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第五部(最終)
第二十六章 時代、胎動す 其の三
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大牧村では信松尼が待っていた。
静は、信松尼に機織りや手習いなどを教わりながら、のんびりと過ごしていた。
(お局で歌留多取りをされる頃かしら……)
そう思いながら、百人一首集を捲って見る。
和歌をなぞると秀忠の笑顔が思い出された。
思い出す度に切ない。けれど、思い出さずにはいられない。
(…上様…)
心の中で静は呼んでみる。お腹の中がクニグニキュルと何度も続いて動いた。
(ふふっ、慰めてくれるの?)
静がお腹を撫でて微笑んだ。
『笑ってるおっかさんが好きだってよ』。柾吉の声が聞こえる。
(そうね。そなたがおる。母は寂しゅうないぞ。)
静は、にこっと微笑んで、きれいな声で、子守り歌を歌って聞かせた。
人目を気にせず外に出られるようになり、静はよく散歩に出掛ける。
上様の子を宿しているので、一人行かせる訳にもいかず、「難儀じゃのう。」と笑いながら、信松尼もついてきた。
これは梅、これはマンサク、これは椿…
静は時々草木の前で立ち止まっては、名前を教えた。
「よい香りねぇ。やや。」
赤子が気持ち良さそうに足を伸ばしているのがわかる。
冬の寒さに耐えている木々が、お腹の中の赤子に生命の力を与えてくれそうに思った。
そして、お寺の前で足を止めては、水になった赤子に手を合わせ、神社の前で足を止めては、生まれてくる赤子の無事を願った。
道端のお地蔵さまや祠にも手を合わせる。
「信心深いのう。」
尼姿の信松尼が、驚いてからかった。
「そういうわけでもありませぬが…」
静がふんわりと微笑む。
「ふふっ、初めて会うた時は、なんとも笑わぬ女子であったが、今はよい笑い顔じゃ。それも神仏のおかげか?」
「さようにござりまする。」
静がえくぼを浮かべ、にっこりと笑った。
見性院はもちろん、大姥局も信心深かった。
静は、慈しんでくれた周りの人々を、神や仏のように感じていた。
「静、そのように祈るのであれば、祈願文を納めてはどうじゃ。」
「祈願文でございますか?」
「そうじゃ。無事のお産を願うて。」
「それは願うてもないことにござりまするが、私は、書き方を存じませぬ。」
静が恥ずかしそうに目を伏せた。
「思う通り書けばよい。」
「しかし、失礼があったらバチが当たるのではございませぬか……」
無事に子を迎えたい静は、顔を曇らせる。
いらぬ気苦労じゃと思いながら、信松尼もその不安は解った。
「そうか。では、私が書いてやろう。父上が私の病が癒えるように祈願文を書いてくださったことがあるゆえ、私が書いてもよかろう。」
「はい。お願い致しまする。」
信松尼の言葉に、静は嬉しそうに頭を下げた。
◆◇
信松尼は文机に座り、墨を擂っている。障子を通しての春の日差しは柔らかく、穏やかだった。
墨を擂り終えた尼は、火鉢に手を近づけて手をあぶる。暖まった手に筆を持ち、墨を含ませてみたが、今一つ、なにから書くかがまとまらなかった。
筆を置き、「ふ」と小さな溜め息をついて、螺鈿の美しい文箱を手に取る。
なにか手本はないかと蓋を開けようとしたが、ずっしりとした箱の蓋はなかなか開かなかった。
それでも力任せに開けると、文箱はたっぷり収めていた文を撒き散らし、身軽になって裏返った。
「ああ…。」
信松尼が溜め息をつきながら、文を集める。上の方にあったのは、色の変わった古い手紙、信忠からの文であった。
「……信忠さま……」
信忠からの文を待ち望んでいた頃が甦る。
幸せであった。
いつからか信忠の文に時々出てきた「父上お気に入りのお転婆で小さな三の姫」。それが江であった。
その従妹の姫が出てくる文は、信忠の字がいっそう伸びやかで楽しそうだった。
信松尼が古い文を大事そうに広げる。
「会いに参らせ候」
力強い墨の色は鮮やかで、少しも色褪せていないのに、書いた方がおらぬとは……。
「未練じゃの。」
信松尼が両手で顔を覆い、自嘲するように笑った。
ククコッコッと庭の鶏の声がする。
「武田は織田によって滅ぼされた。織田は小さくなったといえ、淀の方と御台所で、天下の中心に血が残っておる。
浅井の三姉妹と私たち武田の姉妹はどこが違うのじゃ?
浅井の姉妹とて、親を滅ぼされておるのに。
ことに三の姫は、織田に庇護され、豊臣に庇護され、今は徳川の御台所として、多くの子も生んでおる。
何故じゃ?
