に、彼がニヤリと意地悪な笑みを浮かべる。思わず黙り込む私に、彼は更に口角を上げた。
「昨日、全く寝てないでしょ? きっと眠くなるから、無理しないで寝てなさい」
「どうして……」
眠っていないと気付かれたのか、それがわからなかった。彼は眠っていたし、私も身動き一つ取らなかったはずなのに。
彼を見上げる私の左胸に軽く手を当てて、今度は少し優しく笑う。
「あんなに心臓ドキドキさせたまま眠れる人なんていないよ。言っただろ? 俺は、耳がいいんだよ」
パチンと絵に描いたようにウィンクをして、彼は私の手を取って歩き出した。
一睡もできないまま朝を迎え、時刻は七時を少し回ったところだ。史弥さんは起きる気配がなく、すやすやと気持ちよさそうに寝息を立てている。左腕でしっかりと私の肩を抱いて、疲れないのだろうかとこちらが心配になるほどだ。
少しだけ頭の位置をずらして、見上げるようにして彼の寝顔を盗み見る。
すらっとした鼻筋は確かに外国の血を感じさせた。薄くて綺麗な唇も、あまりにも魅力的すぎるその瞳も、今は静かに息を潜めている。彼の胸元に置いていた左手をゆっくり動かして、指先で頬に触れてみた。
ひんやりと冷たいその肌は、昨夜よりも体温が低いように思えた。依然静かに寝息を立てている彼にいい気になって、その指先を顎のラインに沿って滑らせた。ゆっくりと、慎重に、何かを確かめるように、やがて指先は唇に触れた。その柔らかな感触が、一気に昨夜の記憶を呼び起こした。
その記憶に酔いしれそうになった瞬間、私の体は史弥さんの両腕に包まれていた。
「史弥さん」
驚いて名前を呼べば、彼はそのままくるりと体勢を変えて私の上に覆いかぶさるようにして体を密着させた。
「おはよう、葉月」
にっこりと目の前で微笑まれて、くらくらと視界が回る。
「おはよう。ごめんなさい、起こしちゃった?」
遠慮がちに彷徨う手をどうしたらいいのかわからず、なんとなく彼の腕にそっと触れておくことにした。
まだ優しく微笑んでいる彼は、いや、と首を横に振った。
「起きてたよ。葉月が俺に触る前から」
まさか、と開いた口が塞がらなくなる。寝ている彼の顔に触れていたのに気付かれていたなんて、あまりにも恥ずかしすぎる。体を無理やりよじって逃げようとしたけれど、胸から下はぴったりと彼の体がくっついていて身動きが取れない。せめてもの抵抗で両手で顔を覆った私の耳に唇を寄せて、彼は楽しそうに囁く。
「そんなに恥ずかしがらないで。俺だって葉月が寝ていたら、同じことをするよ」
顔を覆ったまま首をぶんぶんと横に振ると、大きな手が頭を撫でてくれる。
「いや、俺の場合は触るくらいじゃ済まないかもな」
低い声が耳に届くと、柔らかな唇が首筋を這うのがわかった。さらに体に力を入れた私に、彼は甘い声で囁いてくる。
「葉月、手をどけてくれないの?」
少し笑ったような、優しい口調だった。そんな声を出されたら、恥ずかしさは増すばかりで、今更おずおずと両手を下げることもできなくなっていた。
「困った子だな」
少し意地の悪い、しかしどこか心地よい声だった。
彼は首筋に唇を這わせたまま、ぶかぶかのシャツの中へと右手を差し込んでいた。大きくて冷たい手が、優しく私の意識を奪っていく。
一体何がどうなってそうなったのか私には見当もつかないけれど、気付けば顔を覆っていたはずの私の両手はその場を離れていた。代わりに、彼の甘くて優しい唇がそこにあった。
左手では史弥さんの脇から腕を通して、彼の背中にしがみ付いていた。そして右手は、長い指に絡めとられるようして手を繋いでいた。
「大丈夫?」
彼の言葉の意味を理解して、顔が赤くなる。
昨夜も、彼は同じ言葉を何度もかけてくれた。そのおかげで、恐怖は予想していたほど襲ってはこなかった。それどころか、彼の体温や匂い、そしてその感触に支配されてしまいそうで、必死に自我を保たなくてはいけないほどだった。
言葉を発さずに首を縦に振ると、先ほどよりも情熱的に唇を合わせてくる。
するするとシャツを捲られて、彼が両手でそれを脱がそうとした時、私の右耳のすぐ近くで電子音が鳴り響いた。史弥さんが一瞬そちらに目をやって、動きを止めた。
「電話、ですか?」
私が訪ねると、彼は頷いて枕元に置いてあった携帯へ手を伸ばす。
「石丸さんだよ。彼じゃなければ、無視して続けるんだけどね」
