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第三部
第二十章 月、清かに冴える 其の四
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翌々日の十五日、静は見性院の比丘尼屋敷にいた。久が届け物に連れてきたのを、見性院がそのまま残したのである。
静が無理に微笑もうとしている姿が、見性院にはあまりにも痛々しく見えた。
最初は家康や大姥局から頼まれた女子であるが、いまや娘のように気になる女子であった。
(なにゆえか、なんとのう惹き付けられる女子じゃ。大姥殿も同じ思いなのであろう。)
見性院は静の前に座り、再び茶の用意をしている。
「気塞ぎなことがあったか?」
静を見るでもなく、ゆったりとした仕草で老尼はお茶を入れている。
「いえ。」
能面のような静の口許だけが、ひきつるように少し微笑んでいた。
「無理して笑わずともよいぞ。ここでは泣いてよいと言うたはずじゃ。」
「はい。」
優しい母のような言いように、静の顔が無理を止めた。
柔らかな微笑みをたたえ、ゆっくりと見性院は茶の葉が開くのを待っている。
「それとも、泣けぬほど辛いことがあったか?」
静の目尻から、ついと涙が落ちた。その刹那、膝の上にあった手が丹田を触ったのを見性院の目は見逃さなかった。
「そうか…。よいよい。なにも言わずとも。」
柔らかな声で老尼は茶を注ぐ。静の前へ小さな茶碗を差し出し、自分も一口、茶を含んだ。
チチチチッという鳥の鳴き声が聞こえる。
「私もよう泣いた。武田が滅んだとき、夫を亡くしたとき、子を亡くしたとき……」
静は顔をあげ見性院を見た。頭巾の中の目はどこか遠くを見つめているようであった。
「時が忘れさせてくれると言うても、辛いときは辛いものじゃ。」
見性院の小さな頷きに、頭巾がゆらゆらと揺れる。
老尼はまた一口、茶を口にすると、小鳥が啼く庭へと目をやった。
「…赤子が、水になりました……」
魂が抜け出たように無表情の静が、小さな小さなかすれ声で報告した。
「そうか。」
「けれど、父母に知られとうのうて、城へ戻るふりをして、お久さまのところへ身を寄せました。」
「父者も母者もお幸せじゃの。そなたのような親思いの娘を持って。」
見性院の言葉に静の目が潤む。それでも、静の顔はどこか迷いを見せていた。
(まだ、自分の身に起こったことが受け入れられてないのやも知れぬのう。)
静の目の落ち着きのなさに、見性院は悲しみと惑いをみる。
「父者たちを欺いていると気が沈むのか? ならば、ここで養生するがよい。ここも城内じゃぞ。」
見性院がにっこり微笑んで目配せした。
「あ……」
「大姥殿と栄嘉殿には知らせをやろう。しばらく、お静を侍女として借り受けるとな。」
静の目から、ホロホロと涙が落ちた。
「よし。そのようにいたそう。早う茶を飲まねば冷めまするぞ。」
「ありがとうございまする。いただきまする。」
静は涙声でそう言い、茶碗に口をつける。香り高いお茶はわずかにしょっぱい味がした。
「さぁ、今宵は名月じゃ。久方ぶりに箏を弾くゆえ、聴いてくれぬか。 ……これも役目と思うての。」
優しく楽しそうな目が、頭巾の下で微笑んでいた。
◇◆
夕焼けを押しやりながら、夜の帳が降りようとしていた。
尼僧姿の者たちが、薄や団子、里芋を設える。
里芋や団子は、皿のような里芋の葉に乗せられ、さらに木地のままの簡素な三方に乗せられている。将軍家の立派な漆塗りの三方とは趣を異にしたが、それはそれできっぱりと凛として、見性院らしい設えであった。
その前に置かれた一面の箏だけが、華やかな色を放っている。
使い込んだのであろう箏は、表面に黒々とした年輪を浮き上がらせていた。それが、端にある鮮やかな朱の綾錦の尾布と美しく引き立てあう。
小さな側面にも細かな金細工が嵌め込まれ、弦を支える柱には蒔絵が施されていた。
箏がよくわからない静でも、それが大層立派であるのは一目で見てとれる。また、浮き上がる木目に、使われた木がどれほど立派な木だったかが思い浮かび、静は溜め息をついた。