私は愛する人の子を生めなんだ。いや、その腕にさえ抱かれたことはなかった。
何が違ったのであろうのぅ。それが運命というものか……?」
信松尼は信忠が死んでから、自分に言い聞かせるために長い独り言を言うようになった。
最近はそれも止んでいたが、静の満ち足りて穏やかな笑顔を見、古い文を見て、江と静への羨みが頭をもたげた。
それは多くの血を繋ぐ徳川への羨みと血を繋げなかった武田への悲しみに被さる。
(私が家康に抱かれればよかったのか?いや、武田が滅んだあの頃、家康を選んだであろうか…)
「せんなきことじゃ。」
信松尼はふっと息を吐くと、墨がこびりついた硯にもう一度水を落とし、墨を摺った。
◆◇
「静、書けたぞ。天気のよい日にお詣りしてお納めしよう」
「ありがとうございまする。見せていただいてよろしゅうございますか?」
心踊らせながら、差し出された文を恭しく受けとり、目を落とした。
うやまつて申きくわんの事
南無ひかわ大めうしん 當こくのちんしゆとしてあとを此国にたれたまひ しゆしようあまねくたすけたまふ
ここに神尾栄嘉むすめ 静 いやしきみとして 太しゆのをもひものとなり 御たねをやとして當四五月のころりんけつたり
しかれとも御たいところ 嫉妬の御こゝろふかくゑいちうにをることをゑす
今 みをこのほとりにしのふ 静 まつたくいやしき身にして ありかたき御てうあいをかうむる
神はつとして かゝる御たねを みこもりながら住所にさまよふ 神めいまことあらば 静 たいないの御たねなんしにして あん産守こしたまひ ふたりとも生をまつとふし 御うんをひらく事をえ 武田さひかうなさしめたまはば しんくわんのこと かならすたかひたてまつりましく候なり
慶長十六年二月 信松
(敬って申し祈願の事
南無氷川大明神、当国の鎮守として後を此国に垂れ給ひ、衆生あまねく助け給ふ。
ここに神尾栄嘉娘、静、賎しき身として太守の想ひ者となり、御胤を宿して当四五月の頃、臨月たり。
しかれども御台所、嫉妬の御心深く、営中に居ることを得ず。今、身をこの地に忍ぶ。
静、全く賎しき身にして有り難き御寵愛を被る。
神罰としてかゝる御胤を身籠りながら住所にさまよふ。
神明真あらば静体内の御胤男子にして、安産守護し給ひ 二人とも生を全ふし、御運を開く事を得、武田再興なさしめたまはば、心願のこと必ず違い奉りましく候なり
慶長十六年二月 信松)
静は、麗しい水茎を見ながら、胸がドキドキしている。
「どうじゃ、静」
信松尼が、自信に満ちた顔で静を見た。
*****
【太守】将軍
【営中】城内、江戸城
【水茎】達筆な筆跡
静は、信松尼に機織りや手習いなどを教わりながら、のんびりと過ごしていた。
(お局で歌留多取りをされる頃かしら……)
そう思いながら、百人一首集を捲って見る。
和歌をなぞると秀忠の笑顔が思い出された。
思い出す度に切ない。けれど、思い出さずにはいられない。
(…上様…)
心の中で静は呼んでみる。お腹の中がクニグニキュルと何度も続いて動いた。
(ふふっ、慰めてくれるの?)
静がお腹を撫でて微笑んだ。
『笑ってるおっかさんが好きだってよ』。柾吉の声が聞こえる。
(そうね。そなたがおる。母は寂しゅうないぞ。)
静は、にこっと微笑んで、きれいな声で、子守り歌を歌って聞かせた。
人目を気にせず外に出られるようになり、静はよく散歩に出掛ける。
上様の子を宿しているので、一人行かせる訳にもいかず、「難儀じゃのう。」と笑いながら、信松尼もついてきた。
これは梅、これはマンサク、これは椿…
静は時々草木の前で立ち止まっては、名前を教えた。
「よい香りねぇ。やや。」
赤子が気持ち良さそうに足を伸ばしているのがわかる。
冬の寒さに耐えている木々が、お腹の中の赤子に生命の力を与えてくれそうに思った。
そして、お寺の前で足を止めては、水になった赤子に手を合わせ、神社の前で足を止めては、生まれてくる赤子の無事を願った。
道端のお地蔵さまや祠にも手を合わせる。
「信心深いのう。」
尼姿の信松尼が、驚いてからかった。
「そういうわけでもありませぬが…」
静がふんわりと微笑む。
「ふふっ、初めて会うた時は、なんとも笑わぬ女子であったが、今はよい笑い顔じゃ。それも神仏のおかげか?」
「さようにござりまする。」
静がえくぼを浮かべ、にっこりと笑った。
見性院はもちろん、大姥局も信心深かった。
静は、慈しんでくれた周りの人々を、神や仏のように感じていた。
「静、そのように祈るのであれば、祈願文を納めてはどうじゃ。」
「祈願文でございますか?」
「そうじゃ。無事のお産を願うて。」
「それは願うてもないことにござりまするが、私は、書き方を存じませぬ。」
静が恥ずかしそうに目を伏せた。
