Ωの皇妃

永峯 祥司

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第1部

神の示す運命

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ヒュンッ──

 1本の矢がくうを切る。
 緩やかな軌道を描く。
 その先はごく小さな的。
 そこへ向かう。
 ブレず、乱れず、真っ直ぐに。

 ──タンッ。

 的が射抜かれた。
 否、的が矢を吸い込んだ。

「見事だ」

 重厚な響きの声が賞賛する。威厳に満ちた初老の男の周りには、数人の従者が控えている。

「いつ見ても見事なものだ。お前程腕の立つ者は他に居まい」
「は。勿体無きお言葉」

 ひざまずき、硬質な声で応えるのは、若い男。周囲が金髪や茶髪ばかりの中では、短く整えられた漆黒の髪が目を引く。

「リューシ、面を上げよ」

 リューシ、と呼ばれた男がは、と短く応える。伏せていたその顔が正面を見た。鋭い眼光が初老の男に向けられる。
 例えるなら鷹。隙のない、研ぎ澄まされた光。
 
「時に、リューシよ」

 その瞳を真っ向から見返し、初老の男は顎に蓄えた豊かな髭を撫でながら問う。

「今度の戦はどうなる。お前の見解を聞きたい」
「は。あちらには名将がいると聞いておりますが、綿密に計画した戦を得意としているようです。ゲリラ戦を仕掛ければ壊滅させられます」

 男の表情はピクリとも動かないが、その言葉には自信が滲んでいる。

「ふむ……勝てるか」
「はい」

 この男は「恐らく」や「多分」等という言葉は使わない。口にする台詞せりふはいつも確信めいている。

「期待しておるぞ」
「は。陛下のご期待に添えますよう」

 ──若い男の名は「リューシ・ラヴォル」。
 よわい24。若くして帝国軍を率いる、鬼才の軍人。
 それと同時に、次期皇后である。


◇◇◇


 リューシ・ラヴォルは、元々この世界の人間ではない。アジアの島国、日本で「須賀すが隆志りゅうし」として生きた過去がある。故郷から遠く離れた地で死に、異世界の国の1つである「ルバルア帝国」に転生したのだ。

 1つ説明を加えておくならば、この世界では生物学上の性別の区分が男と女だけではない。身体的にも頭脳的にも優れているとされる「α」、多数派で凡庸な「β」。そして、最も少数派で特異な「Ω」──この3つに区分される。
 Ωは男女共妊娠が可能であり、思春期を過ぎれば定期的に発情期が来る。ただし、特定のαと「つがい」になる事でその発情は抑制される。妊娠中にも発情は抑えられるが、それは一時的なもので持続しない。番がいない限り、出産後にはまた発情期が訪れる。世界人口に占める割合は僅か数パーセント。Ωに出会わず一生を終える者も多くいる。

 さて、そんな異世界で前世の記憶と容姿をそのまま受け継いだ赤ん坊は、由緒正しい貴族のラヴォル家に誕生した。
 一族で唯一のΩとして──


◇◇◇


「坊ちゃん! また脱ぎっぱなし!!」

 年配の女性がベッドの横で寝間着を振りながら叫ぶ。

「また使うんだから、いいだろ」

 「いい加減、24にもなって坊ちゃんは勘弁してくれ」と軍服を身に付けながら言うのは、苦り切った表情のリューシである。

「幾つになろうと、わたくしは坊ちゃんの乳母なのですよ。このばあやには養育の義務がございます」
「それは13歳までの話だろ?」
「後の10年は好きでやっているのですから、勝手にさせて下さいまし」

 てきぱきと寝間着を片付ながら、年配の女性──ヤスミーがバッサリ切り捨てる。

 彼女はリューシの身の回りの世話をして24年のベテランである。もう60になろうというのに、その仕事ぶりは衰える気配がない。

「さあ坊ちゃん、お仕度は整いましたか?」
「ああ」

 皺ひとつない軍服に身を包んだ姿に目を細め、ヤスミーが軍刀を手渡す。

「本当に、ご立派になられました。ばあやは誇らしゅうございます」
「またそれか。褒め言葉も聞き飽きると有り難みがなくなるぞ」

 くすぐったい気分で、わざとぶっきらぼうに言う。そうするとヤスミーはますます優し気に目を細めるのだ。

「いいですか、坊ちゃん。いつでも前に、真っ直ぐ、着実に。今日もお忘れなきよう」
「わかってる。……じゃ、行って来る」
「はい。行ってらっしゃいませ」

 離れの部屋を出たリューシは本館のダイニングに向かわず、そのまま屋敷の外へ出る。αである他の一族の者と食卓を共にする事は、固く禁じられているのだ。起き抜けにヤスミーの手料理で腹を満たすのが長年の習慣となっている。今朝は得意のハムエッグだった。

