砂に描いた夢

Bella

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過去・現在

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 ほの暗い診察室に置かれた長椅子に腰をかけて、必死に呼吸を繰り返した。一体何が起きたのかも飲み込めず、現実逃避は勢いを増すばかりだ。

「葉月、石丸さんから署に来てほしいって連絡があったけど……今日は止めておこうか」

 椅子の前で膝をついた史弥さんが、携帯を片手にそう言った。私を気遣うような表情を浮かべているのが印象的だ。
 空いている方の手で私の手を握ると、ぎゅっと力を入れて安心させてくれる。

「いえ、行きます」

 息を吸い込んで、一息で言い切った。そうでなければ、心が折れてしまいそうだったからだ。史弥さんは大きな瞳でじっと私を見つめて、灰色の目を揺らした。

「無理することはないんだよ。おばあ様の葬儀も終わったばかりだし、家もそのままだ。石丸さんのところへ行くのは明日だっていいと言ってくれてるんだよ」

 手が離れてしまったことを寂しがるよりも早く、大好きなその手は私の頭をふわりと撫でてくれた。そのままするりと頬へと滑らす。

「石丸さんが? 史弥さん、それは無理があると思う」

 石丸さんは、何が何でもあの男を捕まえたいと思っている。それも、十年前から。やっと掴みかけている尾を、ここでみすみす逃す気はないはずだ。坂口さんから何を聞いて、これから何を聞き出すつもりなのかは検討もつかないけれど、彼が私に用があるというなら、よほど大切なことに違いなかった。彼はいつだって私を気遣ってくれたけど、それはあくまでも『可能な限り』だった。石丸さんにとって、事件解決が彼の人生の全てであり、そのためには私の体調が多少優れないとか、坂口さんがこの一件に絡んでいるのが信じられないなどといった私情などを聞いてくれる余裕はないだろう。

「ばれたか」

 そう言って、史弥さんは苦虫を噛み潰したような顔をして見せた。

「確かに石丸さんはすぐにでも葉月から話を聞きたがってる。でも、俺が葉月に無理をさせたくないんだよ。行けば、彼と直接話をしなくてはいけなくなるかも」
「彼、店長ですか」

 初めて会った時から変わらない、太陽のように暖かくて優しい彼の笑顔を思い出す。心臓を鷲掴みにされたような痛みが走り、思わず顔をしかめてしまう。

「そう。きっと辛い思いをすることになる」
「でも、史弥さんがいてくれれば、私は大丈夫」

 頬にあてられていた手に自らの手を添えて、甘えるようにその手に顔を埋めた。彼はすぐにもう一方の手を肩に回して、私の体を抱き寄せた。先ほどまで持っていた携帯はどうしたのだろう、とふとよぎったが、そんなことはの魅力の前ではすぐにかき消されてしまう。

「もちろん俺は傍にいるけど……。本当に大丈夫? 行きたくないなら俺が断るから、心配しなくても石丸さんはわかってくれるよ」

 わかってはくれるだろう。ただ不満気に舌を鳴らして、私を引き留めた張本人である史弥さんに小言を言うだろう。それでも、彼は理解してくれる。それはわかっていた。史弥さんの胸の中で頷いて、さりげなく彼にもたれかかった。

「それはわかってます。だけど、私も知りたいんです。なぜ店長があんなことをしたのか、一体いつから……」

 言い切ることもできない弱い私を、史弥さんは優しく慰めた。

「そうか。葉月がそう言うなら、俺に止める権利はないな。その代り、絶対に無茶はさせないから。俺がこれ以上は無理だと判断したら、葉月が泣こうが喚こうが担いで連れて帰るからね。いい?」

 お願いします、と呟いて彼からそっと身を引いた。彼は一度頭をぽんと撫でてから立ち上がった。その手には、いつの間にかまた携帯が握られていた。それを耳にあてると、私に目配せをしてから診察室からでて会話を始めた。電話の相手は、石丸さんだろう。