「思う通り書けばよい。」
「しかし、失礼があったらバチが当たるのではございませぬか……」
無事に子を迎えたい静は、顔を曇らせる。
いらぬ気苦労じゃと思いながら、信松尼もその不安は解った。
「そうか。では、私が書いてやろう。父上が私の病が癒えるように祈願文を書いてくださったことがあるゆえ、私が書いてもよかろう。」
「はい。お願い致しまする。」
信松尼の言葉に、静は嬉しそうに頭を下げた。
◆◇
信松尼は文机に座り、墨を擂っている。障子を通しての春の日差しは柔らかく、穏やかだった。
墨を擂り終えた尼は、火鉢に手を近づけて手をあぶる。暖まった手に筆を持ち、墨を含ませてみたが、今一つ、なにから書くかがまとまらなかった。
筆を置き、「ふ」と小さな溜め息をついて、螺鈿の美しい文箱を手に取る。
なにか手本はないかと蓋を開けようとしたが、ずっしりとした箱の蓋はなかなか開かなかった。
それでも力任せに開けると、文箱はたっぷり収めていた文を撒き散らし、身軽になって裏返った。
「ああ…。」
信松尼が溜め息をつきながら、文を集める。上の方にあったのは、色の変わった古い手紙、信忠からの文であった。
「……信忠さま……」
信忠からの文を待ち望んでいた頃が甦る。
幸せであった。
いつからか信忠の文に時々出てきた「父上お気に入りのお転婆で小さな三の姫」。それが江であった。
その従妹の姫が出てくる文は、信忠の字がいっそう伸びやかで楽しそうだった。
信松尼が古い文を大事そうに広げる。
「会いに参らせ候」
力強い墨の色は鮮やかで、少しも色褪せていないのに、書いた方がおらぬとは……。
「未練じゃの。」
信松尼が両手で顔を覆い、自嘲するように笑った。
ククコッコッと庭の鶏の声がする。
「武田は織田によって滅ぼされた。織田は小さくなったといえ、淀の方と御台所で、天下の中心に血が残っておる。
浅井の三姉妹と私たち武田の姉妹はどこが違うのじゃ?
浅井の姉妹とて、親を滅ぼされておるのに。
ことに三の姫は、織田に庇護され、豊臣に庇護され、今は徳川の御台所として、多くの子も生んでおる。
何故じゃ?
私は愛する人の子を生めなんだ。いや、その腕にさえ抱かれたことはなかった。
何が違ったのであろうのぅ。それが運命というものか……?」
信松尼は信忠が死んでから、自分に言い聞かせるために長い独り言を言うようになった。
最近はそれも止んでいたが、静の満ち足りて穏やかな笑顔を見、古い文を見て、江と静への羨みが頭をもたげた。
それは多くの血を繋ぐ徳川への羨みと血を繋げなかった武田への悲しみに被さる。
(私が家康に抱かれればよかったのか?いや、武田が滅んだあの頃、家康を選んだであろうか…)
「せんなきことじゃ。」
信松尼はふっと息を吐くと、墨がこびりついた硯にもう一度水を落とし、墨を摺った。
◆◇
「静、書けたぞ。天気のよい日にお詣りしてお納めしよう」
「ありがとうございまする。見せていただいてよろしゅうございますか?」
心踊らせながら、差し出された文を恭しく受けとり、目を落とした。
うやまつて申きくわんの事
南無ひかわ大めうしん 當こくのちんしゆとしてあとを此国にたれたまひ しゆしようあまねくたすけたまふ
ここに神尾栄嘉むすめ 静 いやしきみとして 太しゆのをもひものとなり 御たねをやとして當四五月のころりんけつたり
しかれとも御たいところ 嫉妬の御こゝろふかくゑいちうにをることをゑす
今 みをこのほとりにしのふ 静 まつたくいやしき身にして ありかたき御てうあいをかうむる
神はつとして かゝる御たねを みこもりながら住所にさまよふ 神めいまことあらば 静 たいないの御たねなんしにして あん産守こしたまひ ふたりとも生をまつとふし 御うんをひらく事をえ 武田さひかうなさしめたまはば しんくわんのこと かならすたかひたてまつりましく候なり
慶長十六年二月 信松
(敬って申し祈願の事
南無氷川大明神、当国の鎮守として後を此国に垂れ給ひ、衆生あまねく助け給ふ。
ここに神尾栄嘉娘、静、賎しき身として太守の想ひ者となり、御胤を宿して当四五月の頃、臨月たり。
しかれども御台所、嫉妬の御心深く、営中に居ることを得ず。今、身をこの地に忍ぶ。
静、全く賎しき身にして有り難き御寵愛を被る。
神罰としてかゝる御胤を身籠りながら住所にさまよふ。
神明真あらば静体内の御胤男子にして、安産守護し給ひ 二人とも生を全ふし、御運を開く事を得、武田再興なさしめたまはば、心願のこと必ず違い奉りましく候なり
慶長十六年二月 信松)
静は、麗しい水茎を見ながら、胸がドキドキしている。
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