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第2部
変化の甘味
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宿場から少し離れた町並みの中に3人の異国者の姿がある。リューシ、セドルア、リーンの3人だ。パヴィナの捜索のために、この日は昼から聞き込みをしていた。バルトリス、ノット、レイドは別の場所を回っている。
初日と違いセドルアとレイドはシャツにズボン、ベルトに下げた短剣という一般人と変わらない服装である。屋台の女に易々と異国人だと見破られた事もあり、最早隠す意味もないと判断したのだ。観光客や移住者に紛れ易いのも利点だった。
が、リューシだけはローブを着用している。言うまでもなく、その“色”が理由だ。ダークブラウンの目は珍しいとはいえ一定数は存在している。しかし、いかんせん黒髪だけは目立ってしまう。まさか誰も処刑された皇妃が生きていようとは思うまいが、この髪色は身元の露呈に繋がる。それだけは防ぐ必要があった。
ちなみにセドルアもその容姿からある意味で目立っているが、幸い彼は殆ど表に出なかったお陰で顔が知られていない。それでも万が一という場合も否定は出来ない。リューシはセドルアも顔を隠した方がいいと進言したのだが、それは本人によって棄却された。加えてバルトリスらもそれに賛成し、この状況に至っている。いっそ目眩ましになってリューシの安全に繋がると、知らぬ間に意見が一致していたらしい。
「しかし、軍医長はあっちで良かったんですかね……僕じゃなくて軍医長が一緒の方がいいと思うんですが……」
足を進めながらリーンが釈然としないという風に言う。
あの昨夜の一件以来、バルトリスとは若干の距離がある。……いや、自分の方が距離を置こうとしていると言った方が適切か。
あれは結局自分が寝落ちして有耶無耶になってしまったが、言及してくる様子はない。だからこちらも普段通りを努めているのだが……何と言うか、彼の視線を甘く感じるようになってしまった。
バルトリスは多分、今までと何も変わってはいない。自分の感じ方が変わっただけなのだ。
あれだ。
『俺はお前に人生を懸けられる』
あの言葉がそうさせた。
その意味がわからない程子供ではないが、額面通りに受け取れば、結論が出てしまう。そうすれば今までの彼の言動に説明がつくのだ。あの、抑えて、封じ込めて、それでも滲み出たというような慈愛に。
気付かないわけではなかった。
何度も感じていた。
それでも認めたくなかった。
バルトリス・ロドスという男が自分のような人間を想っているという事が許せなかった。
この身体を抱き締めた腕は温かかった。何より優しく、哀しい抱擁だった。大切にされているのはわかっている。
だが、どんなに想われても、“須賀隆志”は想いを返せない。大切なものを守れない。“彼女”のように、いつか──
──違う、今は“リューシ”だ。しかし“彼女”の影は消えていない。ならばまだ“須賀隆志”なのか。
どちらが俺なんだ。
俺は誰だ。
なぜ生きてる。
何のために二度も生まれた。
わからない。
こんな半端な人間を。こんなに醜い人間を、誰かが想う? 駄目だ。また傷付けてしまう。
俺は愛せない。愛されてはいけない。返せないものを受け取れない。
「隊長が僕を指名するものだから、ノットが凄い目で睨んできてましたよ。後で殺されるかも……って、隊長、聞いてます?」
「……ん?」
「どうしたんです? さっきからぼーっとして」
「ああ……悪い」
つい思考に沈んでしまった。こうなるとなかなか戻って来られない。バルトリスにもよく言われるが、悪い癖だ。
泥沼化しそうな考えを振り払い、リューシは捜索活動に脳をシフトさせる。
「──しかし、闇雲に歩いては効率が悪いな。地図が欲しいが……カイグルに貰っておくべきだったな」
地理がわからないせいで先程から同じような場所を何度も通っている。これを繰り返していてはいつまで経っても成果は挙げられないだろう。
地図は少し古く、安いものがいい。どこの店が出来ただとか潰れただとかいう最新の情報は載っていなくても問題ないのだ。通った道と通っていない道さえわかればいい。道路は4、5年程度では変わらない。
