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余
椿の花、落つる
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寛永三年、江が身罷った時、京より江戸へ帰る途中の駿府で、秀忠は動かなかった。
利勝は家光について先に帰り、葬儀の段取りを慌ててしている。
駿府の秀忠の元には、「早く帰ってくるように」と将軍家光から矢のような催促がくる。
しかし、大御所秀忠は駿府城を動かなかった。
「上様、大御所様はお戻りになりますまい。大御台様のご葬儀、執り行いましょう。」
利勝は確信しているように家光に進言する。
「したが、あれほど愛しておられた母上の最期を見られぬなど…」
「あれほど愛しておられたゆえ、会えないのでございまする。」
「そうか…」
家光はのろのろと母の葬儀の命令を告げた。
駿府では、秀忠がぼんやりとしていた。
市姫が死んだとき、ぼんやりした父を見たのは、この部屋であったか……。
江が死んだのに、なにゆえ私は泣けぬ?
父上でさえ、市が死んだときには泣いておったのに。
豊臣を滅ぼしたときには泣いたのに。
何故泣けぬ?
「失礼いたしまする。」
小姓が茶を持ってきた。お茶を大御所の前に置くと、どこを見ているでもない大御所に大層美しい礼をし、下がっていった。
お茶を見もしなかった秀忠の鼻に、ふわりと茶の香りが届く。
茶を見つめると、湯飲みに震える手を伸ばし、そっと口許へ運んだ。
秀忠の喉仏がコクリと動く。
体の中に、お茶の清々しい香気が巡った。
忘れもしない、大姥局のお茶であった。
しかし、江より先に逝ってしまった大姥局が入れられるわけはない。
(……静…)
高遠城に居た静は、江が身罷ったあと、秀忠が駿府城から動かないと利勝から知らされた。
亡くなる前の江から「秀忠を頼む」という文も受け取っていた静は、取るものも取りあえず、駿府城へやって来たのだ。
しかし、江をなくした秀忠の喪失感が計り知れないのは、何よりもわかっている。
そして今、自分が声をかければ、秀忠がこの悲しみから目を逸らせてしまうのもわかっていた。
静は、今ほど江の声に似ている我が身を辛く哀しく思ったことはない。
(旦那様…)
大姥局なら、どうするだろう、静は考える。
そして、秀忠のいる部屋のすぐ隣で、丁寧に丁寧に一杯のお茶を入れたのであった。
(このようなことしか私にはできぬ。大御台様、お許しくださいませ。)
小姓の後ろ姿を見送りながら、静は秀忠が少しでも楽になるようにと祈った。
懐かしい茶を飲んだ秀忠の瞳に、涙が満ち溢れた。
大姥が去ったあと、江はお茶を入れるのに手を焼いておった。
儂がうまいと言わなかったら、『茶はたてる方がようございます。茶をたてるのなら、利休様に直に手ほどきいただきましたもの。』とふくれておったな。
「ふふ……」と笑った秀忠の膝に、ポタリと涙に落ちる。
初めて「うまい。」と言うてやったのはいつだったか……。きれいな瞳を何度もまばたいて、娘のように『まことでございますか?あなたさま。』と何度もしつこく訊いたのう……。
しつこく……。
『もう一度、言うてくださりませ。』と、しつこく……
いつもあんなにしつこい奴であったのに、何故あっけなく逝ってしまうのじゃ…。
先触れもなく……。
秀忠の脳裏に、困ったような江の笑顔が思い出される。すでに涙はとめどもなく頬を濡らしている。
ほんのりとしょっぱくなった茶を秀忠は飲み干した。
『もうすぐ茶の花が咲きまするな、あなたさま。』
西の丸に入ってからは、茶の花を愛でておった。静のことも幸松のことも存じておったのであろう。
江、私はそなたを幸せにしてやれたのか?
そなたから全て取り上げたのではないのか?
