執事が執事でなくなる日

伊吹咲夜

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中編

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 朝、フットマンが寝室に起こしに来る前に目が覚めた。
 目が覚めた、というより眠れなかった。
 彼が今どこで何をしているのかと考えると、心が落ち着かなくなって目が冴えてしまうのだ。
 ウトウトとしてはまた覚醒し、気付けば朝を迎えていた。

「もう朝か……」

 もう、というかやっと朝。
 昨日から時間の流れがやけに長く感じる。
 
「あと二日も帰ってこないんだ」

 昨日一日でも寂しくて、彼が欲し過ぎて気が狂いそうだったのに、それがあと二日も残されている。
 そう考えると今日だって正常に過ごせる気がしない。

 コンコンコン

 控えめにドアがノックされる。
 『失礼します』と小さい声と共に、昨日のフットマンが寝室に入ってくる。
 僕が起きているとは思っていなかったらしく、ベッドの上に身を起こしている僕と目が合って、驚いた顔をして固まった。

「おはよう。レースのカーテンだけは開けないでおいてくれるかい」
「あ、お、お、おはようございます。か、かしこまりました」

 昨日の緊張はまだ解れていない様子だ。
 起こす前に起きていたという予想外の展開にさらにテンパったのか、思いっ切りどもっている。

「新聞はダイニングで読むのでそっちに持っていって。今朝の紅茶はクイーン・オブ・ウェールズを」
「わかり……じゃなかった、かしこまりました」

 パジャマから室内着に着替えるのも手慣れないせいか、脱がすタイミングも着せるタイミングもギクシャクもたもた。
 こんなちょっとしたことなのにイライラする。

「もういいよ、自分でやる。お茶の準備してきて」

 これ以上着替えを手伝って貰っていては、些細なことで怒ってしまいそうだった。
 八つ当たりとも思えるイライラを関係のないフットマンにぶつけようとするなんて、彼が知ったらきっとガッカリするだろう。
 こんなにまで彼がいない生活にイライラするなんて。
 思った以上に『彼中毒』『彼依存症』な自分が情けなくなってきた。

「こんな僕にした彼が憎いよ……」

 魅力的で格好良くて、何でも出来る。
 執事という仕事のせいもあるだろうが、いつだって僕がして欲しいと望むことは叶えてくれる。
 こんな完璧な彼が常に傍にいてしまっては、依存するなといっても無理があるものだ。

 それに比べ僕は不完全なご主人様だ。
 それなりに(?)仕事はこなせているとは思うが、それだって彼のサポートありきの事。
 一人ですべての業務をこなそうとすれば、必ずといっていい程見落としもするし忘れたりもする。
 他の屋敷のご主人様のように威厳があって、尊敬され、執事に頼ることなく何でも出来るなんてことは僕には不可能だ。

「こんな僕に仕えている意味なんてあるのか?」

 ネガティブになるといつも呟く独り言。
 彼ほど優秀な執事なら引き抜きだってあるだろう。
 それなのに彼は黙って僕に仕えていてくれた。

「今回の休暇ってもしかして……」

 考えたくはないが、それこそ『転職』なのでは?
 もっと条件のいい、有能なご主人様のお屋敷から声がかかって、その面接と試用雇用なのでは。
 だから一日ではなく三日間という、今までにない長期の休暇を取ったのか?

「まさか、ね?」

 彼に限ってそんなことはない筈だと頭は否定する。でも心は否定しきれなく悶々とする。
 そもそも試用雇用なら三日で済むはずがない。自分だって最低でも一カ月は試用してから決める。

「今どこにいるんだろう……」

 サイドテーブルの上からスマホを取り上げる。
 当然、何の着信もない。
 僕からメッセージを送ったわけでもないので着信がないのは分かってはいたが、やはり軽くショックは受ける。

「『昨日は何事もございませんでしたか?』くらいメッセージ送ってくれてもいいものなんじゃないの?」

 またぼやいてしまう。悪い癖だ。
 休暇中の執事が主人の面倒をみなくてはいけないという義務もなければ就業規則もなくい。
 ただ僕がそうして欲しいだけ。
 構って欲しいし、甘えたいだけ。