どこかに書店はないかと見回せば、一軒の古書店が目に入った。売り出しの看板が出ている。古書店という割に店自体は新しく、ウィランドン語とルバルア語で書かれている看板のペンキはまだ塗ったばかりのようにも見えた。
「あそこで買うか」
じゃあ、とリーンが手を挙げる。
「僕が買ってきます。お2人だとその……色々不都合がおありでしょうし」
「まあ、そうだな……」
確かにリーンだけの方が悪目立ちはしない。
「──わかった。俺たちはその辺りで待つ。買ったら直ぐに出てこい」
「了解。僕が店にいる間に変な人に絡まれないで下さいよ」
「俺は子供か」
「いや、そういうわけじゃないんですが。隊長は人を惹き付けますから……じゃ、買ってきますね」
俺は客寄せパンダかと前世のものを引き合いに出して顔をしかめながら、店に入って行くリーンを見送る。後に残されたセドルアと店の脇に並んで立っていれば、
「ラヴォル、気分でも悪いのか」
セドルアのアメジストが覗き込んでくる。先程の上の空の事を言っているのだろう。声色、表情。やはりわかりにくいが、その瞳には気遣いが見て取れる。
「いえ……少々、考え事を」
「ロドスの事か」
え、と声が漏れる。なぜわかったのだろうか。尋ねる前にセドルアが「昨日、」と口にする。
「ロドスと話していたんだろう。何かあったのか」
やけに切り込んだ事を訊く。自分はそんなに思い詰めたような表情をしていただろうか。
「大した事ではありません」
そう答えれば、セドルアは探るように目を細めた。
「大した事でないのに、お前が動揺するのか?」
「動揺など……」
「いや、している。ロドスに何か言われたのか」
今日のセドルアは妙に口数が多い。それも厄介な事に痛いところを突いてくる。もしかすると、朝に自分が無意識にバルトリスと目を合わせまいとしていたのだろうか。言い争いでもしたのかと思われているのかも知れない。
だが、これ以上踏み込まれるわけにはいかない。
「殿下、ロドスとは別に何も。お気遣い頂くような事はありません」
「俺が何を気遣っているか、わかって言っているのか」
「は?」
どういう意味だろうか。理解出来ず眉をひそめる。相手がこの皇子であるために表情から察する事も難しい。
「ラヴォル、」
静かな目に見据えられる。
「ロドスに──恋情でも伝えられたか」
「……!!」
驚きに声が出なくなる。どうして、という問いは吐息にもならなかった。
「図星か」
ふ、とため息のような息をつきながらセドルアは視線をリューシから外す。
もう誤魔化しも利かない。そう覚り、否定の声は上げなかった。たった数秒の沈黙が重い。
「お前はどう答えた。受け入れたのか」
前方に視線を投げ掛けたまま問われる。昨夜のバルトリスの表情が頭を過り、心臓がミシリと音を立てた。急に呼吸が出来なくなったかのように息苦しくなる。
「私は……人を愛せないのです」
「なぜ」
「返す事が出来ないから……私は、想いの返し方を忘れてしまった」
だから、どうする事も出来ない。
「……ラヴォル」
アメジストが再びリューシを捉える。
「俺もそうだと言ったら、どうする」
「え?」
「俺がお前に想いを告げたら、どうするのかと訊いている。拒絶するか」
思考が働かなくなる。
この皇子は何を言っている? これは単なる例え話か? 違う。彼の目は──
「殿、下……俺は、」
「いい。困らせるだけなのはわかっている。答えなくてもいい」
だが、と美しい瞳を煌めかせる。
ふわりと二人の間を風が吹き抜けた。
「忘れたなら、俺が思い出させてやる」
──動けない。
リューシは殆ど機能しなくなった運動器官を持て余し、呆然とした。
前世で戦闘を経験し、今世でも総指揮官として幾度も戦場に立ったこの自分が、指1本動かす事が出来ない。精神的に生きた年月では自分の半分以下に過ぎない青年の視線から、逃れられない。
なぜだ。なぜ目を逸らす事すらままならない。
「ラヴォル」
バリトンとテノールの間にある独特の艶めいた響きを持つ声が自分を呼ぶ。それに続く言葉はない。だが、それは何より雄弁な沈黙だ。
──ああ、そうか。
リューシは不意に了解した。この色なのだ。このアメジストの輝きが自分を動けなくする。