そなたがいない世でどうして生きていけばよいのじゃ……。
「江…ごう…、ごぉぉぉー……」
絞り出すような秀忠の慟哭が聞こえてきた。
江の名を繰り返し叫び、子が母を求めるような泣き声に、静も襖を隔てた部屋で、ただ涙した。
静の隣で、りりしい顔立ちの小姓が、姿勢をただしてじっと座っている。
秀忠の泣き声が少し落ち着いてくる頃、静はもう一度、心を込めて少し濃いめの茶を入れた。
「失礼いたしまする。」
小姓が作法にのっとり、秀忠の前に茶を置く。丁寧な礼をして顔をあげた小姓の瞳に秀忠は見覚えがあった。
もうそろそろ元服をさせられようかという、十五・六の小姓である。
「待て。」
立ち上がろうとした小姓に向かって、秀忠が涙声をかけた。
改めて小姓が大御所の前に座る。
秀忠が一口、湯飲みに口をつけた。
『しっかりなさいませ。』
大姥の、江の声が聞こえる。
「うまい茶であったと伝えてくれ。」
どこかまだ震えるような秀忠の声であった。
「御意。」
嬉しそうに返事をした小姓の頬に、えくぼが浮かんでいる。
(…幸松…)
秀忠は目の前の若侍が誰かわかった。(そうじゃ。自分の目と似ているのじゃ)。
幸松が美しい礼をすると、大御所は深く頷き、再び湯飲みを手に取った。
「静、大御所様が『うまい茶であった。』と礼を仰せであった。」
「ようございました。」
「静の言う通り、大御所様は大御台様を大層好いておられたのだな。」
静がえくぼを浮かべ、涙が流れるのを拭こうともせずに、頷いた。
「けれど、私にも、幸松様にも情はかけてくださいましたぞ。」
「今日、ようわかった。大御所様と大御台様の絆に入っていけぬというた、静の言葉が。 気に病まずともよい。私は幸せじゃ。保科の父上は我が子として育ててくださるし、生みの母のそなたがいつも傍にいてくれる。私は、父上の後を継いで、高遠藩を治め、幕府に忠義を誓うだけじゃ。」
静は、若君の決意にうんうんと頷いていた。
流れる涙をそっと拭くと、襖を隔てた向こうにいる秀忠に向かって、静はきれいな礼をした。
そしてそのまま、幸松と連れだって、静かに駿府城を辞した。
[椿の花、落つる 了]
※※※※※
【家光】三代目将軍、徳川家光。本編での竹千代。
利勝は家光について先に帰り、葬儀の段取りを慌ててしている。
駿府の秀忠の元には、「早く帰ってくるように」と将軍家光から矢のような催促がくる。
しかし、大御所秀忠は駿府城を動かなかった。
「上様、大御所様はお戻りになりますまい。大御台様のご葬儀、執り行いましょう。」
利勝は確信しているように家光に進言する。
「したが、あれほど愛しておられた母上の最期を見られぬなど…」
「あれほど愛しておられたゆえ、会えないのでございまする。」
「そうか…」
家光はのろのろと母の葬儀の命令を告げた。
駿府では、秀忠がぼんやりとしていた。
市姫が死んだとき、ぼんやりした父を見たのは、この部屋であったか……。
江が死んだのに、なにゆえ私は泣けぬ?
父上でさえ、市が死んだときには泣いておったのに。
豊臣を滅ぼしたときには泣いたのに。
何故泣けぬ?