「し、失礼します」

 悶々しているとフットマンが紅茶を持って戻ってきた。
 ワゴンを使って運んでいるにも関わらず、やはりワゴンの上のカップはカチャカチャと音を立てている。
 いい加減緊張するのは止めて欲しい。

「お、お淹れします……」
「いい、自分で淹れる。呼ぶまで下がってて」
「は、はい」

 ビクビクとしながらフットマンはお辞儀をして下がっていく。
 こんなオドオドとしているフットマンを見ているのはイライラを助長する。
 それにこんなに緊張されたまま紅茶なんて淹れられて、誤ってベッドや僕にかけられたらたまったもんじゃない。

 フットマンが小走りに廊下を走り去っていく足音を聞きながら紅茶を注ぐ。
 真っ白い湯気が立ち上り、心地よい紅茶の香りが瞬間広がる。
 香りに誘われるままカップに口を寄せ、傾ける。

「あつっ!」

 予想以上に熱かった。
 熱いし、渋い。
 彼が淹れる紅茶はこんなに渋くないし、持って来た直後でも火傷することなく飲むことが出来た。

「何もかもが違うんだよ! こんなんじゃダメなんだよ! 僕が求めるのは……」

 持っていたカップを投げかけて止める。
 そっとカップをソーサーに戻すと、大きく溜息をついてまたスマホの画面を見た。

「もし屋敷ここを辞めるというならば、無理にでも連れ戻す」

 連れ戻すのに成功したら、僕は彼を……。
 最後の言葉を飲み込んで、スマホのアプリを起動させた。
 画面に地図が現れ、点滅した丸がどこかへ移動している。
 そうこれはGPSアプリ。点滅しているのは彼の居場所だ。
 彼に持たせている仕事用のスマホにこっそりと仕込んでおいたのだ。
 
「彼を連れ戻すんだ」

 ベッドから出ると、中でも地味な服を選び、目深に被れるキャップを持ち、こっそりと屋敷を抜け出した。



 GPSの示す場所は僕が一人で行ったことがない場所だった。
 繁華街から一歩入った、怪しげな場所。
 古びたビルが建ち並び、ビジネスマンとは明らかに違う風貌の外国人がちらりほらりと見受けられた。
 気のせいかこちらを品定めしているような目でジッと見ている外国人もいる。

「早く見つけて帰ろう……」

 何となく身の危険を感じる。
 英語は話せるが、刃物で脅されてしまっては話すどころではなくなってしまう。
 視線を無視してGPSが示す彼の居場所を目指す。
 この通りの奥で点滅した丸は止まっている。雑居ビルだけに店なのかどこかの事務所なのか分からない。

「執事の面接って、こんな場所で行うのか?」

 それとももう面接は終わっていて、ご主人様が裏の社会の人間で、その仕事の関係で怪しげなビルに来ているとか……?
 ええい! 考えるよりも動け!

 怖い気持ちを抑えながら奥へと足を進める。

 GPSの示す奥のビルの一階は店舗だった。
 ガラス張りのドアからは中の様子が窺えた。店の中には黒人の店員と、店員と話している客が一人いる。
 無造作に整えた黒髪に、黒のレザージャケットに黒のパンツの日本人。黒人に負けない背の高さは一瞬外国人かと思えた程だった。
 その人が外国人ではなく同じ日本人だと分かったのは、かき上げた前髪から見えた彼の顔からだった。
 見憶えのある、愛しい顔。

「い……た……」

 まさかこんな場所にいるなんて思いもしなかった。
 しかしこの店は一体……?

「売っている物、これ、何……」

 ドアから見えるのは銀色の金属っぽい輪や、同じく金属の細長い棒。壁際に長いロープの様なものまでぶら下がっている。
 彼が手に持っているものは箱に入っていて見えないが、同じように怪しげなものなのだろう。
 
 入ってみよう。そして彼に声をかけてみよう。
 決心して、ドアに一歩近づいた。

「!?」

 ドアに手を掛ける直前、背後からガシっと肩を掴まれた。
 振り向くと、さっき僕を品定めするようにジロジロ見ていた外国人達だった。

「Hi! %$#@×××~**?」
「はい?」

 早口で一気に何かを言われた。
 英語っぽいが、早口過ぎて聞き取れない。
 何を言われたか分からないが、状況的にあまりよろしくないことだけは分かる。
 身体の大きな外国人に裏路地で両壁ドンされては逃げ場もない。