冷涼でありながら熱の籠った色。逃すまいとするような強い執着を滲ませるこの色だ。 慈しみ包み込むバルトリスの深緑とは違う。奪い閉じ込めるかのような静かな猛々しさ。それがセドルアのアメジストだ。
俺は、誰かにこんな目で見られた事はない。
「……殿下」
どうにか混乱しそうになる頭を落ち着かせようと、形の良い鼻筋の辺りに視線を落とす。
「以前から、思っていたのですが」
「何だ」
「私は死ぬ前にラヴォルに勘当されています。今はその名を名乗る事は出来ません」
突然脱線した話にセドルアの目元が緩む。何を言い出すのかという様子だ。
どうという事はない。この時のリューシの発言に大きな意味はなかった。自分のペースを取り戻せるなら何でもいい。……だが、あまりに脈絡のない台詞を口にしてしまった。つまり続かない。どうする。これに続けて自然な台詞は何だ。
必死に考えを巡らせた結果。一つだけ、頭に浮かんだ。
「──リューシ、とお呼び下さい。殿下」
アメジストの瞳がぱちりと大きく瞬いた。
次の瞬間、
「……リューシ」
噛み締めるように口にされた己の名。
硬質な表情がゆるりと雪解けのように和らぐ。
焼き付く熱情が消え、替わってしんとして燃える双眸が柔らかに凪いで自分を映す。
目を疑った。
それは、初めて見たセドルアの笑顔。否、笑顔と言うには穏やか過ぎる変化だ。しかし今までに目にした中で最も笑顔に近いものだった。
「リューシ」
宝物を得たとでも言うように繰り返される。それについ先程の強引な引力はなく、ただ一音一音が大切に発音されている。
ざわりと胸の奥が揺らいだ。
なぜそんな呼び方が出来る。
こんな可愛気も愛敬もない男に、なぜそんな言い方が出来る。
リューシは締め付けられるような心臓の痛みにたじろぐ。これでは本末転倒ではないか。
自分のペースを取り戻すどころか、まんまと相手に翻弄されてしまっている。もうどうにもならなかった。
「リューシ、」
セドルアが何かを言おうと余韻を残す。が、それが言葉になろうとした時、勢い良く店の扉が開いた。
「た、隊長……」
驚いてそちらを見れば、リーンがげっそりした顔で現れた。船酔いの際と同等の顔色の悪さである。
「お前、どうした」
なぜ地図を買いに入っただけでこんな状態になるのか。しかもその手に肝心の地図はない。
リーンは困惑するリューシのローブにすがり付くと、元々気の弱そうな眉を泣き出しそうに下げた。
「も、もう、僕には無理です……!」
「……は?」
初日と違いセドルアとレイドはシャツにズボン、ベルトに下げた短剣という一般人と変わらない服装である。屋台の女に易々と異国人だと見破られた事もあり、最早隠す意味もないと判断したのだ。観光客や移住者に紛れ易いのも利点だった。
が、リューシだけはローブを着用している。言うまでもなく、その“色”が理由だ。ダークブラウンの目は珍しいとはいえ一定数は存在している。しかし、いかんせん黒髪だけは目立ってしまう。まさか誰も処刑された皇妃が生きていようとは思うまいが、この髪色は身元の露呈に繋がる。それだけは防ぐ必要があった。
ちなみにセドルアもその容姿からある意味で目立っているが、幸い彼は殆ど表に出なかったお陰で顔が知られていない。それでも万が一という場合も否定は出来ない。リューシはセドルアも顔を隠した方がいいと進言したのだが、それは本人によって棄却された。加えてバルトリスらもそれに賛成し、この状況に至っている。いっそ目眩ましになってリューシの安全に繋がると、知らぬ間に意見が一致していたらしい。
「しかし、軍医長はあっちで良かったんですかね……僕じゃなくて軍医長が一緒の方がいいと思うんですが……」
足を進めながらリーンが釈然としないという風に言う。
あの昨夜の一件以来、バルトリスとは若干の距離がある。……いや、自分の方が距離を置こうとしていると言った方が適切か。
あれは結局自分が寝落ちして有耶無耶になってしまったが、言及してくる様子はない。だからこちらも普段通りを努めているのだが……何と言うか、彼の視線を甘く感じるようになってしまった。
バルトリスは多分、今までと何も変わってはいない。自分の感じ方が変わっただけなのだ。
あれだ。
『俺はお前に人生を懸けられる』
あの言葉がそうさせた。
その意味がわからない程子供ではないが、額面通りに受け取れば、結論が出てしまう。そうすれば今までの彼の言動に説明がつくのだ。あの、抑えて、封じ込めて、それでも滲み出たというような慈愛に。
