Ωの皇妃

永峯 祥司

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第1部

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──その翌日。
 皇帝が病に倒れた。

「坊ちゃん、婚儀の衣装が整いました。ご試着なさいませ」

 部屋に入って来たヤスミーの手には、純白に金糸があしらわれた衣装が携えられている。
 皇帝が存命のうちにと、婚儀の準備は急ピッチで進められていた。

「随分早いな」
「裾やお腰回りの微調整をしなければなりませんからね。さ、ご試着下さい」

 押し付けるように渡された衣装をしげしげと眺める。もう幾日かすれば、自分はこれを身にまとい、皇后として民衆の前に出なければならないのだ。ドレスでない事がせめてもの救いだった。

「ささ、お早く」

 弾んだ声でかされる。
 だが、その目が泣き腫らして赤い事をリューシは知っている。このばあやには昨日、除隊されたと伝えた。

「どうされました?」

 にっこり微笑む育ての親に、ずくりと胸が痛む。彼女は、リューシの昇進をいつも本人より喜んでいた。

「いや……何でもない」

 こちらの気分を無視するような純白に袖を通す。晴れの日の準備はどこまでも憂鬱だった。


◇◇◇


 衣装の試着を終えたリューシは手持ちぶさたで街を歩いていた。

 重い足取りで愛馬の手綱を引き、その艶やかな青毛を撫でる。自分と同じ黒。2年前に商人から買い取った。この馬は戦場でもよく駆ける。他にない名馬だ。

 大通りを歩いていると、いつの間にか人垣が出来ていた。威圧しているわけでも、馬の上でふんぞり返っているわけでもないのに、いつも自然と道が開けられる。それが敬意や畏怖からでない事は自分に投げかけられる視線でわかる。

「おい、ありゃあリューシ様だぜ」
「除隊されたんだってな」
「やっぱり、αじゃなきゃ幹部は務まらないのかねぇ」

 囁く声が彼方此方から聞こえる。
 神託の事はまだ国民に知らされていない。こんな風に噂されるのはわかっていた。それでも、外の空気を吸わずにはいられなかった。

「おい、リューシじゃねぇか!」

 ひそひそと話す民衆の中から、一際大きく声が飛んだ。それは自分がよく知る者。まさか、と思いながら振り向く。

「──バルトリス?」

「ちょっと退《ど》いてくんな」

 群衆を掻き分け掻き分け、周りから頭半分飛び出た中年の男が近付いて来る。
 浅黒い肌に燃えるような赤毛──間違いない。

「バルトリス」

 今度ははっきりと呼び掛ける。男はにかっと白い歯を見せた。

「久し振りだな、リューシ」
「ああ」
「最近はどうだ、体の調子は」
「まぁ普通だな」
「前の矢傷は治ったか?」
「ああ、すっかり」
「そりゃあ良かった」

 しきりにリューシの体を気遣うこの男は、バルトリス・ロドス。軍医兼悪友である。つい最近まで遠征に同行していて、暫く顔を見なかった。妙に懐かしいような気がする。

 珍しく感傷的になっていると、バルトリスに背中を叩かれた。

「ちょっと付き合え。久々に一杯やろうや」

 
◇◇◇


 店は思いの外賑わっていた。

 ぐるりと店内を見回し、スッと久し振りの酒臭い空気を吸い込む。
 軍に入隊したばかりの下っ派時代、ここにはよく連れて来られた。酒が飲めない子供を酒場に連れ込んで何が面白いのかと思っていたが、今になってみるとそれも懐かしい。

「お前、もう酒飲めるだろ」
「当たり前だ。もう成人して6年だぞ」
「じゃ、何か好きなもん頼め。俺の奢りだ」
「それじゃ悪い。酒を飲むくらいの金はある」
「そう言うなよ。俺が出してやる」

 何だか今日のバルトリスは妙に押しが強い。どちらかというとこの男はケチ──倹約家だったはず。理由もなく奢りを申し出るなど、まずない。

 不審がっていると、彼は大声で“グァリ”を2つ注文してしまった。グァリはルバルア帝国西部の地酒である。アルコール度数の高さとキレのいい辛味が特徴だ。安価で昔から庶民に親しまれている。この酒場では最安値で一番多く取り扱っている商品だった。ここでケチ──いや、倹約家が出たなと笑いが込み上げる。
 が、悪くない。倹約家の折角の奢りだ。慎んで頂こう。

 運ばれてきたジョッキには並々と黄金色の液体が注がれ、粗く砕いた氷が氷山のように浮いている。

「──で、どうするんだ」

 がぶりとひと口煽り、バルトリスが嫌に重々しく切り出した。どう、というのは婚儀の後の事だろう。噛み殺していた笑いが嘘のように消える。

「……やっぱり、聞いたのか」

 答えあぐね、質問に質問で返してしまう。除隊されて“ただのΩ”となった自分がどう見られるのか、彼はよくわかっているはずだ。

「ああ……神託があったんだってな」

 低く抑えられた声に、思わず目を見開く。混乱を避けるという配慮から、神託があった事は直属の部下を除いて軍の人間にも知らされていない。情報を得られたとしても、婚儀を挙げるという事しかわからないはずなのだ。それなのに、なぜこの男が知っている?