「失礼いたしまする。」
小姓が茶を持ってきた。お茶を大御所の前に置くと、どこを見ているでもない大御所に大層美しい礼をし、下がっていった。
お茶を見もしなかった秀忠の鼻に、ふわりと茶の香りが届く。
茶を見つめると、湯飲みに震える手を伸ばし、そっと口許へ運んだ。
秀忠の喉仏がコクリと動く。
体の中に、お茶の清々しい香気が巡った。
忘れもしない、大姥局のお茶であった。
しかし、江より先に逝ってしまった大姥局が入れられるわけはない。
(……静…)
高遠城に居た静は、江が身罷ったあと、秀忠が駿府城から動かないと利勝から知らされた。
亡くなる前の江から「秀忠を頼む」という文も受け取っていた静は、取るものも取りあえず、駿府城へやって来たのだ。
しかし、江をなくした秀忠の喪失感が計り知れないのは、何よりもわかっている。
そして今、自分が声をかければ、秀忠がこの悲しみから目を逸らせてしまうのもわかっていた。
静は、今ほど江の声に似ている我が身を辛く哀しく思ったことはない。
(旦那様…)
大姥局なら、どうするだろう、静は考える。
そして、秀忠のいる部屋のすぐ隣で、丁寧に丁寧に一杯のお茶を入れたのであった。
(このようなことしか私にはできぬ。大御台様、お許しくださいませ。)
小姓の後ろ姿を見送りながら、静は秀忠が少しでも楽になるようにと祈った。
懐かしい茶を飲んだ秀忠の瞳に、涙が満ち溢れた。
大姥が去ったあと、江はお茶を入れるのに手を焼いておった。
儂がうまいと言わなかったら、『茶はたてる方がようございます。茶をたてるのなら、利休様に直に手ほどきいただきましたもの。』とふくれておったな。
「ふふ……」と笑った秀忠の膝に、ポタリと涙に落ちる。
初めて「うまい。」と言うてやったのはいつだったか……。きれいな瞳を何度もまばたいて、娘のように『まことでございますか?あなたさま。』と何度もしつこく訊いたのう……。
しつこく……。
『もう一度、言うてくださりませ。』と、しつこく……
いつもあんなにしつこい奴であったのに、何故あっけなく逝ってしまうのじゃ…。
先触れもなく……。
秀忠の脳裏に、困ったような江の笑顔が思い出される。すでに涙はとめどもなく頬を濡らしている。
ほんのりとしょっぱくなった茶を秀忠は飲み干した。
『もうすぐ茶の花が咲きまするな、あなたさま。』
西の丸に入ってからは、茶の花を愛でておった。静のことも幸松のことも存じておったのであろう。
江、私はそなたを幸せにしてやれたのか?
そなたから全て取り上げたのではないのか?
そなたがいない世でどうして生きていけばよいのじゃ……。
「江…ごう…、ごぉぉぉー……」
絞り出すような秀忠の慟哭が聞こえてきた。
江の名を繰り返し叫び、子が母を求めるような泣き声に、静も襖を隔てた部屋で、ただ涙した。
静の隣で、りりしい顔立ちの小姓が、姿勢をただしてじっと座っている。
秀忠の泣き声が少し落ち着いてくる頃、静はもう一度、心を込めて少し濃いめの茶を入れた。
「失礼いたしまする。」
小姓が作法にのっとり、秀忠の前に茶を置く。丁寧な礼をして顔をあげた小姓の瞳に秀忠は見覚えがあった。
もうそろそろ元服をさせられようかという、十五・六の小姓である。
「待て。」
立ち上がろうとした小姓に向かって、秀忠が涙声をかけた。
改めて小姓が大御所の前に座る。
秀忠が一口、湯飲みに口をつけた。
『しっかりなさいませ。』
大姥の、江の声が聞こえる。
「うまい茶であったと伝えてくれ。」
どこかまだ震えるような秀忠の声であった。
「御意。」
嬉しそうに返事をした小姓の頬に、えくぼが浮かんでいる。
(…幸松…)
秀忠は目の前の若侍が誰かわかった。(そうじゃ。自分の目と似ているのじゃ)。
幸松が美しい礼をすると、大御所は深く頷き、再び湯飲みを手に取った。
「静、大御所様が『うまい茶であった。』と礼を仰せであった。」
「ようございました。」
「静の言う通り、大御所様は大御台様を大層好いておられたのだな。」
静がえくぼを浮かべ、涙が流れるのを拭こうともせずに、頷いた。
「けれど、私にも、幸松様にも情はかけてくださいましたぞ。」
「今日、ようわかった。大御所様と大御台様の絆に入っていけぬというた、静の言葉が。 気に病まずともよい。私は幸せじゃ。保科の父上は我が子として育ててくださるし、生みの母のそなたがいつも傍にいてくれる。私は、父上の後を継いで、高遠藩を治め、幕府に忠義を誓うだけじゃ。」
静は、若君の決意にうんうんと頷いていた。
流れる涙をそっと拭くと、襖を隔てた向こうにいる秀忠に向かって、静はきれいな礼をした。
そしてそのまま、幸松と連れだって、静かに駿府城を辞した。
[椿の花、落つる 了]
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【家光】三代目将軍、徳川家光。本編での竹千代。
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