気付かないわけではなかった。
何度も感じていた。
それでも認めたくなかった。
バルトリス・ロドスという男が自分のような人間を想っているという事が許せなかった。
この身体を抱き締めた腕は温かかった。何より優しく、哀しい抱擁だった。大切にされているのはわかっている。
だが、どんなに想われても、“須賀隆志”は想いを返せない。大切なものを守れない。“彼女”のように、いつか──
──違う、今は“リューシ”だ。しかし“彼女”の影は消えていない。ならばまだ“須賀隆志”なのか。
どちらが俺なんだ。
俺は誰だ。
なぜ生きてる。
何のために二度も生まれた。
わからない。
こんな半端な人間を。こんなに醜い人間を、誰かが想う? 駄目だ。また傷付けてしまう。
俺は愛せない。愛されてはいけない。返せないものを受け取れない。
「隊長が僕を指名するものだから、ノットが凄い目で睨んできてましたよ。後で殺されるかも……って、隊長、聞いてます?」
「……ん?」
「どうしたんです? さっきからぼーっとして」
「ああ……悪い」
つい思考に沈んでしまった。こうなるとなかなか戻って来られない。バルトリスにもよく言われるが、悪い癖だ。
泥沼化しそうな考えを振り払い、リューシは捜索活動に脳をシフトさせる。
「──しかし、闇雲に歩いては効率が悪いな。地図が欲しいが……カイグルに貰っておくべきだったな」
地理がわからないせいで先程から同じような場所を何度も通っている。これを繰り返していてはいつまで経っても成果は挙げられないだろう。
地図は少し古く、安いものがいい。どこの店が出来ただとか潰れただとかいう最新の情報は載っていなくても問題ないのだ。通った道と通っていない道さえわかればいい。道路は4、5年程度では変わらない。
どこかに書店はないかと見回せば、一軒の古書店が目に入った。売り出しの看板が出ている。古書店という割に店自体は新しく、ウィランドン語とルバルア語で書かれている看板のペンキはまだ塗ったばかりのようにも見えた。
「あそこで買うか」
じゃあ、とリーンが手を挙げる。
「僕が買ってきます。お2人だとその……色々不都合がおありでしょうし」
「まあ、そうだな……」
確かにリーンだけの方が悪目立ちはしない。
「──わかった。俺たちはその辺りで待つ。買ったら直ぐに出てこい」
「了解。僕が店にいる間に変な人に絡まれないで下さいよ」
「俺は子供か」
「いや、そういうわけじゃないんですが。隊長は人を惹き付けますから……じゃ、買ってきますね」
俺は客寄せパンダかと前世のものを引き合いに出して顔をしかめながら、店に入って行くリーンを見送る。後に残されたセドルアと店の脇に並んで立っていれば、
「ラヴォル、気分でも悪いのか」
セドルアのアメジストが覗き込んでくる。先程の上の空の事を言っているのだろう。声色、表情。やはりわかりにくいが、その瞳には気遣いが見て取れる。
「いえ……少々、考え事を」
「ロドスの事か」
え、と声が漏れる。なぜわかったのだろうか。尋ねる前にセドルアが「昨日、」と口にする。
「ロドスと話していたんだろう。何かあったのか」
やけに切り込んだ事を訊く。自分はそんなに思い詰めたような表情をしていただろうか。
「大した事ではありません」
そう答えれば、セドルアは探るように目を細めた。
「大した事でないのに、お前が動揺するのか?」
「動揺など……」
「いや、している。ロドスに何か言われたのか」
今日のセドルアは妙に口数が多い。それも厄介な事に痛いところを突いてくる。もしかすると、朝に自分が無意識にバルトリスと目を合わせまいとしていたのだろうか。言い争いでもしたのかと思われているのかも知れない。
だが、これ以上踏み込まれるわけにはいかない。
「殿下、ロドスとは別に何も。お気遣い頂くような事はありません」
「俺が何を気遣っているか、わかって言っているのか」
「は?」
どういう意味だろうか。理解出来ず眉をひそめる。相手がこの皇子であるために表情から察する事も難しい。
「ラヴォル、」
静かな目に見据えられる。
「ロドスに──恋情でも伝えられたか」
「……!!」
驚きに声が出なくなる。どうして、という問いは吐息にもならなかった。
「図星か」