「え~っと……、I don't have money」

 こういう場所だからきっとカツアゲだろう。
 だから質素で地味でお金のなさそうな格好で来たというのに、未だに日本人は皆お金を持っていると思われているのだろうか?
 ここは日本なのに、日本にいない気分だ。

 とりあえず『金は持ってない』と言ってはみたものの、相手は一瞬キョトンとした顔をすると豪快に笑って、また何かをまくし立て始めた。

「え? 何? 違うの?」

 出来ればもう少しゆっくり話して欲しい。そうすれば何言われてるか分かるし、多分返答も出来る。
 『ゆっくり話してくれ』と英語で言おうとした時、一人が僕の腕を掴んで引っ張った。
 どこかへ連れて行かれる!?

「ちょ、ちょっと待って!」

 日本語が通じていないのか、外国人達はニヤニヤとしたまま止まろうとしない。
 体格差もあるが、全然外国人の腕から逃れられない。
 ヤバい! かなりピンチ!

 このまま拉致られて身ぐるみ剥がされて、運悪ければ殺される!? と諦めかけた時、僕の腕を掴んでいた外国人の腕に別な腕が伸びて掴んで捻り上げた。

「こんなところで何してるんですか」
「あっ!」

 彼だった。
 いつの間に店から出てきたのか、全く気が付かなかった。

「まったく……」

 いつものポーカーフェイスは屋敷に置いてきたのか、困った笑顔を僕に向けると再び外国人に向い直した。
 腕を捻り上げられた外国人は彼を睨みつけていたが、まるでそれに怯える様子はなかった。
 むしろ睨み返している。

「&%$#@@@!!」

 彼は外国人達と同じような早口で何か怒鳴りつけると、乱暴に外国人の肩を押して僕から遠ざけた。
 外国人達は悔し気に何か言うと、一目散に表通りへと走って逃げていった。

「どうして……」
「それはこっちのセリフです。何で貴方がこんな場所にいるんです。ここがどこか分かっているんですか!?」
「どこって……」

 繁華街から外れた裏路地だよな? と当然のような答えを言おうとすると、さらに呆れた顔をして耳打ちしてきた。

「ここ、治安が悪いだけでなくソッチ系の外国人のたまり場なんですよ。ここでウロウロする意味、言わなくても分かりますよね?」

 思いっ切り首を縦に振る。
 想像するだけで背筋が凍る思いだ。

「私が一緒にいるとはいえ、これ以上ここにいるのは危険です。移動しましょう」

 彼は迷いなく僕の手を掴むと、裏路地を抜け繁華街へと出た。

「飯、食いましょう。まだ食べていないんでしょう?」
「あ……」

 連れ戻したい一心で、渋い紅茶をひと口飲んだだけで飛び出してきてしまった。
 言われて空腹を急に憶え、お腹を押さえる。

「近くにモーニングが食える店があるんです。そこでいいですか?」
「任せるよ」

 実のところモーニングなるセットメニューがあることは知っているが、実態は知らない。
 何が出てくるか不安な部分もあるが、彼が連れて行ってくれるのだから変なものが出てくることはまずないだろう。と信じている。

「ここです。こういう店、入ったことないでしょう?」
「うん。初めて」

 中に入ると、使い古されて綺麗なあめ色になった木製の椅子とテーブルが迎えてくれた。
 天井から吊るされたガラス製のランプシェードは、いい意味で昭和を感じさせていた。
 全てがセピア色に染まった世界。そこだけ時間が止まった異世界のように感じてしまう。

「モーニングはコーヒーかミルクになるのでコーヒーでいいですね」

 僕の返事を待たず、彼は二人分のモーニングを注文した。
 ほんの五分も待つと大判のトレイに乗ったセットが運ばれてきた。

「お待たせいたしました。ごゆっくりどうぞ」

 テーブルに置かれたトレイには、コーヒー、キャベツにポテトサラダの乗っかったもの。トースト、バターと小さいプラスチックケースに入った苺ジャム、スクランブルエッグ、ウインナーそして手作りと思われる小さなプリンがあった。