 裏口から出ると、いやに気取った服で煙草をふかす男がいる。

「これはこれは、次期皇后のリューシ様ではありませんか」

 ニヤニヤと意地の悪い笑みを浮かべ、「次期皇后」の部分を強調して言う。

 ──嫌な奴に会った。

 ぐっと眉間に皺が寄るのを感じながら、その脇を通り過ぎようとした。が、男に行く手を遮られる。

「つれないな。次期皇后ともあろうお方が、そう無愛想ではいけないでしょう」

 ねっとりとまとわりつくような口調。リューシの眉間の皺はますます深くなる。相手をしなければ放さないつもりなのだろう。

「……こんな早くに何の用だ──フォンド男爵」

ガスパール・フォンド。
 公爵家であるラヴォル家のリューシに比べ、随分階級は下だ。が、フォンドはα。αこそが最も優れていると信じている。

「なあに、お父君のお呼び出しですよ…貴方と違って、私は愛想がいいですからねぇ」

 そして、父のお気に入りである。

「……そうか。なら、俺に用はないだろう」
「いえいえ、ありますとも。ついでに伝言を預かって来ているんですよ」

 何だ、と尋ねるのも面倒で、気に食わない相手の顔を睨むように見据える。

「皇帝直々に申し伝える事があるので早急に宮殿へ出向くように、と」

 ニタニタと粘着質に笑う。

「とうとう、除隊でもされるんですかねぇ?」

 ──胸糞悪い。

 とうとう、というのが何を指すのかは説明されずとも理解出来る。知りすぎる程に知っている。だが、賢明な現皇帝は自分を除隊するような真似はしない。もしされるとすれば、それは己が反逆者となった時だ。

「貴君に進退について言われる筋合いはない。失礼する」

 抑揚のない声で言い捨て、無理矢理すれ違う。背後に見えなくなったフォンドはそれ以上何も言わなかった。紫煙を吐いて脂下やにさがった顔でもしているのだろう。

 知らぬ間に付着していた煙草の灰を払う。その灰でさえ絡み付いてくるようで、小さく舌打ちした。


◇◇◇


「今、何と?」

 当惑した。
 
「除隊……と、仰いましたか?」

 問い掛けると、玉座に着いた皇帝は重々しく首を縦に振った。肯定の仕草だった。

「しかし、陛下、一体なぜ……」

 聡明な皇帝までが、フォンドのような見方をするというのか。
 血の気が引いて行くのがわかる。感情的な方ではない自分が動揺している。

「リューシ……すまぬ」

 いつも真っ直ぐにこちらに返されていた視線が、ふっと逸らされた。威厳の化身のような彼にはまず見た事のない、悲痛な表情で玉座の装飾を見つめている。

「すまぬ」

 論理的な主君が、意味のない言葉を繰り返す。

「理由を……理由を仰って下さい」

 苦悶に顔を歪め、皇帝は絞り出すように言った。

「神託があった」

 ──神託?

「『直ぐに皇太子の婚儀を挙げよ』と」
「まさか」
「いや……事実だ」

 悲し気にかぶりを振る。

「わしの命は、もう長くないそうだ」
「そんな馬鹿な……! 陛下はまだご健在ではありませんか!!」
「だが、神がそう仰せなのだ。間違いはあるまい」
「そんなはずはありません。第一、神託は50年に1度です。前回は25年前。あまりにも早すぎる……!」

 この世界には「神託」というものがある。それは50年に一度、聖なる泉の前で神官によって受け取られる。その時の皇帝は神託に従い、世を統べるのだ。これまでに神託が早まった例はなかった。

「神託があった以上、従うしかあるまい。婚儀は1週間後に執り行う」

 婚儀。
 それは言うまでもなく、皇太子とリューシのものである。それはわかる。だが、腑に落ちない。

「──しかし、なぜ除隊になるのですか。婚儀とは無関係でしょう」

 そう、この国では皇太子に嫁ぐ者に対する規定は特にない。奴隷だろうが民間人だろうが、結婚しようとすれば出来る。ただ、大臣云々が体裁を気にして猛反対するだけの事だ。軍人でもそれは同じである。