「どこで聞いた」

 詰問するような口調で尋ねると、彼は薄く笑みを浮かべた。

「なあ、リューシ……知ってるだろ? 俺がそういう男だって」
「──っ」

 ──そうだ。忘れていた。こいつは“そういう”男だ。

「お前の為なら、情報くらいはどうにでもなるんだよ」
「俺の為?」

 薄く笑んだまま、バルトリスが身を乗り出す。

「お前の事だ……まさかこのまま大人しくするつもりじゃないんだろ?」

 リューシの喉元に先程とは別の笑いが込み上げてきた。くつくつと喉を鳴らすと、バルトリスが片眉を吊り上げる。

「何が可笑しい」
「いや……」
「何だよ」
「大人しくしてるつもりだ。俺は」
「……何?」

 冷笑とも自嘲とも言える表情でリューシは言った。

「もう、諦めた」

 ガタリ。
 バルトリスが座っている椅子が音を立てた。

「諦めたって……お前……本気で言ってんのか」
「ああ」

 唇で弧を描いたまま答える。バルトリスの眉が険しく寄せられた。

「一度除隊されれば、もし再入隊出来たとしても二度と元の地位には戻れない。皇帝さえ死んじまえば、お前はお飾りの皇后になって一生閉じ込められるんだ。相手はΩ嫌いの皇子様だぞ? さっさとαの女の側室でも迎えて世継を産ませるに決まってる。お前がどんな扱いを受けるかは目に見えてるだろうが!」

 捲し立てるように言う彼に、リューシは首を振った。

「わかってる。でも、無駄だ」
「そんな事言ったってお前……!」

 なおも食い下がろうとするのを遮り、冷淡に言い放つ。

「神様相手にはどうしようもない」

 テーブルを挟んで勢いよく胸倉を掴まれる。ひと口も飲んでいないグァリがこぼれた。黄金色が木目に黒く染みをつくる。

「俺が……っ……俺がどんなに……!」

 言葉を詰まらせる悪友の手をゆっくり外す。あっさりテーブルの上に落ちた無骨な手がギリリと握り締められた。

「もう……帰るわ。急に呼び止めて悪かったな」

 リューシの目の前に硬貨が投げ出される。きっちり2人分。
 バルトリスはそのまま店を出て行った。


◇◇◇


 酒場の外に繋いで待たせていた馬に乗り、リューシは草原を駆けた。そうでもしなければ、どうにかなってしまいそうだった。

「なぁ、青馬アオバ……お前ならどうした」

 手綱を引きながら愛馬に尋ねる。ブルルッと低く鳴き、青馬が前肢を上げた。草をにじりながらその場に停止する。その首筋を撫でて宥めると、フンフン鼻を鳴らし、急停止を詫びるかのように主を振り返った。

「……そうだな。お前に訊いても仕方ないな」

 そろそろ戻るか。そう声を掛けようとしたその時、リューシの耳が微かな音を拾った。

──上から?

 何もないはずの澄んだ空を見上げる。
 荒れ果てているこの辺りに鳥は生息していない。ましてや、この世界に飛行機やヘリコプターといったものはない。では、何だ?

 徐々に拾える音が増える。その音は段々こちらに近付いているらしい。

「落ちて来ている……?」

 首を捻ったその瞬間、はっきりとその音──否、声が聞こえた。

「キャアアアアアアアアア!!!!」

──女!?

 甲高い悲鳴と共に落下しているのは1人の女。

 音の聞こえ方からして、どういう状況か理解に苦しむが、確実に1000m以上から落下している。あの女の体重が50kgだとして、1000mの高さから墜落した時の落下速度は時速504km、衝撃力はおよそ980KN。それに対し、人体が耐えられるのはせいぜい12KN。受け止めるのは不可能だ。いくらファンタジックな世界といえど、お互いに間違いなく死ぬ。諦めてもらうしかないだろう。

 が、瞬時に計算して、ふと気付いた。

 ──おかしい。

 もし1000m上空から落下しているとすれば、落下時間は15秒もないはず。にも関わらず、女は未だ落下し続けている。不自然に落下速度が遅いのだ。それはまるで、ワイヤーで降ろされている人形。

「受け止められる……か?」

 青馬の胴を脚でしっかり挟み、両腕を受ける形に広げてみる。

「キャアアアアアアア……!」

 女が落ちる、落ちる、落ちる──

「キャアアア……って、あれ……?」

そして、あり得ない柔らかさで腕の中に収まった。

「え、え!? あ、あたし、どうなってるの!?」

 受け止めたリューシに気付かない程のパニックに陥っている女を、信じられない気持ちで眺める。空から落ちて来たからではない。空から落ちて来た以上の衝撃的事実が目の前にあるのだ。

 女の髪は、黒だった。
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