「コーヒー、美味いですよ。貴方はミルク入れた方が飲みやすいかもしれませんが」

 どうぞ、と勧められコーヒーから口を付ける。
 言われたとおり苦みも酸味も弱めで、香りと甘みの強いコーヒだった。これならミルクなしでも飲めそうだったが、ちょっとだけ苦みが気になったのであとはミルクを入れて飲んだ。
 サラダも屋敷で食べるものとは全然違った。
 ちゃんと芋の原型を程よく残して潰したポテトサラダという点では一緒なのに、どこか懐かしい、そう、留学してた時代の寮で出された大量に作られて出されたポテトサラダの味によく似ていた。
 スクランブルエッグもウインナーも、そんな寮で出されていたものに近いものだった。

「君はよくここに来るの? すごく慣れた感じで注文してたし」
「よくではないですよ。たまに、休みの日に訪れるくらいです」

 そう言って長い指でトーストを持ち上げ口へ運ぶ。

 こうやって真正面から彼が食事をするところを見るのは、もしかしたら初めてかもしれないということに気付いた。
 執事やメイドといった使用人は、決して主人の前では食事を摂らない。
 もちろん主人から一緒に食事を摂ろうなんて誘うこともないだろうが、その逆だってありえない。
 じゃあ今こうやって一緒にモーニングを食べている事は?
 これって執務違反になりえるのか?

 そしてまた、ふと感じていた違和感に気付いた。
 丁寧語では話しているけど、敬語でない。それに振舞い方もいつもの彼とは違う。
 執事ではない、『彼』がここにいる。
 その違和感に気付いて戸惑っている僕に気付いた彼は、面白そうに聞いてきた。

「そんなにおかしいですか? 私が執事らしくしていないことが」
「いや……。あー……そうだね、すごく不思議な感じがする。目の前で食事を摂っていることも、敬語でなく話されていることも」
「今日はオフですからね。それに敬語でないことなんて、さほど新鮮でもないでしょう? ああ、意識が飛んでいて憶えていませんか」

 意味ありげにトーストを掴んでいた指を舐め、こちらを見てニヤリと笑う。
 そうだ。敬語でないことなんて初めてではない。アノ時はいつだって丁寧語とも言いきれない丁寧語で僕を煽ってくる。
 途端にアノ時の情景が思い出され、みるみるうちに顔が赤くなっていくのが分かる。

「おや、思い出しちゃいました? 顔が赤いですよ」
「わ、分かってる!」
「もしかして濡らしちゃいました? 暫く相手してあげてませんでしたからね」

 わざとらしくウインナーを指で取り上げ、その先端を舌で舐めあげ唇で挟んだ。
 僕がよからぬ想像をしたのを表情で確認すると、唇で挟んでいたウインナーを口の中へ放り込んだ。

「何、想像しました?」
「べ、べつに」
「そうですか。もう食い終わりましたか? コーヒーのおかわりも出来ますが」
「ううん、もういっぱいだよ。ごちそうさま」

 じゃあ行きますよ、と彼は伝票を持って立ち上がった。
 僕がドギマギしている間に彼はとっくに食べ終わっていた。あのウインナーは僕を煽るためにわざと残していたっぽい。

 執事の業務をしているときと変わらずスマートに会計を済ますと、当たり前のように僕の手を繋いで繁華街を歩き始めた。

「え、ちょっと、手……」
「嫌ですか? 朝とはいえまだ酔っ払いや柄の悪いやつがウロウロしてますから。それに物珍しさでキョロキョロしてるとはぐれます」
「ああ、そうだね。どこに行くのかも分からないし」
 
 連れて行かれるまま繁華街をどんどん進んでいく。
 その間彼は繋いだ手の間に指を入れ掌をなぞったり、指を絡ませたりとちょこちょこと僕を刺激していた。
 くすぐったいというより、ゾクゾクと甘い痺れが掌を通して込み上げてくる。

「着きました」
「え、ここって……」

 籠城のような壁、派手な看板、色とりどりの電球。実際に見たことはなかったが、これは噂(?)に聞く……。

「ホテルです。ラブホテル」
「え? えええええーっ!?」
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