「別に理由があると?」

 尋ねると、皇帝は「それは違う」と首を振った。そして、やるせない表情で言う。

「神託に従った結果だ。わかってくれ……」
「神託に? どういう事です」

 神が今更神託を変えるというのか。

「『皇后となるのは軍人ではない』。神は、そう仰せだ」

軍人ではない──

「だから……除隊するというわけですね?」
「そうだ」

 この世界の神は、この国を滅ぼしたいのか。

 ギリッと奥歯を噛み締める。
 
「……次の戦はどうするおつもりですか。今私が除隊されれば、指揮を失った前線の軍は壊滅し、国内に敵が侵入してしまいます」
「それは……」

 口ごもる皇帝に、リューシは強い眼光をぶつけた。

「仰せの通り婚儀は挙げましょう。しかし、除隊は拒否します」
「リューシ……」

 皇帝が呻く。

「神託がなかったとしても、同じ判断をした。皇后の仕事は生半可なものではないのだ。わかっているだろう。我が妻、ユリアナも……その心労が祟って死んだ」

  皇后ユリアナ。
  美しく、賢い女性だった。

 お前までそうなって欲しくない。眉間に深く皺を刻んだ表情はそう訴えている。
 だが、しかし……

「俺が潰れる前に、国が潰れてしまう……」

 たかが転生先。されど現実。ゲームの世界ではない。

 キッと顔を上げ、精一杯の抵抗を口にする。

「陛下。私は軍人としての役割も、皇后としての役割も、疎かにするつもりはございません」
「だがな、リューシ」
「──陛下」

 ギラリとリューシの瞳が輝く。

「私が、貴方に偽りを申し上げた事が、一度でもございますか」

 皇帝が大きな掌を広い額に当てる。長いため息の後、彼は彼のものとは思えない弱々しい声で言った。

「……ない。一度もない。……しかし、神託には誰も抗えぬ」


◇◇◇


「くそっ……!」

 軍刀を絨毯じゅうたんに叩きつける。

「何で……!!」

 軍からは除隊された。決定は覆らなかった。

「何で……っ」 

 掌に爪が食い込む程に握り締めた拳を壁に打ち付ける。

 ──運命は、この世界に生まれ直した時から決まっていた。母親が妊娠した時、神託があったのだ。

『皇太子が皇帝に即位する時は漆黒の髪を持つ皇后を迎えよ』

 そういう内容のものであったと聞いている。それから暫くして、転生者リューシ・ラヴォルが誕生した。漆黒の髪を持った、Ωの男児として。
 4歳になるまで前世の記憶はなかった。記憶を取り戻した時には、既に第1皇子との婚約が成立してしまっていたのだ。なぜ男の自分がと激しく反抗したが、誰にも聞き入れられなかった。もっとも、子供で、しかもΩの自分にそもそも拒否権などなかったのだが。
 
 しかし──それだけならまだいい。

「何で、今なんだ……っ」

 一段と強い力を込めて壁を殴り、荒い呼吸を整える。

 結婚なら自分だけの問題。
 だが、国は? 
 すぐそこに敵が迫っている状態で、軍が指揮を失ったら? 勿論、皇帝に進言した通りの事態になるだろう。大将は立派でも、向こうの下級兵は質が悪い。略奪に虐殺、強姦……どんな光景か容易に想像出来る。こちらの兵士達も捕虜にされ、戦闘もままならないはず。そうなったら相手を追い出すのは至難の業だ。それを、誰が止める?

 自分のポストに誰かが収まるには違いない。だが、それで解決する事か?
  今「世界最強の軍」と謳われるルバルア帝国軍は、元々は貧弱極まりないものだった。変えたのはこの自分。日本式のやり方を導入して改革をした。それでもまだ僅か3年前の事だ。とても他の誰かに引き継げる段階ではない。時間をかけて、ゆっくり後継者を育てるつもりだった。今回の除隊は想定外もいいところだ。それ故、現時点で大将が務まるのは自分の他いない。

 忠誠心だの愛国心だの、そんなもの、転生者の自分には初めから欠けている。国が無くなっても、自分はどうという事はない。国家に固執するのが馬鹿馬鹿しいとさえ思っている。しかし、国民は? 一般人はどうなる。彼らには守ってくれる国家が必要だ。武力を持たない彼らには抵抗する術すべがない。

 ならば、どうする? どうしようもない。
 非戦闘員となった今では、戦には参加出来ない。ただ、指を咥えて見ているだけだ。
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