冗談ぽくそう言って彼は私の腕を掴んで引き起こした。それと同時に電話を耳にあてて、応える。ベッドの上に私を座らせたかと思うと、彼は滑らかにその場を移動して枕元に面した壁に背中を預けてもたれ掛った。この間に、もしもし? といつものように礼儀正しく電話に出ていた。
おはようございます、と挨拶をしながら、彼は私を抱き寄せて胸元へ抱え込んだ。電話を持っていない方の手で、しっかりと抱いてくれている。
「いえ、大丈夫ですよ。起きてました」
電話の内容は、知りたくなかった。しかし彼が電話を切れば、嫌でも知ることになるだろう。つい数秒前までの幸せにすがりつくように、私は史弥さんの胸にしがみ付いた。
「葉月も起きてますよ」
ちらりと私に視線を落として、彼がニヤリと笑う。とんでもない言葉が耳に届くのは、その笑顔に見惚れた直後だった。
「何を言うんですか。いいところだったのに、石丸さんの電話で邪魔されたんですよ」
楽しそうに笑う史弥さんは、石丸さんの前では少しだけ少年のような幼さをさらけ出す。そんなことを考えていた思考は一気に吹き飛び、弾かれたように私は史弥さんの腕から逃げようとした。その行動に何の意味があったかは定かではないが、まるで石丸さんに見られているような気がしたのだ。
しかし彼はそんなことを気にもしない素振りで電話を続けて、強い力で私を閉じ込めた。
「はい、わかりました。すぐに葉月と向かいます」
そう言って電話を切った彼は、私が何かを言うよりも早く口付をした。両手で頭を持たれて、深くなっていく口付に意識が朦朧とするような感覚に陥る。
やがて唇を離した彼は、額にもう一度キスをしてからベッドから降りた。来ていたシャツを脱ぐと、そのまま気遣うような笑みを向けてくる。
「石丸さんが、すぐに来てほしいって。支度できる?」
祖母の件で、何かわかったことがあるのだろうか。それとも、あの男の事だろうか。どちらにしても気の進む話ではないが、行かないわけにはいかない。
「はい。史弥さんも、一緒に来てくれる?」
もちろん、と彼が頷く。安心してベッドから立ち上がった私は、差し出された手を掴んで微笑み返した。彼の横を通り過ぎて洗面へ向かおうとしたが、繋いでいた手を引かれて後ろから彼に抱きとめられる。長身なはずの彼の口が耳元まで下りてきて、低い声で私を翻弄する。
「体は痛くない? 着替え、手伝おうか」
しばらくその場で立ち尽くして、それが冗談だったのだと気付いた。後ろで体を震わせている彼の方を見ることもできなくて、逃げるようにその場を走り去った。
身支度を全て整えて居間へ行くと、史弥さんがコーヒーを渡してくれる。
「ごめん、朝ご飯は後でもいい?」
「お腹空いてないです。コーヒーで充分」
苦いコーヒーが、少しは頭をすっきりさせてくれるような気がした。カップを口から離して一息つくと、いつものようにきちんとした格好で決めた史弥さんに改めて見惚れてしまう。スーツではないものの、落ち着いたグレーのジャケットに、黒のシャツとパンツを合わせている。石丸さんの言ったように、まるでファッション雑誌の表紙から抜け出て来たモデルのようだ。
それに比べて、私はいつものように、黒のセーターに細身のジーンズを選んでいた。急に自分の格好が恥ずかしくなったが、彼に相応しい服などどこを探しても持ってはいないのだ。
「あの、私……おかしくないですか。こんな格好で……」
きょとんと私を見つめた彼は、すぐに優しい笑みを浮かべる。
「他の誰がどんな素敵な服を着ていようが、俺には葉月しか目に入らないよ。それくらい、葉月は素敵だよ。着飾る必要なんてない」
彼の言葉は、不思議と素直に心に染み渡る。嬉しくて頬が緩みきった私の額にキスをして、彼が私の手からカップを受け取る。
「そろそろ行こうか。ここから石丸さんのいる警視庁までは二時間弱かかるから、車の中で眠っていていいよ」
そんな、と言いかけた私に、彼がニヤリと意地悪な笑みを浮かべる。思わず黙り込む私に、彼は更に口角を上げた。
「昨日、全く寝てないでしょ? きっと眠くなるから、無理しないで寝てなさい」
「どうして……」
眠っていないと気付かれたのか、それがわからなかった。彼は眠っていたし、私も身動き一つ取らなかったはずなのに。
彼を見上げる私の左胸に軽く手を当てて、今度は少し優しく笑う。
「あんなに心臓ドキドキさせたまま眠れる人なんていないよ。言っただろ? 俺は、耳がいいんだよ」
パチンと絵に描いたようにウィンクをして、彼は私の手を取って歩き出した。
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