(本当なら、私などお近づきにもなれないお方であったはず。)
箏の美しさに静は、ぼんやり考えていた。
日の名残もなくなった頃、見性院がしずしずと進み出て酒を注いで月に供えた。手を合わせ、阿弥陀経を諳じる。
そして爪をはめると箏に向き合い、手を動かした。
シャラン…
深まりゆく夜空に見事な音色が響き渡る。
虫の音も静まりかえり、冴え冴えとした月の光が、地のものに清かな月影を与えていた。
月に昇って行く美しい箏の音色は、静に水になった子を思わせた。
静かに手を合わせて聴いていたが、見性院の奏でる素晴らしい音に心が揺さぶられる。
私は悲しかったのだ。上様にやさしくしていただきたかったのだ。嘉衛門様のように。
わずかでもお心が欲しかったのだ。繋がりが……。
嘉衛門様への報われない思いを、上様に向けたのだ。そして、上様への報われない思いを嘉衛門様へ向けたのだ。
なんと浅はかな……。
なんと愚かな……。
嘉衛門様にはお美っちゃんが、上様には御台様がいらっしゃることが解っていながら。
『面白い女子じゃ』と微笑みを向けてくださった上様。
『うん。なかなかじゃ』とお茶を褒めてくださった上様。
上様。上様。上様……。
秀忠の笑顔が次々に甦る。静は、自分の心の中にこれほどまでに秀忠が深く居ついているとは、少しも思わなかった。
見性院の奏でる音の波が、静の心の内を開く。
雲の上の方。
お子さま方を深く愛される優しい方。
そしてなにより、
お美しい御台様を心の底からなにより愛しておられる方。
もともと心を奪われてはいけなかったのだ。
お役目だったのだもの。
上様が私と肌を合わせながら見ていたのは、感じていたのは、御台様……。
御台様じゃ……。
静の目から、ハラハラと涙がこぼれ続けた。
天空には望月、あくまで冴え冴えと。その光であまねく地上を照らし、箏の音色は静を包んでいた。
*****
【丹田】 おへその下辺り。
【三宝】 お正月に鏡餅とか乗せる台
【箏】 お琴の一種
【尾布】 お琴の端っこについている小さな布。
【柱】 琴の弦を持ち上げてるもの。
静が無理に微笑もうとしている姿が、見性院にはあまりにも痛々しく見えた。
最初は家康や大姥局から頼まれた女子であるが、いまや娘のように気になる女子であった。
(なにゆえか、なんとのう惹き付けられる女子じゃ。大姥殿も同じ思いなのであろう。)
見性院は静の前に座り、再び茶の用意をしている。
「気塞ぎなことがあったか?」
静を見るでもなく、ゆったりとした仕草で老尼はお茶を入れている。
「いえ。」
能面のような静の口許だけが、ひきつるように少し微笑んでいた。
「無理して笑わずともよいぞ。ここでは泣いてよいと言うたはずじゃ。」
「はい。」
優しい母のような言いように、静の顔が無理を止めた。
柔らかな微笑みをたたえ、ゆっくりと見性院は茶の葉が開くのを待っている。
「それとも、泣けぬほど辛いことがあったか?」
静の目尻から、ついと涙が落ちた。その刹那、膝の上にあった手が丹田を触ったのを見性院の目は見逃さなかった。
「そうか…。よいよい。なにも言わずとも。」
柔らかな声で老尼は茶を注ぐ。静の前へ小さな茶碗を差し出し、自分も一口、茶を含んだ。
チチチチッという鳥の鳴き声が聞こえる。
「私もよう泣いた。武田が滅んだとき、夫を亡くしたとき、子を亡くしたとき……」
静は顔をあげ見性院を見た。頭巾の中の目はどこか遠くを見つめているようであった。
「時が忘れさせてくれると言うても、辛いときは辛いものじゃ。」
見性院の小さな頷きに、頭巾がゆらゆらと揺れる。
老尼はまた一口、茶を口にすると、小鳥が啼く庭へと目をやった。
「…赤子が、水になりました……」
魂が抜け出たように無表情の静が、小さな小さなかすれ声で報告した。
「そうか。」
「けれど、父母に知られとうのうて、城へ戻るふりをして、お久さまのところへ身を寄せました。」
「父者も母者もお幸せじゃの。そなたのような親思いの娘を持って。」