「彼は、随分と変わった」

 ふいに、それまで置物のように静かだった黒田先生が口を開いた。診察用の椅子に腰かけたまま、優しく笑っている。

「変わった?」

 彼の方に向き直って小さく聞き返すと、彼はやはり優しい笑みで微笑む。

「彼がここに初めて来たのは、まだ二十歳そこそこの若造の頃でな。随分と血の気の多い青年だった。石丸くんに連れられて来たんだけどね、当時は世界中全員を敵だとでも思っているかのような目つきだった」

 石丸さんからもちらりと聞いた史弥さんの過去に、私は強く興味を惹かれた。若いころはどうやら今とは真逆のような人だったようだが、それでも、当時出会っていたら私はやはりあの綺麗な瞳に魅了されてしまっていたのだろう。
 無意識に身を乗り出した私を見て、先生は声を落として囁いた。

「彼の昔話が気になるようだな。だが、私が話してあげられるのはここまでだよ」

 どうして、と言いかけたところで扉が開き、音もなく史弥さんが入ってくる。私の隣に立つと、どこか居心地悪そうに先生に視線を送った。

「先生、お願いですから葉月に余計なことを言わないでください」

 携帯をズボンのポケットに仕舞い込んで、彼は私に視線をずらした。

「余計なことだと思っているのは、アーレンス君だけかもわからんよ」

 笑いながらそう言って、彼は奥のスペースから小さな袋を取り出してそれを史弥さんに手渡した。ありがとうございます、と小さく礼を言って受け取った彼は、それを素早くスーツの内ポケットへと滑り込ませた。その紙袋の形状から、薬のようだと思った。


 診察室を後にする時、先生は私の名を口にして呼び止めた。

「またいつでも来なさい。吸血鬼との子を身ごもった場合も、この病院では私が担当だからな」

 冗談とも本気ともつかないような言い方で、先生は笑って見せる。史弥さんは上を向いて、呆れたようにため息を落とした。当の私は、顔が赤くなるのを自覚しているだけで、何も言えなくなってしまった。手を振っている先生を見ながら、史弥さんに肩を抱かれてその場を後にした。


「昔からああいう人なんだよな、先生は」

 困ったように笑う史弥さんの声は、信頼と敬愛で満ちていた。横顔も、満足そうに目を細めて笑っているようだ。

「とても信用しているんですね」

 滑らかに走り出した車の中でそう言えば、彼はちらりとこちらに視線を送って頷く。

「そうだね。黒田先生と石丸さんは、俺のヒーローだから」

 ヒーロー?と聞き返せば、彼はもう一度頷いて答える。

「そう。救世主とも言えるかな。本当の家族よりも家族みたいで、尊敬してる」

 信号で止まると、彼はこちらに顔を向けて指を絡めた。そして、悪戯に笑って見せる。

「葉月のことも、家族みたいに想ってるよ」

 突然のことに、もちろん私はあわあわと狼狽えて黙り込んでしまう。それを見て、彼はいつものように笑っている。
 まだ喪服姿なので、一度史弥さんの家へ戻って着替えてから署へ行くことにしたので、着くまでに数時間はかかる見込みだ。それだけあれば、充分だと思った。

「あの、史弥さん」

 まだ笑っていた彼は、なに?と優しい声を出す。それだけで心臓が痛いほど脈打っていることも、彼は気づいているだろう。

「史弥さんが若かった頃の話、聞かせてもらえませんか?」

 まるで予想もしていなかったのか、彼は驚いて目を丸くさせた。一度口を開いたが、言葉が見つからなかったのか、そのまま前を向いてしまった。瞳には動揺が浮かび、右手で前髪をかき上げた。彼がここまで動揺を露わにするのは初めてのことだ。

「ごめんなさい、そんなに聞かれたくないことでしたか?」

 慌てて口を開けば、彼は小さく声を発したが、言葉にはならなかった。擦れた小さな声は、その後訪れた静寂に吸収されて消えてしまった。


「いや、ごめんね。まさかそんなことを葉月が気にしてるとは思ってもいなくて、少し驚いた」

 数分の沈黙の後口を開いた彼は、いつもと変わった様子もなく、堂々とした自信に溢れた様子だった。
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