ふ、とため息のような息をつきながらセドルアは視線をリューシから外す。
もう誤魔化しも利かない。そう覚り、否定の声は上げなかった。たった数秒の沈黙が重い。
「お前はどう答えた。受け入れたのか」
前方に視線を投げ掛けたまま問われる。昨夜のバルトリスの表情が頭を過り、心臓がミシリと音を立てた。急に呼吸が出来なくなったかのように息苦しくなる。
「私は……人を愛せないのです」
「なぜ」
「返す事が出来ないから……私は、想いの返し方を忘れてしまった」
だから、どうする事も出来ない。
「……ラヴォル」
アメジストが再びリューシを捉える。
「俺もそうだと言ったら、どうする」
「え?」
「俺がお前に想いを告げたら、どうするのかと訊いている。拒絶するか」
思考が働かなくなる。
この皇子は何を言っている? これは単なる例え話か? 違う。彼の目は──
「殿、下……俺は、」
「いい。困らせるだけなのはわかっている。答えなくてもいい」
だが、と美しい瞳を煌めかせる。
ふわりと二人の間を風が吹き抜けた。
「忘れたなら、俺が思い出させてやる」
──動けない。
リューシは殆ど機能しなくなった運動器官を持て余し、呆然とした。
前世で戦闘を経験し、今世でも総指揮官として幾度も戦場に立ったこの自分が、指1本動かす事が出来ない。精神的に生きた年月では自分の半分以下に過ぎない青年の視線から、逃れられない。
なぜだ。なぜ目を逸らす事すらままならない。
「ラヴォル」
バリトンとテノールの間にある独特の艶めいた響きを持つ声が自分を呼ぶ。それに続く言葉はない。だが、それは何より雄弁な沈黙だ。
──ああ、そうか。
リューシは不意に了解した。この色なのだ。このアメジストの輝きが自分を動けなくする。
冷涼でありながら熱の籠った色。逃すまいとするような強い執着を滲ませるこの色だ。 慈しみ包み込むバルトリスの深緑とは違う。奪い閉じ込めるかのような静かな猛々しさ。それがセドルアのアメジストだ。
俺は、誰かにこんな目で見られた事はない。
「……殿下」
どうにか混乱しそうになる頭を落ち着かせようと、形の良い鼻筋の辺りに視線を落とす。
「以前から、思っていたのですが」
「何だ」
「私は死ぬ前にラヴォルに勘当されています。今はその名を名乗る事は出来ません」
突然脱線した話にセドルアの目元が緩む。何を言い出すのかという様子だ。
どうという事はない。この時のリューシの発言に大きな意味はなかった。自分のペースを取り戻せるなら何でもいい。……だが、あまりに脈絡のない台詞を口にしてしまった。つまり続かない。どうする。これに続けて自然な台詞は何だ。
必死に考えを巡らせた結果。一つだけ、頭に浮かんだ。
「──リューシ、とお呼び下さい。殿下」
アメジストの瞳がぱちりと大きく瞬いた。
次の瞬間、
「……リューシ」
噛み締めるように口にされた己の名。
硬質な表情がゆるりと雪解けのように和らぐ。
焼き付く熱情が消え、替わってしんとして燃える双眸が柔らかに凪いで自分を映す。
目を疑った。
それは、初めて見たセドルアの笑顔。否、笑顔と言うには穏やか過ぎる変化だ。しかし今までに目にした中で最も笑顔に近いものだった。
「リューシ」
宝物を得たとでも言うように繰り返される。それについ先程の強引な引力はなく、ただ一音一音が大切に発音されている。
ざわりと胸の奥が揺らいだ。
なぜそんな呼び方が出来る。
こんな可愛気も愛敬もない男に、なぜそんな言い方が出来る。
リューシは締め付けられるような心臓の痛みにたじろぐ。これでは本末転倒ではないか。
自分のペースを取り戻すどころか、まんまと相手に翻弄されてしまっている。もうどうにもならなかった。
「リューシ、」
セドルアが何かを言おうと余韻を残す。が、それが言葉になろうとした時、勢い良く店の扉が開いた。
「た、隊長……」
驚いてそちらを見れば、リーンがげっそりした顔で現れた。船酔いの際と同等の顔色の悪さである。
「お前、どうした」
なぜ地図を買いに入っただけでこんな状態になるのか。しかもその手に肝心の地図はない。
リーンは困惑するリューシのローブにすがり付くと、元々気の弱そうな眉を泣き出しそうに下げた。
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