見性院の言葉に静の目が潤む。それでも、静の顔はどこか迷いを見せていた。
(まだ、自分の身に起こったことが受け入れられてないのやも知れぬのう。)
静の目の落ち着きのなさに、見性院は悲しみと惑いをみる。
「父者たちを欺いていると気が沈むのか? ならば、ここで養生するがよい。ここも城内じゃぞ。」
見性院がにっこり微笑んで目配せした。
「あ……」
「大姥殿と栄嘉殿には知らせをやろう。しばらく、お静を侍女として借り受けるとな。」
静の目から、ホロホロと涙が落ちた。
「よし。そのようにいたそう。早う茶を飲まねば冷めまするぞ。」
「ありがとうございまする。いただきまする。」
静は涙声でそう言い、茶碗に口をつける。香り高いお茶はわずかにしょっぱい味がした。
「さぁ、今宵は名月じゃ。久方ぶりに箏を弾くゆえ、聴いてくれぬか。 ……これも役目と思うての。」
優しく楽しそうな目が、頭巾の下で微笑んでいた。
◇◆
夕焼けを押しやりながら、夜の帳が降りようとしていた。
尼僧姿の者たちが、薄や団子、里芋を設える。
里芋や団子は、皿のような里芋の葉に乗せられ、さらに木地のままの簡素な三方に乗せられている。将軍家の立派な漆塗りの三方とは趣を異にしたが、それはそれできっぱりと凛として、見性院らしい設えであった。
その前に置かれた一面の箏だけが、華やかな色を放っている。
使い込んだのであろう箏は、表面に黒々とした年輪を浮き上がらせていた。それが、端にある鮮やかな朱の綾錦の尾布と美しく引き立てあう。
小さな側面にも細かな金細工が嵌め込まれ、弦を支える柱には蒔絵が施されていた。
箏がよくわからない静でも、それが大層立派であるのは一目で見てとれる。また、浮き上がる木目に、使われた木がどれほど立派な木だったかが思い浮かび、静は溜め息をついた。
(本当なら、私などお近づきにもなれないお方であったはず。)
箏の美しさに静は、ぼんやり考えていた。
日の名残もなくなった頃、見性院がしずしずと進み出て酒を注いで月に供えた。手を合わせ、阿弥陀経を諳じる。
そして爪をはめると箏に向き合い、手を動かした。
シャラン…
深まりゆく夜空に見事な音色が響き渡る。
虫の音も静まりかえり、冴え冴えとした月の光が、地のものに清かな月影を与えていた。
月に昇って行く美しい箏の音色は、静に水になった子を思わせた。
静かに手を合わせて聴いていたが、見性院の奏でる素晴らしい音に心が揺さぶられる。
私は悲しかったのだ。上様にやさしくしていただきたかったのだ。嘉衛門様のように。
わずかでもお心が欲しかったのだ。繋がりが……。
嘉衛門様への報われない思いを、上様に向けたのだ。そして、上様への報われない思いを嘉衛門様へ向けたのだ。
なんと浅はかな……。
なんと愚かな……。
嘉衛門様にはお美っちゃんが、上様には御台様がいらっしゃることが解っていながら。
『面白い女子じゃ』と微笑みを向けてくださった上様。
『うん。なかなかじゃ』とお茶を褒めてくださった上様。
上様。上様。上様……。
秀忠の笑顔が次々に甦る。静は、自分の心の中にこれほどまでに秀忠が深く居ついているとは、少しも思わなかった。
見性院の奏でる音の波が、静の心の内を開く。
雲の上の方。
お子さま方を深く愛される優しい方。
そしてなにより、
お美しい御台様を心の底からなにより愛しておられる方。
もともと心を奪われてはいけなかったのだ。
お役目だったのだもの。
上様が私と肌を合わせながら見ていたのは、感じていたのは、御台様……。
御台様じゃ……。
静の目から、ハラハラと涙がこぼれ続けた。
天空には望月、あくまで冴え冴えと。その光であまねく地上を照らし、箏の音色は静を包んでいた。
*****
【丹田】 おへその下辺り。
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【箏】 お琴の一種
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